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2017年4月

2017年4月30日 (日)

40年ぶりのミャンマー訪問(その27) マンダレー観光⑥ クドードォ・パヤーとチャウットージー・パヤー

ガイドさんはマンダレーヒルの南麓にあるサンダム二・パヤーに立ち寄る予定を変更したようで、車はその東隣のクドードォ・パヤーに到着。ミンドン王がバガンのシュエズィーゴン・パヤーを模して建立した仏塔とのこと。名前は「全世界で最も偉大な功徳の仏塔」を意味するそうです。その参道は黄金色と朱色で彩られて華やかです。注、カメラ撮影は有料
 
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着飾った若い女性たちが並んでいました。タッセル(房飾り)がある角鍔(かくつば)付きの帽子から判断して、大学を卒業する人たちのようです。昨春、ベトナム・ハノイのタンロン遺跡(昇龍王城遺跡)でも見かけました。
 
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ちなみに、角鍔付きの帽子(モルタルボード)は欧米諸国とその影響を受けた国々の大学を卒業する学生(学士・修士)が被(かぶ)る習慣があります。帽子の角は4つの基本的学問、つまり、医学・法学・工学(数学)・神学(哲学)を示すそうです。アメリカでは高校卒業時にも被りますから、私の娘はアカデミックドレスとして黒いガウンとともにこの帽子を計2回被りました。

 

縮尺模型を見ると、チャウトージー・パヤーは本堂を中心に、四方向に伸びる参道と729基の小仏塔が取り囲む全体像を把握することができました。
 
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ガイドさんはまず純白の小仏塔が並ぶ場所へ案内してくれました。
 
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ミンドン王が、世界最大の経典を造ろうと、2400人の僧侶を集めて仏典を完全な形で大理石の石版に刻む作業をさせたと伝えられるそうです。730番目の石版にはこの世界最大の経典が造られた経緯と1868年に完成したことがきざまれているとのこと。注、2013年に世界の記憶に登録された。
 
仏典が刻まれた石版が小仏塔の中に立っていました。ちなみに、古いパーリ語(上座部仏教の経典で主に使用される言語)で書かれているため、現代のミャンマーには読める人はほとんどいないとのこと。
 
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本堂に向かう途中、光輪が電飾になっている黄金の仏像と賽銭(さいせん)箱、
 
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そして仏塔が飾られた賽銭箱もあります。
 
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サンダムニ・パヤーの本堂は金箔の貼り直しが行われていました。工事用被(おお)いがない写真はこちらのサイトを参照してください。
 
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車に戻ってサンダム二・パヤーの西隣にあるチャウットージー・パヤーへ移動。アマナプラのチャウトージー・パヤーと名前が同じですが、こちらは19世紀中ごろにミンドン王によって創建されたた仏塔です。参道に入ります。
 
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両側には仏花などが売られています。
 
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眩(まぶ)しいほどの電飾の先に大理石の仏像が見えて来ました。
 
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マンダレーの約30km北にあるサジン山で採掘され、エーヤワディー(イラワジ)川を使って船で運ばれた巨大な大理石の一枚岩から彫られたものだそうです。1865年、ミンドン王によって開眼(かいげん)されたこの仏像(約900トン)は、ミャンマー最大規模で、2万人以上の兵士や僧侶がその法要に動員されたとのこと。ミャンマーの寺院や仏塔にある仏像は信者が寄進した金箔(きんぱく)に覆(おお)われているのが普通ですが、この本堂にある仏像は大理石の素肌が剥(む)き出しになっていました。
 
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脇にある資料室を覗いてみました。古い写真が展示される部屋の中央にあるこれも賽銭箱だそうです。
 
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こちらは王宮の写真と思われます。その上には兵士によるパレードの様子を描いた絵画も架けられています。
 
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午後5時になりました。夕日を鑑賞するためマンダレーヒルへ向かいます。(続く)

2017年4月29日 (土)

40年ぶりのミャンマー訪問(その26) マンダレー観光⑤ シュエナンドー僧院

車に戻り、62番通りを北上して、次の目的地へ向かいます。ひときわ目を惹くアーチ状の門は仏教大学State Pariyatti Sasana University Mandalay)のものでした。
 
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14番通りと13番通りの間にある路地を西へ入って、旧王宮の北東角に近いシュエナンドー僧院に到着。
 
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かつては、初代のミンドン王の住まいとして王宮内にあり、ミンドン王が息を引き取ったこの建物を、二代目国王が現在の場所に移設して僧侶たちに使わせたそうです。ミャンマーでは珍しい木造建築で、内部と外部に施された木製(チーク材)立体彫刻の写実的な装飾は釈迦の教えや伝承を表現したものが多いそうです。王宮からこの地へ移設されたことにより戦災による消失を免れて、ミンドン王時代の唯一の貴重な木造建造物となったとのこと。
 
ガイドさんによると、マンダレーはアマラプラの記事で紹介した絹織物・タベストリーおよびマハムニ・パヤーの項で触れた金箔・大理石のほかに、このシュエナンド―僧院の装飾で分かるように木工の職人が今も多いそうです。

 

僧院の建物に続く石段
 
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右手奥にも同じような石段があります。
 
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吹き抜け天井となっている僧院内に入ると、正面にティーボー王が冥想するために座ったと伝えられる巨大な玉座がありました。建物の移設後は祭壇あるいは高僧の座として使われたようです。
 
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王の警護をする衛兵たちの待機場所になっていたと考えられる玉座の裏手には仏像が置かれています。
 
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建物を出て、入口付近まで戻ったところにある釣鐘です、鐘を支える柱には龍の装飾があり、後方の石柱には"Golden Palace Monastery"(黄金の宮殿の僧院)とシュエナンドー僧院の英語名が刻まれています。

 
 
 

大きな柱にも龍の装飾が施されています。床下を覗いてみると、基礎部は最近になってコンクリートで改修されたようです。さらに詳細な木工彫刻はこちらのサイトで参照できます。
 
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隣のアトゥマシー寺院(1990年代半ばにコンクリート造りで再建)との間にある駐車場へ移動。デザインはシュエナンドー僧院と似せていますが、まったく異なる雰囲気を持っています。
 
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ここで車に乗り、次の目的地へ向かいました。(続く)

2017年4月28日 (金)

40年ぶりのミャンマー訪問(その25) マンダレー観光④ 旧王宮(後編)

謁見(えっけん)の間の玉座
 
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左手の回廊に出ると円筒形をした監視塔が聳(そび)えているのが見えました。頂部にはやはり七重の塔があります。
 
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振り返って見た庇(ひさし)の装飾
 
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回廊が続きます。
 
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左手に進むと、監視塔の前に出ました。頂部へ上がる外付けの螺旋階段があります。
 
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この塔もすべて木製で、思ったよりも急な階段です。
 
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監視塔の頂上からは王宮内を一望できます。手前の白い建物は子供たちの住居で、その後方には王が居住する宮殿と王妃たちが住む建物が無数といえるほど立ち並んでいました。航空写真を確認すると、左右シンメトリーの配置になっています。
 
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謁見室がある建物は見事な七重の搭になっています。ちなみに、七重の塔は仏塔の位置形式です。日本には現存していませんが、各地の国分寺には七重の塔の基壇を持つものが多いそうです。また、最近になって東大寺にも高さが約100mと推定される木造の七重の塔(東塔と西塔)があったことが、昨年までの発掘調査の結果によりほぼ確実であることが分かったそうです。
 
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その後方にはマンダレーヒルの頂上にあるスタウンビー・パヤーを確認できます。また、西参道の手前にある白い建物はマンダレー・ヒル・リゾート・ホテルと思われます。
 
 
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反対側(南側)を見下ろすと、旧王宮の敷地内に小さな仏塔とともに住宅と思われる建物が点在しています。
 
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東方向には正門前のロータリー付近が見えます。地平線と見間違うマンダレー市街地の先、遠くには南北に連なる薄っすらした山並みを望むことができます。
 
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監視塔の頂部
 
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正門付近まで戻りました。階段の前方左右には大砲が置かれています。
 
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旧王宮を訪れたあとは、マンダレーヒルの南麓にある寺院と仏塔を巡るようです。(続く)

2017年4月27日 (木)

40年ぶりのミャンマー訪問(その24) マンダレー観光④ 旧王宮(前編)

予定よりすこし早い午後3時20分ころ、マンダレー市内観光に出発しました。写真は本館の前方(両側)に並ぶバンガロースタイルのスイート(左側)です。ちなみに、車は右側通行のため、一方通行のアクセス路は反時計廻り。
 
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正門付近から見た本館
 
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まだ路肩の整備が行われていない高速3号線から市街地に入ると、バイクの通行が目立ちました。インド製と中国製が多いようです。ガイドさんによると、マンダレーの市街地ではバスやタクシーがほとんどないとのこと。
 

26番通りで見かけた苦行のため痩せた釈迦の像
 
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関連すると思われる話を紹介します。『出家した釈迦は、ヒンドゥー教の師に付いて
冥想(めいそう)を修行し、心を内側につなぎとめる訓練(ヨーガ)に習熟して、瞑想(めいそう)中は絶対的な自由を得ることができました。しかし、冥想から醒(さ)めるとそれが失われるため、釈迦は何かが違うと考えます。そんな折、村娘のスジャータの差し出す乳粥を受け取って断食を中断します。そして、体力を取り戻した釈迦は、ブッダガヤの菩提樹の下に座り、「十二縁起」の深い思考冥想を繰り返し、覚りを得ることになります』

 

旧王宮の南東角を右折して、幅の広い掘りに沿って66番通りを北上すると、旧王宮の入口(東の橋)がありました。
 
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ミャンマー最後の王朝となったビルマ族のコンバウン朝(注、1755年にビルマ族のアラウンパヤーが興した王朝)は1757年にモン族の都バゴーを占領して全土を統一。1767年にはアユタヤを陥(おとしい)れ、1785年にはアラカン王国を征服するなど領土拡張を続けたことが、英領インドとの緊張を生みました。そして、1824年の第一次英緬戦争、1852年の第二次英緬戦争に敗れ、ビルマ王国(コンパウン朝)はベンガル湾に面した領土を失い、内陸部に閉じこめられることになりました。
 

窮地(きゅうち)に立たされたコンバウン朝の王となったミンドン王が、アマラプラから釈迦が仏教の都が現れるであろうと予言したというマンダレーへの遷都を決定し、1857年から建設を開始し4年がかりで完成したこの王宮は一辺が約3kmの正方形をした敷地が高さ8mの城壁と幅約70mの堀に囲まれています。要所に物見の塔が建てられており、東西南北計4本の橋で市街と結ばれているそうです。そして、3度にわたるコンバウン朝との戦争に勝利したイギリスが、24年後の1885年にティーボー王をインドへ追放するとともに、王宮を軍の施設としました。

 

一直線の道を1km近く走ると王宮の中心部に到着。車を降りて右手を見ると、七重の塔が要所に設置された城壁の先にマンダレーヒルがありました。
 
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正門へ向かう途中、城壁の脇で写真撮影が行われていることに気づきました。レフ板(リフレクター)を持つ男性がいて、被写体の女性たちもきれいな衣裳を身に着けていますから、プロカメラマンが撮影しているようです。女性たち、はいずれもミャンマーらしく、黒髪美人でした。
 
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正門越しに観光客が向かう玄関と思われる建物と階段が見えます。
 
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観光客は窓口がある右手の通用口(東入口)を利用します。注、外国人に開放されているのは東入口のみ
 

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階段を上がったところで振り返って見た正門
 
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建物中に入ります。ここでは履物を脱ぐ必要はありません。
 

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書院風の建物を描いた絵が壁面に飾られています。一際目を惹(ひ)くのは七重の塔。
 
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第二次世界大戦中の1942年には日本軍が占領し、1945年3月劣勢の日本軍と反攻に転じた英印連合軍との戦闘によって、王宮は消失して、城壁だけが残ったそうです。戦後はミャンマー国軍の施設として利用され、現在も軍の施設や軍人の住宅があるようです。ちなみに、現在の建物群は1990年代末に復元して建てられた新しいものです。

 

王宮の歴史的写真が展示されていました。まず、二代目にして最期の王となったティーボー王とその王妃スパラヤッ。
 
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ミンドン王とその王妃たち、そして皇子・宰相
 
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(続く)

2017年4月26日 (水)

40年ぶりのミャンマー訪問(その23) マンダレー観光③ エーヤワディー川沿いのミャ・ナンダール・レストラン

サガイン・マンダレー道路を北上し、35番通りへと左折してエーヤワディー川方面へ向かいました。もし、この交差点を直進するとマンダレー駅とマーケットなどがあるマンダレーの中心部。昼食会場はエーヤワディー川に行き当って少し北上した(シティパークに近い)場所にあるミャンマー料理とアジア料理の「ミャ・ナンダール・レストラン」(Mya Nandar Restaurant)です。
 
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ガイドさんにしたがって敷地の奥へ向かいました。
 
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店のスタッフに案内されたのはバガンでのランチと同様、エーヤワディー川に面したオープンテラスです。その中央にいる別のスタッフたちがシルエット(影絵)になり、あちこちに操り人形が飾ってあるようです。手前には小さな木造船もオブジェとして置かれています。
 
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最前列の席が予約されていました。中洲に貨物船や小型客船が停泊しています。
 
