富岡市から前橋市まで走った県道10号を少し戻ることにします。まず利根川を渡り、次いで関越自動車道の高架下を通過して高崎市に入り、さらに上越新幹線の高架下を抜けた井出交差点で右折し、県道123号を700mほど北進した保渡田町(ほどたまち)にある「かみつけの里博物館」に到着。群馬県庁から車で約20分の場所です。広い駐車場(無料)が2か所ありますが、博物館に近い方に車を停めました。
「上毛野(かみつけの)はにわの里公園の概略図が描かれた案内看板によると、「かみつけの里博物館」を挟むように2つの前方後円墳、「国史跡二子山古墳」と「国史跡八幡塚(はちまんづか)古墳」が位置し、少し離れた場所にはもう一つの古墳「国史跡薬師塚古墳」と「土屋文名記念文学館」があります。ただし、公開されているのは色付けされたエリアだけのようです。

こちらは駐車場から見た博物館の外観です。

「かみつけの里博物館」は榛名山(はるなさん)東南麓で出土した5世紀後半(古墳時代)の人物・動物埴輪や当時を再現した模型が展示されている高崎市の考古博物館です。「保渡田(ほどた)古墳群」がある「上毛野はにわの里公園」内にあります。開館時間は午前9時30分から午後5時(入館は午後4時30分)まで、休館日は毎週火曜日、料金は大人200円(65歳以上は無料)。写真は正面エントランスで、その両側にコの字型をした建物があり、右側が展示室になっていました。

