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2017年6月27日 (火)

和田竜著「忍びの国」を読む

月1日から映画「忍びの国」が上映されます。この映画で描かれる「天正伊賀の乱」も常勝・織田軍が喫(きっ)した大番狂わせです。なぜ、最強にして大軍の織田は戦国大名もいない伊賀を攻略することができなかったのか?(映画のキャッチコピーより)

 

のぼうの城」や「村上海賊の娘」で歴史小説の若き旗手となった和田竜氏に興味を持つ私は、映画ではなく、これらと同様、史実に光をあてた同名の原作小説(2008年新潮社刊)を読むことにしました。

 

[概要]

文吾と無門という2人の若い伊賀忍者を物語の引き回し役とし、伊賀の地侍の集まりである十二家評定衆を束ねる百地(ももぢ)三太夫や下山甲斐(かい)、元十二家評定の一人であったが今は伊勢国を支配する北畠具教(とものり)の養子となった織田信長の次男、北畠信雄(のぶかつ)に取り立てられている柘植(つげ)三郎左衛門らを配して骨太でダイナミックなストーリーが展開される。天正伊賀の乱(第一次)と呼ばれる史実を踏まえて書かれた時代小説である。

 

[あらすじ]

物語は信雄に指示された長野左京亮(さきょうのすけ)と日置(ひき)大膳らが信雄の義父である北畠具教を暗殺するところから始まった。そして、それに至る経緯も説明される。信長が伊勢に攻め入り、北畠側はよく耐えたが、最終的には信長の次男、信雄を北畠家の養子に入れる条件で、両者は和睦した。その後、信長の勢力が拡大するにつれ、北畠家の家督と国司の職が信雄へ移ることになった。

 

一方、強力な大名がいない伊賀国では地侍たちが日常茶飯事のこととして、小競り合いを続けていた。親子も親戚も関係なくお互いがお互いをやっつけようとしているのだ。そして、地侍の一人、下山甲斐(かい)の砦を百地三太夫が攻め立てた。大した理由はない。しかし、忍び同士の戦いは予想できない展開をみせる。

 

三太夫の配下である無門が砦に忍び込み、三太夫の指示にしたがって甲斐の次男である次郎兵衛を切ったのだ。実は、それがこの小競り合いの真の目的であった。そんな折、鐘がけたたましく鳴り響いた。三太夫が命じた十二家評定衆の参集の合図である。三太夫の呼びかけに応じる甲斐に憤(いきどお)る次郎兵衛の兄、平兵衛だが、父の甲斐は伊賀の慣(なら)わしとして取り合わない。

 

十二家評定衆では、伊勢国を織田家が押さえた今、織田家の軍門に降ることが三太夫の主導によって決められた。生真面目な平兵衛は弟次郎兵衛の死に対する実父の反応に端を発した伊賀者への憎悪により、伊賀者を根絶やしにするという行動へと突き進んでいった。

 

伊勢国へ向かった平兵衛は伊勢側が設けた関所で北畠信雄にお目通りを願い出る。翌日の朝には信雄の居城、田丸城に連行された。その知らせを受けた三郎左衛門は旧知の平兵衛の言葉に共感する。自らも平兵衛と同様、伊賀を滅ぼすべく伊勢の北畠家を頼り、一門である木造(こつくり)家に仕えた経緯があるのだ。

 

三郎左衛門の口添えがあり、信雄は渋々平兵衛に目通りを許した。信雄の性格を心得た伊賀出身の三郎左衛門は言葉巧みに持ちかけて伊賀攻めを決めさせた。さらに伊賀に拠点を造ることを進言する。北畠具教がかつて伊賀攻めのために途中まで築城した丸山城を再び築く戦略である。

 

前回も伊賀の国内に築城することの許しを伊賀に行って取り付けた三郎左衛門が再び伊賀へ行ようにと信雄は命じた。十二家評定衆を前に三郎左衛門は伊賀の豪族すべてを織田家の給人(きゅうにん)として向かい入れたいという信雄の言葉を伝え、丸山城の再建に助力したいと続けた。頃合いを見て三郎左衛門は築城に必要な銭は伊勢側が持つと、持参した金塊と銀塊がぎっしり詰まった挟箱(はさみばこ)を開けてみせる。会見は終わった。注、挟箱は荷物を入れて道中担いで運ぶ道具、もともとは2枚の板の間に衣服などを入れたものを竹で挟んだ竹挟から転じた