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マヤンチャン埠頭(ふとう)からは10kmほど遡(さかのぼ)った対岸にあるミングオンへ行く小型客船が出ているそうです。ミングオンにはコンバウン朝のボードーパヤー王が18世紀末に建設しようとして未完成のままとなったミングォン・パヤーの巨大な台座(一辺140mの正方形、計画された仏塔の高さは150m)と世界最大といわれるミングオンの鐘(外径約5m、重量90トン)、およびバーヂードー王が皇子時代の1816年に他界した妻を偲んでスメルー山(注、古代インドの世界観の中で中心にそびえる聖なる山)の頂上に建つといわれるスラマーニ・パヤーを模して建てたシンピューメェ(白亜の仏塔)があるそうです。
 
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雨に見舞われた前日のバガンとは異なり、こん日のマンダレーは天気が回復したため、エーヤワディー川西岸の山並みが良く見えます。その先は無数の仏塔が立ち並ぶサガインヒルがあると思われます。バガン王朝の滅亡した混乱に乗じてシャン族の王が1322年に都を置きましたが、1364年にはインワに遷都されたため、その後は遺跡・僧院・仏塔の町となったそうです。
 
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視力が良い同行者は下流に3連のアーチ橋があることを見つけました。地図を見ながらガイドさんに確認するとインワ(旧アヴァ)のエーヤワディー川に架けられた新旧2つの橋です。帰国後に確認すると、下流側にあるカンチレバー式トラスト構造で鉄道・道路併用のインワ橋(長さ約1200m、別名:アヴァ橋)と2015年に上流側に架けられた道路橋のエーヤワディ橋(長さ約2350m、別名:新アヴァ橋)です。ちなみに、前者はイギリスによってエーヤワディ川に初めて架けられた古い橋(1934年完成)です。注、トラストとは部材を三角形に繋(つな)いだ構造であり、カンチレバーとは片側の梁(はり)だけが固定され、他端は動くことができる構造体

 

上流方向にもエーヤワディー川西岸の山並みが続いていますが、ミングオンは小高くなった辺りだと思われます。
 
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この日の昼食はミャンマー料理です。このレストランもマンダレー・ビールを置いていないため、赤ワインを注文。突き出し(通し物)として瓢箪(ひょうたん)の天ぷらがミャンマー風ダレとともに配膳されました。
 
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次いで、バガンの漆器店で購入した土産物に似たミャンマーの弁当容器と玉子スープが
 
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大きな蓋(ふた)を取るとさまざまなメニューとご飯が小分けされたプレートが現れました。オカズの量はランチとしてほどよいのですが、私にはご飯の量が多すぎました。
 
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ミングオンへ行く小型客船でしょうか。
 
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デザートのフルーツも同じ形の容器に盛られています。
 
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この日に宿泊するホテルは2012年にオープンしたホテル・シュエ・ピー・ダー。マンダレー郊外(旧王宮の南東角から26番通り/高速3号線で約3km)にある4つ星の高級リゾートで、本館とは別になったバンガロースタイルのスイートがあるそうです。休憩するため、バガンと同様、午後2時と早めのチェックインです。玄関脇に巨大な象の置物があり、
 
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入口脇で民族衣裳を着た女性像が出迎えてくれました。
 
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ガイドさんがチェックインを代行してくれている間、エントランスホールの奥に一際目立つものを見つけました。ホテルとその周辺を描いた大きな絵と木工彫刻がすばらしい椅子です。その絵に描かれたホテルは田園地帯と市街地の境界付近に立地していることが分かります。注、航空写真はこちら
 
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そして、医師の前にあるテーブルには見事な浮彫細工(レリーフ)の装飾が
 
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スタッフに案内された部屋はそれほど広くはありませんが、落ち着いた雰囲気があります。
 
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午後の観光に出かけるまでの1時間ほどを自室で寛(くつろ)いで過ごしました。宿泊者はWiFiが無料で利用できます。(続く)

2017年4月24日 (月)

再開発で誕生したギンザシックス(後編)

同行者が一番盛り上がったのは”YAYOI KUSAMA POP UP STORE”でした。赤い水玉のデザインが高く評価された国際的なデザイナー、草間彌生(やよい)さんの店です。「わが永遠の魂」は彼女の作品のタイトルであるとともに彼女の哲学なのでしょう。入館してすぐ見た吹き抜けの天井から吊り下げられたカボチャをモチーフとした風船群ももちろんも草間彌生さんによるインスタレーション(注、場所・空間を演出する作品)です。
 
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この絵画も絵画作品群「わが永遠の魂」(My Eternal Soul)のひとつのようです。1983年の「かぼちゃの神様」(写真左)と「かぼちゃ(赤)」(写真右)の値札を見てびっくり。高級外車並!
 
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ティーカップセット
 
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同行者は、この店の商品なら手が届くと、あれこれ探し始めました。手に取っているのは「わが永遠の魂」のデザインが描かれたカラフルな外装の箱に入ったクッキー。
 
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同行者はポチ袋(祝儀袋)も買い求めました。来年の正月にオチビちゃんたちへ渡すのだとうれしそう。
 
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その先にあるのは創業が安政元年(1854年)の京都宇治・中村藤𠮷(とうきち)本店のカフェ。開店祝いの花には有名な女性歌手たちの名がありました。
 
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KENZO”(ケンゾー)、”Maison Margiela”(メゾン マルジェラ)、”MARUNI”(マル二)などが入店する3階のファッションフロアを通過して、同じくファッションの店舗が並ぶ2階に下りました。吹き抜けの真下にある開放的な店舗には奇妙なオブジェと帽子・サンダルが展示されています。商品の説明はありませんから、店内装飾品でしょうか。
 
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見上げた吹上天井のインスタレーション(注、空間を演出する作品)
 
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テレビ番組のロケーションのようです。マイクには”Zip”と表示されていますから、日本テレビのクルーです。
 
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MANOLO BLAHNIK”(マノロ ブラニク)はレディース靴(くつ)の専門店のようです。知識を持ち合わせない私が同行者に尋ねると、有名な靴ブランドであると教えてくれたあと、『ピンヒール(注、踵がかなり細いハイヒール)が履(は)けたら素敵だけど・・・』 と恨(うら)めしそうな言葉が続きました。帰宅後に調べると、スペインのカナリア諸島(ラ・パルマ島)出身のデザイナーが1972年にイギリスで立ち上げた、靴の王様との呼び名を持つ、高価格帯の靴ブランドでした。ダイアナ妃やマドンナなどが履(は)いたことで有名になったとのこと。
 
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エスカレーターと各フロアを見上げました。右下(先ほどの場所)で日本テレビのクルーによる撮影が行われています。
 
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2階の通路をほぼ一周したところで、中央に位置する大きな店舗が”SIXIÈME GINZA”(シジェーム ギンザ)であることを知りました。国内外からセレクトした雑貨を扱う店です。
 
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同行者はこのバッグも気に入ったとのこと。
 
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同行者がシジェームで商品を見ている間、近くの店舗を見て歩きました。まず、イタリアのGIANNI VERSACE(ジャンニ・ヴェルサーチ)が1978年にブランド化したアパレルと雑貨の店“VERSACE GINZA SIX“(ヴェルサーチ ギンザ シックス)。
 
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中央通りに面した地下1階・1階・2階(3フロア)を使用する多層階の旗艦店は”Yves Saint-Laurent"(イヴ・サン ローラン)です。フランスを代表するファッションデザイナー、イヴ・サン ローランは、フランス領アルジェリアで生まれたフランス人。後にパリに移住。21歳の若さで「ディオール」の主任デザイナーになり活躍しましたが、徴兵されてフランス軍兵士として参加したアルジェリア独立戦争(1954-1962年)で精神を病み、快復した1962年に独立。私が大好きな女優カトリーヌ・ドヌーブが主演したミュージカル映画「シェルブールの雨傘」(1964年公開)の時代背景と重なります。また、1967年に公開された同じく主演映画「昼顔」の衣裳をデサインしたのは彼なのです。
 
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同じく地下1階から4階まで5フロアにまたがる多層階の旗艦店“VALENTINO”(ヴァレンティノ)を出店したのは1960年にマリオ・ヴァレンティノがイタリア・ミラノで創業したファッションブランドで、オートクチュール(高級注文服)からプレタポルをテ(高品質の既製服)まで広く手掛けているそうです。
 
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ちなみに、多層旗艦店はこれら2店舗の他に、”House of Dior"(ハウス オブ ディオール/5フロア)、”CELINE”(セリーヌ/2フロア)、”Van Cleef & Arpel"(ヴァン クリーフ アンド アーベル/3フロア)、”FENDI”(フェンディ/4フロア)があります。
 

入館した時と同じ場所にあるエスカレーター1階へ下ります。館内のエスカレーターはすべて最新型のようで、両サイドに巻き込み防止用ブラシが付いています。
 
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1849年創業でパリ最古のトランクメゾン(バッグ店)“MOYNAT”(モアナ)および1846年にスペイン・マドリードで創業した革製品の”LOEWE”(ロエベ)
 
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エスカレーター脇にあるROLEX BOUTIQUE LEXIA(ロレックス ブティック レキシア)は有名な高級腕時計「ロレックス」の正規品販売店で、オーバーホールなどのアフターサービスも提供しているようです。入口付近に屈強なスタッフが数名控えていますから、近寄ることは遠慮しました。

 

地下1階はビューティフロア、地下2階はフーズフロア、そして地下3階には観世能楽堂がありますが、今回はスルーすることにしました。また、6階には高級なレストラン以外にも日本食・洋食・中華料理が味わえるフードホール「銀座大食堂」が、そして地下2階にはイートインのあるスイーツ店街の「デパ地下」など銀座でも気軽にランチを食べる場所もあるのですが、次の予定があるため立ち寄らないことにしました。

 

今回も、いつものように最上階から下の階へ下りながら、約1時間15分で目を惹(ひ)かれた約1割の店舗をざっと見て回りました。吹き抜け構造の建物に多くの店舗が入る形態はアメリカでは半世紀以上前からある大型ショッピングモール(注、遊歩道や広場などのある大規模な屋内商店街)そのものです。ただし、キーテナントとして百貨店がないことと、駐車場が限られる都心の一等地に立地することは、新しいチャレンジといえます。

 

GSIXに入店するのはいずれも高級な商品やサービスを提供する店ばかりで、普段であれば足を踏み入れることが躊躇(ためら)われる雰囲気がありました。しかし、グランドオープンした日の午前中は各店舗に選(え)り抜きの店員たちが配置されていることもあり、楽しみながら目の保養をすることができました。初日に足を運んだのは良い選択だったようです。
 
 

入館した時と同じ出入口から中央通りに出ました。すぐ脇にある”SAINT LAURENT GINZA”(サンローラン ギンザ)などの路面店を外から撮影することは遠慮しました。
 
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銀座五丁目交差点の角には相変わらず最後尾の看板を持つ人たちが来館者を時計回りに誘導しています。その後方に見えるのは”FENDI”(フェンディ)の店舗です。
 
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三愛ビル(写真左端)と和光ビルがある銀座四丁目交差点まで戻り、東京メトロ銀座線に乗って次の目的地へ向かいました。
 
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その記事は「40年ぶりのミャンマー旅行」の途中に箸休めとしておいおい挿入する予定です。(終)

2017年4月23日 (日)

再開発で誕生したギンザシックス(中編)

南端に東京タワーが良く見えるポイントがありました。
 
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三原通りに面した長い回廊の中ほどではソーラーパネルが壁面に設置されていました。
 
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庭園エリアへの通り抜け
 
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東端角にある靍護(かくご)稲荷大明神は文化12年(1815年)に根岸で奉安され、昭和4年に神霊を分霊して松坂屋銀座店(大正13年/1924年開業、地上8階)の屋上に遷座されたことがパネルに説明されています。
 
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回廊の北東部
 
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東京スカイツリーがビルの間から見えるスポット
 
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北端まで進むと、銀座四丁目交差点の角にある和光ビル、その後方には東京駅周辺の高層ビル群
 
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先ほど反対側から見た通り抜けと壁面緑化の設備
 
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13階へ下りる階段
 
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13階のレストラン街には、写真撮影したラウンジ・レストラン・バー・バンケットの”THE GRAND GINZA” と天ぷらの「山の上」のほか、カフェバーの”Grand Cru Café Ginza”(グラン クリュ カフェ ギンザ)、フレンチの”L’homme du Temps signe a nu”(ロムデュタン シニエ ア・ニュ)、創作肉料理の「旬熟成(しゅんじゅくせい)GINZA GRILL」、寿司の「つきじ鈴富」、カフェバーの「ミクソロジー サロン」がありました。
 
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エレベーターで6階まで下りました。アート・ブック&カフェ・レストランのフロアですが、「蔦屋(つたや)書店」はひときわ目立つ広さ(フロアの約1/3を占める)があります。屋上へ上がる時にも説明したように、7階から12階はオフィスになっているため立ち入ることはできません。
 
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インド料理専門店の“Tamarind”(タマリンド)
 
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フランスの伝統的・庶民的な料理を提供する“Bistro AUXAMIS”(ビストロ オザミ)
 
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肉料理・ビールがうまいというGrill&PUBの“The NICK STOCK”(ザ・ニックストック)
   
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5階はファッション&ライフスタイルのフロアで、文具やライフスタイル雑貨の“MARK’STYLE TOKYO”(マークスタイル トーキョー)、隣はアイウエア(ファッション眼鏡)のセレクトショップ”EYESTYLE”(アイスタイル)
 
