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2017年6月

2017年6月27日 (火)

和田竜著「忍びの国」を読む

月1日から映画「忍びの国」が上映されます。この映画で描かれる「天正伊賀の乱」も常勝・織田軍が喫(きっ)した大番狂わせです。なぜ、最強にして大軍の織田は戦国大名もいない伊賀を攻略することができなかったのか?(映画のキャッチコピーより)

 

のぼうの城」や「村上海賊の娘」で歴史小説の若き旗手となった和田竜氏に興味を持つ私は、映画ではなく、これらと同様、史実に光をあてた同名の原作小説(2008年新潮社刊)を読むことにしました。

 

[概要]

文吾と無門という2人の若い伊賀忍者を物語の引き回し役とし、伊賀の地侍の集まりである十二家評定衆を束ねる百地(ももぢ)三太夫や下山甲斐(かい)、元十二家評定の一人であったが今は伊勢国を支配する北畠具教(とものり)の養子となった織田信長の次男、北畠信雄(のぶかつ)に取り立てられている柘植(つげ)三郎左衛門らを配して骨太でダイナミックなストーリーが展開される。天正伊賀の乱(第一次)と呼ばれる史実を踏まえて書かれた時代小説である。

 

[あらすじ]

物語は信雄に指示された長野左京亮(さきょうのすけ)と日置(ひき)大膳らが信雄の義父である北畠具教を暗殺するところから始まった。そして、それに至る経緯も説明される。信長が伊勢に攻め入り、北畠側はよく耐えたが、最終的には信長の次男、信雄を北畠家の養子に入れる条件で、両者は和睦した。その後、信長の勢力が拡大するにつれ、北畠家の家督と国司の職が信雄へ移ることになった。

 

一方、強力な大名がいない伊賀国では地侍たちが日常茶飯事のこととして、小競り合いを続けていた。親子も親戚も関係なくお互いがお互いをやっつけようとしているのだ。そして、地侍の一人、下山甲斐(かい)の砦を百地三太夫が攻め立てた。大した理由はない。しかし、忍び同士の戦いは予想できない展開をみせる。

 

三太夫の配下である無門が砦に忍び込み、三太夫の指示にしたがって甲斐の次男である次郎兵衛を切ったのだ。実は、それがこの小競り合いの真の目的であった。そんな折、鐘がけたたましく鳴り響いた。三太夫が命じた十二家評定衆の参集の合図である。三太夫の呼びかけに応じる甲斐に憤(いきどお)る次郎兵衛の兄、平兵衛だが、父の甲斐は伊賀の慣(なら)わしとして取り合わない。

 

十二家評定衆では、伊勢国を織田家が押さえた今、織田家の軍門に降ることが三太夫の主導によって決められた。生真面目な平兵衛は弟次郎兵衛の死に対する実父の反応に端を発した伊賀者への憎悪により、伊賀者を根絶やしにするという行動へと突き進んでいった。

 

伊勢国へ向かった平兵衛は伊勢側が設けた関所で北畠信雄にお目通りを願い出る。翌日の朝には信雄の居城、田丸城に連行された。その知らせを受けた三郎左衛門は旧知の平兵衛の言葉に共感する。自らも平兵衛と同様、伊賀を滅ぼすべく伊勢の北畠家を頼り、一門である木造(こつくり)家に仕えた経緯があるのだ。

 

三郎左衛門の口添えがあり、信雄は渋々平兵衛に目通りを許した。信雄の性格を心得た伊賀出身の三郎左衛門は言葉巧みに持ちかけて伊賀攻めを決めさせた。さらに伊賀に拠点を造ることを進言する。北畠具教がかつて伊賀攻めのために途中まで築城した丸山城を再び築く戦略である。

 

前回も伊賀の国内に築城することの許しを伊賀に行って取り付けた三郎左衛門が再び伊賀へ行ようにと信雄は命じた。十二家評定衆を前に三郎左衛門は伊賀の豪族すべてを織田家の給人(きゅうにん)として向かい入れたいという信雄の言葉を伝え、丸山城の再建に助力したいと続けた。頃合いを見て三郎左衛門は築城に必要な銭は伊勢側が持つと、持参した金塊と銀塊がぎっしり詰まった挟箱(はさみばこ)を開けてみせる。会見は終わった。注、挟箱は荷物を入れて道中担いで運ぶ道具、もともとは2枚の板の間に衣服などを入れたものを竹で挟んだ竹挟から転じた

 

伊勢方による監督のもと、日当をもらう伊勢忍者たちの働きがあり、三層の天守、本丸、二の丸、西の丸、秋の丸という出丸を有した丸山城が完成した。祝金として金銀塊を受け取った三太夫は、城の守りをするという三郎左衛門にしたがって大手門を出た。城門が閉じられるや、三郎左衛門は戦闘態勢を指示する。

 

三太夫から密命を受けてただ一人城内に残っていた配下の文吾は城内各所に火を放った。天守閣と本丸から発した炎は二の丸にも広がってしまう。三郎左衛門は撤退を指示し、兵を削り取られながら伊勢国の田丸城まで敗走することになった。記録によれば、両軍に数千人にも及ぶ死傷者が出たという。

 

怒り心頭に発する信雄は評定の場で伊賀攻めを命じた。しかし、北畠具教殺しおよび伊賀の十二家評定衆との協議で手柄をたてたことにより城をあずかる身分に出世していた日置大膳(へきだいぜん)は、三太夫が予測したように、敵の油断に乗じた忍び働きだけをする伊賀者を攻めることは弱者苛(いじ)めと考え、伊賀攻めには参加しないと信雄の前で言い切った。翻意(ほんい)させようとした長野左京亮も具教殺しの折に大膳に助けられた恩義があるため、大膳抜きで伊賀を攻めるなら自らも参戦しないとの意を信雄に言上する。窮(きゅう)した信雄は信頼できる三郎左衛門の考えを問うが、やはり大膳なくば戦は当方の負けであるとの考えを正直に述べる。

 

信雄には日置大膳の不参加以外にも伊賀攻めをできない理由があった。丸山落城の直後、石山本願寺の攻略の一翼を担っていた荒木村重が信長に謀反を企て、本拠の摂津有岡城に閉じこもってしまったのである。摂津での任務が解かれたのちも、秀吉が担当している中国攻略の助勢のため播州(現在の兵庫県南西部)へも行かされた。そして、一年後の天正7年秋ごろになって信雄がようやく伊勢の田丸城に戻ってきた。その間、大膳は自城に籠(こも)ったきりである。

 

信雄がいよいよ伊賀に攻め込むと伊賀者たちが考えている時、百地三太夫は次の策略を実行した。下人たちの不安を煽(あお)って戦意を高揚させるとともに、ある人物を操(あやつ)って大膳なしでも信雄に伊賀を攻めさせる策略である。自国を守る戦には銭は支給されない不満が下人たちに広まった。しかし、まんまと操られた無門は伊勢国の大膳の所領に潜入し、大膳の真意を確かめるが、伊賀には間違っても行かないと頑(かたく)なである。

 

それでは信雄に掛け合うしかないかと言い残した無門は大膳を煙に巻いて田丸城へ向かった。信雄の命が危ないと考えた大膳はその後を追う。他人に変装する陽忍(ようにん)と人に気づかれない陰忍(いんにん)の両方を使う無門は難なく信雄の寝所に忍び込み、諸刃の剣を信雄の咽喉元(のどもと)に突きつけながら伊賀攻めは忘れるように言う。まだ子供である信雄は反発するだけであるため、無門は戦場で首をとってやると言い残して姿を消す。

 

半刻後、馬で田丸城に駆け付けた大膳はこれまでの経緯から信雄と押し問答になる。その中で大膳は閃(ひらめき)きを感じた。すべての不可思議な出来事はすべて、大膳が伊賀攻めを拒めば伊勢に勝てると考える伊賀の十二家評定衆の術であるということである。大膳は伊賀攻めに参加することを決めた。大膳の考えを聞いた信雄はなおも反発するが、大膳の迫力に押されてそれまでの虚勢を捨て、伊賀攻めの下知を発した。

 

無門は伊賀に戻る途中、疲れた体を休めようと入った廃寺で出会った信雄の妻から自分の父を暗殺した信雄を殺してほしいと頼まれた。その対価として一万貫の値打ちがあるという北畠家の家宝である茶器の小茄子(こなす)をもらう。伊賀に向かいながら、無門にある考えが浮かんだ。二年前に西国の安芸国(あきのくに、注、現在の広島県西部)から盗み出した武将の娘、お国と夫婦になるため、間も無く伊勢側に攻められる伊賀を抜け出し京に出て、これを元手に商いでもしようとの思いつきである。注、貫とは銀貨の通貨単位(銀4.3匁=約37g)で、現在の価値ではおよそ1万5千円と推定され、小茄子の価値は約1億5千万円となる

 

数日後の天正7年(1579年)9月16日、伊勢の軍勢1万1千余騎が田丸城下に集結し、ただちに伊勢への進軍を開始した。布引山地にある3つのルート(阿波口・馬野口・伊勢地口)が攻め口として選ばれた。信雄が率いる八千騎の主力部隊は夜になっても灯火を消しながら阿波口へと進軍を続け、長野峠の手前でようやく行軍を停止。三郎左衛門と左京亮の軍勢千五百騎は馬野口を目指し、伊勢地口を目指す大膳は軍勢千三百騎の半数を伊賀領内まで入れた。伊勢勢が伊賀国へ一斉に攻め入る一方、伊賀から逃れようとする下人たちの群れの中に無門とお国がいた。

 

もちろん、伊勢側の動きは伊賀側の見張りから夕刻には各口の守将へと伝えられていた。阿波口を受け持つ百地三太夫は自らの術の冴(さ)えに多いに満足した。それぞれの守り口はさまざまな手立てが講じられている。夜明け近くになって三太夫は配下の下人(他の下侍の下人を含む)の数が半分ほどに減っていることに気づいて驚愕(きょうがく)する。また、馬野口を守る音羽半六は近くの小山の頂上に佇む一騎の騎馬武者を見て呆然(ぼうぜん)つなった。いるはずのない大膳だ。半六は負けるとつぶやいた。

 

伊勢の軍勢の攻撃が始まった。ただでさえ兵の数で劣る伊賀側の劣勢は決定的であり。三太夫は服部川を下る信雄の軍勢を挟み撃ちにする作戦が破綻。逆に信雄の大軍に挟まれてしまう。馬野口では甲斐が扇状地にて土遁(どとん)の術を展開したが、三郎左衛門に見破られて大半の下人を失ってしまう。大膳は三郎左衛門が教えた焙烙火矢(ほうろくひや)で森の枝に隠れる伊賀者を焼き殺す戦法を用いて半六の手勢を一気に殲滅(せんめつ)しながら進軍した。

 

こうして、伊賀側はのっけから劣勢に立たされ、守り口を担当する三太夫たちは負けを意識せざるを得ない状況に陥(おちい)ったのであるが、3か所の戦線のいずれにおいても明らかな変化が現れた。圧倒的に優勢であったはずの伊勢側の前線が乱れはじめたのだ。それは・・・?

