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2016年12月

2016年12月29日 (木)

賭博について考える

IR(統合リゾート)整備推進法案(議員立法)が国会を通過しました。大型ホテル、国際会議場、飲食店、商業施設など多彩なサービスを一体として提供する民間のリゾート施設建設を推進することを政府や自治体などに求める法律です。名前だけをみると産業振興を目的とする法律ですが、最大の論点はカジノを合法化することの是非にありました。カジノ法案とも呼ばれた所以(ゆえん)です。反社会的団体の関与とギャンブル(賭博)依存症(注、厚生労働省の研究班は依存症が疑われる人数を536万人と推計、成人の4.8%で海外先進国の平均約1%を大きく上回る)のさらなる増加に対する懸念があります。つまり、統合型リゾートは従来の複合型リゾートになかったカジノ(賭博場)の設置を民間企業に許可することがポイントです。

 

これを積極的に推進しようとする人たちの目的は何でしょうか。カジノで遊びたい観光客の期待に応えることで、国の内外から観光客をより多く集めることでビジネス機会を増大させ、税収と雇用を増やしたいのです。多くの地方自治体が候補地(最初は2-3か所が選定される見込み)に名乗りを挙げているなか、大阪府と大阪市が特に熱心だといわれています。経済活動の停滞(地盤沈下)が続くなか、テーマパークUSJの活況に手応(てごた)えを感じた大阪府と大阪市は二匹目のドジョウ(経済インフラ化と経済再生)を狙っていることは確かでしょう。大阪で2回目となる2025年国際博覧会(万博)の誘致との相乗効果(費用の軽減効果)も期待していると思われます。そして、陰では運営ノウハウを持つアメリカのカジノ・オペレーターが日本市場の開放を求めているといわれます。
 
ちなみに、バブル経済の真っただ中であった1987年に制定された総合保養地域整備法(通称リゾート法)によって全国各地で国や地方自治体が開発許可を与えて、38の道府県でリゾート施設が建設されましたが、バブル経済の崩壊もあって、そのほとんどが破綻(はたん)に瀕(ひん)し、約半数が廃業することになりました。唯一といえる例外はH.I.Sが経営に参加して梃(てこ)入れしたハウステンボスでしょう。国と地方自治体はこの大失敗にもめげず、今回のIR整備推進法によって、30年前のリゾート法と同じ発想の統合リゾートの開発を進めようとしているのです。失敗についての総括と反省を一切行うことがない(行う気がない)まま、日本の政治家と官僚による画一的で貧困な発想による大規模開発が繰り返されようとしいます。
 
先行する海外のカジノを概観しましょう。カジノは中世(18世紀)のフランスやイギリスで始まったとされ、19世紀にはモナコでも開設されました。1930年代のネバダ州に始まり10州で合法化されたアメリカではホテル形式のカジノが普及しました。何といっても有名な場所はネバダ州のラスベガスであり、次いでアメリカ・ニュージャージー州のアトランティックシティも知られていますが、過当競争により収益力が低下。現在、アメリカで最大といわれるカジノは1992年に開業したコネチカット州レッドヤードのフォックスウッズ。アメリカ以外では、南アフリカのクラークスドープ、ポルトガスのリスボン、オーストラリアのシドニー/ケアンズ/ゴールドコーストなど世界で120か国以上(2000軒以上)があります。ちなみに、
規模において現在世界最大のカジノは中国のマカオであり、同じアジアではマレーシアのゲンティン・ハイランド、韓国のソウル・釜山・済州島など10数か所、シンガポールのマリナ・ベイ・サンズとリゾーツ・ワールド・セントーサが知られています。

 

カジノの是非を論じることは本記事の目的ではありません。今回は日本におけるギャンブル(賭博)について歴史を振り返りたいと思います。辞書(ことばバンク)によると、賭博(とばく)とは「金品をかけて勝負を争うこと」「かけごと」とあります。また、その言葉は、「かけごと」を意味する「賭」と、「双六(すごろく)などサイコを用いた遊び」である「博」を組み合わせたものです。後者は金品を賭けておこなわれることが多いことから、「賭」と同様、「かけごと」も意味します。このため、賭博で世渡りをする人を「博徒(ばくと)」や「渡世人(とせいにん)」などの言葉があります。

 

ちなみに、賭博の起源は原始時代の占いとされます。枝・小石・動物の骨などを地面に投げて、その落ち方で未来(神の意志)を、占ったのです。古代エジプトや古代中国からギリシャやローマをはじめ、世界各地へ広まったとされます。古代中国の亀甲(きっこう)占い、古代ギリシャのダイス(サイコロ)、古代ローマのコイントスなどもあります。

 

日本でもっとも古い賭博に関する記述は「日本書紀」に天武天皇(685年)が紫宸殿(ししんでん)で諸官を集めて博戯(賭けをともない勝負事)を催したとあるそうです。このように支配階級から始まった賭博は庶民階級まで広まり、博打打ち(博徒)は一芸に秀でる職人として市民権を得ていたとのこと。時代劇に丁半(ちょうはん)賭博の賭場(とば)と博徒(ばくと)がよく登場します。鎌倉時代と江戸時代後期には幕府から風紀が乱れるとの理由から禁止令が出されましたが、衰えることはなかったと伝えられます。宝くじの起源である寺社が興行する富籤(とみくじ)も大変人気があったそうです。しかし、明治時代に入ると、賭博を忌避する現代の倫理観が政府の方針により生まれ(植え付けられ)ました。その理由は「真面目に働かなくなる」「社会を堕落させる」の2点だったそうですが、隠れた目的は博徒が主要メンバーであった自由民権運動(注、藩閥政治に反対して国民の自由と権利を要求した政治運動)を弾圧することにあったとされます。

 

現代においても賭博関連の特例法によって認められて全国に約100か所ある公営ギャンブル(競輪・競馬・競艇・オートレース)をはじめ、遊技(注、遊びごととして行う勝負事)であると黙認されているパチンコとスロット(約12万軒、遊技人口1000万人強)が隆盛を極めています。このことから分かるように、日本は古代からギャンブル(賭博)天国であり続けています。ただし、国や地方自治体の管理下で行うことと、財政的な貢献(テラ銭を独占)することが絶対的な条件です。

 

ところが、パチンコ(パチスロ)と賞金が高額化する宝くじやロットなどの影響、および経済の停滞により、公営競技(ギャンブル)の売上額は1991年をピークに減少を続け、多くの公営競技場が赤字を出し続けているそうです。つまり、本来の目的である財政貢献ができなくなっているのです。このため、21世紀に入ると公営競技廃止に踏み切る自治体が相次いで出ています。しかし、廃止するためには、関係者への補償金、原状回復費など巨額の清算費用を要することと、雇用を確保する必要があるため、赤字であるにもかかわらず廃止に踏み切れない自治体も存在するといわれています。公営競技はいまや原子力発電所と同じジレンマに陥(おちい)っているのです。

 

最後に蛇足ですが、個人レベルであってもお金や高価な品物が絡(から)む賭けごとすべて違法行為であることを強調したいと思います。例えば、友人や知人との賭け麻雀・賭けゴルフ(会社のコンペ他)・野球賭場など。賭け金が少額である、あるいは常習性がない、組織的ではないと認められる場合は罪を問われない(逮捕されない)こともありますが、その線引きは警察の判断によりますから(明文化されたラインはないので)、高(たか)を括(くく)っていると後で痛い思いをすることになることがあります。つまり、賞罰欄に前科(罰金刑・科料刑など)があることを書かなければならなくなるのです。注、1万円以下と規定されている科料を課せられた人は検察庁の前科調書に記載されるが、市町村役場の犯罪人名簿には記載されない

2016年12月26日 (月)

国による給付型奨学金制度が始まる

経済的な理由から大学・短大・高専・専門学校への進学を諦めざるを得ない成績が優秀な学生に返済義務のない給付型奨学金制度(予算規模約210億円)を平成30年度から本格導入することと来年度から一部の対象者について先行導入することが閣僚折衝後の12月18日に政府(文部科学省)から発表されました。対象者は家族の収入が少なく住民税が非課税である世帯の子女約2万人(学年当たり)、支給される金額は国公立か私立か、そして自宅か自宅外かの条件の組み合わせで、2万円(国公立&自宅)、3万円(国公立&自宅外または私立&自宅)、4万円(私立&自宅外)の3種類です。(注、来年度は私立&自宅外の対象者に限定、養護施設出身者には入学金として一時金24万円を支給) なお、この制度の他には無利子の奨学金制度の増枠や所得連動返還型制度も今後検討されるとのこと。

 

文部科学省はこの新しい制度はしばらく運用しながら詳細を見直して行くとしています。受給者選考の公平性や金額の少なさによる効用の限界についての懸念があることに配慮したようです。具体的には各高校で選考が行われることによって不公平感が生じる可能性があることと、2-4万円の支給額が国公立の授業料(約53万円、先進国34か国中7番目に高い)と比較して少額(不十分)であると考えられることなどです。ちなみに、ほとんどの先進国では給付型奨学制度がすでに充実(5万円の水準)しているのです。

 

今、この給付型奨学金制度がネットを賑(にぎ)わしているようです。その発端は裕福な家庭に生まれた某女性代議士がこの制度に反対だとSNSで呟(つぶや)いたのです、その理由として、『大学へ行けば何とかなるという考えは甘い。貧しい家庭の子女は中学から働くべきであり、進学したいのであれば自ら稼(かせ)いだお金で賄うべき(まかなう)である』 とも言うのです。まるで、隣国で今話題になっている(渦中にある)人物の姪(めい)による発言、『能力が無いなら両親を恨(うら)め。金も実力だ』 を真似(まね)たかのようです。彼女のこの意見に賛同する方はめったにいないとは思いますが・・。