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吹き抜けの反対側にあるパーカーの専門店“Dartin Bonaparto”(ダルタン ボナパルト)、その奥にある日本のデニムブランド”KURO”(クロ)と1908年創業のフランスの靴メーカー「パラブーツ 銀座店」です。さらに先にはライカ銀座店(世界初の直営店)もあるようです。
 
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4階にあるレディース服の専門店“ADORE”(アドーア)には女優さんたちから贈られた開店祝いの白いバラが飾られています。他の店では定番の胡蝶蘭(こちょうらん)が置かれていますが、白いバラのイメージがこのブランドの拘(こだわ)りなのかもしれません。ちなみに、ADOREには、憧(あこが)れる、あるいは熱愛するという意味があります。
 
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同行者は店舗の横側でも気になる展示を見つけたようです。店員さんからあれこれ説明を聞いただけになりましたが、白いバラの花束を貰(もら)ってうれしそう。ちなみに、手に持っているビニール袋にはバラが3本入っています。帰宅後に調べると、”ADORE”は港区青山にあるサンエー・インターナショナルのブランドのひとつでした。
 
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次いで同行者が足を止めたのは玉川堂(ぎょくせんどう)銀座店。大小の急須(きゅうす)・湯沸(ゆわかし)・茶筒(ちゃづつ)などが展示してあります。1816年に創業した新潟県燕三条の銅器専門店(金属加工業者)です。一枚の銅板を木槌(きづち)と金槌(かなづち)で叩き起こして作る鎚起(ついき)銅器の伝統技術を200年にわたって継承しているそうです。
 
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茶筒やぐい飲みのように深いものはヘラ絞り(注、銅版を回転させながらヘラと呼ばれる鉄棒を押し当てて少しずつ変形させる塑性加工)である程度形を作ってから仕上げるそうです。

 

私は発色の方法が知りたくて、不躾(ぶしつけ)な質問をすると、長身の若い男性は丁寧に説明してくれました。銅色のほかに、さまざまな色を出すことができるそうです。ちなみに、青紫色を出すためには、銅の表面に錫(すず)を焼き付けたのち、硫化カリウムなどの液に漬け込んで銅器の表面を変色させ、それを磨いて光沢を出すそうです。内部は化学的に安定している錫(すず)張りのままでした。 

同行者はコーヒーポットとコーヒードリッパーのセットが気に入ったものの、その値段は数十万円と高く、手が届かないことが残念だったそうです。(続く)

2017年4月22日 (土)

再開発で誕生したギンザシックス(前編)

一昨日(4月20日)、GSIXGinza Six/ギンザシックス) がオープンするのに合わせて銀座へ出掛けました。午前10時過ぎに東京メトロの銀座駅で下車し、銀座四丁目交差点から銀座五丁目交差点方面へ歩きました。
 
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銀座六丁目にある松坂屋跡地と周辺エリアを一体的に整備する大規模な再開発プロジェクトで百貨店とは全く異なる複合施設が開発されたのです。地下6階、地上13階、 延べ床面積約15万平米の建物の中に、約240のショップが入り、オフィスとしての活用や観世流の能楽堂も併設されるようです。ちなみに、松坂屋と大丸を傘下に持つJ.フロントリテイリンググループ、森ビル、L Real Estate、住友商事の4社の共同出資により設立されたGINZA SIXリテールマネジメントが施設の計画・運営を行うそうです。

 

銀座五丁目交差点の南東角に「最後尾の看板」を持つ人を見かけました。案内にしたがい、みゆき通りへ左折して、新しい建物に沿うように100mほど進むと、建物の東端に別の「最後尾の看板」があり、建物にそって右折した先にも赤いテープスタンドに誘導される長い人の列がありました。正面に見えるのは観光バスの乗降所のようで、左手のエスカレーターを上がれば三原テラスを経てGSIXの2階入口へ行ける仕組みになっています。その左手は三原通りです。
 
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乗降所の先で人の列は建物により近い通路へUターンしているようです。
 
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GSIXの案内看板
 
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建物の中ほどまで戻ると、テープスタンドでもう一度Uターン。スターバックスの路面店の前で人の列の動きが停まりました。GSIXがオープンする午前10時30分まであと10分となったところでスターバックスの大きなガラスドアが開き、待っていた客が店内に案内されました。オープンする時間を10分始めたようで、人の列の方も動き始めました。

 

the HOUSE”の路面店(インショップ)も開店しています。同行者は目ざとく要潤(かなめじゅん)さんの名前を見つけて得意そう。帰宅後に調べると、”the HOUSE”はアスリートとスポーツ好きに向けたスポーツファッションを提供する店でした。
 
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GSIX
の中を通り抜けて中央通りに出られる銀座パサージュ(PUBLIC WALK)の前を通過し、交詢社(こうじゅんしゃ)通りの歩道からGSIXの下を通り抜ける区道(あずま通り)を往復し、元の歩道に戻って中央通りへ出ました。GSIXをほぼ一周する形で2つある正面エントランスの右側へ辿(たど)りつくことができたようです。
 
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正面のエスカレーターは、黒いテープスタンドで規制されているため、この日は利用できません。左手に進むのが順路のようです。
 
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左手のエスカレーターで上階に上がります。
 
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吹き抜けの高い天井から赤い水玉模様が描かれた風船がいくつも吊り下げられています。
 
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そのままエスカレーターで6階まで上がり、さらに専用エレベーターで最上階(13階)の上にある屋上に出ました。ちなみに、7階から12階まではオフィスエリアです。
 

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右手には植込みもあります。
 
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反対側(南西方向)を見ると、中央部には芝生のエリアと水が張られたエリアが対比するように配置されていますが、全体としてはシンメトリーのレイアウトになっていることが分かります。
 
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水が張られたエリアには手前から奥へ緩やかな流れがありました。
 
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中央通り側を見下ろすと、ユニクロ銀座店に動くマネキンがあることに気が付きました。以前は隣に手芸品の店「ユザワヤ」がありましたが、銀座五丁目のEXITMELSAに移り、今月下旬には中央通りの斜向かいにある「銀座コア」へ移転するようです。
 
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中央通りに合わせて北東方向を向くGSIXの西端に移動しました。銀座七丁目側にあるイタリアのファッションブランド企業”Salvatore Ferragamo“(サルヴァトーレ フェラガモ)の銀座本店が目の前に見えます。
 
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「とらや」と”GINZA GREEN”の先には東京タワーと愛宕山の高層ビル「愛宕グリーンヒルズMORIタワー」、その右手に「虎ノ門ヒルズ」も確認。
 
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左手には汐留のビル群
 
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南西側の植込み
 
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塔屋(とうや)の周囲には回廊(回廊)が巡らされているようです。
 
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(続く)

2017年4月20日 (木)

40年ぶりのミャンマー訪問(その22) マンダレー観光② マハムニ・パヤーの黄金大仏

国道1号からサガイン-マンダレー道路に入って北上し、マンダレーの市街地に入りました。市街地の南部に、次の目的地であるマハムニ・パヤーはあります。ヤンゴンに次ぐ第2の都市、マンダレー(人口約90万人、都市圏210万人)において最大で、最も重要な仏塔だそうです。仏塔の名前は本尊にあたる高さ約4mのマハムニ仏(金属製の仏陀座像)からきているとのこと。ちなみに、アマラブラから車で15分ほどの距離です。履物を脱いで西参道(ペデストリアン・パス)へ向かいました。
 
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マハムニ仏は創建者のボード―パヤー王(在位1782-1819年)の手によってヤカイン地方(注、ミャンマー南西部、ベンガル湾岸のエリア)から運ばれてきたとの伝承があるそうです。

 

西参道の両側には商店が並んでおり、これまでの寺院やパヤー(仏塔)とは異なり、お供え物とお土産以外に仏像や仏具なども売られています
 
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なかでも黄金の仏像がひときわ目を惹きました。寺院に寄進したり、自宅に祀ったりするために信者が仏像を購入するそうです。ちなみに、中身は白い大理石であるとのこと。
 
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参道の奥に設置された大きなビデオスクリーンには黄金の仏像が映し出され、信者が金箔を貼る様子がリアルタイムで見ることができます。
 
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参道を抜けると広い本堂に出ました。前方に黄金の仏像が現れました。その手前の参拝エリアには熱心に拝む信者の姿があります。注、写真撮影をする場合は撮影料を支払って、シールを上着の目立つ場所に貼る必要がある
 
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マハムニ仏の近くにも人の姿があります。金箔を貼りすぎたようで、仏像の表面がお釈迦様の頭にある螺髪(らほつ)のようになっています。
 
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左手にあるセキュリティ・ゲートは仏像に金箔を貼りたい人が仏像近くへ立ち入る入口です。ただし、女人禁制とのこと。
 
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左手に折れて時計回りに本堂内を巡ると、仏像の横顔を見ることができる場所に出ました。こちらからも金箔を貼る人を確認することができます。もともとヤカイン地方にあったとされる仏像らしく、インド風の顔立ちのように見えます。ちなみに、黄金で輝くマハムニ仏は、このパヤーに安置された当時、金箔は貼られておらず、青銅製のままであったとのこと。
 
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本堂の広い回廊にヨーロッパの雰囲気があるのは、1884年に発生した火事で焼けた建物を立て直す時に、イタリア人が協力してイタリア式のデザインとしたためです。
 
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本堂を出て、別棟に向かいました。人間やライオンなど6体のクメール様式の青銅像を収められたお堂です。3体が獅子で、2体がインドのシヴァ(ヒンズー教の神の意)で、一体は頭が三つついた象があるとのこと。ちなみに、下の写真はシヴァと象。
 
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そして、これが獅子像
 
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自分の具合が悪い部分と同じ場所をなでると体の調子が良くなるという言い伝えがあるとのこと。
 
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これらの像はいずれも12世紀にカンボジアで造られ、アンコールワットに置かれていましたが、1431年にタイ(アユタヤー)の軍が持ち帰り、さらに1564年にはアユタヤ―(関連ブログ: アユタヤーへの船旅アユタヤ遺跡)に攻め込んだモン族の王バイナウンの軍がバゴー(注、ミャンマー南部、ヤンゴンの東北にある町)へと奪い去った。1600年にはやカインヤカイン(注、ミャンマー南西部のベンガル湾岸の地域)のラザヂー王がバゴーを侵略してこの像を持ち去ったが、1784年にコンパウンド朝のボード―パヤー王(在位1782-1819年)が奪い返し、マハムニ・パヤーへ収めた経緯があるそうです。注、カンボジアのクメール王朝(9-15世紀)では土着の信仰とヒンズー教、仏教が混じり合った宗教が信仰されていた

その先にある巨大な鐘
 
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主塔の周りにはこのような小仏塔が80基もあるそうです。
 
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もと来た参道を戻ります。ちなみに、写真右側の窓口で金箔を購入できます。
 
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朝のフライトが約1時間遅れたため、午前中の観光はやや端折(はしょ)り気味になりました。マハムニ・パヤーの境内はこちらのビデオも参照してください。正午を過ぎ、昼食会場へ向かうタイミングで、投稿を小休止します。(続く)

2017年4月19日 (水)

40年ぶりのミャンマー訪問(その21) マンダレー観光① 「古都アマラブラ」(後編)

思ったよりも長い木製のウー・ベイン橋は長さが約1200mもあるそうです。ちなみに、以前、渡ったことがある静岡県島田市の大井川に架かる同じ木製の蓬莱橋(ほうらいばし)は長さが897.4mでギネスブックに登録されているそうですが、この橋の四分の三ほどの長さです。また、木津川流れ橋(八幡流れ橋)は長さ356.5m。
 
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タウンタマン湖のほとりにある純白のパトドーヂー・パヤー(仏塔、1820年バージードー王が建立)が湖面に映り、手前には漁や観光のためと思われる小舟が並んでいます。
 
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かなり大きな湖です。
 
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200mほどまで歩いたところに休憩所がありました。注、写真は反対側から振り返って撮影
 
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その前方には同じような光景が対岸まで続くようです。やや左手にはコンバウン朝のパガン王によって1847年に建てられたチャウトージー・パヤーがあるそうです。注、帰国後に確認すると、2つ上の写真(右半分)に小さく写っている
 

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右手には柵が巡(めぐ)らしてあり、その手前にある藁(わら)ぶき屋根の建物内には多数のイスが並んでいます。ひょっとしてレストランまたはカフェなのでしょうか。
 
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そして、畑の中には登呂遺跡のような竪穴式住居もあります。農作業小屋かもしれません。
 
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休憩所内では輪切りにしたスイカが売られています。
 
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こちらはコーン・アイスクリーム
 
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一休みしたところでガイドさんに促(うなが)されて、元来た道を引き返し、車を停めた寺院の参道入口に到着。
 
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境内にある連理の大木
 
 
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ちなみに、連理木(れんりぼく)は2本の樹木の枝あるいは1本の樹木の枝が癒着結合したもので、縁結び・夫婦和合などの象徴として信仰の対象となっています。当ブログではこれまで何度も紹介しています。

 

車中から見かけたパヤー(仏塔)
 
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ガイドさんから織物工房へ案内したいとの提案に無論異存はありません。路地に入った場所にある工房で他の観光客と一緒になりました。
 