 

<読後感> 著者の和田竜氏は、弱肉強食の戦国時代において、弱者が知恵を巡らすことで強者に勝つ、あるいは弱者が策によって強者を徹底的に翻弄(ほんろう)する様を、多くの個性的な登場人物たちを巧みな文章によって活きいきと描き、冒頭から結末に至るまで、読者を映像と音響に溢(あふ)れる世界へと惹(ひ)きいれました。百地三太夫は様々な策略により北畠信雄の大群を伊賀国へ誘い出すことに成功しましたが、思わぬ誤算があり緒戦で劣勢に立たされ、敗戦を覚悟する状況に陥(おちい)りました。しかし、その直後、思いもよらないどんでん返しが待つという和田竜氏ならではのストーリー展開が最大の魅力なのです。「のぼうの城」や「村上海賊の娘」と同様、時代小説ファンでなくても楽しめる痛快小説としてお薦めします。

2017年6月24日 (土)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その15) 「ファミリーロッジ旅籠屋・前橋南店」と鳥めし本舗「登利平本店」

県道127号から県道10号に入り、国道17号と県道11号、そして県道27号を走って、前橋市西善町にある「ファミリーロッジ旅籠屋(はたごや)・前橋南店」に到着。最近知った郊外型B&B形式(軽朝食付き)の宿泊施設で、市街地の外れに立地するアメリカのモーテル(注、日本とは意味が異なる)とほぼ同じといえます。車で旅行する人には便利(幹線道路への好アクセスと無料駐車場)で経済的な(簡素な客室、夕食なし)宿泊施設といえます。
 
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敷地の奥にある駐車場から収穫期を迎えた麦が栽培される田んぼが広がっています。
 
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実は、群馬県など北関東地方は小麦の生産が盛んな地域なのです。ちなみに、生産量でみると、首位の北海道、それに続く福岡県(2位)・佐賀県(3位)・群馬県(4位)・埼玉県と愛知県(5位)・滋賀県(7位)・三重県(8位)・茨城県(9位)・熊本県(10位)・栃木県(11位)と北関東の3県が上位に入っています。

 

客室は最低限の設備があるだけですが、適度な広さと内装に清潔感があります。ドライブ旅をする観光客だけではなく、車で移動する出張者の利用も多いようです。
   
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旅籠屋では夕食のサービスがありませんから、昼食に続いて、ご当地グルメ(前橋市あるいは群馬県のB級グルメ)を楽しむことにしました。

 

県道274号と県道11号を戻り、脇道で北上した前橋市六供町へ向かいました。天川原町交差点近くの上州御用鳥めし本舗「登利平(とりへい)本店」(六供町1-18-6)を候補に選んでいました。「登利平」は群馬県内を中心に、テイクアウト店を含めて30数店展開する有名店のようです。マンションの1階と2階に入る、「鳥めし」と「ソースかつ丼」に人気がある店のようです。裏手に駐車場がありました。
 
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駐車場からは裏口を利用すると便利ですが、写真は店舗の正面入口です。
 
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店内は半個室のスタイルになっていました。
 
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同行者は涼しげな「サラダうどんセット」(950円)を選びました。「ミニ鳥めし」あるいは「ミニソースかつ丼」がついていますが、同行者は後者を選びました。
 
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私は迷わず「ソースかつ重(みそ汁・お新香付き)」(930円)です。
 
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「サラダうどんセット」は「冷やし中華」や「冷やしソーメン」に似ていますが、サラダがたっぷりトッピングされていて、女性客に人気がありそうです。同行者はサッパリした味の「サラダうどん」が気に入ったようで美味しいと言いながら完食。「ミニソースかつ」もすべて食べきり、それにつられたのか、珍しいことにご飯も半分ほど口に入れました。初日のグルメは何とか及第点がもらえたようです。

 

一方、「ソースかつ重」は大きな「鳥かつ」がご飯の上に3つも盛られています。さっそく食べてみました。鶏の胸肉を使う「ソースかつ重」のカツは柔らかく、甘辛いタレがたっぷりかけられた味は群馬らしく濃い目でインパクトがありますから、「味噌汁」がついているのはありがたい。タレ味がほどよくついたごはんも、「鰻重(うなじゅう)」や「天丼」と同様、美味しく食べられました。ただし、昼食に「原嶋屋総本店」で「焼きまんじゅう」を一串半食べて満腹になったため、ご飯を少し残してしまいました。

 

メニューにあった「鳥めしたけ松重(みそ汁付き)」(900円)も機会があれば食べてみたいと思います。
 
次回の「箸休(はしやす)め記事」に続いて、第2日の旅先を紹介します。(続く)

2017年6月23日 (金)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その14) 史跡「上野国分寺跡」

県道10号をさらに東へ進み、棟高東交差点を左折して県道25号(バイパス)を北上し、イオンモール高崎がある辻久保交差点を右折、県道127号(西毛広域幹線道路)の塚田交差点の先で左手の脇道に入りました。この先に史跡「上野国分寺跡」があるはずです。脇道が染谷川(そめやがわ)に行き当った場所にある駐車場に車を停めました。史跡「上野国分寺跡」の専用駐車は最近造られもののようで新しく、乗用車が20台余りとバス5台分のスペースがあります。
 

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「上野国分寺」は、天平(てんぴょう)13年(741年)に聖武(しょうむ)天皇が国ごとに僧寺と尼寺を建立する詔(みことのり、注、天皇の命令)を発したことにより、全国68の国々に国分僧寺と国分尼寺が創建されたものの一つです。上野国(現群馬県)のほぼ中央、高崎市塚田に建てられました。その後は次第に衰弱し、14世紀後半には廃絶したと考えられています。大正15年(1926年)に僧寺跡が国の史跡に指定され、昭和55年(1980年)から発掘調査、そして昭和63年(1988年)から史跡整備(七重塔基壇・金堂基壇・南面築垣の復元)が勧められてきたことが説明されています。
 
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当ブログではこれまでに、相模国分寺阿波国分寺讃岐国分寺土佐国分寺伊予国分寺山城国分寺信濃国分寺総国分寺(東大寺)、越後・五智国分寺など、各国の国分寺(跡)を紹介しています。

染谷川に架かる国分寺橋を渡ります。
 
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橋を渡りきると、前方にある木立の中にガイダンス施設「上野国分寺館」(入館無料)が見えました。開館時間は9:30から16:30と表示されていますから、まだ5分の余裕があり、滑り込みセーフです。
 
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急ぎ足で向かうと、「上野国分寺館」のドアには『入館は午後4:00まで』 と表示されていました。館内は照明が消されていて、人の気配はありません。迂闊(うかつ)でした。
 
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復元された基壇と築垣を見学することはできるだろうと、南築垣の方向へ向おうとした時、掃除道具を持った職員の方に声を掛けられました。挨拶をしたあと、どこから来たのかの質問に答えると、それでは「上野国分寺館」を開けましょうと言ってくださいましたので、お言葉に甘えることにしました。 

 

館内に入ると七重塔の立派な縮尺模型(縮尺1/30)がありました。神奈川県海老名市の相模国分寺跡でも想像画を見ています。天皇の詔(みことのり)によって建てられた各地の国分寺はほぼ同じ伽藍(がらん)を有しているのです。
 
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昭和55年(1980年)から行われた「上野国分寺跡の発掘調査」の結果によって、寺跡の規模は東西約220m、南北235mの範囲におよび、基壇と礎石(そせき)の一部が残っていた塔と講堂の正確な規模のほか、南大門や築垣などの痕跡を示す遺構も確認されたそうです。また、平成24年(2012年)から再開された第二次発掘調査によって、はじめて中門と回廊が確認され、長年にわたって金堂とされてきた建物は講堂であることが、その前面で本来の金堂が発見されたことにより、「上野国分寺」は塔と金堂が東西に並んで建つ特徴的な伽藍配置であることも分かってきたそうです。(出典:史跡上野国分寺跡のパンフレット)
 
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「上野国分寺」の想像図には、南大門、中門(ちゅうもん)、回廊(かいろう)、金堂、講堂、僧坊、七重之塔、東・西・北の門が描かれています。
 
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こちらは「上野国分寺」の縮尺模型
 
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午後4時半を過ぎましたので、職員の方にお礼を申し上げて退出しました。後片付けをしたあと、駐車場を午後5時に閉めるとのことですから、急いで境内を見学することにしました。 

 

「南築垣」が左右に再現されていますが、その中央にある南大門跡は更地のままです。ちなみに、古代と同じく、手作業により棒でつき固めて土を積み上げる版築(はんちく)工法で造られたとのこと。
 
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東側の築垣は西側よりかなり短くなっているのは、発掘調査により確認された部分だけが復元されたからです。つまり、伽藍の範囲を示す築垣の大部分の位置と北大門、西大門、僧坊の場所はまだ推定の域を出ないそうです。
   
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「南築垣」の間を通り抜けました。左手(西方向)にあるのは再現された「七重塔の基壇」がありました。
 
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右手にあるのは復元された「講堂の基壇」で、その上では子供たちが野球をして遊んでいます。
 
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北側に回り込むと、基壇に階段があることが分かります。
 
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基壇に上がってみました。巨大な礎石が規則正しく並んでいます。その先(南側)の草むらに「金堂跡」があるようです。発掘調査後に埋め戻されたのかもしれません。
 
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もと来た道を戻ります。この道が南大門と中門(ちゅうもん)から金堂が一直線に並んでいた場所のほぼ沿っています。写真の左手前が「金堂跡」でしょう。
 
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午後5時10分前、専用駐車場を後にして、この日の宿泊地へ向かいました。(続く)

2017年6月22日 (木)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その13) 「保渡田古墳群」(後編)

「石棺埋葬の推定断面図」
 
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石棺には長持型・家形・箱型の3種類があるようです。
 
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通路の背面に展示された写真パネル
 
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地下を一周する形で「円墳」の頂部に戻りました。円墳の北側には古墳時代に大噴火した榛名山の「二ツ岳」の方角が絵で示されていました。左端には「薬師塚古墳」も描かれています。
 
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その絵にしたがって榛名山方面を撮影
 
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下方を見ると「内堀」の島も石葺されて、頂部には円筒埴輪が並べられています。このことから、島も神聖な場所と考えられていたことが分かります。
 
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西方向に設置された説明板には、赤久縄山・稲含山(左奥)、妙義山と浅間山(右奥)の手前に「二子山古墳」(左)と「古墳時代の水位跡」(左から中にかけて)、「かみつけの里博物館」で説明されていた「下芝谷ツ古墳」(右)の位置関係が描かれています。
 
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「円墳部」見た「方墳部」
 
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「方墳部」にある階段を下りて「円墳部」の北側に出ました。下から見上がるとその高さに圧倒されます。
 
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2段になった「中島(なかじま)」の性格は、①古墳における祭祀(さいし)の場、②近親者や従者の埋葬施設(陪塚、ばいづか)、などが考えられると説明されています。
 
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「内堀」と「外堀」の間にある通路(中堤)で戻ることにしました。
 
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怖い顔をした「人型埴輪」
 
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後先になりましたが、「保渡田八幡塚古墳の石棺展示室見学のご案内」と書かれた立て看板を見かけました。
 
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「薬師寺古墳」についても見学したくなりました。「八幡塚古墳」の「円墳部」から「薬師寺古墳」があるという「西光寺」までは直線距離で200mほどですが、戻り道のことを考えて駐車場へ戻り、車で移動することにしました。

 

県道123号に出て「西光寺」へ向かいました。境内は少し小高くなっているようですが、木立で覆われているため、古墳らしい形状は確認できません。
 
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東方向へ歩いて墓地に出ましたが・・
 
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発掘・復元されていませんから外観から「薬師塚古墳」を判断することが難しいのは当然でした。それ以上の探索は断念し、次の目的地へ向かうことにしました。

 

井出交差点から県道10号で上越新幹線の高架下まで戻りました。「かみつの里博物館」のスタッフに教えてもらった「三ツ寺1遺跡」があるという場所です。小さな案内看板を見つけました。
 
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発掘調査のあとは埋め戻されたことを聞いていましたから、高架下に立てられた「古代豪族の大居館 三ツ寺Ⅰ遺跡」の説明看板を読むだけですが・・。
 
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(続く)

2017年6月21日 (水)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その12) 「保渡田古墳群」(中編)

古墳の右手前にある史跡保渡田(ほどた)古墳群「八幡(はちまん)塚古墳」の石碑は逆光のため文字が読みづらくなってしまいました。
 
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外周溝
 
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NHK総合テレビの番組で詳しく紹介された「人物・動物埴輪群像」(A区形象埴輪配列区)は、周堀の中堤にある円筒埴輪列に囲まれた長方形の区画内に、数10体の人物・動物埴輪群が再現されていました。
 
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中央部分には相対する新旧の王とその妻がいて、その周辺には近くで仕える武人群や楽人、さらには内廷に仕える女性の埴輪群が並列し、馬と馬飼人・鶏・水鳥なども列を作って配置してあります。
 
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これらの多彩な人物・動物埴輪群の構成は葬送の荘重・厳粛な祭儀、つまり王に対する7種類の儀式を埴輪で説明しているのだそうです。朱に彩られた王の埴輪に注目すると、次第に埴輪のグルーピングが見えてきました。
 
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外掘と内堀の間にある中堤の縁に並ぶ多数の円筒埴輪
 
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内堀にある順路にしたがって方墳部へ向かいます。前方に2つの中島が見えます。
 
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「墳丘と葺石」の説明書きには、『墳丘は、堀を掘った土と近くから集めた土を盛り上げ、たたき締めて築かれた。斜面には、榛名山東南麓の側から採取した石により「葺石」が施される。上段・中段の葺石は、やや石の密度が高い状態で施工され、下段の葺石は間隔をあけて省略していた。葺石のなかに見える縦の石列は、一人ないし一班の作業単位(工区)だと考えられる。各段の平坦面のうち中段平坦面には、玉石がしかれていた。』 とあります。
 
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「方墳」の右手前に階段が設置してありました。
 
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「方墳」中段の左隅から見た「八幡塚古墳」は、当ブログで紹介した神戸市垂水区の「五色塚古墳」と長野県上田市の「森将軍塚古墳」と同様、斜面のすべてが石で葺(ふ)かれていることが分かります。
 
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「方墳部」の頂部に上がり、その先端方向を見ると、三辺は隙間なく円筒埴輪が並べてありました。
 
