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2017年10月

2017年10月31日 (火)

世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」(その6) 「町並み地区」をサイクリングする

「銀山地区」の出入り口である「蔵泉寺口(ぞうせんじぐち)番所跡」まで戻り、「銀山口自治会館」の付近から「町並み地区」の景観を楽しみながら「代官所跡」へ向かいました。

 

写真右手奥の工事用シートで覆われた建物は大改修工事中の「郷宿遺宅 金森家」(県指定史跡)で、6軒あったとい郷宿のひとつです。ちなみに、郷宿(ごうやど)は、公用で石見銀山や代官所などに訪れた村役人が宿泊や休息で利用した施設とのこと。
 
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石見銀山代官所地役人遺宅 三宅家」(県指定史跡)の前に立つ案内板には、『建物は、第箇所の銀山方役所に勤務する銀山附地役人田邊氏の居宅であった。(中略)寛政12年(1800年)の大火以降の建築と思われるが、通りに面して門塀や露地門を構えて前庭を配置し、大戸口の上手に式台を設けるなど武家屋敷としての形態を保っている。』 と説明されています。向かい側(東側)には解体工事中の「大森代官所同心遺宅 宗岡家」(市指定史跡)もありました。
 
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古民家を活用した「石見銀山サテライトオフィス」はインターネットサイトのデザイン設計などを手掛ける東京の「アットゴー社」が昨年末に活動を開始した拠点でした。大田市が明治24年(1891年)に建てられた古民家(125年)を「インキュベーションオフィス」として所有者から借りたものを、同社が賃貸しているそうです。地元出身者が経営する「アットゴー社」が受注した業務の一部に対応することで、地域の雇用を増やすことが狙いのようです。
 
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「石見銀山写真展」が開催されています。ガイドが撮った写真を展示しているようです。
 
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映画「アイ・ラヴ・ピース」のロケ地(2003年4月)の看板を見かけました。ネットで検索すると、『NGOの一員としてアフガニスタンへ向かう大学の先輩に同行した太田市に住む義肢装具士を目指す聾者(ろうしゃ)の女性が、現地で無残な戦火の跡と手足を失った子供たちに出会いながら、義足を必要とする人たちの足形を取るために奮闘する主人公を描いた映画(文部省選定)でした。
 
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石見銀山代官所同心遺宅 柳原家」は、『主屋入口および土間が左手にあり、中央に式台付玄関が配置され、座敷に続いている。他の地型四間形式の間取りで、一部二階が設けられている。この二階は表から見ることができない造りで、大森の町並みの武家住宅に共通した形式である。主屋の裏には漆喰塗籠の土蔵が一棟ある。(以下略)』 と説明されています。
 
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代官所地役人 旧河島家
 
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「旧大森區裁判所」(現大田市町並み交流センター
 
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重要伝統的建造物群保存地区「大田市大森銀山伝統的建造物群保存地区」の案内板
 
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石仏が祀られた小さな祠(ほこら)があり、その脇に岩盤を刻んだ石段が続いています。「町並み地区」を見下ろせる岩山(高台)にある真言宗の「観世音寺(かんぜおんじ)」です。江戸時代には大森代官所の祈願寺で、次回の記事で紹介する「羅漢寺 五百羅漢」が作られる切っ掛けとなった寺とされます
 
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石見銀山大森郵便局」も古民家風の建物で、郵便ポストもレトロなものです。
 
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熊谷家住宅」(重要文化財)は17世紀に石見銀山の経営に携わり、その後 掛屋(注、公金出納にあたる業者)や郷宿、代官所の御用達を勤めた町役人(年寄職)・熊谷家の遺宅です。平成13年度から17年度にかけて保存修理工事を行い、幕末から明治初年(1868年)の姿を復元したものでした。
 
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石見銀山資料館」(大森代官所跡)
 
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「代官所前ひろば」に立つ「西南之役戦没者記念碑」を折り返し点として、「漆喰(しっくい)が塗られた白壁や宇立(うだつ)のある建物が並ぶ「町並み地区」を引き返しました。再び「熊谷家住宅」です。
 