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ミャンマーの伝統的な正装を示す写真
 
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男性は、ガウンバウン(帽子)を被り、上着は絹製のタイポン・エンジ―、下半身は絹製のロンジーを着用。一方、女性は美しい髪形を結い、上着との上にレースのベールを羽織るのが特徴です。そして、履物(かきもの)はもちろん草履(ぞうり)。
 
 

この水平織機(しょっき)は日本やベトナムとほとんど同じに見えます。
 
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竹製のペダルは3本
 
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緯糸(よこいと)を通すサスも同じです。
 
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経糸(たていと)を巻き取る木製のビーム
 
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色鮮やかな多数の緯糸を使って複雑な模様を描き出す織り方をするランジは完成まで約1か月もかかるそうです。
 
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波形(アチェイッ)はミャンマーで人気がある模様だそうです。
 
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次回はいよいよマンダレーの市街地に入ります。(続く)

2017年4月18日 (火)

40年ぶりのミャンマー訪問(その20) マンダレー観光① 「古都アマラブラ」(前編)

突然でしたが、国道1号をそれて、集落の中を抜ける田舎道に入りました。バガンのニャンウーよりもバスや車の通行量の多いようです。到着したのはマンダレーの南約11kmにあるエーヤワディー川とタウンタマン湖の挟まれた「古都アマラブラ」。パーリ語で「不死の町」を意味するそうです。

 

1783年、ミャンマー最後の王朝となったコンパウン王朝のボードーパヤー王の手によって下流のインワから遷都され、1823年にパージードー王によって都はインワへ戻されました。1841年にはターラーワディ王が再びアマラプラへ遷都しましたが、1857年にミンドン王がマンダレーへ遷都しました。その際、主要な建物もマンダレーに運ばれたため、かつての都をしのばせるものはほとんどないそうです。注、日本でも飛鳥時代と奈良時代には、平均すると約10年ごとに遷都が行われ、それぞれ6か所、計12か所(ただし前期・後期難波宮だけは同じ場所)に都が置かれた。(当ブログ記事「平城京(後編)」を参照)

 

まず、訪れたのはミャンマー最大級で最高位の僧院のひとつ「マハーガンダーヨン僧院」(写真左手)。全国から集まった約1500人の僧侶が修行生活を送っている場所です。
 
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塀越しに、立ったまま談笑する何人もの僧侶の姿が見えます。広い部屋に多数のテーブルが並んでいますから、僧院の食堂と思われます。
 
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来し方を振り返ると人気のない道が確認できます。時計は午前11時15分を指していますが、早朝にはこの道で托鉢(たくはつ)をする僧侶たちの列も見られるそうです。
 
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僧院構内の地図には100以上の建物が表示されています。現在地は右下の入口付近。
 
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ガイドさんは入場する許可を得てくれました。ご飯を作る深絞りの大釜が積まれています。午前10時15分ころから1500人の僧侶が列をなして食事(昼食)を受け取り、大きなホールでいっせいに食事する行事は終わっていました。電光掲示板に書かれているのはこの日の食事を寄進した人の名前だそうです。なお、朝食としては早朝に軽いものを食べるそうですから、一日二食なのです。
 
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この僧院では僧侶の数が多いため、寄進された金品を使って、僧院内で食事の準備をするそうです。つまり、全員が外に出るのではなく、大半の僧侶は僧院内で托鉢を行っているのです。
 
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幼い僧侶見習いたちは托鉢の鉢を持っています。
 
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奉仕のためにこの僧院を訪れた信者(ボランティア)の集会所でしょう。全国からの希望者が多いため、1年前からボランティア活動への参加を申し込むのだそうです。
 
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装飾画施された純白の建物は創立者である高僧の住居跡と思われます。ちなみに、この僧院はイギリス統治下の1914年に創立されました。
 
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新しい建物も
 
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選択した僧衣が干されています。ミャンマーでは赤黒い色(あるいは海老茶色)が僧侶用、ピンク色が尼僧用です。ちなみに、僧衣はロンジーのような下半身用と袈裟として着用する上半身用(2x3mの四角い布)で構成されているそうです。
 
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駐車場にある見事な菩提樹の大木
 
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車で屋根付参道がある寺院の駐車場へ移動
 
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両側に衣料品などを売る店舗と露店が並ぶ道を歩きます。
 
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アマラプラは織物産業が盛んなことを示しているようです。
 
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ウー・ベイン橋の袂(たもと)に出ました。160年近く前、大地震により甚大な被害を受けたインワからアマラブラへ遷都された時の市長にあたるウー・ベイン(ベイン氏)がインワの旧王宮からチーク材を運び、アマラプラの東に広がるタウンタマン湖を渡るために架けた木製の橋です。注、インワは1364年からシャン族の都となり、後にビルマ族王朝の都となって約400年間栄えた
 
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昨年、洪水で破損したため、改修されたことが写真で説明されています。
 
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橋の上にも露店が出ています。
 
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1086本ある橋桁にはビルマ数字で番号が振られています。そうでした。几帳面(きちょうめん)なミャンマー人は番号を振るのが大好きなのです。
 
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(続く)

2017年4月17日 (月)

40年ぶりのミャンマー訪問(その19) バガン・ニャンウー空港からマンダレーへ

午前9時15分ころ、突然のアナウンスで港内バスに乗り、機体があるエプロンへ向かいました。昨日の朝、ヤンゴンから利用した飛行機とは機体番号が違いますが、同じAIR KBZの同型プロペラ機と思われます。ガイドさんが私の荷物を持ってくれています。
 
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機体の前方にあるハッチドアが開けられて荷物が搬入中
 
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先行するミャンマー・ナショナル・エアウェイズのプロペラ旅客機がエプロンから滑走路へ向かっています。
 
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機内は乗客がまばら
 
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マンダレー行きK7 262便は1時間5分遅れでエプロンから滑走路の南端に移動して一時停止
 
 
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発進と同時に急加速した機体は、プロペラ機らしく軽快に上昇を始めました。ただちに雲の中に入り、2-3分で雲の上に出ました。マンダレーは、バガンの北東約120km、エーヤーワデイ川沿いにあります。
  
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雲のため地上は良く見えません。K7 262便は20分ほど飛行したあと、高度を下げ始めました。眼下には高速道路のようなよく整備された道路が見えます。ヤンゴン/ネーピードー(首都)/マンダレーを南北に結ぶ国道1号線かも知れません。
 
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マンダレー空港に着陸。ヤンゴン空港と同様、滑走路(長さ4267m)に平行する誘導路がありました。
 
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現代的なデザインのターミナルビルは現代的なデザインの建物です。
 
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その脇にある管制塔
 
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エプロンから港内バスで移動してターミナルビルの到着エリアに入りました。ヤンゴン行きとなる飛行機への搭乗を待つ人たちがターミナルビルで待機していました。乗客が少なかったのは、バガンとマンダレー間は、飛行機や団体用観光バスのほかにも、長距離バス、急行列車、エーヤワディ川を航行するフェリーがあるためだったようです。到着エリアに入ると、国際線()と国内線()の間は仕切りテープスタンドがあるだけです。国際線の便数が少ないからでしょうか。
 
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ターミナルビルを出ると、シンプルなデザインに見えた建物にはミャンマー風の装飾がある塔がアクセントとなっています。団体客と一緒に車寄せから少し離れた駐車場へ向けて歩きました。
 
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マンダレー市街地内にあった旧空港を廃止して、2000年にマンダレーの南西約40kmの場所に開港した国際空港です。ちなみに、この空港の建設はタイの大手ゼネコンが施工。ターミナルビルと滑走路などの運営・維持管理業務(航空管制など一部業務を除く)については、日本企業とミャンマー企業で設立した空港運営事業会社がミャンマー航空局と2014年11月に事業権譲渡契約を締結。2015年4月に運営を開始し、開港して15年が経過したターミナルビルなどの改修工事が行われたそうです。
 

ターミナルビルの駐車場を出て一直線の道路を北上しました。 願いが叶ったようで、前日のバガンとは打って変わり好天です。
 
 
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6kmほど先で国道1号線に入りました。路傍の標識はヤンゴンからの距離(マイル)を示しているそうです。

 
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国道1号線はコンクリート舗装された片側3車線の立派な高速道路
 
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と思っていると、片側2車線に変わりました。
 
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牛の大行列と遭遇、その脇をバイクを改造したと思われるオート三輪の乗合バスが通過してゆきます。
 
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小型トラックを利用したトラックバス(ピックアップ)が前方を走っています。後で知ることになりますが、寺院へ参拝に出かける人たちのようです。
 
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前方からジーゼル機関車が現れました。
 
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何両もの客車を牽引していますから、マンダレーからヤンゴンへ向かうミャンマー国鉄の列車でしょう。1日3本運行されているそうです。
 
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ちなみに、ミャンマーでは日本の技術協力でヤンゴン地区の環状線と臨港線が電化され、その一部でJR九州の103系電車(軌間・電圧を改造)や広島電鉄の路面電車などが使われているとのこと。(続く)

2017年4月16日 (日)

40年ぶりのミャンマー訪問(その18) ホテルからバガン・ニャンウー空港へ

午前5時少し前に起床。しばらくすると、外で何人もの人が歩く気配があります。庭園内の歩道をたどってエントランスホールへ向かうと、フライイング・バルーン(熱気球)観光に出かける団体でした。霧が立ち込めている午前5時20分ころ、20名ほどのグループは2台のマイクロバスに分乗して出掛けて行きました。

 

軽くシャワーを浴びてから、午前6時にオープンするカフェテリアへ向かいました。仕切りのない庭園の濃い霧と鴨居に描かれた仏経画と思われる装飾が雰囲気を出しています。
 
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左手に並ぶ料理
 
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私のプレートに盛られた朝食メニューは軽めです。
 
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同行者の選択はと見れば、さらに控えめ
 
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外がかなり明るくなってきました。
 
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最初のプレートをほぼ食べ終えたころ、オムレツ・コーナーでプロパンガスの接続に手間取っていたコックさんが調理を始めました。やはりオムレツの誘惑には逆らえませんから、いつもとほぼ同じ具材を入れてもらい、しかり食べてしまいました。
 
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カフェテリアを出る時、入口脇にビルマの竪琴が飾られていることに気づきました。前日にホテルのエントランスホールで見たものとは異なり、ブチャトリウム・ホテル・ロイヤル・レイク・ヤンゴンにあったものと同様、調律用ペグが付いた新しいタイプです。ちなみに、ビルマの竪琴の正式名称(現地名)は曲がった琴を意味するサウン・ガウ(saung-gauk、サウン・ガッとも表記)。
 
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その隣にはワーパタラ(竹製の木琴)
 
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その上には操り人形
 
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自室へ戻る途中に見かけたヒンズー風の色っぽい雰囲気がある像
 
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建物内のホールにあった木製の装飾彫刻
 
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荷物を確認して、午前7時少し前にフロントがあるエントランスホールへ向かいました。
 
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エントランスホールに置かれた藤製のテーブルとイスにはミャンマー女性が描かれた砂絵が置かれています。
 
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すでに到着していたガイドさんによると、その日のフライイング・バルーンはキャンセルされた(中止になった)とのこと。ミャンマー旅行を計画する時に有力候補として考えたプランの一つでしたが・・・。

 

午前7時少し前にホテルをチェックアウトして空港へ向けて出発しました。アノーヤター通りに入り、緩やかな下り坂になったところで、ガイドさんから托鉢(たくはつ)に出かける僧の列が道路の反対側にあると教えられました。そして、撮影するため道路脇に車を停めてくれました。
 
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僧侶は托鉢する時も素足であり、
 
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思ったよりも大人数です。
 
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早朝で道路が空いていたため、15分ほどでバガン・ニャンウー空港に到着。ガイドさんによると、ヤンゴンからの便が霧で遅れているため、マンダレー行きの出発も遅れることになるそうです。
 
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2時間近くが経過した午前9時過ぎにヤンゴンからの便が到着。アナウンスによりターミナルビルの待合室から搭乗待合室へ移動し、そこで出発を待つことになりました。(続く)

2017年4月15日 (土)

40年ぶりのミャンマー訪問(その17) 「ナンダ・レストラン」で中華料理と人形劇を楽しむ

午後5時30分ころ、シュエサンドー・パヤーを出発し、アノーヤター通りからメイン通りに入って、ニャンウー村の西端にあるナンダ・レストランに約10分で到着。シュエズィーゴン・パヤーの近くです。午後6時に予約されている夕食(中華料理))を食べながら、午後6時30分から店内のステージで行なわれる伝統芸能・操り人形劇(パペット)のショーを鑑賞することになっています。注、ナンダ(難陀)とは釈迦の異母弟の孫陀羅(そんだら)難陀、または釈迦の弟子である牧牛(ぼくご)難陀を意味する
 
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門は寺院跡のアーチを利用しているようです。
 
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右手には、入り口近くに舞台がある、開放的なテーブル席が並んでいました。午後6時まで15分ほどありますが、テーブル・セッティングは終わっています。
 
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店の奥にも舞台付のやや狭いテーブル席があり、操り人形が飾られていました。
 
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10分前には、舞台の右手最前列、楽団ブース前のテーブル席へ案内されました。プラスチック製の屋根板の端から空が覗いていますから、夜風が通り抜けるかもしれません。
 
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ビールには選択の余地が少なく、今回もミャンマー・ビール(缶)になりました。
 

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同行者はライム・ジュースを選びました。その隣の小皿に盛られたパパラは人気の揚げ煎餅とのこと。軽い塩味はおつまみにも向いています。
 