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「円墳」へ上がるスロープも同様です。
 
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「円墳部」の頂部
 
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この「八幡塚古墳」の「円墳部」の頂部には意外なことに下へ降りる階段がありました。
 
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地下室には「船形石棺」と「副葬品室」が再現してありました。
 
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「舟形石棺の分布」を示すパネルには、阿蘇石製の舟形石棺は九州から瀬戸内海沿岸と畿内まで分布しており、その他の石で作られた舟形石棺は出雲、丹後、越前、上毛野(北関東)に独立して存在していることが分かります。
 
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また、「舟形石棺」と「竪穴式石槨」が並んで埋葬されていたことも図解されています。
 
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(続く)

2017年6月20日 (火)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その11) 「保渡田古墳群」(前編)

「かみつけの里博物館」の右脇を通って、その西隣にある「二子山古墳」へ向かいました。左手には「休憩所(はにわ工房)」と「はにわ窯(かま)」があり、そこで適宜開催される「はにわ体験教室」(予約制)では「保渡田八幡古墳」に並べる約45cm(実物大)の円筒埴輪(えんとうはにわ)を粘土で作ることができるようです。
 
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「二子山古墳」の周辺にあった多数の「竪穴式小石槨(たてあなしきしょうせっかく)」の説明看板がありました。「保渡田(ほどた)古墳群」に葬られた王に属していた高い階層の人々を葬った10基の古墳(5世紀末から6世紀ころの築造)と噴火後に造られた数基の古墳があり、さらにそれらの人々に仕えていた身分の低い人たちの墓地(噴火後の6世紀の築造)が隣接する「井出北畑遺跡」で発見され、現在は移築保存されていることが説明されています。
 
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二子山古墳」の前に出ました。
 
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『「二子山古墳」は史跡保渡田古墳群で最初に造られた墳丘長(ふんきゅうちょう)108mの前方後円墳で、まわりに内堀と外堀を巡らしている。外堀まで含めた総長は213mあり、墓域の面積は約3万平米と広大である。また、内堀の中には円形の中島(なかじま、注、祭祀場)が4つ存在している。墳丘の頂上に設けられた埋葬施設は、大型の舟形石棺(ふながたせっかん)である。数千体の円筒埴輪(えんとうはにわ)が墳丘や内堤・外堤に並べられていたと推定される。発掘前の墳丘の形状をできるだけ変えない手法で整備され、堀の部分のみ形を再現した。つまり、葺石(ふきいし)を剥き出しにせず、土と草で覆われた状態にしてあります。』(出典:説明看板)
 
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「二子山古墳復元図」(100分の1)で示されているように、前方後円墳の名前とは裏腹に、円墳が手前(下側)で方墳が奥(上側)となる不死の壺(つぼ)をモチーフとして造られているのです。(注、NHK総合テレビの番組で解説された) ちなみに、「二子山古墳」は西南西の方向を向いています。
 
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「二重の掘」を横切って続く順路
 
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外側の掘
 
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内側の掘にある中島のひとつ
 
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円墳へ上がる階段
 
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円墳の頂部にある舟形石棺のイメージ模型(原寸大)です。石棺の石材は高崎市南部の観音山丘陵から凝灰岩(ぎょうかいがん)を切り出し、10kmほど運んできたものと説明されています。
 
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方墳部へ続く順路
 
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方墳部に近い場所にある内堀の2つの中島
 
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順路は方墳部の下まで続いているようです。案内板の地図に表示された「北畑遺跡」はすべて耕作地になっています。航空写真で確認すると、簡易舗装された順路は方墳の中央部で行き止まりとなっていますが、人が通るようになったためか現在は未舗装の小道が内堀と外堀を巡る順路まで続いているようです。
 
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円墳の方向を振り返りました。
 
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円墳から階段を下り始めると、左手奥に「八幡(はちまん)塚古墳」が、右手に「かみつけの里博物館」、「休憩棟」、「はにわ工房」が確認できました。
 
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次いで、石葺(いしぶき)の「八幡(はちまん)塚古墳」へ向かうことにします。芝生で覆(おお)われた外周溝(外堀)と内周溝(内堀)の間に円筒埴輪が並んでいます。
 
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『「八幡塚古墳」は、かつて大きく削られていたため、この古墳に限って、発掘調査結果を基に、保存用の土を厚く盛って、築造時の姿に造られた時の姿に復元・整備することになったことが説明されています。墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られる。周囲には、内堀・外堀・外周溝が巡り、それらの間には内堤(ないてい)・外堤(がいてい)が設けられる。墓行の長さは約190mに及ぶ。内堀の中には4つの島(中島)があり、この古墳の特徴となっている。この古墳には、外界との垣根である円筒埴輪が幾重にも列をなして並べられ、その数6000本と推定される。内堤上の2か所には人物・動物埴輪を億区画があり、各々50体以上が並んでいたと考えられる。遺体を納めた施設は、後円頂部に2か所存在した。後円部の中心には古墳を築いた豪族本人の棺「(ひつぎ)と考えられる舟形石棺が据えられた。その脇には竪穴式石槨(たてあなしき しょうせっかく、注、木棺を石で囲んだもの)も発見された。近親者の埋葬施設であろう。』(出典:石碑に書かれた説明)
 
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(続く)

2017年6月19日 (月)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その10) 高崎市の「かみつけの里博物館」

富岡市から前橋市まで走った県道10号を少し戻ることにします。まず利根川を渡り、次いで関越自動車道の高架下を通過して高崎市に入り、さらに上越新幹線の高架下を抜けた井出交差点で右折し、県道123号を700mほど北進した保渡田町(ほどたまち)にある「かみつけの里博物館」に到着。群馬県庁から車で約20分の場所です。広い駐車場(無料)が2か所ありますが、博物館に近い方に車を停めました。

 

「上毛野(かみつけの)はにわの里公園の概略図が描かれた案内看板によると、「かみつけの里博物館」を挟むように2つの前方後円墳、「国史跡二子山古墳」と「国史跡八幡塚(はちまんづか)古墳」が位置し、少し離れた場所にはもう一つの古墳「国史跡薬師塚古墳」と「土屋文名記念文学館」があります。ただし、公開されているのは色付けされたエリアだけのようです。
 
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こちらは駐車場から見た博物館の外観です。
 
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「かみつけの里博物館」は榛名山(はるなさん)東南麓で出土した5世紀後半(古墳時代)の人物・動物埴輪や当時を再現した模型が展示されている高崎市の考古博物館です。「保渡田(ほどた)古墳群」がある「上毛野はにわの里公園」内にあります。開館時間は午前9時30分から午後5時(入館は午後4時30分)まで、休館日は毎週火曜日、料金は大人200円(65歳以上は無料)。写真は正面エントランスで、その両側にコの字型をした建物があり、右側が展示室になっていました。
 
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4か月ほど前、1月20日にNHK総合テレで放送された「歴史秘話ヒストリア選 古代史ミステリー 古墳はワンダーランド」~地下に眠るお宝!壁画巨大船を地中に発見!~で紹介されました。古墳にも関心を持つ私は発掘・再現された1500年前のその古墳と出土品を自分の目で見たくなったことが今回のドライブ旅を思い立った理由のひとつです。

 

[保渡田古墳群の予備知識] (出典: Travel.jpのサイト

 

「上毛野はにわの里公園」内にある史跡「保渡田(ほどた)古墳群」は、「八幡塚古墳」、「二子山古墳」、「薬師塚古墳」の3つの前方後円墳があります。博物館の西にあるのが「二子山古墳」、北側には「八幡塚古墳」と「薬師塚古墳」が500mほどの範囲に並んでいました。注、上記の順に築かれた3つの古墳はほぼ同じサイズですが、現在西光寺が建っている「薬師塚古墳」は発掘・復元されていない

 

その中でも「八幡塚古墳」は1500年前の築造時の姿が復元された貴重な前方後円墳です。また、「保渡田古墳群」の周辺も古墳が作られた当時の社会がそのまま見られる稀有(けう)な場所です。その理由は1500年前に大噴火した榛名山にありした。大噴火によって降り積もった大量の火山灰によって榛名山の東南に栄えていた古代社会は、イタリアのポンペイ遺跡のように、そのまま閉じ込められてしまったのです。

 

(1)八幡塚古墳の説明

 

[八幡塚古墳」は長さが96mで三段になっており、斜面が葺石(ふきいし)で覆(おお)われています。この葺石の数はなんと40万個近くもあるのです。また、下段から上段へと次第に葺石の密度が高くなるように葺(ふ)かれています。各斜面の縁にはなんと6000本もの「円筒埴輪(えんとうはにわ)」が直線上に並べられています。古墳自体は広大な二重の堀に囲われ、内堀のなかには4つの円形の島が作られています。

 

後円部では死者が「舟形の石棺」に葬られていましたが、4つの島はこの後円部を囲むように作られており、ここで祭祀が行われたと推定されているそうです。

 

また円筒埴輪で結界(けっかい、注、聖と俗の境界)を張っていたと思われますが、6000本もの埴輪をつくることは、余程力のある豪族でなくてはできません。ちなみに埴輪はこの古墳の傍で焼かれたといわれますが、数が多いために一部は15kmほど南の藤岡にあった窯場で作られたとのこと。焼くための薪や材料の粘土だけでも大変な量です。

 

また外側の堤の上には「盾持ち埴輪」も所々に置かれています。これは、邪悪なものから古墳を守る役目をしていたといわれます。いわば聖域の守護者としての役割を担っていたのです。結界といい、いかに埴輪が古墳になくてはならない存在であるかが良く分かります。

 

(2)下芝谷ツ古墳の説明 

 

榛名山の噴火の土石流に飲み込まれていた古墳が近くにあるそうです。「下芝谷ツ古墳」です。これは「方形積石塚」で朝鮮半島に由来する古墳です。ここからなんと黄金の飾り履が出土しました。日本では熊本県の江田船山古墳、奈良県の藤の木古墳や滋賀県の鴨稲荷山古墳など5世紀後半から6世紀の時期に、全国で20例程しか出土していない貴重なものです。

 

(3)三ツ寺Ⅰ遺跡の説明

 

保渡田古墳群の近くで、豪族の館が発掘されました。保渡田遺跡群から南東約1kmの場所で発見された「三ツ寺1遺跡」です。この館、上越新幹線の工事で見つかったもので、まだ全体の2/3が未発掘なのですが、写真のように、「かみつけの里博物館」で当時の姿が復元されています。

 

豪族の館は深さ3mの濠に囲まれ、1辺が86mの方形をしています。内部は三重の柵で2つに分かれており、写真左上の区画は生計を支えるゾーン、右下の区画は王が政治や儀式を司ったゾーンで、右下区画の中心にある大型の建物(赤い傘で、貴人が居る事が示されている)は建坪50坪もあり、当時東日本最大の建物だったといわれます。またこの建物の横には「屋根付きの井戸」があり、この井戸は祭祀専用の井戸であったといわれます。

 

実はここは崇神天皇を祖とする「上毛野氏(かみつけのし)」に関連した豪族、具体的には「車持氏(くるまもちし)」の館と推定されています。乗り物(輿)を提供する職務をしていた事から、雄略天皇より車持の名を与えられたのです。また、群馬県の「群馬」は奈良時代には「クルマ」と読まれていました。群馬は車持氏の「車」に由来した名前なのです。

 

保渡田古墳群の被葬者はこの車持氏なのです。また、上毛野氏は将軍として朝鮮半島まで行っていることから、前述の積石塚に葬られている渡来人は、この車持氏から招聘された可能性があるともいわれます。

 

                          ☆

 

予備知識の説明が長くなりました。それでは「かみつけの里博物館」に展示されている内容を入館時にもらったパンフレットを使って紹介しましょう。予備知識の説明が長くなりました。それでは「かみつけの里博物館」に展示されている内容を入館時にもらったパンフレットを使って紹介しましょう。「かみつけの里博物館」の館内は撮影が禁止されていますから、写真入りで同博物館の常設展示を紹介する高崎市のhpYahoo! JAPANの旅サイトTravel.jpのサイトもあわせて参照してください。

 

<エリア1> 「よみがえる5世紀」には、榛名山東南麓古墳社会復元模型(縮尺:1/500)が置かれ、ビデオを使って榛名山の噴火、火災流に呑まれた3つの古墳、復元された二子山古墳と八幡(はちまん)塚古墳を解説しています。

 

<エリア2> 「王の館(三ツ寺Ⅰ遺跡)」の復元模型(縮尺:1/100)は日本ではじめて発見された豪族の館跡と遺物群が展示されています。壁面に描かれた発掘調査図から王の館は一辺が86mもの規模があったことが分かります。上越新幹線の建設工事が行われた時に発見され、発掘調査後には埋め戻されたことが説明されています。

 