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石見銀山御料郷宿田儀屋遺宅 青山家」(県指定史跡)は、『6軒あった郷宿のひとつであった田儀屋で、切妻造りの桟瓦葺で、町並みのなかでは珍しい妻入りである。特に土間まわりと帳場、表座敷は旧態が保たれ、屋根裏の梁組は郷宿の風格をとどめている。』 と説明されています。644
 
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「町並み地区」を往復したあとは電動アシスト自転車を返却するため、「銀山口自治会館」前を左に折れ、貸自転車「弥七」へ向かいました。あと10分で予定の2時間になりますから、ちょうど良いタイミングです。647
 
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(続く)

2017年10月30日 (月)

世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」(その5) 「龍源寺間歩」③

「鉱石を運ぶ」には、『堀子が鉱石をかますに入れて背負い運ぶ。せまい坑道の中をさざえの殻(から)のランプの明かりだけがたよりだった』 とあります。
 
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「坑木を組む」には、『落盤防止のための坑木を組むのが留山師(とめやまし)の仕事であった』 と。
 
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「水をくむ」には、『深く掘れば水が涌く。坑内の配水作業は鉱石を掘ること以上にたいへんな仕事であった。竹や角樋(かくひ)のポンプ、桶(おけ)を使用した』 と。
 
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出口が近づきました。同行者は何かに注目しているようです。
 
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外から見た「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」の出口
 
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出口の近くににも小さな間歩がいくつも
 
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「石見銀山の鉱床断面図」には仙の山の山頂を境に2つの異なる鉱床である福石鉱床(東側の石見銀山世界遺産センター寄りの鉱染型鉱床)と永久鉱床(西側の栃畑谷周辺にある浅熱水性鉱脈型鉱床)が存在することが説明されています。ちなみに、戦国時代後期から徳川時代前期にかけての最盛期の「石見銀山」は世界における銀生産量の約三分の一を占めたといわれています。
 
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福石鉱床は『戦国時代に開発されたが、初期のころには地表に自然銀が露出していたと考えられる。自然銀・輝銀鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱・菱鉄鉱・酸化鉄などの鉱物がある。石見銀山の最盛期を生み出した。例、大久保間歩、金生坑、釜屋間歩』、永久鉱床は『福井市鉱床の品位の低下により、江戸時代から開発された鉱床である。明治・大正にかけて本格的に藤田久美により開発される。輝銀公鉱・黄銅鉱・黄鉄鉱・方鉛鉱・閃亜鉛鉱などの鉱物がある。例、龍源寺間歩、新横相間歩、三木坑、村上坑、蔵本抗、永久坑』 と詳しく書かれていました。

 

出口の脇にある管理棟の「栃畑谷(とちはただに)案内所」の前には鉱石のサンプルが置かれています。
 
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「世界遺産登録10周年」の幟(のぼり)が立つ下り坂の復路に入って駐輪場へ向かいます。
 
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石橋の下を小川が流れています。銀山川の支流でしょう。
 
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香り本舗「中村屋」は香り袋の店は休業日のようです。店舗の影になって写っていませんが、銀山採掘の地下坑道に空気を送っていた農機具「唐箕(とうみ)」が復元されていました。当時は酸素の体内吸収率を上げるために香りも送っていたと言われていることから、石見銀山周辺に自生する香木「クロモジ」と輸入ハーブをブレンドした香り袋を製作して販売しているのだそうです。
 
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「栃畑谷・昆布山谷」の案内看板には詳しい地図と栃畑谷で見つかったは灰吹炉跡の写真・絵図とともに、『金山彦命を祀る佐毘売山(さひめやま)神社の参道脇、左側の谷が出土谷(だしつちたに)、右側の谷が昆布山谷(こんぶやまたに)で、龍源寺間歩出口前の川に沿ったこの谷一帯が栃畑谷(とちはただに)です。どの谷も銀山開発にともなって造成した平坦地が階段状に連なり、石垣や井戸、間歩(坑道)が見つかっています。(中略)「五か山」の1つで、代官所直営の「御直山(おじきやま)」である「新横相(しんよこあい)間歩」がある谷として知られます。』 との説明があります。
 