 

横道にそれました。実は給付型奨学金を提供するのは文部科学省だけではなく、大学・企業(新聞社他)・公益法人や自治体などによる制度が多数あります。しかし、現在、大学生・短大生・高専生など(学年当たり約130万人)の約51%が奨学金を受給して(借りて)おり、その約40%を貸与型奨学金制度だけを持つ日本学生機構(旧日本育英会)が占めています。この10年で奨学生が急増した理由は国公立大学の授業料が高騰したことと、経済格差が拡大したこと、もともと高等教育における自己負担率が他の先進国に比べて高い(韓国に次いで第2位の約65%、先進国の平均は約30%)こと、の3つです。もう一つは、あまり知られていませんが、日本学生支援機構の第一種奨学金(国の予算と返済金が財源)であるのに対して、第二種奨学金(有利子)枠が拡大されたことも要因になったいます。ちなみに、その財源は財政投融資(つまり郵便貯金)や借り入れ金であり、政府は資金(3000億円弱)の運用先として奨学金制度を活用する(リターンを得る)ことに熱心であることによります。

 

加えて、第二種は申請者の家庭の収入を審査するだけ(学力は重視されないの)で、将来の返済能力については審査項目に含まれないからといって、借りられだけ借りると、総額が600万円(医歯系では1000万円以上)にもおよびますから、返済出来ない人が続出する怖れがあります。もし、返済が遅れると延滞金が積み上がって、元本が増えて行きます。たしかに、年収が300万円以下の場合は返還猶予(ゆうよ)制度を利用すれば返済期間を最大10年間まで遅らすことは出来ますが・・。万一、返済しないと金融事故者としてブラックリストに登録されますから、自動車などのローンを組めないことや、キャッシングの審査を受けられなくなる可能性が高くなります。また、半数の受給者が選ぶ個人保証では、保証人が本人に代わって返済する必要が生じます。注、機関保証の場合は奨学金の約3%を保証機関に支払い必要があるため敬遠するケースが多い

 

成績が良い学生向けの給付型奨学金制度(約2万人/年)がスタートすることは朗報(ろうほう)であることは確かですが、先の記事「下流青年」の記事に書いたような生活困窮(こんきゅう)者を大量に生み出さないため、最優先させるべき授業料の減免制度拡充と同時に、奨学金返還ルールの柔軟な運用と救済策(セーフティネット)の整備も喫緊(きっきん)の課題だと考えます。また、旧日本育英会の特別貸与奨学金のように、給付と貸与(無利子)を組み合わせて学資を賄(まかな)うことができる月額8-10万円の水準の柔軟な奨学金制度を復活させることも一案と考えられます。奨学金制度は、コストとしての慈善事業ではなく、国家による重要な投資としての人材育成事業なのです。

2016年12月23日 (金)

初冬の桜ヶ丘公園(最終回)

銀杏(いちょう)の大木はすっかり葉を無くしています。
 
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その下は銀杏の黄色い落ち葉でカーペットのように敷き詰められています。
 
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多摩市立「連光寺公園」から都立「桜ヶ丘公園」」に戻ります。
 
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小高い場所に背の高い樹木が聳(そび)えています。
 
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「山の越」方面と「谷戸の丘」方面の分かれ道
 
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「山の越」へ向かう途中に見かけた紅葉
 
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谷戸の谷」の開けた場所にある園路に出ました。前回、散策した場所です。注、左手は「杉の辻」方面
 
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ここでもカエデの紅葉が楽しめます。
 
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こちらは「記念館口公園駐車場」方面。同行者は暑くなったのか、上着を脱いで手に持っています。
 
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左手の紅葉を楽しみながら駐車場方面へ歩きました。
 
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右手に「谷戸の丘」への入口がありました。前回は「谷戸の丘」からこの階段を使って下りたと思います。
 
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その脇にも紅葉が見られます。
 
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見覚えのあるテラスが現れました。
 
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駐車場下(南側)にある休憩所です。
 
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つづら折れを上がれば駐車場があるはずです。
 
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駐車場はもうすぐです。
 
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駐車場脇の紅葉
 
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駐車場に到着
 
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隣の八王子市にある「平山城址公園」(駐車場なし)、「長沼公園」(駐車場あり)、中世の山城跡がある「滝山公園」など多摩川沿いにある他の都立公園も機会があれば訪れたいと思いながら、いつもより早めの午後2時ころに帰宅の途につきました。

 

<同行者のコメント> 広い桜ヶ丘公園を歩いて疲れました。前回訪れたのは真冬でしたから、春になって桜が咲いたらまた来たいと言ったはずなのに、今回も来園者が少ない初冬!! でも、早めのランチを外で食べたあと、ちょうど2時間の山歩きだけで、帰宅できたことは良かったです。

2016年12月22日 (木)

初冬の桜ヶ丘公園(その6)

「公園サービスセンター」の前に「クロガネモチ」(モチノキ科)の手書き看板が立てられていました。『「杉の辻」周辺や「大谷戸の池」のそばに植えられている。雌雄異株で、雌株だけ実がつく。若い枝や葉の軸が紫色なので、クロガネ(黒鉄)の名がついている』 と解説してあります。残念ながら、気づきませんでした。
 
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「富士美の丘」へ向かう道に入ると階段が現れました。
 
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もうすぐ丘の頂上かと思いましたが、そこは「桜ヶ丘公園」の南端にある開けた場所で、階段はさらに続いていました。
 
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やっと「富士美の丘」の頂上に到着。小さな東屋で小休止しました。先に到着していた同行者は、『富士見かと思ったのに富士山は見えないわ!』 とちょっと不満顔です。『だから、「富士美の丘」にしたのでは?』 と意味不明の受け答えでお茶を濁しました。
 
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「ザクロ」の木を見かけました。中東地方が原産地とされ、中国を経由して1000年以上前に日本へ渡来し、東北地方以南の日当たりが良い(温かい)場所で主に庭木や盆栽用、一部では果肉またはそれを絞った果汁の形で利用されているそうです。ちなみに、「ザクロ」の名前(発音)は中国語表記「石榴」の呉音(ジャク・ル)によるとされるようです。
 
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カエデの紅葉
 
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「お花見坂」から続く「あじさいの道」(左)と「ひぐらし坂」が交わる場所へ向かって階段を下ります。
 
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右手には「東部団地口」へと続く階段が
 
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降り積もった落ち葉と木漏れ日が美しい「ひぐらし坂」を上がります。同行者は、そんな景色には目もくれないようで、犬を散歩させる人を追い抜いて先を急いでいます。
 
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ふたたび開けた場所に出ました。
 
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東屋の脇に植えられた花々
 
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カエデの紅葉
 
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送電線用鉄塔の手前の傾斜地に白い色が目立つ「サルスベリ」が
 
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「桜が丘公園」から多摩市立「連光寺公園」に入ります。
 
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木漏れ日が落ち葉をテラス上り階段
 
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その左手は落ち葉を敷き詰めた傾斜地が広がっています。
 
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カエデの紅葉
 
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緩やかにカーブする園路
 
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(続く)

2016年12月21日 (水)

初冬の桜ヶ丘公園(その5)

そのカエデをガードするように並ぶ3本の「メタセコイア」(ヒノキ科メタセコイア属の針葉樹)は今回のハイライトです。盛りを過ぎて下半分の葉がほとんど落葉しているのは残念ですが、それでも十分見応えがあります。
 
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色づいた「カエデ」と中央の「メタセコイア」をクローズアップ撮影
   
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少し先にあるカエデの紅葉も今が盛りです。
 
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その細部を撮影
 
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それらの背景になっている雑木林の淡(あわ)い色の紅葉
 
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「公園西中央口」寄りの松林には冬支度を施された大きな松がありました。その葉の緑が紅葉の鮮やかさを引き立てているようです。
 
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松は北半球に広く分布するマツ科マツ属の高木針葉樹で、温帯地域の日本ではアカマツとクロマツが多く生息しています。特に、日本庭園には不可欠の樹木であり、海岸では防風林(防砂林)として植林されることが多く、日本的な景観を演出する効果を与えています。当ブログは、京都府の「天橋立」、栃木県の「白河の関」、香川県の「栗林公園」、静岡県の「沼津宿」、と「三保の松原」、岐阜県の「千本松原」、茨城県の「常陸海浜公園」、神奈川県の「旧吉田邸」、新潟県の「雁子浜」、富山市の「浜黒崎」、石川県の「兼六園」、福井県の「気比の松原」、岡山県の「岡山後楽園」などの記事で松林や松原を紹介しています。
 
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「公園西中央口」の近くにある「百地(ひゃくち)ヶ丘」は海抜100mとのこと
 
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「杉の辻」のすぐ先(散策路の脇)に「大谷戸の谷」がありました。
 
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「聖ヶ丘口」付近を通過します。案内看板の先に見える「さとやまくらぶ」とその前の広場では各種催しが開催されるようです。
 
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前方に見えるのは「丘の上広場」にある東屋
 
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そして「お花見坂」の入口(左)が近づきました。ちなみに、右前方に見えるのは市道のための陸橋「聖ヶ丘橋」。
 
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「お花見坂」の入口に差し掛かりました。名前から分かるように、春には桜の回廊になるはずです。
 
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すぐ先に「富士美の丘」へ上がる入口を見つけました。
 
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すぐ近くに「公園サービスセンター」と公園の「聖ヶ丘橋口」がありました。
 