<エリア3> 「王の姿を探る」には全国の5世紀の前方後円墳分布図と古墳の動向から三ツ寺の王や上毛野地域がどのような位置づけであったかを推定し、三ツ寺Ⅰ遺跡、丸山遺跡、堀越遺跡(栃木県)など各地の豪族の館を比較しています。

 

<エリア4> 「王の墓を探る」には「八幡塚古墳の築造時推定復元模型」(縮尺1/80)を中心に、当時の巨大古墳造りについて、かかわった人々・使われた技術・築造工程などで、具体的に説明しています。

 

<エリア5> 「広がる小区画水田」には、大噴火によって5世紀の地表が良好に保存されていたため、当時の大規模な農地の状況や田作り作業の詳細な情報が遺跡に残されたことを紹介しています。発掘データから復元した古墳時代の「水田模型」(縮尺1/80)も展示されています。

 

<エリア6> 「火山灰に埋もれた村」には、火山灰によって覆われた下芝遺跡群、黒井峯遺跡、中筋遺跡などの発掘データをもとに、榛名山東南麓の典型的な村の姿を縮尺1/80の模型で再現しています。竪穴住居、大祭祀(だいさいし)の場をイメージした出土物展示があります。

 

<エリア7> 「海の向こうからきた人々」には、下芝谷ツ古墳から発見された日本最古の飾履(クツ)の展示を中心に、朝鮮半島の影響を受けた積石塚古墳分布やさまざまな渡来系文化を紹介しています。ちなみに、NHK総合テレビの番組では発掘された王とその家族の遺体を調査した結果、馬を育てる適地を求めて長野県南部(伊那地方)から群馬県に移り住んだと推定されることを紹介していました。つまり、騎馬民族の子孫だったと思われるのです。

 

<エリア8> 「埴輪(はにわ)に秘められた物語」には、保渡田Ⅵ遺跡から出土した埴輪群像を中心に、埴輪が物語るストーリーを映像で解説し、王の埴輪を中心とする儀式の群像、狩人の埴輪や猪の埴輪が示す狩猟、葬送や王位継承などの儀礼、当時の精神世界を表していることを紹介しています。

 

<エリア9> 「埴輪の人・動物・もの」には、種別ごとに埴輪を展示し、あわせて国内各地の事例を紹介しながら、埴輪が示す古墳時代の人々の実像を紹介しています。

 

次回の記事から「保渡田(ほどた)古墳群」を詳しく紹介します。(続く)

2017年6月18日 (日)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その9) 「群馬県庁舎展望ホール」

「敷島公園バラ園」の駐車場を出発し、利根川縁の道路を南下し、「ヤマダグリーンドーム前橋」の脇から県道10号の高架下を抜けて国道17号に入り、県庁南交差点を左折すれば群馬県庁に到着しました。
 

県庁東交差点から県庁の敷地に入り、高層棟(県庁舎)と低層棟(県議会)の間を抜けた県民駐車場(利用できる時間帯:午前8時分から午後10時)に車を停めました。県庁や県警本部などを訪れる人は2時間までは無料(それ以降は100円)/30分)で利用できます。写真は駐車場側から東の入口方面を撮影したものです。ちなみに、遠くに見えるグレーの建物は前橋合同庁舎。
 
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こちらは地上32階建ての県庁舎
 
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県議会の建物脇から見た県庁舎の下部
 
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車の通路を横切って県庁舎に入りました。展望用エレベーターで最上階(32階)まで一気に上がりました。エレベーターホールからは西方向、隣の高崎市の市街地とその先にある榛名山系(はるなさんけい、写真右端)を、西南には妙義山(みょうぎさん)の山並みを望むことができました。ちなみに、妙義山は山系の名称で、最高峰は谷急山(1162.1m)。日本三大奇形の一つです。
 
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この日は幸いなことに浅間山を遠望することができます。
 
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右手に移動して榛名山系を撮影
 
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こちらは壁面にある前橋市と高崎市の夜景で、榛名山系と浅間山がシルエットとなって写っています。
 
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実は、榛名山系からなだらかな傾斜で高崎市へと続くこの景色を高い場所から確認したかったのです。榛名山系の主峰である「榛名山(はるなさん)」(標高1390.3m、通称:榛名富士)はその頂上付近にはカルデラ湖があり、それらの周囲を外輪山である最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ、標高1449m)や尖った峰の相馬山(1411m)などが取り囲んでいますから、八ヶ岳山系や箱根山系のように複雑な形をしています。50万年前から噴火(ふんか)を繰り返し、5世紀から6世紀にかけての噴火でマグマを大量に噴出(噴出)させたそうです。活火山であった榛名山の地形(広大な山麓)が次の目的地の成り立ちを理解するために不可欠だったのです。

 

エレベーターホールの東側にある「展望ホール」に向かいました。
 
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右手に南方向の展望が広がりました。大きくうねりながら流れる利根川に架かる国道17号の群馬大橋、前橋市と高崎市の市街地の先には奥秩父(おくちちぶ)山系が見えます。
 
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東方向には前橋市から桐生市と伊勢崎市の市街地が続いています。
 
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県庁東交差点から東へ伸びる並木道の右手には前橋市役所の庁舎が見えます。
 
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北側の展望ロビーへ移動しました。真下には群馬県警本部、左下に前橋公園(注、前橋城跡地)、右下は前橋地方裁判所があり、遠くには赤城(あかぎ)山系(標高1827.6m)を見ることができます。ちなみに、赤城山(あかぎさん)もカルデラ湖を持つ火山で、榛名山・妙義山とともに上毛三山の一つに数えられていますが、最高峰の黒檜山(くろびさん)を含む火山の総称です。
 
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少し左に移動すると、「利根川と「ヤマダグリーンドーム前橋」の間に先ほど「敷島公園」から走った道路も確認できます。隣接する渋川市の先に見える2つの山は赤城山系から続く子持山(右)と小野子山(左)。
 
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前橋市にある群馬県庁舎展望ホールからは周辺の地理的な特徴に加えて、群馬県の中南部にある県の政治・経済・文化・交通の主要地域である前橋市と高崎市、南東部にある銘仙(めいせん)で知られる伊勢崎市と奈良時代から1200年の歴史がある桐生織(注、京都・西陣織の影響を受けている)と近世になって織られるようになった羽二重(はぶたえ、注、細い2本の経糸を使用)が有名な桐生市などの位置関係も把握することができました。(続く)

2017年6月15日 (木)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その8) 「前橋市蚕糸記念館」

「バラ園」の奥(北西の角)にある前橋市の「蚕糸記念館」(入館無料)にも立ち寄りました。
 
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明治44年(1911年)に国立原蚕種製造所前橋支所の本館として建てられた建物(注、国内6地方にあった支所のうち現存する唯一の棟)で、その後は名称が蚕糸試験場などと変わりましたが、昭和56年(1981年)に前橋市が払い下げを受け、解体・移築し、前橋市蚕糸記念館としてこの地に設置したそうです。玄関のエンタシス状の柱、レンガ積みの基礎、上下開閉の窓、入口のドアの低い取手(とって)、避雷針の設置など、明治末期の代表的な擬似洋風木造建築物の特徴をもっています。(出典:現地の説明看板)

 

館内には玄関から奥に続く廊下とそれと直行する廊下(つまり逆T字形の構成)によって4つの展示室が結ばれていました。順路にしたがい右手の廊下へ進むと、壁面に掛けられたパネルには「日本で最初の機械製糸場跡」(明治3年に前橋藩がスイス人技師を招いて住吉町で創業した藩営機械製糸所)および「糸の町前橋」の歴史が説明されていました。その先に第一展示室のドアが見えます。
 
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第一展示室は設立の経緯(いきさつ)と開所当時の様子を示す資料が並べられていました。まず、雅蚕(ちさん)人工飼料の「くわのはな」の説明とサンプルの展示および「繭見本」の展示があります。
 
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「天蚕(てんさん)」は日本原産の大型の野生絹糸虫(けんしちゅう)で、天然の山野でナラ・クヌギ・カシワなどの葉を食物として、美しい「緑色の繭」をつくることから「青やまこ」とも呼ばれています。第二次世界大戦によりその生産が途絶えましたが、長野県蚕業試験場などの30年にわたる努力が功をそうして現在長野県13市町村の約100戸で飼育されています。(出典:説明パネル)
 
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「蚕の一生」を説明するサンプル標本
 
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第二展示室に移ると、「絹の起源」と「養蚕に使われる道具類」の展示がありました。
 
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「蚕棚(かいこだな)」(右側)と蚕(かいこ)が繭(まゆ)を作る部屋となる「蔟(まぶし)」(左奥)
 
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第三展示室には製糸業に用いる道具と器械が並んでいました。

 

「毛羽(けば)取機」
 
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「生糸ができるまで」のコーナーには、4つの工程である①繭に熱を加えて蛹(さなぎ)を殺し、乾燥させ水分を取り除いて乾繭を作る、②鍋で蛹を煮て煮繭を作る、③繭の糸口を見つけて数本の糸を集めて生糸にして寄りをかけて小枠に巻き取る繰糸(そうし)、④小枠に巻き取った生糸を乾燥させてから太枠に巻き取る揚返(あげかえ)し、の説明と「繭煮鍋(まゆになべ)」と糸口を引く「箒(ほうき)」のサンプル展示があります。
 
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繭の糸口を見つけて小枠に巻き取る旧式の「牛首(うしくび)」とその改良型である上州座繰機(じょうしゅうざぐりき)は安政時代のものです。
 
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生糸の品質を計る秤(はかり)である「検位衡(けんいこう)」および糸の太さを調べるために一定の長さの糸を取り出す「検尺器(けんしゃくき)」など
 
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小枠(こわく)に巻き取った生糸を大枠に巻き取る「揚返器(あげかえしき)」
 
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野生の蚕蛾(さんが)の繭から取った「さくさん糸」、繭を真綿に成型して指先で紡(つむ)いだ「手紡(てぼう)」、渋柿で染めて生活素材として活用された「染糸(そめいと)」
 
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「結城紬(ゆうきつむぎ)」
 
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絹糸を何回撚(よ)ったかを計るための「検撚器(けんねんき)」
 
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「撚糸用六角棒」と「まわたつむぎ器」
 
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「撚糸機(動力式)」
 
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「糸巻機」と「糸撚車(いとねんしゃ)・紡車(つむぎぐるま)・竹車(たけぐるま)」
 
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見学コースで最後となる第四展示室には機織(はたお)りと養蚕信仰の資料がありました。

 

紡(つむ)いだ糸を整理したり、糸の必要量を数えたり、染色した糸を乾燥させ、杼(ひ)に巻き取る時に用いた折りたたみができる糸車である「糸かせ」
 
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座った状態で使う機織り機である「居座機(いざはた)」(奥の大きな器械)、織機の付属具である「筬(おさ)」(その手前)、布を機織り機で折る際に緯糸(よこいと)を素早く通すことができる「飛び杼(ひ)」(最前列、注、名札が居座機に載せられている)。ちなみに、「居座機」は5世紀ごろに中国から機織り技術が伝わったときに導入された織機であり、折進にしたがって座る位置を移動させることが名前の由来です。「筬」は竹または金属の薄片を櫛(くし)の歯のように並べて枠をつけたもので、経糸(たていと)を整え、緯糸(よこいと)を打ち込むのに使います。
 
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織り機の台に腰をかけた状態で使用する「高機(たかばた)」は木製手機(水平織機)の一種で、大和機または京機とも呼ばれます。(注、写真に写るのは足踏み式で踏み木が4本、つまり経糸を通す小さな穴が空いた糸状のものを収める綜絖枠(そうこうわく)が4枚あるタイプで、ペダルで綜絖枠に固定された経糸をまとめて上下させて緯糸を通す開口部を作ることができる) 原始的な織機である「地機(居座機)」を改良して、機の位置が地機より高い位置にあることが名前の由来。注、「居座機」と「高機」はいずれも「手織の機」で、動力を使用する織機(自動織機)と区別される
 
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ちなみに、当ブログでは、「インドネシア・バリ島」(2015年)と「ミャンマー・古都アマラブラ」(2017年)の記事で海外の機織り機を紹介しています。

 

かなり専門的な展示でしたが、分りやすく説明されていました。子供の頃に見た記憶があるものがいくつも展示してあり、昔を懐かしみながら館内全体を見学しました。

 

最後に養蚕についての薀蓄(うんちく)です。紀元前2000-3000年前に中国で発祥(はっしょう)したとされ、紀元前200年ころ(弥生時代)に稲作とともに日本に伝わり、大宝律令が制定された701年には租税(祖・庸・調)を絹で納める制度が定められました。(例、調布の地名)

 

同様に、隣接するアジア諸国(インド・ペルシャなど)やシルクロード(絹の道)の名にあるように陸路や海路でヨーロッパ(エジプトやローマ帝国など)へも伝わり、中世になるとヨーロッパでも生糸の生産が始まりました。 