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折れた木の枝葉を撤去中の重機
 
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「史跡石見銀山遺跡 佐毘売山(さひめやま)神社」は石見銀山の守り神(山神宮)として大内氏が永享6年(1434年)に建立したと伝えられる神社で、世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の一部です。栃畑谷にある100段の石段を上がると、巨石の上に社殿が鎮座し、石段に向かって左の谷を出土谷、右の谷を昆布山谷と呼ぶそうです。注、「さひめ山」は三瓶山の古名、祭神は鉱山の神である金山彦神(かなやまひこのかみ、金山彦命)と金山姫髪
 
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出土谷・仙ノ山(標高537.8m)方面へ向かう登山道は「石見銀山世界遺産センター」まで続いていると思われます。
 
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予想した通り、「高橋家」の手前に出ました。
 
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「龍源寺間歩の駐輪場」に戻りました。駐輪した時にはほとんど無かった電動アシスト自転車が10台以上も並んでいます。
 
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安全運転を促(うなが)す看板を確認してから、「石見銀山公園」方面へ引き返しました。
 
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(続く)

2017年10月29日 (日)

世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」(その4) 「龍源寺間歩」②

立入禁止の看板があるのは排水用に掘られた竪坑(たてこう)で、龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)に溜(た)まった水を約100m下の永久坑道へ排水したといわれるものだそうです。
 
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驚くことに植物が生育しています。水分が豊富で電気照明があるためでしょう。
 
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入口から約100mの地点を通過
 
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これらも「ひおい坑」のようです。
 
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間歩の断面が馬蹄形に変わりました。
 
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公開坑道(旧坑道)の終点には、『ここは入口から約160mの地点です。坑道は左にカーブしながら19

6m地点で落盤のためふさがっています。ここから奥は、高さ約2m、幅約60cmで人がやっと通れる大きさで、江戸時代に掘られたものです。』 と説明されています。
 
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坑道は左へ直角的に折れて「新坑道」に変わったところに「鉱脈鉱床」の説明がありました。『今皆さんが歩いてきた坑道の白色~灰色の岩石は、石英安山岩と呼ばれるものです。この岩石の表面には、割れ目(断裂・クラック)が同じ方向に何本もあります。その幅は、数mmから数mとさまざまです。今から百数十万年前、この割れ目に沿って熱水が通過することで、銀・金・銅といった金属が蓄積されました。このように岩石の割れ目に沿って金属が蓄積された鉱床(こうしょう)を「鉱脈鉱床」と呼んでいます。』
 
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直線的に彫られた「新坑道」(長さ116m)は栃畑谷へ通り抜ける為の連絡通路として機械で掘削された平凡なトンネルであるため、魅力に欠けるのは残念です。
 
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新坑道は、排水を考慮したためか、あるいは出口が高い場所にあるためか、緩やかな上り坂になっています。
 
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出口に近い場所に15枚の「電照版 石見銀山絵巻」が並んでいました。その中から12枚を紹介します。
 
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一番目の「四つ止め之図」は丸太の木を組んで土石の落ちるのを避けて安全に配慮した坑道の入口を説明しています。石見銀山では縦約1.8m、横幅1.5mの間歩入口に直径90cm位の栗の丸太で四本柱を組んで四つ留としたとのこと。
 
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二番目は「四つ留役所之図」は坑口に置かれた四つ留役所では山片掛(やまがたかかり)の役人が構内の監督や間歩に出入りする銀掘り人夫(かねほりにんぷ)たちの見張り、銀鉱石の軽量などを行っていたと説明しています。絵図には役人の詰所と銀鉱石置き場が描かれています。
 
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三番目は「御代官様銀山御見廻之図」。代官所直営の五ヶ山(永久・大久保・龍源寺・新切・新横相間歩)の御用見廻りは年数回行われ、代官は鉱石の採れ高の状況や校内の様子などを四つ留役所の役人から事情説明を受けていた(絵図参照)とのこと。
 