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(続く)

2016年12月20日 (火)

初冬の桜ヶ丘公園(その4)

木漏れ日が美しい散策路を戻りました。
 
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「火垂の沢」と散策路の間でサザンカ(山茶花)が咲いています。ツバキ(椿)と同じツバキ科ツバキ属の常緑広葉樹ですが、ツバキとは花期・花姿・雄しべの形状など細かい点が異なります。
 
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これはシマサルスベリ(島百日紅、しまひゃくじつこう)
 
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奄美諸島から台湾と中国に棲息する落葉高木で、樹皮が剥げ落ちたところは木肌が見えて縞模様になることが名の由来です。同じミソハギ科の落葉中高木のサルスベリも中国原産の花木のようです。ちなみに、古い樹皮が剥がれ落ちて、新しいすべすべした感触の樹皮が現れるためこの名がありますが、サルは滑ることなく容易に登るそうです。

 

プチ薀蓄(うんちく)です。山茶花は中国における椿の総称「山茶」(シァンチャーと発音)の花を意味し、椿は日本において日本由来の「つばき」に当てられた国字(日本生まれの漢字)と考えられるそうです。ちなみに、中国で「椿」は別の花木を意味するすうです。つまり、当て字あるいは偶然の一致とされます。

 

「大谷戸公園」に接する「桜ヶ丘公園」(大松山山麓)の紅葉
 
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「大谷戸公園キャンプ練習場」の脇を抜けて落ち葉の上を歩きました。同行者はかなり先行しています。
 
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「大谷戸公園口」が近づいたようです。
 
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「桜ヶ丘公園」に戻りました。
 
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「大谷戸の池」まで続いている小川に沿って進むことにしました。右手の小高くなった場所は「桜ヶ岡公園」と都立「多摩桜の丘学園」の境界で、それらの間を市道が通っています。学校の周辺は良く整備された住宅地(1984年に造成された多摩ニュータウン第4住区: 都営多摩ニュータウン聖ケ丘団地、UR都市機構のメゾン聖ヶ丘、多くの戸建て住宅など)が広がっています。
   
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広くて緑が深いこの公園は野鳥の天国でもあるようです。夏はムクドリ、ツバメ、ホオジロ、キジ、シジュウカラ、コゲラ、オナガが、そして冬にはツグミ、アカハラ、ジョウビタキ、カシラダカ、メジロ、エナガ、シメ、モズが観察できるようです。
 
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「公園西中央口」脇の階段(次の写真の右手)を下りると、「おもいでの道」(その次の写真)を経て「旧多摩聖跡記念館」へ直行することができるようです。
 
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杉の辻」へ出ました。「公園西中央口」を入った場所で、「山の越」と「谷戸の谷」を経て「旧多摩聖跡記念館」や「記念館口公園駐車場」へ行くことができる沢に沿った散策路が東西に伸びています。
 
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「杉の辻」の右脇にある野草園では「春~初夏の花」の、イチリンソウ、シュンラン、エビネ、タマノカンアオイ、各種スミレ、バイモ、ニリンソウなどが春の訪れを待っていました。公園の各所から野草を一カ所に移植して展示することで公園内の野草を手軽に見られるようにする目的で作られたものです。
 
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(続く)

2016年12月19日 (月)

初冬の桜ヶ丘公園(その3)

市道を左手へ進むと収穫が終わった田んぼがありました。多摩地区においても貴重な存在となった里山の雰囲気を保存するためにボランティアの方々がサポートをしているのだそうです。
 
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その市道を進むと、分岐点脇に「独立行政法人(現、国立研究開発法人) 森林総合研究所 連光寺実験林」の看板がありました。ここまでほぼ半周した「ゆうひの丘」と「旧多摩聖跡記念館」がある大松山に挟まれた広大な敷地を有するこの国の研究機関(茨城県つくば市に本所)は、『全国に活動拠点を持ち、森林及び林業に関する総合的な試験及び研究、林木の優良な種苗の生産及び配布等を行うことにより、森林の保続培養を図るとともに、林業に関する技術の向上に寄与することを目的とし、林木の優良な種苗の生産および配布を行っている』 そうです。
 
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すぐ脇には林野庁(農林水産省の外局)の宿舎がありました。「森林総合研究所」は1999年まで林野庁の一組織だったからでしょう。
 
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3つに分かれる道の真ん中を進むと「とんぼの広場」に出ました。駐車場でもらったパンフレットにあがかれた地図によると、左手の「赤い実の道」は「森林総合研究所(試験地)」の中を抜けて「桜ヶ丘公園」との境界を進み、「遊びの広場」へ出るようです。
 
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現在地は「桜ヶ丘公園」の左上(北西角)で、この日に予定する散策コースの1/3を過ぎた場所です。
 
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「とんぼの広場」を横切れば「赤い実の道」を経て「旧玉聖跡記念館」と「記念館口駐車場」に至りますが、予定通りに「大谷戸公園」へ向かうことにしました。
 
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案内標識にしたがって階段を上がると、「こもれびの道」(左)と「ちょうの道」(右)の分岐点に差し掛かりました。「大谷戸公園」方面は手前の分岐点を右手に折れて「はぎの道」に入る必要があったのです。この分岐点にも標識を立ててほしいものです。
 
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「大谷戸公園」に出ました。ここにある「火垂(ほたる)の沢」「しょうぶ池」「「大谷戸の池」に立ち寄ってみたかったのです。
 
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遊歩道の左手前には「大谷戸公園キャンプ練習場」があり、
 
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左前方には、巨大なタコの足のように大地にしがみ付く木の根が生命力を表していました。
 
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その先には幼児用の簡単な遊戯施設があります。
 
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右手に折れて広い散策路を北へ歩きました。左手が「大谷戸公園」の広場で、右手が小さなせせらぎになっていました。
 
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湿地のようなものがあります。これが「火垂の沢」でした。
 
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すぐ先に「しょうぶ池」の石柱を見つけましたが、その奥にある窪地(くぼち)には水がほとんどありません。
 
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諦(あきら)めないで進むと「大谷戸の池」に出ました。ここが「大谷戸公園」の北端になっています。
 
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(続く)

2016年12月18日 (日)

初冬の桜ヶ丘公園(その2)

カエデの紅葉を背景に小鳥のオブジェを撮影
 
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「ゆうひの丘」は馬の背のような地形に作られた広場で、左手にカエデの紅葉があり、右手は竹林になっています。
 
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広場の隅に見つけた「オオキツネノカミソリ(大狐の剃刀)」はヒガンバナ科の多年草(本球根植物)で、葉の形をカミソリに見立てて、命名されたとされています。ちなみに、開花時期は7-8月で、ヒガンバナと同じように、橙色の花が咲くころには葉はなく、長く伸びた茎と花(高さ30-50cm)だけになるそうです。
 
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駐車場の脇にあったものと同じ案内地図が立てられていました。ちなみに、現在地は右端(北端)です。
 
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川崎街道(都道41号)の先に多摩川と対岸の府中市と国立市などを一望できました。名前通りに夕日(夕焼け)のビュースポットとしてはもちろん、都内随一の夜景が楽しめることでも知られる場所です。
 
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崖の先端部に出てズームアップすると、右手の桜ヶ丘カントリークラブの先に府中市の中心部が確認できます。
 
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左へ視線を転じると、多摩川に架かる京王線の鉄橋(左)と都道18号の関戸橋が写っています。約9年前に投稿した「新田義貞の鎌倉攻め」の記事では鎌倉街道を利用して多摩川対岸にある府中市の分倍(ぶばい)河原古戦場跡から多摩市の関戸古戦場跡を巡っています。
 
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聖跡桜ヶ丘駅前にあるタワーマンション「聖跡桜ヶ丘ビュータワー」(UR賃貸住宅、27階建)の先には武甲山(標高1295m)と大持山(同1294m)から天目山(同1576m)、雲取山手(同2017m)など秩父から奥多摩の山々が薄っすらと見えます。
 
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階段を下りた先には尾根道のようなものが続いています。
 
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振り返って見た「ゆうひの丘」
 
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なだらかな下り坂(尾根道)を下ります。春には桜のトンネルになるのでしょう。
 
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ふたたび「記念館通り」に出ました。
 
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右手の路地に入ってみました。
 
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「丘の下」にある「わき水の広場」は多様な動植物が生息している豊かな自然環境を形成しているゾーンだと説明されています。私はその名前からハケ(崖地形)からの湧水(ゆうすい)を期待していたのですが・・。
 
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「記念館通り」を横切って反対側の路地に入ります。
 

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両側に民家があり、「桜ヶ丘公園」の敷地から離れるようですが、この先にぜひ見たいものがあるのです。
 
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住宅地内にある市道に出ました。
 
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(続く)

2016年12月17日 (土)

初冬の桜ヶ丘公園(その1)

府中街道(都道9)から川崎街道(都道41号、稲城日野線)に入って聖蹟桜ヶ丘方面へ向かいました。小春日和に恵まれたこの日の目的地は「都立桜ヶ丘公園」です。5年近く前(2012年1月)にも訪れていますが、イロハモミジ、メタセコイア、コナラ、ハゼノキの紅葉が見ごろを迎えたと知って急に思い立ちました。ちなみに、多摩丘陵自然公園内にある丘陵と谷間からなる丘陵公園です。

 

アクセス方法はよく覚えていますから、左手にある(稲城市と多摩市にまたがる)米軍のゴルフ場と東京都水道局連光寺増圧ポンプ所(写真左端)を過ぎて、連光寺(れんこうじ)坂上交差点で右手の桜ヶ丘カントリークラブとは反対側に伸びる都道137号へ左折して、「記念館通り」(写真右端)の聖蹟記念館交差点の近く(約80m先)にある「記念館口公園駐車場」(60台、無料)に車を停めました。
 