4か月ほど前、1月20日にNHK総合テレで放送された「歴史秘話ヒストリア選
古代史ミステリー 古墳はワンダーランド」~地下に眠るお宝!壁画巨大船を地中に発見!~で紹介されました。古墳にも関心を持つ私は発掘・再現された1500年前のその古墳と出土品を自分の目で見たくなったことが今回のドライブ旅を思い立った理由のひとつです。
[保渡田古墳群の予備知識] (出典: Travel.jpのサイト)
「上毛野はにわの里公園」内にある史跡「保渡田(ほどた)古墳群」は、「八幡塚古墳」、「二子山古墳」、「薬師塚古墳」の3つの前方後円墳があります。博物館の西にあるのが「二子山古墳」、北側には「八幡塚古墳」と「薬師塚古墳」が500mほどの範囲に並んでいました。注、上記の順に築かれた3つの古墳はほぼ同じサイズですが、現在西光寺が建っている「薬師塚古墳」は発掘・復元されていない
その中でも「八幡塚古墳」は1500年前の築造時の姿が復元された貴重な前方後円墳です。また、「保渡田古墳群」の周辺も古墳が作られた当時の社会がそのまま見られる稀有(けう)な場所です。その理由は1500年前に大噴火した榛名山にありした。大噴火によって降り積もった大量の火山灰によって榛名山の東南に栄えていた古代社会は、イタリアのポンペイ遺跡のように、そのまま閉じ込められてしまったのです。
(1)八幡塚古墳の説明
「[八幡塚古墳」は長さが96mで三段になっており、斜面が葺石(ふきいし)で覆(おお)われています。この葺石の数はなんと40万個近くもあるのです。また、下段から上段へと次第に葺石の密度が高くなるように葺(ふ)かれています。各斜面の縁にはなんと6000本もの「円筒埴輪(えんとうはにわ)」が直線上に並べられています。古墳自体は広大な二重の堀に囲われ、内堀のなかには4つの円形の島が作られています。
後円部では死者が「舟形の石棺」に葬られていましたが、4つの島はこの後円部を囲むように作られており、ここで祭祀が行われたと推定されているそうです。
また円筒埴輪で結界(けっかい、注、聖と俗の境界)を張っていたと思われますが、6000本もの埴輪をつくることは、余程力のある豪族でなくてはできません。ちなみに埴輪はこの古墳の傍で焼かれたといわれますが、数が多いために一部は15kmほど南の藤岡にあった窯場で作られたとのこと。焼くための薪や材料の粘土だけでも大変な量です。
また外側の堤の上には「盾持ち埴輪」も所々に置かれています。これは、邪悪なものから古墳を守る役目をしていたといわれます。いわば聖域の守護者としての役割を担っていたのです。結界といい、いかに埴輪が古墳になくてはならない存在であるかが良く分かります。
(2)下芝谷ツ古墳の説明
榛名山の噴火の土石流に飲み込まれていた古墳が近くにあるそうです。「下芝谷ツ古墳」です。これは「方形積石塚」で朝鮮半島に由来する古墳です。ここからなんと黄金の飾り履が出土しました。日本では熊本県の江田船山古墳、奈良県の藤の木古墳や滋賀県の鴨稲荷山古墳など5世紀後半から6世紀の時期に、全国で20例程しか出土していない貴重なものです。
(3)三ツ寺Ⅰ遺跡の説明
保渡田古墳群の近くで、豪族の館が発掘されました。保渡田遺跡群から南東約1kmの場所で発見された「三ツ寺1遺跡」です。この館、上越新幹線の工事で見つかったもので、まだ全体の2/3が未発掘なのですが、写真のように、「かみつけの里博物館」で当時の姿が復元されています。
豪族の館は深さ3mの濠に囲まれ、1辺が86mの方形をしています。内部は三重の柵で2つに分かれており、写真左上の区画は生計を支えるゾーン、右下の区画は王が政治や儀式を司ったゾーンで、右下区画の中心にある大型の建物(赤い傘で、貴人が居る事が示されている)は建坪50坪もあり、当時東日本最大の建物だったといわれます。またこの建物の横には「屋根付きの井戸」があり、この井戸は祭祀専用の井戸であったといわれます。
実はここは崇神天皇を祖とする「上毛野氏(かみつけのし)」に関連した豪族、具体的には「車持氏(くるまもちし)」の館と推定されています。乗り物(輿)を提供する職務をしていた事から、雄略天皇より車持の名を与えられたのです。また、群馬県の「群馬」は奈良時代には「クルマ」と読まれていました。群馬は車持氏の「車」に由来した名前なのです。
保渡田古墳群の被葬者はこの車持氏なのです。また、上毛野氏は将軍として朝鮮半島まで行っていることから、前述の積石塚に葬られている渡来人は、この車持氏から招聘された可能性があるともいわれます。
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予備知識の説明が長くなりました。それでは「かみつけの里博物館」に展示されている内容を入館時にもらったパンフレットを使って紹介しましょう。予備知識の説明が長くなりました。それでは「かみつけの里博物館」に展示されている内容を入館時にもらったパンフレットを使って紹介しましょう。「かみつけの里博物館」の館内は撮影が禁止されていますから、写真入りで同博物館の常設展示を紹介する高崎市のhp、Yahoo! JAPANの旅サイト、Travel.jpのサイトもあわせて参照してください。
<エリア1> 「よみがえる5世紀」には、榛名山東南麓古墳社会復元模型(縮尺:1/500)が置かれ、ビデオを使って榛名山の噴火、火災流に呑まれた3つの古墳、復元された二子山古墳と八幡(はちまん)塚古墳を解説しています。
<エリア2> 「王の館(三ツ寺Ⅰ遺跡)」の復元模型(縮尺:1/100)は日本ではじめて発見された豪族の館跡と遺物群が展示されています。壁面に描かれた発掘調査図から王の館は一辺が86mもの規模があったことが分かります。上越新幹線の建設工事が行われた時に発見され、発掘調査後には埋め戻されたことが説明されています。
<エリア3> 「王の姿を探る」には全国の5世紀の前方後円墳分布図と古墳の動向から三ツ寺の王や上毛野地域がどのような位置づけであったかを推定し、三ツ寺Ⅰ遺跡、丸山遺跡、堀越遺跡(栃木県)など各地の豪族の館を比較しています。
<エリア4> 「王の墓を探る」には「八幡塚古墳の築造時推定復元模型」(縮尺1/80)を中心に、当時の巨大古墳造りについて、かかわった人々・使われた技術・築造工程などで、具体的に説明しています。
<エリア5> 「広がる小区画水田」には、大噴火によって5世紀の地表が良好に保存されていたため、当時の大規模な農地の状況や田作り作業の詳細な情報が遺跡に残されたことを紹介しています。発掘データから復元した古墳時代の「水田模型」(縮尺1/80)も展示されています。
<エリア6> 「火山灰に埋もれた村」には、火山灰によって覆われた下芝遺跡群、黒井峯遺跡、中筋遺跡などの発掘データをもとに、榛名山東南麓の典型的な村の姿を縮尺1/80の模型で再現しています。竪穴住居、大祭祀(だいさいし)の場をイメージした出土物展示があります。
<エリア7> 「海の向こうからきた人々」には、下芝谷ツ古墳から発見された日本最古の飾履(クツ)の展示を中心に、朝鮮半島の影響を受けた積石塚古墳分布やさまざまな渡来系文化を紹介しています。ちなみに、NHK総合テレビの番組では発掘された王とその家族の遺体を調査した結果、馬を育てる適地を求めて長野県南部(伊那地方)から群馬県に移り住んだと推定されることを紹介していました。つまり、騎馬民族の子孫だったと思われるのです。
<エリア8> 「埴輪(はにわ)に秘められた物語」には、保渡田Ⅵ遺跡から出土した埴輪群像を中心に、埴輪が物語るストーリーを映像で解説し、王の埴輪を中心とする儀式の群像、狩人の埴輪や猪の埴輪が示す狩猟、葬送や王位継承などの儀礼、当時の精神世界を表していることを紹介しています。
<エリア9> 「埴輪の人・動物・もの」には、種別ごとに埴輪を展示し、あわせて国内各地の事例を紹介しながら、埴輪が示す古墳時代の人々の実像を紹介しています。
次回の記事から「保渡田(ほどた)古墳群」を詳しく紹介します。(続く)
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