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五番目の「鋪内(しきない)之図」は間歩構内を描いたもので、図の右側から捨て石を背負って歩く人夫の姿や雁木(がんぎ)という丸太梯子(はしご)を用いたり、「打替(うちがえ)」といって左右の横木を渡して踏台として歩いている姿が描かれている。
 
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六番目の「片山木留之図」には天井の土砂を留めるため木材で被う「押木留之図」、堀子人夫たちが鉱石をノミで掘っている「堀子共鏈(ほりこどもくさりぼり)図」、構内の溜(たま)り水を水箱に段々と竹ポンプで吸い上げる作業を描いた「水鋪(みずしき)水取之図」
 
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七番目の「留山師両(とめやましりょう)立木留(たちぎとめ)いたす図」(右端)には堀子大工が立木で中程の横穴に支柱を設(しつら)えているところを描いている。石を彫りぬいてトンネル状の坑道の様子を描いた「石留之図」(中央)、水汲みをする「水屓上(みずひきあげ)ル図」、坑道内の内部を描いた「鋪内(しきうち)之図」(左側)
 
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八番目の「大水鋪角樋(おおみずしきかくひ)二水引揚(つきみずひきあげ)ル図」は構内の湧水(ゆうすい)を木製の角樋(木製ポンプ)を使ってだんだん上に引揚げて疏水坑(そすいこう)へ流し出している作業図。注、而は漢文の置き字で、この場合は順接(そしてに相当する関係)
 
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九番目の「唐箕風箱(とうみかぜばこ)之図」は江戸時代中頃から唐箕を改良して抗外の風を坑内に昼夜送る作業
 
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「功績を掘る」では、堀子は鑚(たがね)を鋏(はさみ)で固定し、鎚(つち)でたたき鉱石を掘りましたが、暗闇・油煙・石塵(せきじん)の中で大変な労働であったとのこと。
 
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(続く)

2017年10月28日 (土)

世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」(その3) 「龍源寺間歩」①

駐輪場から先銀山街道は、自転車の乗り入れが禁止されていますから、徒歩で「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)」へ向かうことになります。ちなみに、「龍源寺間歩」は常時公開されている唯一の坑道です。また石見銀山最大級の坑道跡「大久保間歩」は4月から11月の週末に開催される一般公開限定ツアー(予約と約1.8km・約2時間半の山歩きの準備が必要)で坑道内を見学することができます。
 
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石見銀山御料銀山町年寄山組遺宅 高橋家」(県指定史跡)の前を通過します。案内看板には、『山組頭は代官所と高山経営者である銀山師たちとの取次などを勤める役職で、銀山師の中から選ばれた。町年寄は周囲に広がっていた銀山経営に携わる人たちが住む町の運営にかかわる役職であった。建物は通りに面して母屋があり、北側に茶室、南側に離れ座敷を設けている。』 と説明されていました。
   
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銀山川は区内水量の少ない谷川に変わりました。
 
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幅が狭くなった銀山川に架かる小さな橋を渡って「龍源寺間歩」へ向かいます。駐輪場から約300mの地点で対岸に受付管理棟が見えました。「龍源寺間歩」の入場料は大人410円。ちなみに、これまで歩いてきた「銀山街道」(注、「美しい日本の歩きたくなる道500選」)をそのまま直進すると「坂根口番所(さかねぐちばんしょ)跡」(200mほど先)と「降路坂(ごうろざか)」(駐輪場から約2km)を経て「温泉津沖泊道」に向かうのでしょう。ちなみに、「降路坂」は永禄2年(1559年)に毛利軍が山吹城を落として石見銀山を尼子氏から再奪取しようとするも、尼子晴久軍に大敗を喫(きっ)した場所です。しかし、2年後には毛利氏が尼子氏との争奪戦に勝利して「石見銀山」を手中に収めました。
 