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閉鎖される時間が午後4時30分と早めです。
 
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ちなみに、桜ヶ丘公園にはこの他に、「ゆうひの丘口駐車場」(13台)と隣接する多摩市立大谷戸公園の駐車場があります。ちなみに、公園サービスセンターは左端(南端)にあり、駐車場の先(写真右奥)は車両通行止めになっています。ちなみに、この園路「記念館の道」を進むと「明治天皇御製碑」と「もみじ平」を経て「旧多摩聖跡記念館」に至ります。
 
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前回は「旧多摩聖跡記念館」「五賢堂」「丘の上広場」「谷戸の丘」「「おもいでの道」「山の越」など公園の中心部を散策しましたから、関連記事を参照してください。そして、今回はその周辺部を巡ることにして、まずは前回訪れた5年前には飛び地であった(農業者大学校の敷地に遊びの広場ができたことで手のひらとつながった親指のような位置にある)「ゆうひの丘」へ向かいました。
 
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よく整備されたなだらかな下り階段の園路をかなり下りる必要があるようです。
 
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下りきった場所から階段を上がると「遊びの広場」に出ました。幼児用のスペースです。
 
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なだらかなスロープが設けられています。幼児とベビーカーのためにバリアフリー化したのでしょう。
 
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下の道を直進しても「ゆうひの丘」へ行けるようです。道の左側では桜の木の先でコナラ(ブナ科コナラ属の落葉高木)が紅葉しています。ちなみに、コナラやクヌギ(同じコナラ属)は古くから日本列島の雑木林に自生する樹木で、樹皮の色と葉脈の形状が少し異なるだけのようです。いずれもブナ科に属していますから、どんぐり(果実であり種子ではない)を実らせますから、縄文時代(約1万5千年前から2300-2400年前まで)の日本人にとっては重要な食糧だったそうです。
 
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多摩市役所多摩ニュータウン通り、都道158号)方面が開けています。
 
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「記念館通り」の反対側には「ドッグラン広場」と貯水タンク(配水所)のような施設(注、地図には表示されていないためネット検索すると東京都水道局の連光寺調圧水槽と判明)がありました。「ドッグラン広場」の中央にある低いフェンスは中大型犬(10kg以上)と小型犬(それ以下)の遊び場を分けるためのものとのこと。また、「連光寺調圧水槽」の点検用に設置された螺旋(らせん)階段が厳重に覆(おお)われていることは珍しいと思います。注、その先に見える道路は川崎街道(都道41号)
 
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ちなみに、多摩市の水道水は主に東村山浄水場(東村山市、利根川と荒川から取水)と小作浄水場(羽村市、多摩川から取水)から供給されていますが、1年半前に開通した大型送水管路「多摩丘陵幹線」(総延長31.6km)を通じて拝島給水所(昭島市)から「桜ヶ丘公園の聖ヶ丘(ひじりがおか)給水所まで供給されるようになり、これらの送水系統が相互接続され、事故や災害の発生時にも給水を維持できるようになったそうです。なお、この幹線は多摩市周辺の八王子市、町田市、日野市のほぼ全域と稲城市、青梅市の一部にもつながっているそうです。注、東京都では都の水道局が23区を含むほとんどの自治体への給水を担当しており、連光寺増圧ポンプ所(送水のための加圧機能)と連光寺調圧水槽(過剰な水圧による送水管へのストレスを軽減する減圧機能)は多摩市など多摩地区へ送水するための都の施設
 
 

「記念館通り」を先へ進むと、
 
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左手に「都立桜ヶ丘公園」の看板が立っていました。通過したばかりの「遊びの広場」への入口です。
 
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「記念館通り」の脇に木道が整備されています。落ち葉がまだ新しくて滑りやすいため、足元に注意しながら歩きました。
 
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木道が広くなった場所は簡単な休憩所兼展望所になっています。
 
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「ゆうひの丘」に到着したようで、前方に休憩用のイスとテーブル、そして東屋が見えます。
 
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(続く)

2016年12月13日 (火)

日本が壊れて行く: 世界情勢の流動化と日本経済の先行き

先月(10月)の有効求人倍率(仕事を求める人一人当たりの求人数)が1.40倍と25年2か月ぶりの高水準になったことが報じられました。特に、東京都は2.07倍で全国一の高さになりました。そして、11月の上旬から為替市場でドル高と株式市場での株価上昇が続いています。しかし、景況感に変化はあまり感じられません。本当に国内の経済情勢は急速に改善しているのでしょうか。

 

過去20年間の平均賃金の変化は年代による差はあるもののおおむねプラスマイナス2-5%の圏内で推移しています。つまり、平均年収は400万円前半(2015年は420万円)で停滞しているのです。約20年前の1997年に467万円であったことと比べればまだ低水準にあることは明らかです。また、減少傾向にある正規社員と比率が増大する非正規社員(そして男女間)の賃金格差は相変わらずであることにも注目する必要があります。

 

このような矛盾する状況をどう考えれば良いのでしょうか。日本経済は生産性の低下と少子高齢化による労働人口の減少により、外的な要因に大きく左右される虚弱体質になりつつあるのではないでしょうか。この1か月の出来事による大きな日本経済の変化がそれを如実に物語っています。

 

11月8日に行なわれたアメリカの大統領選挙は大方の予想を裏切って当初は泡沫(ほうまつ)候補ともいわれたトランプ氏が選ばれました。ニューヨークの株価は直後に急落したものの、その後は上昇に転じてダウ平均株価は1万9千ドルを超える史上最高水準に達しました。事前に株式を空売りしていた投機筋が慌(あわ)てて買い戻した、いわゆる、トランプラリーのためです。加えて、減税の推進・公共投資の拡大、アメリカの利益を優先する外交政策(TPP脱退とFTAによる2国間交渉への転換、密入国者の阻止と母国への送還、海外に展開する米軍の駐留費用の相手国負担など)を市場(投機筋)が好感したのです。

 

もちろん、今秋から顕著になったアメリカ経済の好調さが市場に安心感を与え、FRBの利上げが12月に行なわれることがほぼ確実になったこともドル高を支える要因になっています。ただし、ドル安がアメリカ経済に好ましいと考えるトランプ氏が大統領に就任する来年1月以降はドル安(円高)傾向へと潮目が変わることは避けられないでしょう。

 

目を隣国の中国に転じると、地政学的な緊張は高まっており、経済情勢もまだ底を打ったとはいえないことから、日本経済への悪い影響は当分続くと考えられます。そして、今秋勃発(ぼっぱつ)した韓国政治の大混乱はただでさえ低迷している韓国経済をさらに悪化させることは不可避でしょう。

 

欧州においても、イギリスのEU脱退、イタリアにおける政治と経済の混乱、フランス、ドイツ、オーストリアなどにおける右翼政党の躍進など、先行き不安を予感させる状況が顕在化(けんざいか)しています。

 

また、11月30日には、これまで困難と思われていたOPECの減産(日量120万バレル)が8年ぶりに合意されました。過剰供給を解消することで原油価格を下支えし、加盟国の財政悪化を食い止める狙いがあります。この原油価格はドルとの相関関係にあるためドルの上昇をもたらす効果もあります。つまり、円安要因になるのです。

 

日本国内ではこれらの海外情勢の変化に無頓着な論議が国政の場で繰り広げられていることはいつか来た道を想起させます。楽観的な将来展望と国政の場における数の論理による傲慢さが激変する世界情勢を敏感に捉える感度を鈍らしているようです。度重なる国会議員の失言に留まらず、「田舎のプロレス」などの暴言が出るのはその証左でしょう。

 

ちょうど4年が経過したアベノミクス(今年6月に発表された第二弾)の目玉である「一億総活躍社会」はどうなったのでしょうか。扶養者控除の見直し(注、限度額が150万円に留まるため対象者はほぼパートタイマーに限定)を除けば、具体的な政策はおろか、どのような論議が行なわれているのかさえ一向に聞こえてきません。やはり、政策の中身は以前と同じまま看板を架け替えただけのようで、国会で声高に論議されているのは年金改革法案だけのようです。「年金100年安心プラン」と命名された改正年金制度改革(2004年に第2次小泉内閣が法制化)についても、今後100年間は現役世代収入の最低50%を保証するものでしたが、現政府は年金水準を済(な)崩し的に切り下げて年金会計を改善することだけに熱心です。目的は年金積立基(約130兆円)からの年5兆円前後ともいわれる取り崩し額を減らすことです。

 

これらを踏まえて今後の日本経済がどのように推移するかを考えて見ましょう。上記したように、日本経済は構造改革が御題目だけで具体化されていません。このため企業の国内における投資意欲は相変わらず低く、生産性の向上は期待できないことから、賃金の上昇に裏付けされた消費意欲の向上は実現しそうにもありません。一方、GDPに与えるプラス要因としては補正予算による景気刺激策がありますが、これまでの実績から見て明らかなように、カンフル注射のような一過性のものに過ぎないことは論を待ちません。

 

消費を刺激するには賃金の上昇が不可欠であることを百も承知である政府は、痛みをともなう経済改革を推進するのではなく、昨年に続いて経済団体に賃上げを要請しました。自由な経済活動が保証されているはずの日本においては極めて異例なことです。経済団体は政府の要請を受け止める姿勢を示していますが、ベースアップには慎重であり、一時金などの増額で対処する意向のようです。それでは消費の活性化には限定的な効果しかもたらさないでしょう。