 

「富岡製糸場」の記事で紹介したように、日本は明治初期から国策として生糸の生産を拡大する一方、先行するヨーロッパで病害が発生したてめ養蚕が大打撃を受けたことで、日本が生糸の主要輸出国になりました。その後も日本の生糸産業は興隆を極めて、昭和5年(1930年)には世界一の生産量(40万トン)を誇りました。しかし、第二次世界大戦後は海外諸国の安い生糸に押されて日本の生産量(養蚕農家)が激減し、1970年代中ごろには10万トンを切り、中国や韓国からの輸入が急増しました。現在は国内で消費される生糸の99%が海外製品になっているそうです。また、国内の生糸生産量は群馬県(シェア40%)と北関東・南東北・甲信・南九州に限定され、生糸を製造する企業は2社のみとなりました。ちなみに、繭の生産量では中国・インド・ブラジルが多いとのこと。

 

今回のドライブ旅は始まったばかりですが、ここで投稿を小休止します。(続く)

2017年6月14日 (水)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」 (その7) 前橋市の「原嶋屋総本店」と「敷島公園バラ園」

午前11時20分に「富岡製糸場」近くの駐車場を出発。国道254号(西上州やまびこ街道)のしののめ跨線橋南交差点を左折して県道10号に入り、前橋市へと向かいました。丘陵地帯に続く県道10号は車の通行が比較的少なく快適なドライブを楽しみながら安中市へ入り、碓氷川を渡れば高崎市です。

 

次の目的地はこの群馬県の中南部に位置する高崎市にありますが、隣の前橋市にも立ち寄ることにしました。関越自動車道の高架下を通過して前橋市に入り、利根川に架かる中央大橋を越えると前橋市の中心部です。前橋公園、群馬県庁、前橋市役所などがあります。前橋公園の中を通過し、大手町交差点を左折、川を渡った先、2つ目の交差点角。ちょうど1時間で「焼きまんじゅう」の「原嶋屋総本店」(前橋市平和町2-5-20)に到着。

 

駐車場に沿って造られた左手の白壁と時代劇のセットのような古風な造りが印象的です。「やきまんじゅう」と染め抜かれた暖簾(のれん)を潜(くぐ)りました。
 
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店内には調理場と向かい合う待合所のイスが並び、店内で食べる客は奥の小上がりが利用できます。
 
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注文をうけてから焼き始めるため、10分ほど待つ必要がありました。その間、店内を眺めていると「焼きまんじゅう おいしく食べるの図」が目に入りました。
 
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有名店らしく、取り上げられたテレビ番組のリストおよび芸能人の色紙や写真が壁面に掛けられています。
      

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「やきまんじゅう」(200/串)が2串盛られた皿を店員さんから手渡されました。
 
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通常のイートイン・スペース(小上がり、午後3時まで、ひとり一本以上)が空かないため、通常は利用しないと思われる囲炉裏のある小上がりを勧められました。
 
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添えられた小さな専用竹ホークでまんじゅうを串から外して1個ずつ食べました。
 
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ふわふわしていて、饅頭(まんじゅう)というよりも蒸しパンを焼いた食感があり、かなり甘辛い味噌がたっぷり塗られていました。群馬風の濃い味が同行者の口には合わなかったようで、私がほとんど(5個)を食べることになりました。見た目以上にボリュームがあって昼食には十分な量です。昼時でもあったこともありますが、滞在した30分弱の間にテイクアウトとイートインの来店客が絶えず、評判通りの人気店であることが分かりました。

 

北へ2-km走った敷島公園内にあるバラ園で開催されていた「春のバラ園まつり」(開催期間: 5月13日~6月4日)に立ち寄りました。広い駐車場(無料、約150台)が利用できます。南北に長い洋風のバラ園で撮影したバラの写真をたくさん紹介したかったのですが、デジカメのモードダイヤルが誤ったポジション(手動モード)になっていたため、過剰露出で見るに堪えないものになってしまいました。バラ園の様子をお伝えするため、あえて数枚だけ掲載することをご容赦ください。なお、綺麗な写真は前橋市のhpにある「春のバラ園まつり関連」およびトリップアドバイザーの「敷島公園バラ園」で見ることができます。
 
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ここでモードダイヤルの誤設定に気づいて「自動」に再設定しました。デジカメのモードダイヤルは手で触れただけでは動かないのですが、ショルダーバッグに出し入れした時にしばしば経験するトラブルです。ただし、撮影済みの写真は一応写っていると判断し、撮り直しをしなかったのはお粗末な対応でした。バラではありませんが、ついでに撮影した園内の一画にある温室内の熱帯植物を紹介します。
 
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(続く)

2017年6月13日 (火)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その6) 世界遺産「旧富岡製糸場」⑥

保存修理工事中の国宝「西置繭所(にしおきまゆじょ)」を見学することにしました。「ブリュナエンジン(復元機)」展示場のすぐ先に仮設の窓口があります。ちなみに、公開は2019年春までの期間限定とのこと。ヘルメット貸出料は大人200円。
 
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「西置繭所」のやや左手、「副蚕場」の脇から専用通路を通って「保存修理仮設見学施設」へ向かいます。近くで見ると「西置繭所」の外観と思われたものは、保護用シートに印刷された壁面の写真でした。「東置繭所」と同様、2階が乾燥させた繭を貯蔵していましたが、1階の北東エリアは蒸気機関を動かすための石炭置き場として使われたため、東面には壁がなかったそうです。この部分のレンガは「富岡製糸場」が操業を停止する数年前の昭和56年(1981年)ころに積まれたとのこと。
 
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専用通路が「西置繭所」の右端部にある「保存修理仮設見学施設」に行き当りました。入口は右に折れた正面側にあるようです。
 
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「西置繭所」の前のエリアはトラックや重機の足場を確保するため鉄板が敷かれ、工事用のプレハブ事務所が建てられています。その後方には煙突のある「蒸気釜所」と、保存修理中の「乾燥場」、そして「繰糸場」の屋根が見えます。右端半分に写るのは「副蚕場」の青い屋根です。
 
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「保存修理仮設見学施設」は階段で上がった3階にあると表示されていますから、ヘルメットを被(かぶ)った同行者は階段ではなくエレベーターに乗るようです。残念ながらこの先は撮影禁止エリアです。
 
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3階の見学エリアには保存修理後の完成イメージ(縮尺1/50の模型)が展示してあり、西置繭所の歴史や保存修理計画、また調査解体の結果分かったことについて、映像とグラフィックパネルを用いて展示解説を行っていました。また
、ガラス窓越しに保存修理中の「西置繭所」の屋根を見ることもできました。 

一番奥まった場所にドアのない通路(開放廊下)がありました。そこへ入って「西置繭所」の建物に近づくと、瓦がすべて撤去されて野地板が剥(む)き出しになった屋根を間近で見ることができました。これは昨秋見学した姫路城の「りの一渡り櫓」と「りの二渡り櫓」の保存修理工事と同様の展示方法です。

 

参考情報です。2015年5月に鉄骨フレームの構造体を使って「素屋根」(注、建物を保護する仮の屋根)をかける工事が始まり、屋根瓦の取り外し、瓦の下に敷かれた杉皮の解体、傷んだ野地板(のじいた)の解体、2階ベランダの解体、レンガ壁の一部解体、1階床板と根太(ねだ)の解体、建具の取り外し、レンガ壁の補強、屋根(軒先)の乱れを補正するために柱の高さを調整する揚屋(あげや)作業、ベランダ用部材の補修までが2年間に行われてきました。(2017年5月28日現在)

注、上記の詳細については富岡製糸場のhpにある「西置繭所保存修理工事」の(1)(2)(3)(4)を参照)
 
 

反対側(北側)の階段を利用して1階に降りて見学用専用通路を戻りました。「西置繭所」の「保存修理仮設見学施設」の公開とともに、これまで公開されていなかった国の重要文化財「鉄水溜(てっすいりゅう)」も見学できるようになったことを3階にいたガイドさんの説明で知り、そちらにも立ち寄ることにしました。「西置繭所」の南端、「繰糸所」に近い場所にある「鉄水溜」は明治7年(1874年)の竣工した、直径15.0m、深さ2.4m、貯水量約400立方メートルの鉄製の水槽です。水を溜(た)め置くことによって軟水化させ、繰糸に適した水にするための水槽で、当初はレンガ積みの水槽が使われましたが、水漏れが発生したため、急遽(きゅうきょ)「鉄水溜」が造られたそうです。鉄製水槽は輸入した鉄板を使用し、横須賀造船所にて造船技術であるリベット接合を用いて組み立てられました。水圧を上げるため基礎は5段の石積みとなっています。ちなみに、平成18年(2006年)に国の重要文化財に指定されています。(出典: 説明看板の内容など)
 
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「鉄水溜」の前に見学用の階段がありますが、上から覗(のぞ)き込むには低すぎるようです。
 
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近づいて分かりました。水を出し入れするパイプがあった場所(覗き穴)から内部を見ることができるのです。
 
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低い場所にあるのは汚水の廃水槽かもしれません。
 
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その脇にある建物は説明がありません。
 
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「鉄水溜」の反対側に赤く錆びた機械があることに気づきました。上部に電動モーターがあり、その下部には羽根のようなものが多数見えますから、空調システムの屋外機かもしれません。説明ボランティアの方に尋(たず)ねましたが分からないとの返事が返ってきました。
 
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もと来た道を引き返す時、「西置繭所」の南端前にもコンクリート製の水槽があることに気づきましたが、この役割も不明です。
 
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ヘルメットを返却したあとは、「乾燥場」の前を通過。富岡製糸場」を退出するため「東置繭所」の中央にある通路を抜けて正面入口へ向かう途中、「東置繭所」の1階では「フランス式繰糸器実演」(午前10時から午前11時30分)がまだ行われていましたので、再度入ってみました。説明が細かくて長くなりますから、詳細については関連のYouTubeを参照してください。
 
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約2時間半に及んだ「富岡製糸場」の見学を終えて駐車場へ戻る途中、城町通りで面白い形をしたバスを見かけました。「まちなか周遊観光バス」(ガイド料100円)は乗り降り自由で、富岡駅東駐車場→富岡駅→まちなか交流館→富岡製糸場を往復していますから、富岡駅東駐車場や富岡駅を利用して富岡製糸場を観光する人には観光案内を聞きながら移動することができる便利なサービス(午前9時から40分毎、1日10便)でした。(続く)

2017年6月12日 (月)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その5) 世界遺産「旧富岡製糸場」⑤

南隣にある「揚返場(あげかえしじょう)」(見学不可)は小枠(こわく)に一度巻き取った生糸を大枠(おおわく)に巻き直す工程を行う場所で、湿度の高い日本では生糸を繭として固めていたセリシンの作用で再融着することを防ぐため、欠かせない工程だそうです。

 

その向かい側(東側)にある「診療所」は、『昭和15年(1940年)に建てられた、3代目の診療所です。(明治時代には病院といっていました)注、世界遺産「旧富岡製糸場②」の写真で分かる 当初の診療所は敷地の北東部に建てられ、フランス人医師が治療にあたった。また、官営所代においては治療費・薬代は工場側が負担していました。官営から片倉までの全期間を通じ厚生面が充実していたことが分かります』 と説明されています。
 
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その南隣にある「病室」
 
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通路が行き当たる「ブリュナ館(首長館)」(明治6年の建築、国の重要文化財)は、創業時に指導者として雇われていたフランス人ポール・ブリュナが家族やメイドと暮らしていた住居です。桟瓦葺(さんかわらぶ)きの寄棟屋根をもつ巨大な住宅です。高床式で周囲に回廊風のベランダをもつことで風通しが良く、開放感のある設計です。ブリュナが明治9年に契約満了で帰仏したあとは、寄宿舎や工女に読み書きや和裁を教える夜学校、後には片倉富岡高等学園の降車として利用されたため、内部は大幅な改造が加えられているそうです。
 
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「洋裁室」と「第一教室」の表示板が確認できます。
 
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「ブリュナ館」の周囲にそって歩くと、南東角に「場内の案内」と書かれた構内図がありました。
 
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敷地の南端に出ました。大きな桜の木々が印象的です。フェンスには国の重要文化財に指定されている「レンガ積排水溝」の説明看板があり、『製糸場から出る糸を取ったあとの排水と建物屋根の雨水ために造られたもの』 と書かれていました。
 