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中華料理は、唐揚げ、牛肉の炒め物、空芯菜(くうしんさい)の炒め物など。料理のボリュームを考えてライスは辞退しました。
 
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野菜スープ
 
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ミャンマーの伝統楽器が並んでいます。向かって左から、真ちゅう製のゴングであるチェイナウン、縦笛(たてぶえ)のパエ、そしてシュエズィーゴォン・パヤーで見かけた打楽器のドーバッ。正装をしている演奏者が頭に被っているものはビルマ帽子(ガウンバウン、英語:Turban)で、上着はタイポン・エンジ―と呼ばれるそうです。写真では見えない下半身にはもちろんロンジーを着用しています。
 
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冒頭、お釈迦さまに祈る人たちが登場
 
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操り人形を操作する演者をみせるために緞帳(どんちょう)が上まで上げられました。天井部がアーチになっていますから、舞台も寺院跡を利用していると思われます。こちらの2つ(操り人形-1同-2)をクリックするとバックに流れる音楽を聞くことができます。
 
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別の人形が登場
 
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屋外のシーンに変わると白馬が登場しました。お釈迦様の愛馬なのでしょうか。
 
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皿に載せられたバナナがフランベされました。演出効果と香りづけのためでしょう。
 
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突然の雷鳴とともに土砂降りの雨がプラスチック製の天井を叩(たた)きました。インドネシア・ジョクジャカルタのプラウィサタ劇場でラーマーヤナバレエを鑑賞したときと同じです。
 
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もちろん、雨の影響を受けることはなく、操り人形劇は進行します。
 
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緞帳が再び上がってフィナーレのようです。
 
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演者はテーブル席に座る観客を周って、一緒に記念撮影をサービスするようです。しかし、突然の雨に驚いて引き上げた客がかなりいたようで、後方では空席が目立ちました。
 
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インドネシアのガムラン演奏とベトナム・ハノイの水上人形劇をミックスしたようなパペットで、その上演時間は約45分。鮮やかな衣装に身を包んだ人形たちがこの舞台で繰り広げるのは、ミャンマーの民話や伝説、仏教寓話(ぐうわ)などだそうですが、この日の出し物はお釈迦さまにまつわる話と思われます。ベトナムの「水上人形劇」のような規模と豪華さはありませんが、間近で見る人や馬の人形がアクロバティックな動きには見応えが十分ありました。

 

雨が小降りになった午後7時10分、ホテルへ向けて出発。ガイドさんと一緒に乗る専用車はあちこちに水たまりができた真っ暗な道を走ってホテルには午後7時30分少し前に到着。あとで地図を確認すると、メイン通りからエーヤワディー川沿いの脇道に入った最短ルートを通ってホテルの前に出たようです。WiFiで着信メールをチェックして、午後9時に就寝。(続く)

2017年4月14日 (金)

40年ぶりのミャンマー訪問(その16) オールドバガンの寺院群③ シュエサンドー・パヤー

アノーヤター通りを戻って(西進して)夕日が美しいと評判のシュエサンドー・パヤーへ向かいました。初代王アノーヤターがタトォン国を征服した後、ただちに建てられた仏塔のひとつで、タビィニュ寺院の南(城壁の外)にあります。バガン黄金期のなかでは初期にあたる1057年の建立。5層のテラスと2層の八角形をした台座の上に塔がそびえるユニークな構造をしています。ちなみに、シュエは金、サンドーは聖髪を意味し、この仏塔の中にはタトォン国(ミャンマー南部にあったモン族の国)が所有していた釈迦の遺髪が安置さられているそうです。午後5時10分ころに到着しましたから、日が沈むまでまだ1時間近くあるはずです。
 
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境内に入って見上げると、高いテラスに人の姿を確認できました。
 
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四方に設けられた急な階段はメキシコにある世界遺産、チェチェン・イツァ遺跡のピラミッドを思い出させます。ガイドさんを見習って北側の階段を上がりました。
 
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3層目のテラスです。ここから上部は煉瓦(れんが)の上に漆喰(しっくい)が塗られています。
 
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4層目のテラスに到着すると、一番上(5層目)のテラスは修復工事中で立ち入り禁止になっていました。
 
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階段を上から見下ろすと、下から見上げた時よりも急峻に感じられます。
 
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視線を上げるとやや西寄りの北方向、アノーヤター通りからシュエサンドー・パヤーへ入る未舗装の道の先には先ほど訪れたばかりのタビィニュ寺院が
 
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その少し右(北方向)には同じくアーナンダ寺院が
 
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左手へ視線を移すと、境内の入口付近と境内内で椰子の実を売る店を見渡すことができます。またそれらの先、仏塔や寺院が林立するやや北よりの西方に一つだけ外観が異なる建物があることが気になりました。
 
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その建物方向をズームアップすると、城壁の西端近くにある考古学博物館でした。バガンの寺院などから発掘された品々と、王宮や各遺跡の模型、古代文字の情報などが展示されているそうです。
 
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西側には小さな寺院が並び、境内への入口付近にはテント張りの飲食店も。山並みは薄っすらと見えますが、厚い雲が垂れ込めていて、夕日を見ることは絶望的のようです。オールドバガン南西端、エーヤワディー川沿いにあり、竹の骨組みに覆われている仏塔はミンガラー・ゼディ・パヤーでしょう。1284年にナラティハパテェ王によって建立された約10年後にはモンゴル軍の侵略が始まったため、バガン王朝最後の仏塔となったそうです。
 
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人で混み合う4層目のテラスを一周することにしました。写真は3層目のテラスと西側の階段。
 
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南の階段越し(東方向にひときわ大きな仏塔がありますが、方向とその特徴ある外観から見てダマヤンヂー寺院と思われます。
 
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父のアラウンスィードゥー王と兄の皇子を暗殺して王位に就いた第5代王ナラトゥは、罪の意識にさいなまれ、罪滅ぼしのためにそれまでで最大といわれる寺院を建て始めましたが、自身も何者かによって暗殺されてしまい、未完成のまま現在に至っているそうです。

 

東階段の前にある仏塔とアーナンダ寺院(左遠方)
 
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その仏塔の前にある赤と白の派手な日除けテントが気になって調べると、”KENBO”はミャンマーで人気がある中国製のバイクを販売する会社でした。

 

塔の先には観光用の馬車が走っており、さらに遠方にはピラミッドのような形をした改修中のスラマニ寺院(右寄)と地平線近く(ミン・ナン・トゥ村)には鉛筆のように細長いバガン・ビューイング・タワー(中央)が小さく見えます。バガン空港へ着陸する直前にその遠景を見ています。
 
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東側のテラスから北側のテラスに出るコーナーでは雨や日光による漆喰の風化が斑模様(まだらもよう)を描いています。
 
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煉瓦が剥(む)き出しになっている部分も
 
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見上げた改修中の塔
 
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夕日を鑑賞することは断念することにして、北の階段を下りると、階段脇で砂絵が売られていることに気づきました。
 
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夕日鑑賞は残念ながらできませんでしたが、バガン平野に現存する遺跡群を展望できたことは大きな収穫でした。観光客が多い理由を分かった気がします。マンダレーでの夕日鑑賞に期待しました。(続く)

2017年4月12日 (水)

中西輝政著『日本人として知っておきたい「世界激変」の行方』を読む

世界情勢が激動・激変し始めるとの認識について、-4か月前の当ブログの記事「日本が壊れて行く: 世界情勢の流動化と日本経済の先行き」と「汎アメリカ主義が復活する?」で触れて、EUからの離脱の可否を問うイギリスの国民投票において離脱が僅差で決まったこと、アメリカの大統領選挙で大方の予想に反して実業家のトランプ氏が大統領に選ばれたこと、中国を取り巻く地政学的・経済的なリスクが継続していること、そして韓国では政治的な大混乱(大統領の失職)が生じたことの4つを挙げました。最近になってその具体的な影響が連日のように報道されています。

 

世界情勢の動向についての理解をさらに深められる書籍を探したところ、PHP新書の最新刊『日本人として知っておきたい「世界激変」の行方』(中西輝政著、2017年1月)を見つけましたので、その要旨とポイントを紹介します。ちなみに、当ブログ記事「ビジョナリーカンパニー3 衰退の五段階」で京都大学名誉教授中西輝政氏の著作「なぜ国家は衰亡するのか」(1998年)を紹介しています。
 

                            ☆

 

本書のカバー裏書には、『<内容紹介> トランプ大統領の誕生と「孤立主義化」するアメリカ。覇権主義的動きを強めるロシアのプーチンと中国の習近平。激震のEU。「地獄のオセロゲーム」と化すアジア・・・。すべての構図は「グローバリズムの終焉」とそれに伴う「アンチ・グローバリズム」「オールド・グローバリズム」「ネオ・グローバリズム」という三勢力の相克から読み解ける。いま直面する「危機」を考えるとき、もはや日本は「普遍的価値」も捨てるときは捨て、自らの生存を最優先に考えねばならぬ――現在の世界を動かす大きな流れを読み抜き、日本人の覚悟を問う、刮目(かつもく)の書。』 と書かれています。

 

<要旨> 章ごとにキーワードとその説明を箇条書き風に列記します。注、かなり長くなってしまいましたから、興味を持たれた部分だけを拾い読みされることをお勧めします。

 

第一章 トランプのアメリカで世界に何が起きるか
 

●グローバリズムの終焉(しゅうえん)にともない、それがオールド(旧)とネオ(終末期の堕落形態)の2つに分裂し、アンチ(反)・グローバリズムの三者が「三すくみ状態」)になった状況が、トランプ大統領を生んだ

●アメリカが、建国以来の理想を捨て、「普通の国」としてひたすら国益を追求するトランプ

●トランプはポピュリストではなく、稀代(きだい)の戦略家であり、究極の現実守護者・ニヒリスト

●したがって、旧来の観念的な「普遍的価値」はもはや決定的に時代遅れ

●日本と日本人にとって最も重要な目標は「自立」の二文字

 

第二章 日露“北方領土”交渉と売国の危機
 

●日露交渉の「夢」と「悪夢」

●狂騒的な日露接近の契機となった「八項目の提案」

●北方領土問題の「理」は明らかに日本にある

●「サンフランシスコ平和条約で放棄」説は明確に誤り

●「二島返還」であれば、いつでも誰でも妥協できた

●「新しいアプローチ」の正体は日本の最も大切な立脚点を自ら放棄する交渉アプローチ

●日露接近では中国を牽制(けんせい)できない

 

第三章 介入か孤立か――パックス・アメリカーナの行方
 

●アメリカにとっての「理念」と「国益」は周期的に振れ幅が大きい

●積極的な外交政策である「対外不介入主義」と消極的な政策の「孤立主義」とは異なる

●初代大統領ジョージ・ワシントンが掲げた理念は民主主義を守るための「対外不介入主義」

●アメリカは「孤立主義」だけで生きていける国

●地球上でわれわれだけが普遍的な価値を守れるという殺し文句(理想主義のレトリック)で湾岸戦争に踏み切ったが、中東介入が挫折したことで民主主義が裏切られて「帝国への道」となった

●つまり、「アメリカの理念」はどちら向きにもなる

●パックス・アメリカーナ(アメリカの平和、冷戦後の世界に君臨)の三つの指標は「アメリカ経済の力強い回復」「テロとの戦い」「南シナ海に大きく膨張し続ける中国への対応(アメリカの掲げる航行の自由を守る戦略)」

●「米軍の抑止力」の本質は相手国とのあいだで武力衝突が起きないようにすることだけが目的であり、いったん衝突が起こればそこから先は別の段階(シナリオ)になるとする考え方

●第二次大戦後の世界秩序の崩壊: 中国の南シナ海域領有(軍事拠点化)、ロシアによるクリミア占領、北朝鮮の核武装化

●冷戦時代にソ連の封じ込め戦略を立案したジョージ・ケナンの慧眼(けいがん): ソ連の崩壊後、アメリカは、国力に余裕のあるうちに、常識的で持続可能な外交戦略に転換すべきと主張

 

第四章 「グローバリズムの限界」に直面し流動化する世界
 

EU(欧州連合)からの離脱を決めたイギリスは世界の激動の先導役となり、パックス・ブリタニカ(イギリスの平和、つまり世界の経済・政治秩序)が復活する

●グローバル経済の限界に気づきだした金融界

●民主主義の「敵」としてのグローバリズムがイギリスのEU離脱とギリシャの債務危機における国民投票を通して明らかになった

●アングロサクソンの覇権(はけん)を取り戻すための「嘘」がドルを基軸通貨とする金融グローバリズムである

●ソ連崩壊後の世界で、共産主義や全体主義、アジアの封建主義などを一掃し、「自由」「人権」「法の支配」といった普遍的価値観を再確立するシナリオが、湾岸戦争やイラク戦争、アフガン戦争などでイスラムをひどく圧迫したことで綻(ほころ)びが見え、世界が大きく乱れだした

●歴史を転換させた1979年の五つの出来事: イランのホメイニ革命、ソ連のアフガニスタン侵攻、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世の母国ポーランド訪問、中国で鄧小平によって始められたる経済改革、サッチャー政権の成立(翌年はサッチャリズムに倣ったレーガノミクスも)

EUはアメリカが冷戦を戦うための「入れ物」(ヨーロッパのアングロサクソン化)だった、ASEAN(東南アジア諸国連合)、日米安保、NATO(北大西洋条約機構)なども同じである