 

これによって賃金上昇は特定の分野においては数字に反映されるのでしょうが、昨年と同様、その対象者は大企業の正規社員に限定され、非正規社員や企業の90%以上を占める中小企業の従業員は蚊帳(かや)の外になりそうです。これによって賃金格差がさらに拡大する弊害が生じることは不可避でしょう。

 

上述したようにアベノミクスが始まって4年が過ぎましたが、構造改革をともなう国際競争力の強化(つまり生産性の向上)は遅々として進んでいません。したがい、国際情勢に揺さぶられながら、日本経済は一進一退を続けることになりそうです。OECDが予想する年率1%のGDP成長も楽観的な予測だと思われます。来年も、恣意的(しいてき)で強気な経済予想に惑わされないで、株式や外貨への投資には慎重であるべきだと考えます。それは、トランプラリーによる短期的な効果は、来年に入ってトランプ政権が発足して政策がどのように実行されるかを見るまで、予断を許さないからです。

 

このように、日本の経済は停滞が続いて1960年代以降の英国における経済停滞(注、社会保障費負担の増加、国民の勤労意欲低下、既得権益の発生などの問題が原因)、いわゆる英国病と同じ状況な陥りつつあるようです。ちなみに、名目GDP(国民総生産:生産活動により産み出される付加価値)はバブル経済が崩壊した1990年から約450兆円の水準を挟んで上下し、これまでの四半世紀でわずかしか成長していない(今年は約520兆円と予想される)のです。(注、名目GDPは0-2%のレンジで、実質GDPはデフレ効果により漸増で推移)
 
この状況下、茹(ゆ)でガエルと同様、日本国民は何かがおかしいと思いながら、何とか生活が立ち行くことで、表立って苦情を申し立てていません。経済成長を経験していない若年層は生まれた時からのデフレ経済に諦めの気持ちが強いようです。
このため、賃上げを求めるストライキは1980年代後半に激減してからはほとんど起きていません。これは労組の組織率が終戦直後の約60%からオイルショックやバブル経済の崩壊を経て低下し続けて、最近は20%を割っています。日本固有ともいえる企業別労働組合が圧倒的に多いことと、最近は非正規社員の増加が労組の組織率を押し下げる要因になっています。しかも、その労組が最近は賃上げや待遇改善よりも雇用の確保を最優先課題としているのです。

 

最後に日本の現状を示す1915年のデータを紹介します。アジアにおける一人当たりの国民所得です。第1位は金融・貿易・国際ビジネス拠点・観光・高度工業製品の生産などでバランス良く成長し続けるシンガポール(約600万円)、第2位が日本(約530万円)、第3位ブルネイ(約400万円)、第4位韓国(約300万円)、第5位マレーシア(約120万円)、次いでトルクメニスタン、中国、タイ、モンゴル、インドネシア、フィリピンとなっています。注、台湾(約180万円と推定)を除く (出典: 国際比較統計ほか)

 

一方、一人当たりのGDPでは、マカオ(約770万円)、シンガポール(約550万円)、香港(約460万円)、日本(約360万円)、ブルネイ(約340万円)、韓国(約300万円)、台湾(約240万円)、マレーシア(約105万円)、モルジブ(約100万円)、中国(約90万円)、タイ(約60万円)の順。注、突出するマカオはギャンブル(GDPの約7割)を含む観光業に、そしてブルネイはもちろん石油と天然ガス産業に依存している (出典: 世界のランキングほか)
 
世界における一人当たりの順位では、GDPが第27位で先進国最下位、輸出額は第44位、GDP生産額はG7平均以下、研究開発費は第10位、ノーベル賞受賞者数は第39位、オリンピックにおけるメダル獲得数は第50位と、国ごとの比較とは大きく異なる状況があります。これはひとえに日本の人口が1億人以上と、先進国ではアメリカに次いで第2位(注、ロシアは1.4億人)であることによります。出典: デービッド・アトキンソン著「新・所得倍増論」(東洋経済新聞社刊)
 

これらの統計データに納得が行かない方は多いかもしれません。日本人は教育水準が高く勤勉であり、しかも長期間のバカンスを取得する欧米人より長時間にわたって働いているのにそれらの国々やアジアの新興国であるシンガポールより貧しくなってしまったのかを理解できないことでしょう。実は、その転機は37年前の1979年に発行されて注目されたアメリカの社会学者エズラ・ヴォーゲル氏の著書"Japan as Number One"(ジャパン・アズ・ナンバーワン)と1991-1993年のバブル経済の崩壊期にあるのです。日本経済が驚異的な興隆のあと、わずか10年あまりの短期間で衰退に陥(おちい)ったメカニズムについての私見を近いうちに投稿したいと思います。

2016年12月 9日 (金)

さようなら、ソニービル 「It's a Sony展」(最終回)

薄型になった「ポータブルCDプレイヤー D-J50(1991年)」
 
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世界発MDウォークマン第1号機「ポータブルMDレコーダー MZ-1(1992年)
 
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4型液晶カラーモニターを搭載し、日本全国の地図をCD-ROM1枚に収録した「ナビゲーションシステム NVX-F10(1993年)」(写真右)
 
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「メモリースティック(1998年)(左手前)、デジタルスチルカメラ DSC-F505K(1999年)」(中)、「デジタルビデオカメラ DCR-VX1000(1995年)」(右)
 
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デスクトップ型「パーソナルコンピューター PCV-T700MR(1997年)」とノートブック型「パーソナルコンピューター PCG-505(1997年)」、それらの後方はもちろん「AIBO(アイボ)の歴代製品群(10数種類)」
 
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「パームトップコンピューター PTC-300(1991年)」(左)と電話用の「インテリジェントダイヤラー IDS-300(1991年)」
 
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2000年代のフロア(4階)に移動しました。プレイステーションが大きな存在ですが、それ以外はソニーらしさを感じさせる製品はほとんど見られないのが残念です。ちなみに、後方に映し出されている映像は懐かしい「ウォークマンのCM」(1987年)です。
 
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家庭用ゲーム機で先行する任天堂やセガ(2001年に撤退)の追撃に成功した「プレイステーション SCPH-1000(1994年)」はROMカセットではなくCD-ROMを採用したことに特徴があり、良い意味でも悪い意味でもソニーの挑戦魂を象徴するヒット商品。ユニークな開発責任者・久夛良木健(くたらぎけん)氏の斬新な発想・強烈な熱意と当時5代目社長でありオーディオのデジタル化を推進した大賀典雄氏が社内に根強かった反対論を退けた英断で商品化が実現したといわれます。
 
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プレイステーションの開発当初は任天堂とソニーが友好的に共同開発する関係にありましたが、ソニーに主導権を握られることを嫌った任天堂が実質的に決別した経緯があるようです。その後も両社は主力商品の“Wii”と“PS3”でトップ争いを続け、2010年を境にソニーが任天堂を凌駕(りょうが)して圧倒的なシェアを獲得して現在に至っています。そして、12月7日にソニーはスマホ向けのゲームを来春には市場に投入すると発表しました。ライバルの任天堂は今月中にスマホ向けゲームを発売するとしていますから、大手の家庭用ゲーム・メーカーがいよいよスマホ市場へ相次いで参入することで、市場がさらに活況となうと考えられます。

 

上段はプレイステーションの国内生産・出荷が発売から3年間で(1997年に)1000万台を突破したこと記念する「ゴールドモデル」、下段は左から「プレイステーション3 CECH-4000A(2012年)」、「プレイステーション3(2009年)」、「プレイステーション2 SCPH-7000(2004年)」
 
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「プレイステーション1(PS one) SCPH-100(2000年)」(左)と専用液晶モニターを搭載した「プレイステーション1(PS one) SCHP-140(2001年)」
 
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薄型軽量を追求した「パーソナルコンピューター PCG-X505/P(2003年)
 
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世界初の「BDレコーダー BZ-S77(2003年)」
 
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長さ約1mの有機ガラス管を振動させて1台で奥行と立体感あるクリアな音を360度へ広げるユニークで高音質な「スピーカーシステム(サウンティーナ) NSA-PF1(2009年)」
 
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46インチ型液晶ハイビジョンテレビ「BRAVIA(ブラビア) KDL-46X1000(2005年)」
 
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このフロアにもロボットが展示されています。人とともに暮らすパートナーとして進化した犬型エンターテイメントロボット「アイボ ERS-7(2003年)」と、
 
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家庭内での使用に向けて安全性と耐久性・コミュニケーションの能力を高めた小型二足歩行ロボット「QRIO(クリオ)の試作機 SDR-4XII(2003年)」です。
 
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2003年に深刻な経営危機に陥ったソニーは3年後の2006年にリストラの一環としてエンターテイメントロボットの開発と生産を取りやめました。止むを得ない経営判断だったかもしれませんが、ソニーのイメージを損なうだけではなく、有能な人材の流出をもたらしたようです。

 

トリニトロン方式カラーテレビの大成功により薄型テレビ(液晶テレビなど)への転換が遅れたこと、ポータブル音楽プレイヤーの分野ではウォークマンの圧倒的な存在がありながらデジタル化ではアップルのiPadの独走を許したこと、の2つと並ぶ市場戦略の大失敗です。つまり、イノベータ―(改革者)の旗手でありながら「イノベーションのジレンマ」に陥った典型的な事例として語り伝えられています。

 