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「龍源寺間歩」のパネルには、『江戸時代中期以降に開発された間歩(坑道)で「御直山(おじきやま)」とよばれた代官所直営の操業地にあった坑道で、「御直山」の中でも銀山を代表する「五か山」の一つです。坑口(こうこう)の横には番所(管理小屋)を設け、四ツ留と呼ぶ坑木(こうぼく)を組合せて坑口としています。坑道は、ほぼ水平に約600m掘り進んでおり、高さ1.6~2m、幅0.9~1.5m、採掘と同時に功績運搬の幹線坑道としても使ったようです。内部の眼疾は角礫凝灰岩(かくれきぎょうかいがん)、講堂の壁面や天井にはのみ跡が残り、鉱脈を追って掘り進んだ小さな坑道(ひ押し坑)や上下方向に延びる斜坑(しゃこう)を見ることができます。排水用の坑道でもあった下の(永久坑)へ降りる垂直の竪坑(たてこう)も残っています。坑道は入口から水平に約630m続いており、現在157mの区間を公開しています。』 の説明文と、公開坑道の先は左に折れ、新坑道を経て出口に至ることを示す地図があります。
 
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「龍源寺間歩」が目の前に近づきました。坑口は新しい木材で補強されています。
 
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間歩番号500」の表示があり、入口の上には小さな社(やしろ)が安置されています。
 
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その周辺には小さな間歩がいくつも確認できました。
 
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間歩の内部に入りました。パネルに説明されていた通りの坑道がほぼ真っ直ぐ延びています。鉄製のフレームは立ち入りを制限するための扉枠のようです。
 
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照明に照らし出された間歩の壁面にはノミの跡があります。
 
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天井にもノミの跡が残る間歩が続きます。
 
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寒暖計は摂氏12度ほどを指しています。
 
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坑道から枝分かれした間歩は人が腹這いになってやっと入ることができる狭さです。
 
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坑口から約60mの地点には鉱脈を追って掘った坑道「ひおい坑」がいくつもありました。近くには『出口まで約214m』の表示も。
 
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鉄製の補強材が天井付近に設置されています。崩れやすい場所なのでしょう。
 
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間歩の断面(高さ。幅)が先ほどまでよりも少し小さくなったようです。
 
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(続く)

2017年10月27日 (金)

世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」(その2) 銀山地区をサイクリングする②

「大森小学校」のすぐ先にある広場に立つ「中国自然歩道」の地図には「石見銀山」周辺のハイキングコースが表示されています。
 
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案内標識には「龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)へ1.65km」と表示されています。読みづらいのですが、石柱と左手を指す案内板には「大久保石見守墓へ50m」とあります。「石見銀山みてあるき地図」で確認すると、銀山川の対岸にあるようです。ちなみに、大久保石見守長安は、江戸幕府が「石見銀山」を接収した慶長6年(1601年)に初代の大森銀山奉行となり、銀の生産高を飛躍的に増加させた人物です。
 
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「下川原吹屋(ふきや)跡」は発掘調査によって発見された17世紀初頭(江戸時代初め)の銀精錬遺跡で、鉛を利用した「灰吹法(はいふきほう)」と呼ばれる精錬法で銀を取り出していたそうです。右手の建物は銀を精製するための作業小屋を再現したもののようです。注、「灰吹法」は金や銀を鉱石などからいったん鉛に溶け込ませ、さらにそこから金や銀を抽出する方法
 
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「霊亀山 西本寺」の山門は大内義興が石見銀山を守るため要害山の頂上に築城した山吹城の追手門を移築したものであると伝えられていたようですが、最近の調査で後年のものであると分かったそうです。
 
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大森町内では電気自動車の交通実証実験が行われているようです。
 
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土産物店「石見銀山 銀の店 工房」
 
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「出雲そば」の店「釜の屋」
 
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毛利元就の木造が御神体として祀られる毛利氏縁(ゆかり)の「豊榮(とよさか)神社」(市指定文化財、旧長安寺)は改修工事中のようです。石灯籠には「第三大隊」と刻まれていますが、慶応2年(1866年)に勃発した第2次長州戦争で石見へ攻め入った長州軍が、長安寺でこの木造を発見して、奉納したものかもしれません。
 
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十王像がある「極楽寺」の参道。永禄3年(1560年)に創立された浄土宗のお寺 注、十王は地獄において死者の審理を行う道教や仏教の十尊
 
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銀山川に架かる橋の先にある遊歩道にはハイキング姿の男性があります。
 