●原理主義化した「グローバリズム」がもたらした破壊と混迷

●東西ドイツの統一(1990年)によって強大になったドイツを羽交(はが)い絞めに(つまり監視)するための逆張りがEUである

●サッチャーが直面した矛盾(ヨーロッパ統合への反対、貿易障害のない単一市場の利点、スコットランドの独立運動)は自身の失脚(1990年)につながった

●しかし、イギリスにはいわれるほどの「EU依存」はない: ヨーロッパで繁栄しているのはドイツとイギリスだけ

●「アメリカを動かせるイギリス」は安定の要: EUに加盟する東ヨーロッパはドイツ経済圏、西ヨーロッパにとって安全保障上の最大の脅威はイスラムテロとロシアの存在

●ドイツはロシアとの「相互理解」に向かう

●英米の「血の同盟」から見た世界: NATO、金融資本、グローバルな監視機構(インテリジェンス)

●ヨーロッパが再び「動乱の巷(ちまt)」と化す日: ドイツと東ヨーロッパ各国のロシア接近

EUの立ち枯れと形骸化(けいがいか)の動向は不可避

 

第五章 「地獄のオセロゲーム」化するアジア
 

●中露は相互の「核心的利益」を死守すべく結束した

●日米を引き離し、アメリカをアジアから追い出す

THAAD(高高度ミサイル防衛体制)ミサイル配備をめぐる中露と米韓の対立

●2016年6月、日本の海上自衛隊およびアメリカ海軍とともに海上共同訓練を行ったインドが上海協力機構に正式加盟する見通しとなったことは国際政治の常道である(不可思議ではない)

●国益のため日中を「秤(はかり)にかける」アジア諸国とアメリカの中国を見る「複雑な視線」

●日本の高度経済成長時代に唱えられた「雁行(がんこう)的発展モデル」は「鳶(わし)」の登場で四散する: 例、日本の後を追って経済成長を遂げようとしたASEANを中国が攪乱(かくらん)、南シナ海問題における対中包囲網の形勢が逆転して逆包囲網化

●日中に「両張り」するアメリカ: 政策決定に大きな影響力を持つのは国防総省(ペンタゴン)や国務省ではなく究極の国益であるドル基軸通貨体制の維持を主導する金融業界である

●ロシアとドイツが接近する悪夢はヨーロッパだけではなく、中露同盟とともに、歴史的(注参照)にも地政学的にも、悪夢の再来が濃厚になる恐れがある。注、ソ連のスターリンとドイツのヒットラーが電撃的に締結した独ソ不可侵条約

●中国とドイツが手を携える恐怖: 例、AIIB(アジアインフラア投資銀行)、一帯一路構想(21世紀の陸海シルクロード)、戦前ドイツが行った中華民国への人的・武器支援、中国市場におけるドイツ車フォルクスワーゲンの圧倒的な覇権

●イギリスがEUから離脱するとヨーロッパの最新軍事技術がフランスなどから中国に流れる危険性が高まる

●イギリスは今後、親中に動くかは不透明: 習近平主席の訪英(2015年)、中国の融資で中国メーカーによる原子力発電所の建設計画

●「中露独の三国同盟」に日米同盟は対抗できるか: 日本が清と結んだ下関条約(遼東半島の割譲)に対する「三国干渉」(1895年)はドイツが陰で中露双方を操って対日恫喝(どうかつ)の行動に出させたことを思い起こされる 注、三国目のフランスは孤立を恐れて参加した

 

第六章 これから十年、日本はどうすべきか
 

●国際社会のなかで生き残るためには、「早く見つけ」、「ゆっくり行動し」、「粘り強く主張し」、「潔く譲歩すること」が肝要である

●アメリカの方向性を決めているのは誰か: 国防総省でも国務省でもなく、ドライなニューヨークの現実主義であり、その代表的なのがウォール街やメディアである

●CFR(外交問題評議会)の対中戦略が親中から中国批判に変わってきた

●ヨーロッパのかつてない「極右化」を理解するにはそれぞれの国の「空気を読む」ことが不可欠

●中国共産党が経済危機を乗り越えた先の未来: 中国経済の落ち込みも2030年までには回復すると考えられ、同時に国防予算でアメリカを上回る、さらに2030年代にはGDPでも追い越す可能性がある

●日本は幕末の長岡藩が「重武装の局外中立」という路線を選択して失敗したことに学べ: 自力をつけることは大事だが、大勢(たいせい)を見て行動をすることも大事である 注、重装備とは英国製大砲などの最新兵器、局外中立は独立独行の姿勢

●「大きな底流」を見つけるための2つのシナリオを考察: アメリカが中国になびくシナリオではこの二国についていく、あるいはアメリカが中国との妥協に走り始めればもっと先を走る(いずれもリスクは高いが)

●大事なのはアメリカに「位負け」しないこと: 観念論ではなくプラグマティズム(実用主義)で国益を守ることは、「新しいパートナを増やす」「新しい時期がきたと肯定的に捉えて自立を目指す」、「このため大事なときだけアメリカの力を利用する」ことがひつようであるが、アメリカを利用するにはイギリスのように「位負け」しない外交が不可欠

●いまこそ突き抜けた歴史的思考を持て: 日本の針路をめぐる戦いの最大の激戦場は「戦後」への終着と「冷戦後」に固執する勢力が根強い「国内」であり、いかにそれらを正すかが肝要である。ちなみに判断を間違わせる大きな要因は、「新しい見方に惹(ひ)かれること(古い考えと決めつけること)」、「多くの人がそういっていることを根拠にすること」、「わが国に都合が悪いことは口にするなという集団主義的やタブー間隔に発する自己規制」など
 
                             ☆
 
 

<読後感> 「なぜ国家は衰亡するのか」の著者らしく、大局的(巨視的)な視点からの分析により「世界激変の行方」を大胆に分析して、その中で日本はどう対処すべきかを明快に提言する良書である。なかでも、パックス・アメリカーナとパックス・ブリタニカを歴史的視点から詳しく解説し、EUが設立された背景と冷戦が終了したあとの戦略におけるアメリカの失敗、EUの起源や意義、中露と独の関係(各国のパワーバランス)など学ぶことが多い。
 
世界に拡散した経済のグローバル化と民主主義が相容れなくなった事例として、イギリスのEU離脱(自国の独立性を選択)とギリシャのEU残留(EUの恩恵を受けるために自国の緊縮財政や行政サービスの削減などを受け入れた)を挙げて詳しく説明し、グローバルな自由経済主義がもはや限界に直面していることを容易に理解させてくれた。
 
<あとがきにかえて>崩れゆる世界秩序の項においては、いま世界はむしろ「よい方向に向かって動いている」のであると筆者が強調したことが印象的であり、次作においてはその先にある「もう少し素晴らしい新世界」について論じたいと思っていると締めくくったことは大いに期待が持てる。

2017年4月 9日 (日)

40年ぶりのミャンマー訪問(その15) オールドバガンの寺院群② アーナンダ寺院(後編)

外側の回廊越しに見た明り取りの窓
 
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3番目の過去四仏である東回廊の拘那含牟尼(Konagamana、くなごんぶつに)も復元されたものです。
 
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ここにも不思議な電飾があります。
 
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壁の仏龕に納められたレリーフは釈迦にまつわる話を表現しているようです。
 
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それを真剣に撮影する観光客の横で同じものを見上げる同行者
 

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回廊の天井が高くなった場所にはチーク材で造られた大きな扉が
 
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竹を使って複雑に組まれた足場に遮(さえぎ)られて4番目の過去四仏である北回廊の拘楼孫仏(Kakusandha、くるそんぶつ)を見ることはできません。進入禁止の警告とともにASIArchaeological Survey of India、インド考古学調査)の張り紙に気づきました。ガイドさんが回廊を反時計廻りに巡った理由はこの拘楼孫仏を最後にするためでしょう。
 
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回廊はまだ続きます。天井に描かれた絵が少し見えています。
 
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出家を決断した釈迦が、深夜 馬に乗って王宮を出ようとするシーンで、信者たちが馬の足首を持つことにより、蹄(ひづめ)の音を消している様子を描写したものです。つまり、釈迦の行動が釈迦の家族や臣下に気づかれないよう手助けしているのです。
 
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最初の場所(西回廊)に戻った同行者は、ガイドさんに勧められて、金箔を貼ってみることになりました。売り子の女性から購入した金箔は薄くて破れやすいため、表紙だけを剥がして裏紙と一緒に貼りつけるのがコツだそうです。同行者は漆器店で購入したブレスレット(バングル)を腕にはめています。
 
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アーナンダ寺院は私がミャンマーを始めて訪れた1975年の地震によって塔の先端部分が折れるなどの大きな被害を受けたことを記録する写真
 
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西の参道に設けられた出入り口から境内の南西エリアに出ました。
 
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やや褐色がかった白い外壁の本堂は確かに美しいのですが、あちこちに竹の足場が組まれているのは残念です。本堂の下部(明り取りの窓の下)には門時代のものとされる多数の浮き彫り(レリーフ)が飾られていました。
 
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さらに南東方向へ移動して見た本堂と南回廊
 
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境内の南西角にある人工池で逆さ寺院が見られるそうです。
 
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ベストポジションから本堂と塔を撮影しました。この日は弱い風があるため水面がなかなか静止してくれません。
 
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午後5時を過ぎました。いよいよ夕日を鑑賞する場所へ向かいますが、ここで投稿に2度目の小休止を入れます。(続く)

2017年4月 8日 (土)

40年ぶりのミャンマー訪問(その14)  オールドバガンの寺院群② アーナンダ寺院(前編)

次に向かったのは、タビィニュ寺院の東方約600m(城壁跡の外側)にある、バガン最大の見どころともいわれる「アーナンダ寺院」。アノーヤター通りを東進し、未舗装の道に入り、5分ほどで到着。1090年、チャンスィッター王が建立されたバランスがとれた美しい寺院です。黄金に輝く塔(高さ50m)を中心、四方に延びる約34mの参道となる長い建物の先に立つ高さ約9.5mの過去四仏(注、シュエズィーゴン・パヤーの記事を参照)が祀られているそうです。ちなみに、アーナンダ(阿難陀)は釈迦の十大弟子のひとりとされる人物の名前。

 

塔には足場が組まれていてよくは見えませんが。くすんだ白色の本堂は一辺が63mの正方形で、4つの入口がありますが、西参道の入口近くで車を降りました。小型トラックにベンチを付けた相乗りタクシー(右端)やバイクが雑然と停められている脇を抜けて西参道の入口へ向かいました。残念ながらアーナンダ寺院では大規模な工事が行われているようです。
 
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これが西参道の入口のようです。敷地のすぐ外側には参拝客に10枚ほどがセットになった絵葉書を売る女性たちが2人並んでいました。
 
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草履を脱いだ同行者はガイドさんにしたがって入って行きます。
 
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屋根の装飾部分を中心に改修しているようです。
 
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参道の両側にはおびただしい量の商品が並べられています。前方から子供の僧が歩いてきました。
 
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上半分に壁画が描かれた西参道の先は急に広くなり、過去仏のひとつである釈迦牟尼(しゃかむに、Gotama Siddhartha)が前方に現れました。お顔は尖塔アーチに隠れてまだ見えません。釈迦牟尼は仏教の開祖釈迦を仏として敬う名前です。注、釈迦は族の名前で本名はゴータマ・スィッダッタ、牟尼は聖者あるいは修行に励んでいる人を意味する ちなみに、南と北の2体が11世紀の創建当時のまま。残りの2体は火事で焼けてしまい、14-15世紀に造り直されたものとのこと。
 
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ほぼ全身が見える釈迦牟尼の前には大きな賽銭(さいせん)箱が置かれています。日本の初詣(はつもうで)時に仮設置されるもののように賽銭(紙幣)が剥(む)き出しになっています。ちなみに、両側に立つのは悪意のある人から仏を守護する守門神。後で調べると、賽銭の下には釈迦の足跡を石に刻んだ仏足石(ぶっそくせき)があったようです。
 
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アーナンダ寺院の維持・保存工事を説明する写真集の上部に“Government of the Republic of India, Ministry of Culture”(インド共和国政府文化省)と”Archaeological Survey of India”(インド考古学調査)と書かれた紙が貼られていますから、この大規模な工事はインド政府が行っていることが分かりました。
 
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近くから見た釈迦牟尼
 
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最前列まで進んで見上げると、すべてを包み込むような釈迦牟尼の偉大さを感じさせました。材質は一本の松材とのこと。つまり、一木造または一木割矧造(いちぼくわりはぎづくり)で作られているのです。注、腕など突出した部分は通常別の木材を使用する
 
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同行者も電飾がある最前列まで近寄って小さな仏像に見入っています。
 
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小さな黄金の釈迦像に金箔を貼る信者
 
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右手の仏龕(ぶつがん)にある人物像は高貴な身なりをしており、古代インドで使われていたという宝石が付いた日傘を脇に置いていますから、身分の高い人物、おそらく初代王アノーヤターでしょう。ちなみに、インドネシアのボロブドゥール遺跡で見た浮彫彫刻レリーフに描かれた人物の帽子と衣裳に似ています。注、仏龕とは仏像や経文を安置するために設けられた小室、アノーヤター王が即位したころのパガン(バガン)では主に大乗仏教(密教)と土着宗教(ナッ神)が信仰されていた

 
 