同社はそれに加えて、トップ経営者が技術革新よりも米国式のビジネススタイル(効率と利益重視)を追求したことで事態を悪化させ、2003年に巨額な赤字を計上して以来、事業改革の成果を十分上げることができず、10年以上も低迷を続けて来ました。今年6月にソニーの平井一夫社長はロボット事業を再開すると表明しました。他社が先行する中、遅きに失した感はありますが、ソニーらしさを取り戻すきっかけになることと、「さようなら、ソニー」にならないことを、50年来のファンとして切に願っています。

 

2000年代のフロアに展示される製品は高級品が目立ちました。まず、人の心に残る色・人の心に映る形・人の心に響く音を再現する最高価格テレビ「QUALIA 005(2005年)です。
 
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そして、総画素数210万画素の親指サイズ(超小型)「デジタルスチルカメラ QUALIA 016(2003年)」(左)と月15台だけ限定生産された「ポータブルMDプレイヤー QUALIA 017(2004年)」
 
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最期に、その上階(5階)にあるイノベーションラウンジにも上がりました。そこには“Hello, Sony Park!”(銀座ソニーパーク)のイメージ模型が展示があり、現在のソニービル(1966-2017.3)からPhase1銀座ソニーパーク+地下フロア(2018-2020)とPhase2新ソニービル(2022-)へ移行予定が紹介されていました。
 
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来年2月17日から始まる「It's a Sony展」の”Phase2”にも期待したいと思います。今回、約1時間をかけてソニーの創業以来の730製品を見ることができたことは貴重な経験でした。ちなみに、当ブログでは6年前に日立製作所の創立100周年記念の展示会を紹介しています。

 

ソニービルの正目口を出て裏手に回ってみました。同ビルの裏口も私にとっては懐かしい場所で、地下鉄日比谷線のB9出入り口に直結して便利であるため、よく利用したものです。
 
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銀座4丁目交差点へ向かい、日産クロッシングが1階と2階に入る銀座プレイスの4-5階に移転中の「ソニーショールーム/ソニーストア銀座も覗(のぞ)いてみました。外国人観光客が多数来店していますが、以前のような熱気は感じられませんでした。(終)

2016年12月 8日 (木)

さようなら、ソニービル 「It's a Sony展」(その4)

「記録メディア」の展示コーナーには、録音再生用テープ”Soni-Tape”、ベータ方式録画再生用テープ、CD、メモリースティックなどの製品群
 
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8mmビデオの小型・長時間録画再生という特性を生かし、カラー液晶テレビとビデオデッキを合体させた「ビデオウォークマン」(第1号機)の「テレビレコーダー GV-8(1988年)」
 
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本体重量がわずか1.1kgと軽量な「8mm方式ビデオテープレコーダー EV-C8(1985年)」
 
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「ムービーカム HVC-F1」と接続してカメラ撮影ができる「ポータブルビデオカセットレコーダー SL-F1(1981年)」
 
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パスポートサイズのハンディカム「TRシリーズ」の一号機である「8mm方式ビデオカメラ CCD-TR55(1989年)」
 
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1チップCCDカラーカメラと超小型ビデオカセットレコーダーを一体化した「ビデオムービーの試作機(1980年)」
 
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「ベータ方式ビデオカメラ(第1号機) BMC-100(1983年)」
 
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世界最初の量産型”CCDCharge Coupled Device(電荷結合素子)”を使った「CCDカラービデオカメラ XC-1(1980円)」は全日空のジャンボ旅客機に搭載され、離着陸の様子を映し出す「スカイビジョン」にされたそうです。
 
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[解説] CCD”は米ベル研究所によって1970年に発明された半導体素子です。これに注目したソニーの技術陣が研究を行い、実用化に成功したことは、「トランジスタの実用化」「江崎ダイオードの発明」と並ぶソニーの半導体開発技術の偉大な業績です。注、4代目社長(当時は副社長兼中央研究所長)の岩間和夫氏がトランジスタとCCDの実用化を推進 CCDは約20年後の現在においてもソニーのビジネスを支える半導体部門の柱になっています。

 

「マイクロトリニトロンカラーテレビ KV-4P1(1980年)」
 
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薄型扁平ブラウン管・FD管を用いたハンドユースの「ポータブルフラットテレビ FD-200(1982年)」、ベッドサイドで使える「インデックストロンカラーテレビ KV-4SV1(1988年)」、「ポータブルテレビ(ウォッチマン) FD-10
 
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モニター、チューナー、電源の3つに分割できる木型の「ポータブル液晶カラーテレビ FDL-33S(1988年)」
 
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つくば科学万博““EXPO’85“に出店された屋外大画面用スクリーン「ジャンボトロン」(25mx40m)の説明とRGB発光素子「ジャンボトロン素子(トリニライト) (1985年)」
 
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斬新な外観が印象的なMSX規格のエントリーモデル「パーソナルコンピューター HB-101(1984年)」
 
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1990年代のフロアに上がりました。パソコン「VAIO」(バイオ)やデジタルカメラ「Cyber-shot」(サイバーショット)に加えて、エンターテインメントロボット「AIBO」(アイボ)と次世代ゲーム機として注目を集めた「PlayStation」が生まれたのもこの時期です。

 

デジタル音声信号を磁気テープに録再できる「DATデッキ DTC-1500ES(1990年)」
 
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「ポータブルカセットプレイヤー(DATウォークマン第一号機) TCD-D3(1991)」
 

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3.5インチフロッピーディスクに画像データを保存できる「デジタルスチルカメラ MVC-FD5(1997年)」
 
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携帯電話製品群が壁面を埋め尽くしています。
 
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1999年に世界発の家庭用ロボットとして動物型の「AIBO(アイボ)」を発売しました。注、AIBO:Artificial Intelligent Robot
 
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ビーグル犬に似た「初代AIBO ERS-110(1999年)」(左)とその改良型である「二代目AIBO ERS-111(1999年)」(右)
 
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(続く)

2016年12月 7日 (水)

さようなら、ソニービル 「It's a Sony展」(その3)

ライブレコーディングのマニアを対象とした「ショルダー型カセットテープレコーダー(カセットデンスケ)の1号機 TC-2850SD(1973年)」(左)と3ポジションのテープセレクタなど機能面での向上や音質の改善が図られ、据え置き時と携帯時のいずれでも操作できるレバーやフィンガー・バーが用意された「テープレコーダー TC-5550-2(1974年)」(右)
 
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テレビチューナー内臓のベータ方式ビデオテープレコーダー(第1号機) SL-7300(1975年)は当時285,000円と高価格(大卒初任給の3倍以上)
 
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<関連情報: 家庭用ビデオ戦争>

家庭用ビデオが登場した初期にはカセット収納型規格として家電メーカー各社は自社規格の製品を開発・販売して様々なものが乱立したが、ソニーのベータ方式(製品化された1975年にはベータマックス)とビクターのVHS(1976年開発)の2方式に集約された。そして、画質と機能に優れたベータ方式と家庭での使用を考えた適度な画質・機能と2時間録画が可能なVHSの両陣営に家電メーカーが分かれて「関ヶ原の合戦」の様相を呈した。しかし、1980年代半ばには、部品点数が少なく軽量であり(注、1976年に松下電器の松下幸之助氏が子会社ビクターのVHSを支持した最大の要因とされる)、録画時間が2時間と長く、販売店が多いことでVHSの優勢は決定的となり、ソニー自身も1988年にはVHS製品も販売するようになって「家庭用ビデオ戦争」は終結した。

 

3ヘッド(消去・録音・再生)・3モーター構成(キャプスタン用はFG付周波数制御サーボモーター)のオープンリールテープと同一のテープを収めたエルカセットシェルに対応する最上位機の「カセットデッキ EL-7(1976年)」
 
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ラジオ・白黒テレビ・カセットレコーダーの複合機「ラジカセ付テレビ FX-400(1976年)」(左)と未来的なデザインの超軽量(9kg)の「モバイル白黒テレビTV-7A(1972年)」
 
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ラジオ・白黒テレビ(3型)・テープレコーダーが一体となった複合機「FX-300(1976年)」は飛行機のコクピットをイメージしてデザインされたそうです。
 
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「小型テレビ KV-6010(1973年)」(サイズ:23x30x21cm)、超軽量(重量9kg)の「モバイルテレビ KV-1010U(1971年)」、KV1312U(1970年)
 
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「トリニトロンカラーテレビ KV-2050M(1974年)」
 
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「トリニトロンカラーテレビ KV-1375D(1978年)」(左)とブラウン管が90度回転して縦横どちらにおいても使える「ポータブル白黒テレビ TV-501(1977年)」(重量約3.3kg)
 
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オーディオ製品を一つに集めた「システムコンポ Listen5(1972年)」
 
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1980年代のフロアに上がりました。いよいよポータブルステレオカセットプレイヤー「Walkman」(ウォークマン)と8mmビデオカメラ「Handycam」(ハンディカム)やビデオウォークマン、CDラジカセなどが登場します。

 

左から、「ウォークマン用ヘッドホン MDR-3(1979年)」、「ウォークマン」の第1号機である「ポータブルステレオカセットプレイヤー TPS-L2(1979年)」、「初代ウォークマン」のモデルになった「カセットレコーダー TCM-100(1978年)
   
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左から、プロフェッショナル仕様でレコーディングスタジオで使用されている「ステレオヘッドホン MDR-CD900ST(1989年)」、MDRシリーズが10周年を迎えた記念すべきフラッグシップモデルの「ステレオヘッドホン MDR-R10(1988年)」、「NUDE」シリーズ第一号機「ステレオイヤーレシーバー MDR-E252(1982年)」、FM受信機を内蔵した小型・軽量のオープンエア型「ステレオヘッドホン MDR-FM7(1980年)」
 