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フェンス越しに見下ろした鎧川(よろいがわ)と対岸の風景
 
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振り返って見た「ブリュナ館」の南面
 
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その西隣には何棟かの「寄宿舎」があります。
 
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「富岡製糸場」がこの地に建設された理由は、①富岡周辺で養蚕(ようさん)が盛んで生糸の原料である良質な繭が確保できる、②工場建設に必要な広い土地が用意できる(注、江戸時代末期に代官所の予定地)、③生死に必要な水が既存の用水を使って確保できる、④蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる、⑤外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意がえられた、ことが富岡製糸場のhpに説明されています。ガイドさんの説明では、それ以外にも、瓦やレンガを近隣から調達できたこともあったとのこと。

 

「東置繭所」の中央にある通路を抜けて「乾燥場」の前に出ました。左端に写っているのは「東置繭所」の2階へ上がる階段です。
 
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その格子塀に「ブリュナエンジン(復元機)」が公開中であると表示されています。
 
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「西置繭所」の方面へ歩きました。保存修理工事中のためフェンスで立ち入りが制限されています。
 
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左へ折れた場所にある純白の新しい建物の中に「ブリュナエンジン(復元機)」がありました。横型単気筒蒸気機関のようです。
 
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反対側へ回り込むと、回転を安定させる大きな弾み車(フライホイール、直径約2.5m、重量1200kg)がついていました。
 
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蒸気の供給パイプと排出パイプ、主軸の回転を調圧バルブに伝える多段可変のベルト駆動機構、シリンダー内にあるピストンの往復運動を主軸の回転運動に変換するクランク機構、そしてシリンダーの両側へ蒸気を交互に供給する切り替える弁を駆動するカムが主軸に取り付けられていることが確認できます。また、中央上部にある2つの金属球が主軸が回転する速度に応じて水平方向に広がることによってバルブを駆動し、シリンダーに供給される蒸気圧を調整する調速機(ガバナー)を備えた優(すぐれ)れものです。つまり、主軸の回転速度を一定に保つ仕組み(自動制御機能)が具備された完成度の高い蒸気機関です。注、シリンダー径254mm、ストローク500mm、つまりシリンダー容量約2万cc、出力は17.5馬力
 
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「ブリュナエンジン(復元機)」1/5縮尺模型には主軸のカムとシリンダーを繋(つな)ぐシャフトが付いています。
 
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「ブリュナエンジン(復元機)」の説明パネルには、『平成28年にできるだけオリジナルに近い材料を使って復元された。創業時の「ブリュナエンジン」は煙突脇の蒸気釜所に設置され、その主軸の回転力(エネルギー)は地下を経由して南隣の「繰糸所」と「揚返場」にある枠(わく)を回転させる動力として利用された。そして、動力源が電気モーターに換わる大正9年までの約50年間使われたた。昭和43年に当時の片倉工業から博物館明治村へ寄贈され、現在はその施設内に展示されている。この蒸気機関には銘板がなかったため、フランス人技術指導者の名前で呼んだ』 ことなどが書かれています。
 
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イギリスのジェームズ・ワットにより実用的な蒸気機関が開発された1769年の約100年後である1872年(明治5年)に導入されたこの「ブリュナエンジン」は最先端で完成度の高い蒸気機関であったと思われます。 

 

おまけとして、「川岸の風景」、「寄宿舎跡」、「ブリュナエンジン(復元機)」を案内してもらったことで、ガイドツアーは予定時間(40分)を大幅にオーバーして1時間近くになりました。

 

参考情報です。ガイドツアーに参加しなくても、スマホを使う音声ガイド(無料)も利用できますが、もし時間がゆるせば、ガイドさんの生の説明を聞くことができるガイドツアーへの参加をお勧めします。(続く)

2017年6月11日 (日)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その4) 世界遺産「旧富岡製糸場」④

国の重用文化財に指定されている「検査人館」の玄関付近は昔のままのファサード(建物の正面デザイン)だそうです。
 
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正門からのエントランスの反対側に記念碑があります。説明看板には、『創業翌年の明治6年(1873年)6月、明治天皇の皇太后及び皇后が富岡製糸場に行啓された70周年を記念して建設された碑である』 ことが説明看板に書かれています。
 
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ちなみに、その後方にある木造平屋建ての建物は、正門を出入りする人々をチェックしていた「候門所(こうもんじょ)」で、重要文化財「旧富岡製糸場」の「附(つけたり)」として指定されています。正門から少し奥まっているのは、「記念碑を」の建設にあたって移転されたためです。のちには社宅に転用されたとのこと。

 

「検査人館」の隣は「男子寄宿舎」
 
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続く「女工館」(別名: 2号館、1873年の竣工、国の重要文化財)は木骨レンガ造り、回廊様式ベランダ月の2階建て、東西棟の寄棟造りです。大きさは東西20m、南北17mほど。もともとはフランス人女性技術指導者の住居として建てられましたが、短期間しか使われず、1階は工女たちの食堂に転用されたそうです。ちなみに、ガイドさんによれば創業時の工場長尾高惇忠氏の娘が工女の第1号だったそうです。
 
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2階ベランダの格子天井は女性向けの優しいデザイン
 
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通路の反対側、「東置繭所」の南隣には富岡製糸場の中心的な建物で、東西に細長い国宝の「繰糸所(そうしじょ)」(明治5年/1872年建築、長さ140.4m、幅12.3m、高さ12.1m))があります。場所は敷地中央のやや南寄りに位置しています。木骨レンガ造り・平屋建てで、他の建物と同様に桟瓦葺(さんかわらふ)きです。注、江戸時代に開発された桟瓦葺は伝統的な寺などに使われた本瓦葺を簡素化・軽量化したもの
 
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屋根の上部には蒸気抜きの開閉扉が多数設置された「越屋根(こしやね)」が取り付けられています。注、状況に応じて手動で開閉する仕組み
 
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ガイドさんによれば、丸い形をした鬼瓦は繭(まゆ)をモチーフにしたものだそうです。
 
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「繰糸所」の内部に入ると、紡績工場と同様、長い通路の両脇に「自動繰糸機」(日産製、注、正確に言えば日産に吸収合併されたプリンス自動車製)が並んでいました。
 
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「繰糸場」は繭(まゆ)から生糸(きいと)をとる作業が行われた場所であり、創業当初は「東置繭所」で見学したフランス式繰糸器(そうしき)300釜が設置された世界最大規模の工場であったそうです。現在、建物内部には昭和40年以降に設置された「自動繰糸機」が残されています。電気照明がない時代、採光のため東西に長く造られた「繰糸所」の建物には多くのガラス窓が設けてあるため、自動繰糸機を覆う保護用ビニールシートに外光が反射しています。注、鉄製の窓枠と窓ガラス、両者を固定するパテはフランス製
 
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「自動繰糸機」は、繭から糸口を探し出し、定められた太さに対応する複数の繭糸を組み合わせ、形状の異常である節や太さのムラがないように小さな穴やスリットを通して生糸に仕上げる過程を機械化・自動化
したものです。もし、この工程のどこかで異常が検出されると繰糸作業は自動的に停止し、女工が即座に対応する仕組みになっていたそうです。例、繭から採取される繭糸は最初と最後(外側と内側)では太さに差があるため、繭糸を交換あるいは追加する必要が生じる(注、繭糸の長さは平均約1500m、そのうち利用できるのは約1300m)
 
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繭を追加するための駆動レバーである「接緒桿(せっちょかん)」と接緒に失敗した繭を回収する「落繭捕集(らっけんほしゅう)バスケット」
 
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複数の繭糸(けんし)を小さな隙間を通して1本の生糸にまとめる「集緒機(しゅうちょき)」、正しい糸口の出た繭を運ぶ容器である「給繭器(きゅうけんき)」(注、繰糸機1セット(24台の場合)に全部で311個あると説明されている)、繰糸中の繭が隣の繭に絡むことを防ぐ「流出防止板」など
 
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高所に設置されたモノレールを使って煮繭機(にまゆき)から茹(ゆ)でた繭(まゆ)を繰糸機(そうしき)の索緒部(さくおぶ)まで運ぶバスケット(容器)です。ちなみに、女工ひとりは30以上の「索緒部」を担当していたことから、一列の自動繰糸機に4人の女工が対応していたとのこと。


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「繰糸場」の屋根を支えるためキングポストトラス構造の小屋組が使われています。「東置繭所」の2階のようにそれを支える中央の柱はなく、障害物のない広い作業空間を実現しています。蒸気抜き用開閉扉のある「越屋根」には建物の端にある梯子(はしご)を利用して上がることができ、状況に応じて人が多数ある蒸気抜き開閉扉を手動で開閉したそうです。
   

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現在は2社へと減少した国内の大規模製糸工場のひとつである「碓氷(うすい)製糸株式会社の製造ラインを説明するビデオ
 
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(続く)

2017年6月10日 (土)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その3) 世界遺産「旧富岡製糸場」③

「揚返器(あげかえしき)」は小枠(こわく)に巻き取った生糸(きいと)を枠周(わくしゅう)約150cmの大枠(おおわく)に巻き返すための道具
 
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「蔟(まぶし)」は蚕(かいこ)が繭(まゆ)を作る部屋となるもので、形の良い繭を効率よく作れるように工夫された養蚕(ようさん)道具。繭を作る状態になった蚕は上に登る習性があり、「回転蔟」はその習性を利用し、蚕の重みで回転する仕組みを備えています。ちなみに、23-25日で成長した熟蚕(じゅくさん)は生まれた時に比べて、体重が1万倍、絹糸腺(けんしせん)は16万倍に増化するとのこと。
 
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「カイコ一生サイクル図」には蚕種(さんしゅ、注、蚕の卵)が孵化(ふか)してから4回の脱皮を経て上蔟(じょうぞく)となり、食桑をやめて営繭(えいけん、足場作り)にとりかかろうとする熟繭を上蔟(じょうぞく、注、蔟に移す作業)し、蛹化(ようか、注、さなぎになること)したところで繭をかきとる作業である収繭(しゅうけん)を行い、さらに羽化(うか)・交尾(こうび)・産卵までの過程が説明されています。
 
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桑の葉を食べる5齢、つまり4回脱皮したカイコは10日ほどすると糸を吐き始めると説明されています。注、生きているカイコ「ぐんま200」が展示されている
 
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蚕(かいこ)はチョウ(鱗翅)目カイコガ(蚕蛾)科に属する昆虫の一種で、家蚕(かさん)ともよばれるように家畜化された昆虫です。ちなみに、「ぐんま200」は群馬県蚕糸技術センターが平成5年に育成した日中一代交雑の二化性品種で、群馬県の気候風土に適し、虫質強健で、解舒率(かいじょりつ、注、繭層から繭糸 が解離する状態)も良く、生糸量歩合の高い品種とのこと。(出典: 群馬県のhp

 

シルク(絹糸)製品の展示 注、生糸と絹糸の違いは(その1)の記事を参照
 
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ショップに展示された絹製品
 
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国宝「東置繭所(ひがしおきまゆじょ)」の2階に上がりました。富岡製糸場が操業を開始した明治5年(1872年)に建てられ、「繭(まゆ)倉庫」として使われた建物です。骨組みが木造、壁は漆喰(しっくい)を使った煉瓦積み、つまり木骨煉瓦造(もっこつれんがぞう)という工法で建てられ、瓦屋根を支える小屋組には西洋から伝わった「トラス構造」が用いられています。ただし、中央に棟木(むなぎ)まで達する通り柱がある変形トラスです。また、建物は日当たりが少なく、風通しが良いよう、南北に約104mと長い形状をしています。
 
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「繭倉庫」(南側)は高い天井と換気用の大きな窓がたくさんあることが特徴です。これらは乾燥させた繭を貯蔵するための配慮です。ちなみに、太い柱は建設された当時のままとのこと。
 
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こちらは反対側(北側)のエリア
 
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「東置繭所」の2階を退出する時、スタンプラリー用カードにスタンプをもらいました。階段の2階踊り場に出ると、改修中の乾燥場(左)の先に、同じく改修中の「西置繭所」を望むことができました。
 
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中庭に出た時、「西置繭所」の方向へ向かう撮影クルーを見かけました。
 
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午前9時30分にガイドツアーがスタート。ツアー・コースには入っていませんが、国宝「西置繭所」の保存修理工事を見学(有料)することができるようですから、ガイドツアーのあとに立ち寄ることにしました。
 
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まず「東置繭所」の横から正門側(東側)を巡りました。
 
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前方に子供たちの見学グループがいます。

 
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あっという間に見学グループの渋滞が始まりました。
 
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ガイドさんは機転を利(き)かして先へと進みんで「東置繭所」に沿って南に向かいました。左前方(正面入口近く)の建物は木骨煉瓦造り、2階建て、南北棟寄棟造りである「検査人館(けんさにんかん)」(別名: 3号館)で、検査場兼フランス人技術指導者たちの宿舎だったそうです。この洋風の建物は正門からのエントランスに面した1階の部分が改造され、現在は管理事務所として使われているとのこと。
 