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左手は質素な身なりですから僧侶、恐らくバガン王国に上部座仏教を伝えたタトォン国(ミャンマー南部にあったモン族の国)の僧侶シン・アラハンであると考えられます。
 
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その上方の壁に造られた仏龕に祀られた仏像
 
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二重になっている回廊の内側に入りました。この寺院では反時計回りに廻(めぐ)るようです。回廊の壁面にも多数の仏堂が設けられています。注、外側の回廊が庶民用、内側が王族用とのこと
 
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ガラスの扉がある仏龕には番号が振られています。昼食の後に立ち寄った無名の寺院にも遺跡番号が付けられていたように、重要な仏像についての管理が行き届いているようです。
 
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2つ目の過去四仏は南回廊の迦葉仏(Kassapa、かしょうぶつ)で創建当時のものとのこと。ちなみに、迦葉仏は釈迦が出現する直前に現れた仏です。
 
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近くで見上げると厳しい表情をしていますが、離れた場所から見る庶民には口角が上がって優しく見えるように作られているそうです。また、両手の合わせ方に特徴があります。
 
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(続く)

2017年4月 7日 (金)

40年ぶりのミャンマー訪問(その13) オールドバガンの寺院群① タビィニュ寺院(後編)

階にある正方形の回廊を時計回りに廻ると、金で覆われた大小の仏陀(釈迦像)が飾られていました。
 
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2番目の仏堂には草木染を示す黄土色の袈裟(けさ)を偏袒右肩(へんだんうけん、注、右肩を出した着方)のスタイルで身に着けた仏陀(ぶっだ)が現代的な照明に照らされています。頭頂部で髪の毛が膨らむヘヤ―スタイルから釈迦であることが確認できます。
 
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口角が上がり微笑む表情をする仏陀
 
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明り取りの光を受けて輝く2体の仏陀
 
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寺院の外側では砂絵の職人がいて作業中、寺院内に仏教をモチーフとする砂絵が並べられていました。漆器とともに、バガン土産の定番なのだそうです。ミャンマーの砂絵は木綿の布に下絵を描き、接着剤を付けたあと、色とりどりの砂を散りばめて彩色するようです。
 
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ちなみに、砂絵には単色の砂に凹凸をつけて描く手法もあります。その例としては、香川県善通寺市の「銭型砂絵」、アメリカインディアン(ナバホ族)の砂絵(注、わが家にある砂絵はアリゾナの観光土産であるため着色されている)、そしてテレビ番組のなかで紹介された現代的でユニークなサンドアート(背面から照明された大きなすりガラス上に落とした砂を手を使ってダイナミックに模様を描く手法)も。
 
 

歩いてきた回廊を振り返ってみました。
 
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回廊を右に折れると同じように仏陀が配置されていました。
 
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3
番目の仏堂に鎮座する仏陀

 
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壁の表面が剥がれ落ちた部分を見ると、煉瓦の上に壁画が描かれ、その上に白い塗料乗られたことが分かります。
 
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天井にはモザイク画が残っていました。
 
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4体目の仏堂が近づきました。
 
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そして鍵が掛けられたドアの中にも仏陀があるようです。
 
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ガラスケースに電飾が付けられ、強い照明が当てられている仏像は他の仏陀と異なり立像(りゅうぞう)です。さらに、印相(いんそう)が違うこと、光背(こうはい)まで金箔が貼られていること、そして袈裟(けさ)が両肩を覆(おお)って着用する通肩(つうけん)ですから、釈迦如来(しゃかにょらい)、つまり釈迦牟尼仏(しゃかむにぶつ)と呼びたくなります。しかし、上座部仏教(旧小乗仏教)では釈迦が唯一の仏であることから、大乗仏教的な考えは無意味かもしれませんが・・。
 
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この先を曲がると東の入口に戻るようです。
 
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入口がある建物の東側は石板が敷き詰められ、下足を脱ぐ右手前には鐘があります。北方向にはこの寺院のものと思われるパヤー(仏塔)が見えました。
 
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入口から少し離れてあらためて見上げた寺院の建物は壮大で圧倒されます。多くの黄金色の塔と屋根の装飾がこの寺院に威厳を与える効果をもたらしています。ちなみに、以前は2階のテラスに上がって広大なバガン平原を眺(なが)めることができたそうです。注、東側の入り口正面にある階段は閉じられており、現在は2階の回廊(その12の内部構造を示す写真を参照)とテラスはともに一般公開されていない
 
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境内の南東角(土産物店の裏手)にあるタビィニュ僧院には日本の戦友遺族の会とミャンマー友好協会が建立したというパガン慰霊堂建立之碑と数多くの戦没者慰霊碑があるようですが、夕日鑑賞の時間に間に合わなくなるリスクがありますから、立ち寄りませんでした。参道脇に生えるサボテンを見ながら駐車場まで戻り、午約25分間滞在したタビィニュ寺院を後にして、4時半過ぎに次の目的地へ向かいました。
 
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(続く)

2017年4月 6日 (木)

40年ぶりのミャンマー訪問(その12) オールドバガンの寺院群① タビィニュ寺院(前編)

午後4時を過ぎてホテルを出発してオールドバガンの城壁内、南東の角に近い場所にあるタビィニュ寺院に到着。ホテルから1kmほど移動する間(約5分)に草原と木立に囲まれた遺跡以外の建物を見ることはありませんから城壁(約1km四方)に囲まれているとの印象はありません。ちなみに、城壁は一部の城門などを除いてほとんど残っていないようです。

 

ニャンウー村とオールドバガンを直線的に結ぶアノーヤター(Anawrahta)通り脇にある未舗装の駐車エリアで車を下り、午前中にシュエズィーゴォン・パヤーで買ったばかりの草履をはいて参道を歩くことにしました。雲間から青空が覗き始めたたて、女性たちは日傘を差しています。注、アノーヤターはミャンマーを統一したバガン王朝の初代王とされる人物の名前
 
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白いシャツと前で結わえた茶系統のロンジを組み合わせたミャンマーの典型的な衣裳を身に付けた恰幅(かっぷく)の良い男性とすれ違います。40年前と同じ格好ですが、当時は男女ともスリムな体型が一般的だったと思いますが・・。
 
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家族連れと思われる参拝者にしたがうようにタビィニュ寺院へ向かって歩くと、参道の両側に土手のようなものが現れました。
 
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近くから見ると煉瓦(れんが)造りであることが分かります。
 
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ガイドさんに勧められてその構造物に上がり、バガンでは珍しいとされる白いタビィニュ寺院の建物と参道を撮影
 
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昔は塀と堀に囲まれていたことがガイドさんの説明で分かりました。出発前に得た予備知識は、『中国南西部の雲南省にあったチベット・ビルマ語族の南詔王国の尖兵(せんぺい)であったビルマ族が9世紀にピュー族の都市を征服したあと、バガンの地の防備を固めようと、ビルマ族のピンビャー王が築いた城壁跡なのです。 ちなみに、12の城門があったそうですが、当時の東門であるタラバ―門だけがほぼ原形に近い形で残っているそうです』  と符合します。。
 
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振り返ると、駐車場から続く参道には参拝者の列が
 
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左手方向には仏塔や寺院がいくつも確認できます。足場と覆(おお)いが組まれている右端の寺院はバガンに残る唯一のヒンドゥー教のナッラウン寺院(931年建立)でしょう。
 
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タビィニュ寺院が近づくと、全体に繊細な装飾が施されていることが分かりました。ただし、煉瓦の上に塗られた漆喰(しっくい)が雨や日光の影響で屋根の部分を中心に黒ずんでいます。
 
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1144年、パガン王朝第4代国王アラウンスィードゥーによって建てられた美しい寺院で、65m(注、61mとの説もある)の高さはバガンで一番だそうです。この高さがあっても内部は2階建て。細かい彫刻が施された屋根をもち、中央に3段の方形基壇、そしてその上に金箔で覆われたパヤー(仏塔)と同じ形をした塔が立っています。タビィニュ(あるいはダビニュ)とは全知者を指し、仏陀(ぶっだ)を意味しているそうです。

 

建物の上部をクローズアップすると、頂上部にある黄金の塔に向かって竹製の足場が組まれつつあることが確認できました。また、四隅には小さな塔が並んでいるようです。
 
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北方向に向かっていた参道は斜め右方向に折れ曲がって続いています。
 
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お決まりの土産物店かと思うと、籐製品(蹴マリ/チンロン、カゴ、イスなど)や日用品(帽子など)が豊富に売られています。参拝客向けの店のようで、観光客には子供や女性たちが小物を立ち売りをしています。
 
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建物の東側にある入口で草履を脱ぎます。
 
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入口を入ったところの壁にタビィニュ寺院の写真が貼ってありました。見どころを紹介していると思われます。
 
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こちらは内部構造のようです。
 
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内部の壁や天井は漆喰または白い塗料が塗られて純白です。正面には仏陀を祀った祭壇があり、その前で礼拝する地元の人たちがいます。右手には写真入り解説書や人形などを売るショップも。
 
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祭壇の後方には
寺院の模型と入口の屋根にある複雑な装飾がレリーフで再現されています。2体の像は柵で閉じられた階段の入口の前に立っていますから、上階にある仏像の守門神のようです。
 
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タビィニュ寺院とそれを取り巻く寺院・仏塔群の写真パネル
 
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左手の回廊に入ると、高い天井と明り取りの窓が異次元の空間を演出していました。
 

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(続く)

2017年4月 5日 (水)

40年ぶりのミャンマー訪問(その11) オールドバガンの「エーヤー・リバー・ビュー・ホテル」

午後1時少し前にオールドバガンの北エリアにあるホテルへ向かう途中、オールドバガンの中心部だったと思いますが、道路脇にある3つ並んだ寺院に立ち寄ることになりました。無名のようですが、ガイドさんは写真撮影スポットとして立ち寄ることが多いそうです。ちなみに、バガン(旧名パガン)とは、この地に住んでいたピュー族の集落を意味する「ピュー・ガーマ」が訛(なま)ったものだそうです。9世紀ころに中国雲南省の南詔(なんしょう)王国の先兵であったビルマ族がバガンなどピュー族の集落を征服してピュー族を南詔王国に連れ帰ったため、一旦は無人の地になりました。約200年後の11世紀初頭、南詔王国の滅亡によってビルマ族が南下し、この地にバガン王朝を築きました。
 
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電動バイク(e-bike)が1台停められています。ホテルの名前がありますから、宿泊する観光客が借りたものなのでしょう。ミャンマーでは免許が不要で誰でも乗ることができる電動バイクが普及しているそうです。
 
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これが3つ並ぶ寺院の近景
 
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左端にあるこの寺院が中心的な存在
 
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寺院の中に祀られた仏像は不思議なことに(まるでロシアのマトリョーシカのように)胎内に小さな仏像が納められています。
 
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ちなみに、この寺院はバガンの記念建物(遺跡)のなかで2016年現在、1390番に登録されたことが入口脇に貼られたラベルに表示されています。
 
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修復中の寺院
 
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午後1時半少し前、オールドバガンを抜けて北上する細い道が行き当たったエーヤワディー川に面したリゾート「エーヤー・リバー・ビュー・ホテル」に到着。写真は敷地内から見た門。その先にある堤防のように盛り上がった部分が城壁跡と思われます。ちなみに、オールドバガンでエーヤワディー川に面したホテルは他に、パガン・タンデ・ホテルと日系資本(ヤンゴンのサクラ・タワーも経営する投資事業会社エクセ)が運営するバガン・ティリピセヤ・サンクチュアリー・リゾートがあります。
 
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宿泊客は欧米人が主体のようで、車寄せの前に国旗掲揚ポールが並んでいます。手前から、イタリア、中国、フランス、アメリカなどの国旗、中央にあるのはホテルの旗と黄・緑・赤の横縞に星が描かれたミャンマーの国旗、そして右奥には日本、ドイツやイギリスの国旗も。
 
 
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このホテルでもガイドさんがチェックインの手続きを代行してくれます。
 
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ロビーに置かれたビルマの竪琴はかなりの年代物
 
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ロビーにつながる開放的なカフェテリアの脇を抜けて部屋へ案内されます。
 
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屋外プールの脇も通過
 
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プールの案内看板にある寒暖計は、雨上がりの曇天であることから、約28度と涼しいことを指しています。文字の一部が剥(は)がれ落ちているのはご愛嬌(あいきょう)。
 
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右手に折れます。
 
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蛙(かえる)の置物がある小さな池
 
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この建物のようです。
 
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私の期待とは異なり、エーヤワディー川に面した敷地のなかでも川から遠いエリア(南東角、地図の右上)と思われます。
 
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部屋は白色と茶色を基調として清潔感があります。左手前に置かれた置物は同行者が購入したものよりはるかに大きく、部屋のアクセントになっています。よく見ると部屋のあちこちにも。
 
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ベランダから見た敷地内のトロピカルガーデン
 
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2時間半ほど自室で休憩しながら、WiFiで着信メールなどを確認。(続く)

2017年4月 4日 (火)

40年ぶりのミャンマー訪問(その10) 漆器工房「トゥン・ハンディクラフツ」と「サンセット・ガーデン・リバーサイド・レストラン」

午前11時30分ころ、ミィンカバー村の南隣となるニューバガンに到着しました。オールドバガンに住んでいた人たちが、オールドバガンが考古学保護区に指定されたことで、強制的に移住させられてできた村で、現在の人口は約1万人とのこと。この村の西端(エーヤワディ川寄り)にある有名なトゥン・ハンディクラフツ(漆器工房とショップ)を見学することになりました。