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多彩なウォークマン製品群
 
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ペットネームが「フラミンゴ」である「ポータブルLPプレイヤー PS-F5(1983年)」はヘッドホン端子とライン出力端子の他にFM送信機が内蔵されているためFMラジオで聴くことができるソニーならではの製品です。形状から見てリニアトラッキング方式でしょう。ちなみに、後継製品のPS-F9もあるようです。
 
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世界最初の「コンパクトディスク(CD)プレイヤー CDP-101(1982年)」
 
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ディスクじゃカットサイズの底面積(厚さはCDジャケット4枚分)を実現したコンポーネントタイプ第1号機の「ポータブルCDプレイヤー D-50(1984年)」(左)とその木型(右)
 
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スクエアなスタイリングが強調された「ラジオカセットレコーダー ZX-7(1985年ころ)」は、有用範囲の広いフラットコーンのAPMスピーカーをダウンサイジングして、長方形のフォルムに融合させています。
 
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ラジオ機能の一部をカットして小型化した「ステレオカセットレコーダー CFS-W80(1984年」
 
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CDからの自動編集・テープ編集機能を充実させた上位機種「CDラジオカセットレコーダー CFD-DW97(1989年)
 
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(続く)

2016年12月 6日 (火)

さようなら、ソニービル 「It's a Sony展」(その2)

P型テープレコーダー(1952年)」
 
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「オールトランジスタテープレコーダー TC-777(1961年)」
 
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「家庭用テープレコーダー TC-111(1961年)
 
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私の実家では1960年代前半に購入したソニー製のオープンリール式のテープレコーダーがありました。マジックアイ(真空管の一種)が録音時の音量調整用に搭載されており、緑色をした扇が音量に合わせて開いたり閉じたりする様子が印象的でした。ちなみに、マジックアイ(同調指示管)は1950年代初頭からラジオの同調表示用に広く使われていました。

 

1960年代のフロアに上がりました。カセットテープレコーダーやテレビが登場した時代です。
 
まず目についたのは、当時世界最小(マイク内蔵)であった「カッセットテープレコーダー TC-50(1968年)」、1.75kgの軽量とピアノ式操作ボタンが特徴であった「コンパクトカセットテープレコーダー(第1号機)
TC-100(1966年)」、ソニー初の「カセットテープ C-60(1966年)」
 
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FG(周波数発生器)サーボ付低速DCモーターによるベルトドライブ機構を採用したターンテーブルとトーンアームを組合せて木製キャビネットに組み込んだ「レコードプレーヤー PS-2000(1966年)」
 
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「ポータブル電子計算機 ICC-500(1967年)」(重量6.3kg、価格26万円)
 
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「肩掛け式オールトランジスタVTR(電池式ビデオデンスケ) DVK-2400/DVC-2400(1967年)」
 
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当時世界初のオールトランジスタ式家庭用VTR「ビデオテープレコーダー(第1号機) CV-2000(1964年)」
 
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世界初の反動田部品(FET:電界効果トランジスタ)を採用した「コンデンサーマイクロホン C-38(1965年)」
 
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23バンドを網羅する「マルチバンドレシーバー第1号機 CRF-230(1968年)」は全世界のラジオをカバーする対応力から「ワールドゾーン23」と呼ばれてファンに支持されたとのこと。
 
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当時世界初の「IC搭載ラジオ ICR-100(1967年)」はマッチ箱の大きさ、重量が90gと超軽量、1回14時間の充電により約6時間の連続使用が可能
 
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世界初の「高画質ポータブル・トランジスタテレビ TV8-301(1960年)」は、高校1年の時、友人の祖父(某大手企業の重役)宅の応接間で見て、その近未来的で斬新なデザインに驚かされたことを覚えています。
 
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当時世界最小の「ポータブルテレビ TV5-303(1962年)」は車載用を目指して開発された白黒テレビ
 
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アルカリ電池9個で約7時間の連続市長ができた「トランジスタテレビ TV4-203(1964年)」
 
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ソニー初の「クロマトロンカラーテレビ 19C-70(1965年)」は色選別機構にシャドーマスク(金属の薄い板に円形または方形の穴を空けたもの)ではなくアパーチャーグリルというすだれ状のフィルターを採用したブラウン管を使う19インチ型カラーテレビ
 
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クロマトロンの失敗から井深氏自身が開発リーダーとなり開発されたソニー独自の方式を採用した「トリニトロンカラーテレビ KV-1310(1968年)」は同社が大手家電メーカーへと発展する原動力となったヒット商品
 
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その重要な部品(ブラウン管)である「トリニトロン管」は3本の電子銃を使う他の方式とは異なり、1本の電子銃で赤・青・緑の3色を同時に発射するためフォーカスが良く、色ずれが少なく、細部までくっきり表示できたそうです。
 
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1970年代のフロアに入りました。レコードプレーヤーやビデオレコーダー、トランシーバーなども発売するようになり、ソニーの製品ラインアップが多様化する時代です。

 

前列左から、分離型ラジオ ICF-7500(1976年)、ショルダーベルト付ラジオ「スカイセンサー ICF-5500A(1973年)」、単三電池2本で駆動する小型軽量(220g)の「ポータブルラジオ TR-4150(1973年)」、後列は左から短波帯がデュアル・コンバージョン(ダブルスーパーヘテロダイン)でオールギアドライブ化されたメインチューニングダイヤルとスプレッドダイヤルを組み合わせた高級BCLラジオ「スカイセンサー ICF-5900(1975年)」、ホームタイプの「カセットラジオ CF-140062(1971年)
 

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左から、世界ではじめて厚さ9mmを実現したポケットサイズラジオ「ミリQ ICR-0(1977年)」と3バンド対応の「二つ折りラジオ ICF-7800(1976年)」
 
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小型・軽量・高性能の生録に適したカセットレコーダー「カセットデンスケ TC-D5(1978年)」(左)とソニーが発売した1号機であり、登山家・田部井淳子さんがエベレスト登山で使用したという「トランシーバー ICB-650(1972年)」(右)
   
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(続く)

2016年12月 5日 (月)

さようなら、ソニービル 「It's a Sony展」(その1)

日比谷線の銀座駅で下車しました。B10出入り口で地上に出ると、目の前に見慣れた建物があります。銀座ソニービルです。
 
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有楽町から西銀座の主要な建物(有楽町そごう、日劇、朝日新聞社など)がビックカメラと有楽町マリオンへと変貌するなか、ちょうど半世紀前の1966年から存在し続けてきたランドマークとも言える存在です。私が上京したのはこの2年後で、週末にはさしたる目的もなく、このショールームに立ち寄ったものでした。写真はとんがり屋根の数寄屋橋交番と東京高速道路の高架越しに見た有楽町マリオンと有楽町センタービル別館(右端)です。
 
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その銀座ソニービルがいよいよ来年には取り壊されて、建て替えられると知り、久しぶりに訪れることにしました。同ビルの1F-4Fに入店していたソニーショールームは9月24日に銀座5丁目の銀座プレイスへ移転したそうです。その空きスペースを利用して、「It's a Sony展」(Goodbye Sony Building, Hello Sony Park)が11月12日から開催(入場無料)され、過去から現在に至る同社の730製品が展示されていることを聞いたからです。一旦営業が終了する2017年3月31日まで開催されるカウントダウンイベントです。注、Part‐1(歴史的展示物):2016.11.12-2017.2.12Part-2(未来のPark): 2017.2.17-2017.3.31
 
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ソニービルは「花びら構造」(螺旋階段状のフロア構成)となっており、来館者は連続する空間を通って自然に上階へ導かれる舞台になっていますから、その順に展示品から抜粋して紹介します。(注、左手が入口)
 
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エントランス・ホールから一段高くなった“1D”にあるのは雑誌POPEYEとのコラボ展示”My Favorite Sony”コーナーで、POPEYEゆかりのゲストたちが愛好するソニー製品が展示されていました。最初はミュージシャン・俳優のピエール瀧さんが勧める「パーソナルLCDモニター “グライストロン“ PLM-50(1996年)」は2m先に52インチ相当が出現するという当時としては画期的なマイスクリーン(個人用ディスプレイ)です。(注、後方はエントランス・ホール)
 
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「コンパクトカセットテープ C-30(1969年)」は漫画家・イラストレーターのみうらじゅん氏の推奨するソニー製品です。
 
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そして、演出家・映画監督の大根仁氏は「デジタルビデオカメラレコーダー DCR-VX2000(2000年)」の高画質にまつわる思い出を紹介します。
 
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長場雄氏は「カッセットウォークマン “My First Sony” WM-3030(1988年)」(単三電池2本使用)を紹介します。斬新なデザイン(赤・黄・青の3色)でカラフルウォークマンと呼ばれました。ちなみに、私はカセットケースサイズの「カッセットウォークマン WM-20」(1983年10月発売)を海外出張時に愛用していました。未使用時にはカセットテープケースとほぼ同サイズアで、使用時にケースを引き延ばしてカッセットテープを収納し、単三乾電池一本で2.5時間(アルカリ電池の場合は5時間)動作しました。ヘッドフォンもそれに合わせた小型軽量化(かつ高音質)が図られていました。
 
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ソニー社長の平井一夫氏が推奨する「スカイセンサー ICF-5800(1973年)」は、私が社会人になって数年が経過したころに発売されたBCL用好感度ラジオで、大変興味がありましたが、アマチュア無線に熱が入っていたため購入することはありませんでした。
 