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集落に入ります。
 
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よく手入れされた杉林
 
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「上市場地区」の道標には「龍源寺間歩」まで1.2kmとの表示
 
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「石見銀山遺跡案内図」
 
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さらに山の中へ入って行くようです。
 
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国指定史跡・山吹城跡 登山口」には人が足を踏み入れた跡がほとんどありません。よほど熱烈な城ファン以外の関心を呼ばない城址なのかもしれません。延慶年間(1309年以降)に周防の守護大名・大内氏が要害山(標高414m)上に築き、尼子氏と毛利氏は「石見銀山」を巡る争いで、防衛拠点として奪い合った山城です。慶長6年(1601年)ころに廃城になっています。また、写真では分かりにくいのですが、峠にある吉迫口番所跡から上の集落と国屋峠を越えて積出港の鞆ケ浦(ともがうら)へ向かう石見銀山街道(鞆ケ浦道)の起点であることが標識(奥方向)に表記されています。ちなみに、「石見銀山街道」は「美しい日本の歩きたくなる道500選」に選ばれています。
 
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「山吹城」は天文2年(1533年)に戦国武将の大内義隆(よしたか)によって要害山(ようがいさん、標高414m)の頂上に築かれたと伝えられる山城です。「石見銀山」を巡って大内氏・尼子氏・毛利氏が激しく争った結果、毛利氏の所有となりましたが、関ヶ原の戦いで毛利氏が総大将を務めた西軍が敗れたため、「石見銀山」(大森地区)は徳川幕府の天領となり、「山吹城」は廃城となりました。

 

道の両側には竹林が増えています。
 
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新切間歩(しんきりまぶ)」まで50mを示す標識
   
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「史跡石見銀山遺跡福神山間歩(ふくじんやままぶ)」
 
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『自転車はここまで P➡』と書かれた看板がありますから、右手に駐輪場(自転車置き場)があるようです。この先にある「龍源寺間歩」は反時計回りのルートになっているようですから、左手に見える橋は出口に当るのでしょう。ちなみに、貸自転車「弥七」からの所要時間は19分でした。
 
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(続く)

2017年10月26日 (木)

世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」(その1) 銀山地区をサイクリングする①

午前8時30分、「石見銀山世界遺産センター」の駐車場に到着すると、ちょうど同センターが開館したところでした。
 
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「案内中」の看板が出ています。
 
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バス停の脇に長い階段が見えますから、高台に展望台または記念碑があるのかもしれません。後で確認すると、展望台は「石見銀山世界遺産センター」の脇から尾根伝いに登ったところにありました。その先もハイキングコースになっていて、石見銀山公園方面へ続いているようです。ちなみに、登山道と展望台が一番目の写真に写っています。
 
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さっそく、館内に入りました。石見銀山についての展示を見学したかったのですが、展示室は午前9時からとのこと。参考情報として「石見銀山みてあるき地図」をもらい、アドバイスにしたがって「石見銀山公園」へ車で向かいました。ハイシーズンは同センターの駐車場に車を停めて、大森バス停または大森代官所跡バス停まで専用シャトルバスを利用する必要がありますが、オフシーズンには「石見銀山公園」の駐車場に車を停められるようです。

 

県道31号に戻って、「石見銀山トンネル」方面へ引き返し、
 
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5分ほどで到着しました。観光案内所(休憩所)がある「石見銀山公園」は「銀山地区」と「町並み地区」の境界に位置しています。
 
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駐車場脇に設置された世界遺産「石見銀山遺跡」と「山吹城跡」の立体模型の後方には世界遺産に登録されていることを示す看板がありました。
 
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「石見銀山公園」(右上)から「大森代官所跡」(左下)までの町並み地区(武家・町屋ゾーン)
 
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「石見銀山公園」の隣にある「下河原集落跡」(左)から「清水谷精錬所跡」(右上)までの銀山地区
 
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その奥(銀山地区)にある「龍源氏間歩(りゅうげんじまぶ)」と「坂根口番所跡」付近 (注、間歩とは鉱山の坑道のこと)
 