 

漆器(しっき)とは木や紙などに漆(うるし)を塗り重ねて作る東南アジアの工芸品の総称で、食器・漆箱や印籠を帯に留める根付(ねつ)け、ひいては仏壇や仏像などと、長持ちをする特性から様々な用途に使われる技術でもあります。

 

パガン王朝がモンゴルに攻められて滅びたあと、16世紀に同じバガンでタウングー王朝を起こしたバインナウン王が、タイのマニプルやチェンマイ、中国の雲南省などを征服した際、連れ帰った大勢の職人がミャンマーにおいて漆器を製作したのが始まりとされるようです。(注、異説もあり) 現在でもパガン(現在のバガン)がこの伝統工芸品の主要生産地とのこと。

 

広い空間がある工房には10名ほどの職人が壁際に並ぶ作業台で黙々と漆器(しっき)を製作していました。中央付近では箪笥(たんす)と思われる大きなものの細工をしている職人もいます。
 
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ミャンマーの漆器は、木をくり抜いて成型する日本とは異なり、薄く削いだ竹籤(たけひご)を強く捲きつけながら椀の形をした素地(ベース)を作る「捲胎技法」が一般的だそうです。
これは男性の仕事とのこと。
 
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また、湯呑(ゆのみ)や丸い小物入れのように口が狭いものは笊(ざる)や籠(かご)のように編む「らん胎技法」や馬の尻尾を使って織りあげる「馬毛技法」によって素地となる部分を作るようです。後者はミャンマーの漆は成分の違いにより粘り気がある(日本の漆のように固くならない)ことで弾力がある製品になるそうです。
 
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ミャンマーではミャンマー北東部に位置するシャン州に生えるビルマウルシから採れる樹液が原料だそうです。淡い黄色をしている樹液は空気に触れるとやがて黒に変化し、何度も漆塗されてサンドペーパーで磨かれると耐水や耐熱に優れる漆面となるとのこと。ひとつ驚いたことは、職人さんが素手で漆に触っていることでした。ガイドさんに気触(かぶ)れないのかと尋(たず)ねると全く問題がないとのこと。日本の漆とは成分が異なるからから大丈夫なのでしょうか。

 

漆を何度も上塗りする工程が右上から左下の順に並べて展示されていました。右側の黒っぽい椀(わん)は漆(うるし)のみを塗って表面をスムーズにする段階で、その後に左側のように絵付けが行われて完成します。右上の小瓶に入っているのは赤・緑・黄の色漆、一番奥の結(ゆ)わえてあるものは馬の尻毛(前述)。
 
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この女性は絵付けの前工程として、漆で下塗りした上に特殊な樹液を水で溶いたものを塗った表面に、下書きしないで、先のとがった工具を使って傷をつける線描(せんびょう)を行っています。
 
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その傷の部分にカラフルな色の粉末を固定して樹液を水洗いするプロセスで線画模様を仕上げていくようです。
 
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この工程のあと、色漆(いろうるし)でカラフルな色付けが赤・緑・黄色の順番で行われます。後で知ったことですが、日本とミャンマーの漆工芸の関わりは16世紀ころに遡(さかのぼ)り、日本の漆工芸の加飾技法の「蒟醤(きんま)」はタイやミャンマーからもたらされた技法でした。漆器の表面に文様を彫り込み、色漆を充填(じゅうてん)し研ぎ出し、地の色と充填(じゅうてん)した色との対比で文様を表すその技法は、まさにこの工房で使われている技法そのものです。

 

工房のやや左手にある大きな壺(つぼ)の素地は、胴回りを何等分化して、漆を塗る工程が表現されていました。ちなみに、左端が完成状態、その右側から反時計回りに何層も漆が重ね塗りされる段階がよく分かります。
 
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地下室は乾燥室として使われていますが、バガンの気候は乾燥に向いていて、換気などの特別な処置は行っていないそうです。
 
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隣のショップへ移動しました。さまざまな漆器製品が展示されているため、同行者は小物入れにもなるジュエリーケースや料理・菓子を盛り分けるために放射状の仕切りがある蓋付き容器などを観ながら、かなり迷ったあと、この変わった形の製品を購入することにしました。
 
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外形から推測しにくいのですが、ミャンマーの伝統的な弁当容器、私の推測では僧侶が托鉢(たくはつ)するときのお鉢です。ヤンゴンのロータリーで同じ形をしたモニュメントを見かけた時、ガイドさんから弁当容器だと聞いていました。中段の丸く膨らんだ部分が弁当容器(中にあるトレイで上下に区切られている)で、その蓋(ふた)の上にはパヤー(パゴダ)を模した装飾があり、下側にはこれまた装飾が施された台が付いています。高さは約35cmもあり、日用品ではなく置物(装飾品)にするのでしょう。後方の棚にもさまざまな形をした漆器製品が展示されています。

 

ちなみに、現在のミャンマ―では金属製で機能的な弁当箱(円筒形で3-5段、汁物も入れられる)に人気があるそうです。インドの弁当箱と似ているのかもしれません。

 

そして貝殻の小片を埋め込んで動物を表現する螺鈿(らでん)のブレスレット(厳密に言えばバングル)も買い求めました。注、螺は貝を、鈿はちりばめることを意味する
 
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ガイドさんによれば、現在も日本の漆工との交流があり、日本人がデザインした模様がミャンマーの漆器に採用されているそうです。ちなみに、弁当容器の漆器を購入した日本人客は初めてとのこと。

 

ニューバガン村の北西エリアへ向かい、木立の中の駐車場に到着すると、ちょうど正午になりました。昼食はエーヤワディー川に面した「サンセット・ガーデン・リバーサイド・レストラン」でのミャンマー料理です。車止めとして置かれた壺(つぼ)の間を抜けてレストランへ向かいます。折からの小雨がすっかり止みました。
 
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エーヤワディー川が見える場所にレストランの客席と思われる開放的な場所(オープン・レストラン)がありますが、
 
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我われに用意されていた席はその右手にある一段高くなったもう一つの建物内の見晴らしの良いテラスにありました。ここにも多くの壺が並べられています。テラスの外側は散策できるため、景観を損なわない柵の役割を果たしていると思われます。ちなみに、ミャンマーでは壺(つぼ)は穀物を保存する用途に使われるそうです。注、瓶(かめ、旧字では甕)は壺(旧字は壷)に似た形をしていますが、両者を分ける明確な基準はなく、口が狭いものが壺で、広い方が瓶と呼ばれるようです。
 
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写真を撮るため手すりから乗り出すと、エーヤワディー川の川岸(約1km下流)にある仏塔を見つけました。地図で確認すると、1059年にアノーヤター王によって建立されたローカナンダー・パヤーのようです。川岸にあるため、かつては航行の目印として使われたそうです。この仏塔も金箔を貼り直す作業中のようです。ガイドさんによると、内部に入ることができない上、周囲には何もないとのこと。
 
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こちらは上流方向
 
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このレストランのメニューには、マンダレービールがなく、ハイネッケンとタイガービールだけでしたので、シンガポール製あるいはそのライセンス製造品である後者を選びました。
 
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同行者はアボカドのジュースを注文。その前に置かれたのはミャンマー料理用の調味料でしょう。
 
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最初に配膳されたのは野菜の揚げ物
 
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スープビーフン(汁米粉)は野菜などの具が少なくあっさりした味付け
 
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鶏肉、茄子(なす)の煮込み、ミャンマー風カレー、野菜炒め、野菜サラダなど
 
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デザートはスライスしたスイカで、その甘味はやや低めです。
 
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爽(さわ)やかな川風に吹かれながら、エーヤワディー川の雄大で静かな流れに心洗われる思いになりました。対岸に山並みが薄っすらと浮かび上がる様子にも見入ってしまいました。(続く)

2017年4月 3日 (月)

40年ぶりのミャンマー訪問(その9) 壁画で有名なパヤートンズー寺院群と窮屈な仏像があるマヌーハ寺院

よく整備された道路を10分ほど(約6km)南西方向へ走り、イラワジ川に近いオールドバガンとニューバガンの中間にあるミィンカバー村に到着。途中、それまでの曇天が小雨に変わりました。ガイドさんによると、乾季である3月としては珍しいことなのだそうです。この村にある有名なマヌーハ寺院を訪れる予定になっていますが、フレスコ画が見事であるとのガイドさんの勧めにより、すぐ手前にあるグービャウッヂー寺院に立ち寄ることにしました。村の外れのようです。

 

外観は浅黒くなっていてとても地味な印象の寺院です。1113年、チャンスイッター王の息子やヤザクマラが父王の死後追悼のために建てたとされる煉瓦造りの寺院です。写真は入口の階段とその両脇にある売店、そして大型の観光バスが右端に写っています。階段を上がったところで草履を脱いで素足になりました。順路は右手のようです。
 
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階段を上がった場所で撮影した寺院の外観
 
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2基のパヤー(仏塔)側の入口を入るようです。人気があるようで、行列ができていました。注、写真は境内の外へ出る人たち。
 
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右側のかなり大きな仏塔はヤザクマラが同時期に建てたといわれる「ミャゼディ・パヤー/寺院」で、金箔を貼り直す作業が行われているようです。
 

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2基のパヤーと向かい合う位置(西側)にあるグービャウッヂー寺院(本堂)の内部に描かれたミャンマー最古の壁画(寺院全体で約500枚)は、過去二十八仏をはじめとする見事な仏伝図が素晴らしいそうですが、残念なことに撮影禁止の警告看板があります。
 
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照明のない内部には驚くほど精細な壁画が、外壁の荒れ方からは想像できないほどの瑞々しさで残っていました。ガイドさんが持つ懐中電灯だけを頼りに、30分ほどをかけて見て回りました。南方の上座部仏教が主流であるバガンの寺院のなかでは珍しく、大乗仏教の菩薩像やインドのヒンズー教の神々が描かれていました。この理由は、バガン王朝は当時高い水準を誇っていたモン族の絵仏師を多数連れてきて、金に糸目をつけずに描かせたためとされ、バガン時代の仏教画は後世のものと比較してもひときわ優れているといわれるそうです。
 

ちなみに、バガンで壁画が有名な寺院はほかに、でニャンウー村の南、約4kmに位置するミン・ナン・トゥ村にあるパヤートンズー(注、3つの仏搭の意味)寺院群があるようです。

 

30分ほど壁画を鑑賞したあとの午前11時に約400m南にあるマヌーハ寺院へ向かいました。車ではあっという間の距離ですが、小雨が降り続いており、車での移動は助かりました。ただし、ここでも物売りが後を追いながら声を掛けて来ます。

 

マヌーハはモン族のタトォン国(ミャンマーの南部にあったとされる)の王で、バガン(パガン)国の初代王となるアノーヤターに攻められた時に、自身が捕虜となりこの地に連れてこられたそうです。そして、1059年、バガン王に許されたマヌーハは捕虜の身でありながら全財産を使ってこの寺院を建てたそうです。窮屈な造りになったのはそのためとも伝えられます。

 

到着したマヌーハ寺院は白い石板が敷き詰められています。左手の建物が本堂で、右手は参拝所のようです。磨き上げられた石の床が雨に濡れているため、厚くない反面、素足では滑りやすく、私は注意深く歩きました。一方、同行者は突然転倒。ガイドさんも同行者を気遣ってくれています。写真では顔をしかめていますが、大事には至らず安堵しました。
 
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外壁が荒れて年代を感じさせる装飾を極力抑えた本堂の前を歩く僧侶
 
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それでも、参拝所に入る同行者は打ちつけた足を気にしています。
 
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手前に透明で中が分かるようになっている賽銭箱と奉納された米袋の山(写真右)、中央にある大きな金色の容器は托鉢鉢(たくはつはち)とのこと。ミャンマー人の女性がお供え物(お米と思われる)を入れています。
 
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ガイドさんによれば、ホワイトボードには寄付した人の氏名と日時が書かれるそうです。ちなみに、この日は香港の人とのこと。
 
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本堂の大きさとは似つかわしくない大きな仏像(高さ14m)が祀られていました。天井まで頭が届いている仏像の全体を撮影することは困難です。
 
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視線を落とし、目を細めたような表情は、見る角度によって表情が変わるそうです。能面と同じ演出(技法)と思われました。仏像の周りに残された狭い空間を入って行くと両側に小さい仏像が2体あるそうですが・・。
 
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記念にとのガイドさんの言葉にしたがって二人が入った写真を撮影してもらいました。
 
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マヌーハ寺院の裏手に回る途中、石板が敷き詰められた広場の角に塔を見かけました。これも華美をさけたものになっています。写真の左下には二人の人形に担がれた鐘があります。国に拠らず仏教寺院に共通する仏事用の施設なのです。
 
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裏手には人がやっと通れるほどの狭い入口があります。
 
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狭い室内に横たわる足元から見た涅槃仏(ねはんぶつ)は先ほどの座像と同様、窮屈(きゅうくつ)そうです。ちなみに、涅槃仏とは釈迦が入滅する様子を仏像としてあらわしたものです。
 
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中央部まで進むと、やっと顔が見えて来ました。
 
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横から見た顔は鮮やかな化粧が施されています。
 
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こちらも見る角度によって表情が変わります。
 
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20分ほど滞在した午前11時20分ころ、2kmほど南に位置するニューバガン(人口約1万人)へ向かって出発しました。(続く)

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