 

伊勢方による監督のもと、日当をもらう伊勢忍者たちの働きがあり、三層の天守、本丸、二の丸、西の丸、秋の丸という出丸を有した丸山城が完成した。祝金として金銀塊を受け取った三太夫は、城の守りをするという三郎左衛門にしたがって大手門を出た。城門が閉じられるや、三郎左衛門は戦闘態勢を指示する。

 

三太夫から密命を受けてただ一人城内に残っていた配下の文吾は城内各所に火を放った。天守閣と本丸から発した炎は二の丸にも広がってしまう。三郎左衛門は撤退を指示し、兵を削り取られながら伊勢国の田丸城まで敗走することになった。記録によれば、両軍に数千人にも及ぶ死傷者が出たという。

 

怒り心頭に発する信雄は評定の場で伊賀攻めを命じた。しかし、北畠具教殺しおよび伊賀の十二家評定衆との協議で手柄をたてたことにより城をあずかる身分に出世していた日置大膳(へきだいぜん)は、三太夫が予測したように、敵の油断に乗じた忍び働きだけをする伊賀者を攻めることは弱者苛(いじ)めと考え、伊賀攻めには参加しないと信雄の前で言い切った。翻意(ほんい)させようとした長野左京亮も具教殺しの折に大膳に助けられた恩義があるため、大膳抜きで伊賀を攻めるなら自らも参戦しないとの意を信雄に言上する。窮(きゅう)した信雄は信頼できる三郎左衛門の考えを問うが、やはり大膳なくば戦は当方の負けであるとの考えを正直に述べる。

 

信雄には日置大膳の不参加以外にも伊賀攻めをできない理由があった。丸山落城の直後、石山本願寺の攻略の一翼を担っていた荒木村重が信長に謀反を企て、本拠の摂津有岡城に閉じこもってしまったのである。摂津での任務が解かれたのちも、秀吉が担当している中国攻略の助勢のため播州(現在の兵庫県南西部)へも行かされた。そして、一年後の天正7年秋ごろになって信雄がようやく伊勢の田丸城に戻ってきた。その間、大膳は自城に籠(こも)ったきりである。

 

信雄がいよいよ伊賀に攻め込むと伊賀者たちが考えている時、百地三太夫は次の策略を実行した。下人たちの不安を煽(あお)って戦意を高揚させるとともに、ある人物を操(あやつ)って大膳なしでも信雄に伊賀を攻めさせる策略である。自国を守る戦には銭は支給されない不満が下人たちに広まった。しかし、まんまと操られた無門は伊勢国の大膳の所領に潜入し、大膳の真意を確かめるが、伊賀には間違っても行かないと頑(かたく)なである。

 

それでは信雄に掛け合うしかないかと言い残した無門は大膳を煙に巻いて田丸城へ向かった。信雄の命が危ないと考えた大膳はその後を追う。他人に変装する陽忍(ようにん)と人に気づかれない陰忍(いんにん)の両方を使う無門は難なく信雄の寝所に忍び込み、諸刃の剣を信雄の咽喉元(のどもと)に突きつけながら伊賀攻めは忘れるように言う。まだ子供である信雄は反発するだけであるため、無門は戦場で首をとってやると言い残して姿を消す。

 

半刻後、馬で田丸城に駆け付けた大膳はこれまでの経緯から信雄と押し問答になる。その中で大膳は閃(ひらめき)きを感じた。すべての不可思議な出来事はすべて、大膳が伊賀攻めを拒めば伊勢に勝てると考える伊賀の十二家評定衆の術であるということである。大膳は伊賀攻めに参加することを決めた。大膳の考えを聞いた信雄はなおも反発するが、大膳の迫力に押されてそれまでの虚勢を捨て、伊賀攻めの下知を発した。