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「石見銀山」では、採掘から精錬に至るまでの銀の生産活動が一貫して行われたエリア(東西2.2km、南北2.5km、面積約300ヘクタール)は周囲約8kmの柵で囲まれて、銀の不正持ち出しを監視するため要所に口留番所が設けられました。銀山地区と街並み地区の境界(「石見銀山公園の近くにある「倉泉寺口番所」と「龍源寺間歩」の先にある「坂根口番所跡」(注、銀の積出港である「温泉津」の「沖泊」へ向かう街道「温泉津沖泊道」(全長約12km)がある) 注、もう一つの街道は仁摩町にある「鞆(とも)の浦」へ向かう「鞆の浦道」(全長約7km)
 
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「石見銀山みてあるき地図」を見ながら徒歩で貸自転車「弥七」へ向かいました。店員さんからのアドバイスで、電動アシスト自転車を2時間借りることに。ちなみに、料金は700円。普通自転車は3時間で500円と安いのですが、「龍源寺間歩」まで行く場合は電動アシスト付がお勧めです。このあと約2.3kmの上り坂でで電動アシスト自転車の快適さを納得することになります。
 
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電動アシスト自転車に乗るのは初めてです。左ハンドルには電動アシストの操作部があり、右ハンドルにはギアチェンジのレバーが装備されています。スムーズに発信するためにはペダルの踏み方にコツが必要でした。同行者は心もとない乗り方をするため、店員さんたちが心配そうに見守ってくれています。
 
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石見銀山公園から約2.3kmの距離にある石見銀山の龍源寺間歩(りゅうげんじまぶ)を目指します。「石見銀山公園」を過ぎるころには同行者が電動アシスト自転車にやっと慣れたようです。
 
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銀山川に架かる銀山橋を渡ると「銀山柵内(銀山地区)」(左)と「町並み」(右)に分かれます。正面辺り(Café住留の左手)に「倉泉寺口番所跡」があるはずです。
 
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立派な和風建築「ゆずりは」(右)は宿泊施設、渡邉家住宅」(左)
 
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「渡邉家住宅」(国指定史跡・石見銀山遺跡)は石見銀山代官所地役人遺宅で、「銀山柵内」に残る唯一の地役人・坂本氏の居宅であると説明されています。渡辺家は江戸時代の武家屋敷を復元(リノベーション)したもので、数年前までは会席料理店でしたが、現在は期間限定で無料休憩所として開放されているようです。ちなみに、渡辺家は現在のオーナーの名前でした。
 
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長い坂道が続きます。ちなみに、右手にあるのは大森小学校
 
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左手には御堂が見えます。石塔には「南無妙法蓮華経」(法華経の教えに帰依をする意)とありますから、日蓮宗あるいは天台宗の寺院と思われます。
 
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(続く)

2017年10月22日 (日)

出雲市から大田市へ

「ファミリーロッジ旅籠屋・出雲大社店」の自室に戻り、午前7時になるのを待って、ロビーで軽朝食を食べました。このシステムは前橋南店に次いで2度目ですから対応に間誤付(まごつ)くことはありません。

 

午前7時半ころ、宿泊先を出発しました。前日走ったルートを逆に辿(たど)って、旧JR西日本の大社線大社駅前を通過し、旧大社線の跡地に造られたと思われる市道を南下、3つ目の信号を右折、国道431号との交差点では国道へ左折しないで直進しました。この先は信号機がほとんどない農道のような道が続きます。神戸川(かんどがわ)に架かる橋を渡ると、「稲佐の浜」記事で紹介した「国引き」の綱とされる「薗(その)の長浜」の少し東側を南下します。

 

ちなみに、江戸時代に洪水対策として行われた流路変更工事の前は、神戸川は斐伊川とともに神西湖(旧神紋水海)に流入していたそうですが、それぞれ日本海と宍道湖に流入するように改められ、現在に至っているそうです。

 

神西湖の西側を抜けると海岸線「湖陵(こりょう)くにびき海岸」(延長約5km)に出ました。この海岸線に続く市道は「国引き海岸道路(キララビーチロード)」と呼ばれているようですが、防潮堤(ぼうちょうてい)があるため、走行中には砂浜を見ることはできません。なお、写真ではダッシュボードの反射像がフロントガラスに反射していることをご容赦下さい。
 