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その他、ANI(スチャダラバー)の「8mmビデオカメラ CCD-V89(1989年)、藤原ヒロシ氏の「プロフェッショナル ウォークマン WM-D6(1982年)」、コムアイ(水曜日のパンパネラ)の「ポータブルミニディスクレコーダー “MDウォークマン“ MZ-E55(1998年)、Tom Sachsの「MEGA BASS CFD-7755(1991年)」などの実機が展示されています。

 

2階(2A/2BC/2D)に上がると、そこからはソニー製品を年代順に見ることができました。
 
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最初の1940-1950年代は、ソニーの前身である東京通信工業が生み出した製品や「設立趣意書」などが並んでいました。その上には失敗作となった「電気炊飯器」とヒット商品となった「電気座布団」も展示されています。
 
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前列左端は「国連ビル」という愛称がついた「ラジオ TR-52(1955年)」はソニーがアメリカ市場に売り込むときにサンプルとして持ち込んだトランジスタラジオですが、顧客が求める10万台の量産体制ができておらず、破談に終わった製品です。実際はキャビネットの耐久性がないことが後から分かった失敗作だったそうです。2番目の「TR-55(1955年)」は日本最初のトランジスタラジオで、3番目はソニーを飛躍させた「トランジスタ」(三端子を持つ半導体能動素子)、そして右側の製品は当時世界最小の「トランジスタラジオ TR-63(1957年)」はソニーの本格的な輸出製品の第1号機となった製品です。
 
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参考のためにソニー設立時の状況を簡単に述べます。『終戦直後の1945年9月に疎開先の長野県須坂から上京した井深大(いぶかまさる)氏は仲間たちとともに、日本橋白木屋(デパート)の3階にあった電話交換室内に東京通信研究所を10月に設立。ラジオの修理と改造(注、戦時中に禁止されていた短波放送を受信する機能の追加)がヒットし、ついで電気炊飯器を手掛けたが記念すべき失敗作となる。翌1946年5月に東京通信工業を設立し、終戦直後に文部大臣を務めた井深の義父・前田多門(まえだたもん)になってもらい、専務に井深、取締役には旧知の盛田が就任した。』

 

そして、その設立趣意書には「真面目なる技術者の技能を最高度に発揮せしむべき、自由闊達にして愉快なる理想工場の建設」を社是として会社設立の目的・経営方針・経営(事業)部門を具体的に述べているのは技術者である井深氏らしいものです。

 

ソニーがベンチャー企業として発展するきっかけとなった「テープレコーダー試作第1号(1949年)」
 
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日本で最初の「G型テープレコーダー(1950年)」はさっぱり売れなかったそうです。
 
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ソニーが開発した「磁気録音テープ Soni-Tape KA(1950年)」
 
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次いで開発された普及型の「H型テープレコーダー(1951年)」(写真右側)、左側はテープレコーダーの音声とスライド写真を組み合わせた映写機「オートスライド(Automatic Slide Projector) (1952年)」です。
 
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同じく携帯型(デンスケ)の「M型テープレコーダー(1951年)」
 
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(続く)

2016年12月 3日 (土)

半世紀を超える免許との付き合いについての雑感

10代のころに取得した2つの免許を今も保持しています。アマチュア無線局の免許と自動車の運転免許です。 

 

趣味としてのアマチュア無線の免許を取得することはラジオの組み立て遠距離受信(BCL/SWL)が好きな少年であった私には自然の成り行きでした。そして、18歳になると欲しくなったのは自動車の運転免許です。大学では自動車部に所属して自動車の運転と整備技術を学びました。アマチュア無線は、自動車の運転免許と同様、上位の免許(無線従事者の資格)を取得したくなるものです。いずれも上位の資格に挑戦して免許証を獲得しました。ちなみに、50年前のアマチュア無線には下から電話級・電信級・二級・一級の4種類があり、自動車免許(一種)には普通車と大型車の2種類がありました。注、当時の運転免許にはその他に特殊免許と二輪免許(第1種/第2種原付免許・軽免許・2輪車免許)もあり 

 

アマチュア無線局の免許証は自動車の運転免許と同様、5年ごとに更新することが必要でしたが、毎回複雑な内容を繰り返し記載して再免許を申請する必要がありました。その申請用紙は、大手書店の店頭で購入するか、アマチュア無線連盟(注、現在はアマゾンの通販も購入可)を利用して入手することができました。必要事項を手書きで記入・管轄の総務省総合通信局(旧地方電波管理局)へ送付するプロセスを資格取得した半世紀以上前から10回以上も繰り返しています。その過程で、20代前半に通常は使うことがなかった田舎で取得した免許の更新を失念したため、新たに開局申請と旧コールサインの再交付を申請するという苦い経験をしています。 

 

手続きを言葉で説明すると簡単のようですが、紙製の申請書への記入は手間暇がかかり、けっこう面倒なのです。自分自身の免許証が2件(プリフィックス“JA”と“JH”)あるほか、同居者(同じく”JI”)などの家族についても代行して手続きしてきました。5年ごととはいえ、免許証の有効期限内に申請するのは大変です。それに費用も馬鹿になりません。注、プリフィックスとは「接頭語」を意味する言葉で、コールサイン(呼び出し符号)の頭に付く一文字または二文字のアルファベット(例外的には数字とアルファベットの組み合わせもあり)を指し、国(地域)を明示するとともにコールサインが付与された時期(年代)がおおよそ分かる重要なもの 

 

行政手続きの電子化の趨勢(すうせい)により、平成15年から総務省の「電子申請・届出システム」が始まりましたが、申請するには住基カードが必要でした。住基カードに懐疑的であった私はもちろん所有しておらず、従来の方法(紙ベース)を利用する必要がありました。その5年後の平成20年に住基カードが不用である現行の電子申請システム「総務省 lite」が始まったことで、さっそく利用してみました。 

 

総務省の「電子申請・届出システム lite」のホームペイジにアクセスすれば、指示に従って情報を入力するだけですから、従来の方法と比較にならないほど簡単です。もし、情報に変更がなければ控えのデータをコピペすれば一発で完了します。手数料も従来のように郵便局で収入印紙を購入して申請用紙に貼りつける必要はなく、大幅に割り引かれた金額を銀行口座からの引き落とされる方法に変わりました。唯一、面倒なことは事前に同システムへ申し込んで、IDと初期PWを郵送してもらい、申請用のPWを登録する必要があることです。セキュリティのために住所確認を行っているのです。登録したPWには有効期限があることも安心につながると思いますが不便なこともあります。 

 

今回は「電子申請・届出システム lite」を利用する2度目の再免許申請でしたから、すべてのプロセスをコピペで済ませて、申請したすべての案件について新しい免許証を入手することができました。ちなみに、免許証は従来通りにAサイズの紙製です。この「総務省 lite」は使いやすく、しかも手数料が紙ベースの申請方法よりかなり安上がりなサービスですが、手続きをさらに簡便化するため、アメリカのように包括免許制度を導入してほしいものです。つまり、自動車の免許証(大型・中型・普通・大型自動二輪など)のようにアマチュア無線の資格(一級・二級・三級・四級)に許された形式と強さの範囲内の電波を送信できる(無線機を限定しない)免許制度です。さらに、イギリスやドイツの運転免許証のように有効期限の長く、ある年齢まで更新不要であれば、利用者にとってさらに便利です。 

 

ちなみに、私も体験したことですが、日本におけるアマチュア無線局の免許状を持つ人は、アメリカのFCC(連邦通信委員会)へ無線従事者免許証(コピー)と無線局免許状(コピー)などを添付して申請すれば、日本のコールサイン(注、アメリカに移動中であることを交信時に明示する必要がある)を使ってアメリカ国内での運用(電波を出すこと)が可能です。なお、ドイツ、フランス、オーストラリア、ニュージーランドなどでも可能なようです。(注、運用条件に制約がある場合がある)

 

次いで、自動車免許について少し言及します。良く知られるように免許センターで簡単な手続きで取得できる国際免許証(有効期間1年)があれば海外の多くの国で自動車の運転ができます。ちなみに、アメリカのグアム、サイパン、ハワイなどは国際免許証がなくても日本の運転免許証で自動車の運転ができるようですが、無用なトラブルを避けるためには国際免許証を携行した方が良さそうです。また、アメリカなど海外の多くの国で取得した運転免許証を持っていれば、日本の運転免許証に切り替えることができます。そして、スイス・ドイツ・フランス・ベルギー・スロベニア・モナコ・台湾のいずれかの国・地域で発行された運転免許証(日本語翻訳文付)を持っている人は日本国内で自動車を運転することができます。 

 

アメリカから帰国した25年以上前のことです。私はアメリカで取得した普通免許ではなく、日本で保持していた大型免許・普通免許(現中型免許)・大型自動二輪免許を更新(書き換え)しようとしましたが、5年間の有効期間が1か月以上過ぎていて、そのまま更新できませんでした。筆記試験を受ける必要があるというのです。(注、現在は6カ月以内であれば講習を受講するのみで可) ぶっつけ本番で受けた筆記試験は案の定でしたが見事に不合格。泥縄式の勉強を数日したあと、再受験して見事に合格することができました。
 
新しい免許証の交付を待つ間、運転免許試験場の係官から質問されました。『特別な場所(塀の中の意)に居たのですか? 大型免許の更新時試験に合格する人は珍しいですよ!』と。海外に赴任していたのだと説明すると、『海外赴任の場合には、免許証の有効期限内であれば、通常の1か月前からではなく、いつでも更新手続きが取れたのですよ!!』 と解説してくれました。私は、『にわか勉強で苦労したんだから! 早く言ってよ!!』 と心の中で・・。

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