 

無門は伊賀に戻る途中、疲れた体を休めようと入った廃寺で出会った信雄の妻から自分の父を暗殺した信雄を殺してほしいと頼まれた。その対価として一万貫の値打ちがあるという北畠家の家宝である茶器の小茄子(こなす)をもらう。伊賀に向かいながら、無門にある考えが浮かんだ。二年前に西国の安芸国(あきのくに、注、現在の広島県西部)から盗み出した武将の娘、お国と夫婦になるため、間も無く伊勢側に攻められる伊賀を抜け出し京に出て、これを元手に商いでもしようとの思いつきである。注、貫とは銀貨の通貨単位(銀4.3匁=約37g)で、現在の価値ではおよそ1万5千円と推定され、小茄子の価値は約1億5千万円となる

 

数日後の天正7年(1579年)9月16日、伊勢の軍勢1万1千余騎が田丸城下に集結し、ただちに伊勢への進軍を開始した。布引山地にある3つのルート(阿波口・馬野口・伊勢地口)が攻め口として選ばれた。信雄が率いる八千騎の主力部隊は夜になっても灯火を消しながら阿波口へと進軍を続け、長野峠の手前でようやく行軍を停止。三郎左衛門と左京亮の軍勢千五百騎は馬野口を目指し、伊勢地口を目指す大膳は軍勢千三百騎の半数を伊賀領内まで入れた。伊勢勢が伊賀国へ一斉に攻め入る一方、伊賀から逃れようとする下人たちの群れの中に無門とお国がいた。

 

もちろん、伊勢側の動きは伊賀側の見張りから夕刻には各口の守将へと伝えられていた。阿波口を受け持つ百地三太夫は自らの術の冴(さ)えに多いに満足した。それぞれの守り口はさまざまな手立てが講じられている。夜明け近くになって三太夫は配下の下人(他の下侍の下人を含む)の数が半分ほどに減っていることに気づいて驚愕(きょうがく)する。また、馬野口を守る音羽半六は近くの小山の頂上に佇む一騎の騎馬武者を見て呆然(ぼうぜん)つなった。いるはずのない大膳だ。半六は負けるとつぶやいた。

 

伊勢の軍勢の攻撃が始まった。ただでさえ兵の数で劣る伊賀側の劣勢は決定的であり。三太夫は服部川を下る信雄の軍勢を挟み撃ちにする作戦が破綻。逆に信雄の大軍に挟まれてしまう。馬野口では甲斐が扇状地にて土遁(どとん)の術を展開したが、三郎左衛門に見破られて大半の下人を失ってしまう。大膳は三郎左衛門が教えた焙烙火矢(ほうろくひや)で森の枝に隠れる伊賀者を焼き殺す戦法を用いて半六の手勢を一気に殲滅(せんめつ)しながら進軍した。

 

こうして、伊賀側はのっけから劣勢に立たされ、守り口を担当する三太夫たちは負けを意識せざるを得ない状況に陥(おちい)ったのであるが、3か所の戦線のいずれにおいても明らかな変化が現れた。圧倒的に優勢であったはずの伊勢側の前線が乱れはじめたのだ。それは・・・?

 

<読後感> 著者の和田竜氏は、弱肉強食の戦国時代において、弱者が知恵を巡らすことで強者に勝つ、あるいは弱者が策によって強者を徹底的に翻弄(ほんろう)する様を、多くの個性的な登場人物たちを巧みな文章によって活きいきと描き、冒頭から結末に至るまで、読者を映像と音響に溢(あふ)れる世界へと惹(ひ)きいれました。百地三太夫は様々な策略により北畠信雄の大群を伊賀国へ誘い出すことに成功しましたが、思わぬ誤算があり緒戦で劣勢に立たされ、敗戦を覚悟する状況に陥(おちい)りました。しかし、その直後、思いもよらないどんでん返しが待つという和田竜氏ならではのストーリー展開が最大の魅力なのです。「のぼうの城」や「村上海賊の娘」と同様、時代小説ファンでなくても楽しめる痛快小説としてお薦めします。

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