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ガイドさんの説明によって、「東置繭所」(右手)の入口上部にあるアーチの楔石(くさびいし)には「明治5年」の文字が刻まれていることに気づきました。
 
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(続く)

2017年6月 9日 (金)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その2) 世界遺産「旧富岡製糸場」②

「東置繭所(ひがしおきまゆじょ)」の1階左手(北側)にある「ガイダンス展示」エリア(旧事務所兼作業場)に入ってみました。ガイドツアーがスタートする前に予備知識を得るためです。
  
 

総合案内所とショップ脇を抜けて最初に見たものは「富岡製糸場とは」の説明パネルです。
 
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富岡製糸場は明治5年(1872年)7月に主要部分が竣工し、同年11月に開館した本格的な製糸工場です。史跡・国宝・重要文化財に指定されたのち、平成19年(2007年)1月に世界遺産の暫定リストに入ったことで年間の入館者数は約10倍に増えて20-30万人の水準で推移していましたが、2014年6月世界遺産に登録されたことで入館者が前年比で4倍の130万人強へと急増。3年目となる昨年は約80万人と落ち着きを取り戻したようですから、梅雨入り前の5月末が訪れる好機と判断しました。

 

説明用パネルが続きます。
 
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まず、重要文化財の建造物が写真入りで分かりやすく説明されていました。
 
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建造物の特徴と価値」(木骨レンガ造、フランス積、トラス構造、鉄製窓枠)および「富岡製糸場が果たした役割」(日本各地に器械製糸技術を伝搬させる役割、フランスとアメリカへの生糸輸出、明治末期には日本の生産量・輸出量ともに世界一となり絹の大衆化に貢献)
 
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設立の背景(良質な生糸の大量生産化)・設立地の選定(長野・群馬・埼玉から群馬が選ばれた理由、注、後述)・開業にかかわった人々(渋沢栄一、尾高惇忠、ポール・ブリュナ―他フランス人14名)
 
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創業時の縮尺模型 注、主な建物は変わっていませんが、病室や工女寄宿舎などの施設には変更があったことをガイドツアーで知る
 
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「建設物の特徴と価値」(木骨レンガ造、フランス積み、トラス構造)」および「富岡製糸場が果たした役割」
 
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活躍した工女たち(32道府県へ器械製糸技術を伝搬)
 
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官営廃止の流れ(明治26年/1893年の勅令)と三井時代
 
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明治35年(1902年)に三井から富岡製糸場など4工場を買い受けた原富太郎が経営した「原時代」 注、原富太郎は横浜の「三溪園」を造園したことで知られる
 
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昭和14年(1939年)に片岡工業が富岡製糸場を合併したことでさらに発展し、昭和40年代には最盛期を迎えましたが、生糸価格の低迷により昭和62年(1987年)に操業を停止しました。注、群馬県と富岡市の要請に対応して平成16年(2004年)に片倉工業が「富岡製糸場」を富岡市へ譲渡(土地:有償、建物:無償)
 
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「世界文化遺産登録認定証」(2014年6月)
 
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官営時代の生産システム
 
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三井・原・片倉時代の生産システム
 
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富岡製糸場と絹産業遺跡群の所在地
 
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世界文化遺産には「富岡製糸場」のほかに、蚕の卵を生産した「田島弥平宅」、蚕の飼育法を確立した「高山社跡」、蚕の卵を貯蔵して通年での養蚕を可能にした「荒船風穴」の3つの文化財が登録されたことも縮尺模型などを利用して説明されています。
 
 

続いて、「東置繭所(ひがしちさんじょ)」の1階右手(南側)に向かいました。入口脇には「フランス式繰糸器実演」の立て看板には午前10時からと表示してあります。
 
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「富岡製糸場の図」
 
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「フランス式繰糸機(そうしき)復元機」
 
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製糸鍋の「セルドンの銅鍋」
 
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江戸時代末期に上州(現在の群馬県)で発明された繭(まゆ)から生糸(きいと)を取る道具
 
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(続く)

2017年6月 8日 (木)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その1) 世界遺産「旧富岡製糸場」①

午前5時を15分ほど過ぎたころに自宅を出発し、その40分後には練馬ICから関越自動車道に入りました。いつものことですが、渋滞が始まる前に都心部を抜けるために早出したのです。
 
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まだ車の通行量が少ない関越自動車道の最初の休憩地である三芳PAに立ち寄ることにしました。軽朝食を摂ったあとですから、小腹を満たすものを探すことにしました。食欲をそそられる三芳プレミアムビーフカレーパン(350円) は午前7時からの販売であり、トンカツ マイセンは午前9時からの営業です。そこで、小江戸川越の「いも恋」(餡子とサツマイモを包んだ饅頭、160円)を温めないで(冷たいまま)つまんでみましたが・・・。同行者はなぜか「東京たこいかせんべいから揚」を土産物に選んでいました。名前から分かるように東京土産です。
 
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それではと、次の高坂SAのショップにも立ち寄りました。たこ棒(午前9時から)はまだ販売されていませんから、高坂カレーパンと迷った上で上新粉のおもち・甘醤油だれ「あげもち」(2本、320円)を選びました。店員さんが説明してくれたように前日に蒸(ふか)したものであるため、皮が硬(かた)くなっており、本来の美味さを感じられません。グルメを求める旅にでたはずですが、この朝は最悪の選択で始まったようです。
 
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今回のドライブ旅を思い立った理由は、最近興味を持った場所がある上信越、つまり律令国の上野国(群馬県)・信濃国(長野県)・越後国(新潟県)を一気に巡ちたくなったためです。(注、地理的には日本海側のフォッサマグナ地帯であり、いずれも火山と温泉が多い) そして、それぞれの場所でグルメも楽しみたいとの思いです。主な目的地としたのは、群馬県では富岡市の「富岡製糸場」と高崎市の「保渡田(ほどた)古墳群」、新潟県南魚沼市の「魚沼の里」、そして「長野県信濃町にある「サンクゼールの丘」です。

 

最初の目的地である「富岡製糸場」は関越自動車道と上信越自動車道を利用して、富岡ICから一般道へ出るのが簡便なルートです。しかし、今回は自宅を早出したことで、1時間半余りの時間調整する必要があるため、かなり手前となる最多目検深谷市の花園ICで関越自動車道を出て、国道254号で藤岡市を経由して富岡市を目指すことにしました。寄居町・美里町・本庄市を通り抜けた神川町から群馬県の藤岡市に入る場所(神流川を渡る藤武橋)で朝の渋滞に巻き込まれました。予測より少し遅れましたので、藤岡市の西にある吉井町と甘楽町を順調に通過して、富岡市に入りました。市営駐車場の案内看板がありますが、あえて通過しました。
 
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その先の富岡交差点を左折して約300m南にある民間駐車場「いなりパーク」(50台弱のスペース)に予定より約5分遅れの午前8時50分に到着。仲町交流館と市営駐車場(バス用)の西側で、富岡製紙場の正門まで約200m)と便利な駐車場です。城町通りを西方向へ約3分歩き、入場が始まる午前9時の5分前に富岡製紙場の正門に到着。その直前(20-30m手前)の左手(中央タクシーの向かい側)にも民営駐車場(約30台規模)があることを発見しました。下調べの結果では「いなりパーク」が一番近い駐車場でしたから、最近できた駐車場のようです。注、写真の左手、信州屋の看板の手前にパーキングの看板が写っている
 
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正面入口(正門)前にある郵便ポストも富岡製糸場の雰囲気に溶け込んでいます。
   
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ここで、駐車場についての参考情報です。富岡製糸場の周辺にはいくつもの駐車場(普通車用)があるようです。市営駐車場では最寄りの宮本町駐車場P1(有料、80台、製糸場正門まで約500m)、上町駐車場(有料、約30台、同じく約500m)、富岡駅東駐車場P4(無料、200台、同じく約1km、上信電鉄上州富岡駅の東隣)の3か所。一方、民営では「いなりパーク」、その北にある「アップルマーク富岡製糸場前」と富岡製糸場の北隣にある「南パーク」があります。料金は、市営駐車場(有料)が30分100円(最初の30分は無料)、民営の「いなりパーク」は20分100円、「アップルマーク富岡製糸場前」は500円/2時間、とやや割高です。「南パーク」は100円/30分と市営駐車場並みであり、また無料の富岡駅東駐車場(200台)は徒歩15分と距離がありますから、時間の余裕がある方に向いた駐車場です。
 
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午前9時に正面入り口が開きました。左手の窓口で見学料(大人1000円)を支払って入場しました。
 
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正面の建物「東置繭所(ひがしおきまゆじょ)」の中央通路の脇に立つ案内看板にしたがい、手前の道の右奥にある券売所で整理券(参加証)を購入。
 
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「東置繭所」の右手から中庭にある「ガイドツアー出発所」へ向かいました。午前9時30分から30分間隔でガイドツアーが設定されています。
 
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布製テントで作られた「ガイドツアー出発所」の北側には役職者用住宅(社宅)群が保存されています。17
 
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その右手前で発見された煉瓦組みの施設の説明看板18


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午前9時30分スタートの解説ガイドツアー(200円)が始まるまで、ガイドツアーに含まれていない 「東置繭所(ひがしおきまゆじょ)」の1階と2階を見学することをスタッフからアドバイスされました。それに従うことに。前方に見える人たちは我われと相前後して富岡製糸場へ入場した団体客のようです。
 
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「東置繭所」の中央にある入口へ向かいました。右前方に見える建物は現在改修中のようです。
 
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案内看板には「乾燥場」(大正11年の建設)と表示されています。生糸(きいと)の原料となる繭(まゆ)を乾燥させた場所です。ちなみに、煙突(高さ37.5m、直径2.5m)は昭和14年(1939年)に再建されたもの。
 
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プチ薀蓄(うんちく)をひとつ。「絹糸(けんし、きぬいと)とはこの「生糸」をアルカリ性の薬品(石けん・灰汁・ソーダなど)で精錬することにより、生糸の外周部を覆(おお)っている「セリシン」という粘着質のタンパク質をほぼ取り除いて内部のフィブロインを露出させることで光沢を出した加工品です。(続く)

2017年6月 5日 (月)

神田神保町界隈を散策する(最終回) すずらん通りから白山通りへ

TOTAL VISUAL SHOP ARATAMA”は、「すずらん通り」の入口にあった「荒魂書店」の新店で、タレント、雑誌、写真集、ビデオ、アダルト関連の古書・古籍を扱う専門店。1階にはビデオと写真集、2階には雑誌とポスターコレクションがあるようです。
 
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美術や建築などの洋書専門店“Bohemians Guild”(ボヘミアンズ・ギルド)は「夏目書房」が営業する古書店で、1階は美術関係の画集、図録、評論を中心に展示し、2階はブックギャラリーとなっています。
 
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三省堂書店」(神田神保町本店)の裏手に出ました。ウッドテラスの脇には休憩するための長椅子が設置されています。
 
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その西隣にあるのは三省堂書店第2アネックスビル
 
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ABC-MART神田神保町店」の西隣にある文房具店「文房堂」(創業明治20年)は、画材・版画の売り場に加えて、ギャラリーとギャラリーカフェがあるそうです。古書店ではありませんが、昔を偲(しの)ばせるファサードが魅力的で撮影しました。
 
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「すずらん通り」の東端付近から白山通り方面(西方)を撮影
 
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「白山通り」まで戻りました。「白山通り」と「桜通り」が交差する角に建つのは集英社の「神田神保町ビル」です。
 
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「白山通り」を一ツ橋方面(南方向)へ歩くと、モダンな建物がありました。まるで美術館か博物館のようなコンクリートの打ちっぱなしが真新しいこの建物は「小学館ビル」(本社ビル)です。小学館は1922年に創立された奨学生を大正とした学年別学習雑誌を発行した出版社殿、現在は幼児誌、ファッション誌、ライフスタイル誌、コミック誌などを幅広く発行しています。
 
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交差点の斜め向かい側には学士会館が見えます。
 
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白山通りの西側にある高層ビルは「共立女子大学
 
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交差点を渡ったところで東方を見ると、学士会館の先に再開発で建てられたビル群が立ち並んでいます。左から、タワーマンションの「東京パークタワー」(2003年竣工、地上29階建て、高さ97.9m最高部高さ104.79m)、「神保町三井ビルディング」(2003年竣工、地上23階建て、高さ108.3m)、「テラススクエア」(2015年竣工、地上17階建て/塔屋3階、高さ89.57m)、そして学士会館の裏手にある「一ツ橋SIビル」(1972年竣工、地上11階建て)。
 
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正面から見た「東京パークタワー
 
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神保町101ビル」(地上12階建て、高さ50.6m)
   
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「桜通り」へ戻ることにしました。実はこの日の飲み会は白山通りとの交差点から歩いて1分ほどの場所にあるタイ料理の「ムアン・タイ・なべ」が会場に選ばれているのです。
 
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「神保町散策」の記事はここまでにします。「ムアン・タイ・なべ」に興味がある方は飲み会大好き人間のブログ「竹輪会」を参照してください。(終)

2017年6月 4日 (日)

神田神保町界隈を散策する(その3) 「さくら通り」と「すずらん通り」

BOOK HOUSE”は古書店ではありませんが、「子どもの本」専門の店で、2階には洋古書専門の“KITAZAWA FOREIGN BOOKSTORE”(北沢書店)があります。
 
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この北沢ビル(1982年竣工)の3-8階は賃貸オフィスになっています。
 
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趣味・芸術の古書を扱う「@ワンダー&ブックカフェ」は建物の側面にも書架があります。 注、2階の北側にブックカフェ二十世紀」、3階に民族・郷土・歴史・美術専門の古書店の「金沢書店」がある
 
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洋古書専門店の「小川図書」とマスコミ・ジャーナリズムの古書を扱う「波多野書店」
 
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「山本書店」は、唐本、和本、中国文学、中国思想、東洋史、書道と古典籍全般を扱っているそうです。神保町交差点から離れた本屋街の西端(専大前交差点の近く)にありますが、地下鉄神保町駅のA1出入り口の隣に位置しています。
 
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「神田本屋街散歩」の案内地図により専修大学と共立女子短期大学が近いことが分かります。
 
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専大前交差点から見た専修大神田キャンパス方面(北方向に伸びる専大通り)
 
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靖国通りの南側にある「さくら通り」に入ります。
 
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ふと、右手を見ると「イタリア書房」の看板がありました。イタリアだけではなく、スペイン、ポルトガル、中南米の本の専門店(1958年創業)のようです。
 
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「さくら通り」は一方通行
 
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動植物に関する古書専門店の「鳥海書房」(姉妹店)です。神田古書センターの3階にある本店と区別するためこの名称を使っているようです。
 
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集英社共同ビル
 
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特徴のない建物は明治10年(1877年)創業の出版社「有斐閣」の本社ビルです。六法全書などの法律関係書の出版でとみに有名です。
 
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白山通りに出ました。前方に「神田すずらん通り」の看板があるように、白山通りを挟む東西で通りの名前が変わるのです。ちなみに、「神田神保町界隈を散策する(その2)」では東端からみた「神田すずらん通り」の写真を紹介しています。左手のビル2階に「荒魂(あらたま)書店」(本店)の看板が見えます。
 
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「風月洞書店」は看板にあるように茶道と古美術書の古書店です。その手前にある雑然とした店頭が印象的な「湘南堂書店」は硬い分野の書籍を扱う古書店が多い神保町で珍しいタレント本・アダルト本・漫画等を扱う古書店です。ただし、店頭には硬い分野の書籍が多いようです。
 
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振り返って見た「すずらん通り」(白山通り方面)
 
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中国とアジアの書籍を扱う「内山書店」は創業100年を迎えた老舗です。
 
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中国図書センター「東方書店」では中国武術関係書籍フェア2017が開催されています。
 
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東京堂書店」(1890年創業)は、1階はForesee "FUTURE" of Mankind(人間の"未来"を読むフロア)、2階はGrasp "ACT" of Mankind(人間の"活動"を掴むフロア)、3階はTrace "MIND" of Mankind(人間の"思考"を辿るフロア)で構成される新しい新刊書店です。1階と2階には”Paper Back Café”があるようです。
 
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「すずらん通り」は個性的な飲食店があることでも知られますが、今回は古書店巡りに焦点をあてましたから、別の機会に譲ることにします。(続く)

2017年6月 3日 (土)

神田神保町界隈を散策する(その2) 靖国通りを引き返して専大前交差点へ

前方に大正4年(1915年)に創業された書籍販売と出版の老舗「三省堂(さんせいどう)書店」(神保町本店)が現れました。8階建てのビル全体が書籍売り場になっているようです。4階には古書の買い取り・販売を行う「三省堂古書館」があるようです。
 
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三省堂書店の正面はピンク色が刺激的です。1階には雑貨店の「神保町いちのいち」、2階にはUCCカフェコンフォートがあり、2階から6階が書籍販売エリアになっているそうです。そして、7階は事務所、8階は催事特設会場。
 
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ちんみに、私にとって三省堂といえば国語辞典とコンサイス英和辞典を愛用したことで馴染みがあります。ちなみに、名前の由来は中国古典「論語」にある「吾日三省吾身」 (われ日にわが身を三省す)という言葉から採られたもので、「不忠、不信、不習について 、日に幾度となくわが身を省みる」という意味です。

 

古書店街の東端にある文学、作家研究書、全集、稀覯本、歴史文献「三茶書房」です。
 
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同じビルには「三茶書房」(1階)、「軍学堂」(2階)、「呂古書房(4階)
 
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靖国通りが明大通りと交わる駿河台下交差点に出ました。注、交差点以南は名称が千代田通りに変わる 前方に聳(そび)えるのは靖国通りの南側(千代田通りの東側)にある今年2月にオープンした「ドンキホーテ神保町靖国通り店」(住所:神田小川町)で、右手前には「ABC-MART神田神保町店」です。
 
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右手に入る道は「神田すずらん通り」で、こちらにも古書店が並んでいるはずです。
 

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ここで神保町交差点方面へ引き返しました。神保町交差点から見た白山通り(水道橋駅方面)です。
 
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交差点を西方へ渡った場所に地図があり、神田神保町と神田駿河台が描かれています。
 
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そして、ここにも「神田本屋街散歩」の案内標識がありました。右上の駿河台には明治大学に加えて、日本大学、東京医科歯科大学が、左上の白山通りには日本大学が、左上の西神田には専修大学の名前が表示されています。
 
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その説明には、『江戸時代、このあたり一帯は武家屋敷であり、町屋は九段坂北側の旧飯田町だけであった。この飯田町は、かつてぶんじんなどが多く住み、滝沢馬琴ゆかりの地でもあり、明治時代には、尾崎紅葉を主宰者(しゅさいしゃ)とする硯友社(けんゆうしゃ)があった。神保町周辺は、明治以降、周辺の大学の拡張に伴って学生の街として発展した。震災復興後の昭和初期には銅版や装飾を施した街並みが続き、古書店が数多くの木を並べる町となった。この本屋街の規模は世界に類を見ないもので、周辺の出版関連会社とともに、日本の文化や科学を支える役割を担っている』 とあります。
 
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岩波書店アネックスの2階には郷土史、文化史、産業史、教育史、医学史、建築土木史などを扱う「秦川堂(しんせんどう)書店」がありました。もうすぐ創業100周年を迎える老舗です。
 
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「神田古書センター」は昭和52年(1977年)に竣工した9階建てのビルで、多くの古書店が入居しているようです。
 
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易学と運命学の「原書房」、和漢書道・美術書の「飯島書店」、サブカルチャーの「ブンケン・ロック・サイド」、歴史と社会学の「南海堂書店」が並んでいます。
 
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趣味・芸術の「矢口書店」
 
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音楽所・楽譜の「古賀書店」、古書全般を扱う「長島書店」と「澤口書店」
 
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「山陽堂書店」は、岩波書店、みすず書房、法政大学出版局の本を主に扱っているようです。
 
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日本工業大学大学院(専門職)
 
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”Vintage”は、映画・演劇・スポーツ・サブカルチャーを得意とする古書専門店
 
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(続く)

2017年6月 2日 (金)

神田神保町界隈を散策する(その1) 神保町駅から靖国通りを東へ

東京メトロ半蔵門線の神保町駅で下車。靖国通りと白山通りが交わる神保町交差点に出ました。所用があって久しぶりに神保町を訪れます
 
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まず、神保町についての薀蓄(うんちく)です。地名としての「神保町」は、戦国大名越中神保氏の一族である江戸時代の旗本・神保長治の屋敷があったことに由来するそうです。また、神保町に書店と出版社、出版問屋の取次店が多い理由は災害と関係があるようです。大正2年(1912年)の大火で焼け野原になったあと、岩波茂雄氏が古書店と出版社を創業して大成功。現在の岩波書店のはじまりです。教養人や学生が集まるようになるとほかにも書店が次々と開業した。さらに、多数の大学が神保町界隈にキャンパスを置きました。大正13年(1923年)に勃発した関東大震災のあと、復興事業として大正通り(現在の靖国通り)が整備されて、交差点名として神保町の名が生まれました。

 

横断歩道の先に岩波ホールがある岩波神保町ビルです。出版大手の岩波書店の創業者が文化施設(1967年竣工、地上10階建て、オフィスビル)として建設したものです。開館当時は多目的ホールでしたが、現在は主に映画館として利用されています。ちなみに、1階には紳士服量販店「コナカ」のブランド”SUIT SELECT“(スイートセレクト)とみずほ銀行の神保町駅前出張所(ATM)が入居しています。
 
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ビルの入口(地下鉄の入口)にあった看板で確認すると、この日はチベットを舞台とする中国映画「草原の河」(2015年制作、ソンタルジュ監督)が上映されていました。
 
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神保町と言えば古書店・出版社などが多いことで知られるエリアですから、所要前の時間を利用して散策することにしました。注、靖国通り沿いの南側、その一本南側にある「すずらん通り」と「さくら通り」、そしてそれらの通りを串刺しにする白山通りに百数十もの古書店や出版社が立地しているようです。まず、神保町交差点を東方向に横断しました。店南東の角にある「廣文堂書店」の前を通過して古書店が立ち並ぶ靖国通りの南側にある歩道を歩きます。ちなみに、古書店が南側に多い理由は直射日光が店内に差し込まないことにあるようです。

 

最初の古書店は「大雲堂書店」(大雲堂ビル1階)。関東大震災の前に創業した老舗です。理工系以外はなんでも扱っているそうです。2階には東洋の歴史書を扱う「叢文閣書店(そうぶんかくしょてん)」があります。
 
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隣のハヤオビル6階には「けやき書店」があることを後になって知りました。

 

次いで、「明倫館書店」は自然科学系学術書を専門に扱う書店
 
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「一誠堂書店」は文科系古書籍・古文書などの古典籍・欧文文科系古書籍(考古・美術・工芸など)を扱っているとのこと。
 
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賃貸オフィスビルの厳松堂(がんしょうどう)ビル1階にある「澤口書店」(厳松堂ビル店)は明治時代・大正時代・昭和時代の書籍と小冊子を取り扱っているそうです。
 
 
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厳松堂ビルの隣にある「本と街の案内所」に立ち寄りました。
 

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神保町の古書店街の地図を貰いたかったことと、知りたいことがあったのです。手渡された「古書店MAP」には神田古書店連盟に加盟する全店および新刊書店・取次店・出版社のリストが掲載されています。「お探しの書店があるのですか?」と質問していただいたことに甘えて、「岩波書店の創業地」を知りたい」と伝えました。ネット検索もして調べて下さいましたが、事前に私が断念したように見つかりませんでした。お礼を言って退出しました。
 

クルマ、バイク、鉄道、飛行機などエンジンがついた乗り物の古書店「菅村書店」(日本文芸社ビル1階)の隣には、毎日入れ替えるという店頭ワゴンがある「澤口書店」(東京古書店、源興號ビル1F/F)は美術本を中心に古書全般を扱っており、2階には「くつろぎの空間」(購入者にコーヒーをサービス)があるようです。
 
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地質学関係の専門店「大久保書店」と新刊書を売る「十字屋書店」
 
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「田村書店」は16〜20世紀の仏独文学系を中心に、西洋古典、哲学、言語、挿絵本、書誌学、美術、自筆物、美麗装幀本、音楽、料理、の原書専門店
 
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現代アートや写真集・美術書などの「小宮山書店」
 
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「書泉グランデ」は、古書店ではありませんが、鉄道、アイドル、格闘技(プロレス)、乗り物、ミリタリー、アウトドア、ボードゲーム、精神世界など、趣味人に向けた専門性の高い書籍を扱っているようです。
 
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「神田本屋街散歩」の案内標識を見つけました。本屋街は靖国通りにしたがって南東へ折れ曲がるようです。地図に右上に明治大学の名があり
 
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刀剣書、各種画集、写真集の「一心堂」(創業1919年/大正8年)
 
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美術展のカタログと料理の本、ビジネス書などを扱う「悠久堂書店」(創業大正4年/1915年)
   
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建築工学基本図書の「村上書店」
 
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古典籍・近代文学・探偵小説の「玉英堂書店」と仏教・宗教・易・歴史の専門店「東陽堂書店」
 
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日本史・郷土史・考古学・民俗学の「慶文堂書店」と国語学・国文学・近代文学などを扱う「八木書店」(古書部)
 
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江戸時代の古書・古地図と浮世絵版画の専門店「大屋書房」
 
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(続く)

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