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「国引き海岸道路」は、小高い場所(ガードパイプ区間)になり、海岸の展望が良くなりました。
 
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前方に風力発電所が見えてきました。ここは出雲市湖陵町大池です。しかし、後でネット検索しても、その名称を見つけることができませんでした。
   
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海岸沿いの道を進んで出雲市多伎町に入ると、前先に別の風力発電所のローターが小さく見えます。
 
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こちらの「キララトゥーリマキ風力発電所」は道の駅「キララ多伎」の東側にあり、デンマークのヴェスタス(Vestas)社製の発電機2基の総出力が850kw×2基=1700kw(一般家庭633世帯分)で、中国電力に全量売電しているようです。(注、タワー高49m、ローター直径52m、総重量80t) ちなみに、トゥーリマキはフィンランド語で「風の丘」という意味とのこと。ちなみに、島根県には全国でも最大規模を誇る新出雲ウインドファーム(島根半島)などがあり、風力発電所の発電量で全国4位とのこと
 
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2分ほどで国道9号(山陰道)に行き当りましたので、右折して西進しました。この交差点を直進すると県道340号に入ります。
 
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道の駅「キララ多岐伎(たき)」前を通過します。ところで「キララ」とはどういう意味なのでしょうか?
 
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国道9号はJR西日本・山陰本線の高架下を潜り、内陸部へ入って行くようです。
 
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大田市に入ると景色が変わりました。左手の看板にあるように、海水浴場として有名な「波根(なみね)海岸」と壮大な海食崖「立神島(たてがみじま)」と「立神鼻(たてがみばな)」がある波根町へと分岐する県道285号を右手に見ながら波根交差点を通過します。この先で振り返ると、波根東漁港の先に「立神島」(航空写真)を遠望することができたのです。迂闊(うかつ)にも気づきませんでした。
 
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道の駅「ロード銀山」の案内標識があります。この日の最初の目的地が近づいたようです。
 
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「石見銀山」と「三瓶山」方向はもう少し直進するようです。この後、案内標識にしたがって、和江(わえ)漁港入口交差点を左折して国道375号へ左折しました。
 
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3kmほど先で「石見銀山」方向と「三瓶山(さんべさん)」(標高1126m)方向が分かれますから、右手の県道46号(石見街道)を選びました。ちなみに、三瓶山は、鳥取県の大山(だいせん)とともに、「国引き」の時に八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)が網をつなぎ止めた杭とされています。
 
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県道46号(石見街道)は山間に入って行くようです。
 
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「石見銀山・世界遺産センター」まで3.4kmの地点を通過
 
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石見銀山トンネルを抜けた先にある この交差点を右折するようです。
 
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アプローチ道路を進みました。
 
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世界遺産「石見銀山遺跡とその文化的景観」の紹介は小休止のあとに投稿します。(続く)

2017年10月21日 (土)

「出雲大社」の早朝参拝(後編)

「東神苑」に咲く曼珠沙華(まんじゅしゃげ)
 
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「祓い橋」を渡ります。
 
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「下り参道」を上がって「勢溜の鳥居」へと進みます。
 
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「勢溜の鳥居」からは薄明るくなった空の下に伸びる神門通りを一望できます。やはり、早朝にも参拝して良かったと実感しました。
 
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「神門通り」の先には「大鳥居」(石の鳥居)が見えます。
 
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そして、3名ほどの参拝者の姿も。
 
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国道431号と神門通りが交差する角に立つ「出雲大社周辺案内」の看板
 
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「神門通り」を1/3ほど下ったところで「勢溜の鳥居」を振り返りました。
 
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一畑電車大社線の出雲大社前駅の入口が開いていましたので、中に入ってみました。白い内壁、高い天井、ステンドグラスの高窓が印象的であり、鉄枠と木で造られたベンチシートが並ぶ昔ながらの駅待合所です。
 
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駅の脇にある電車の展示場にも立ち寄りました。
 
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日本最古級の電車「デハニ50形・52号車」が展示されているようです。『昭和3年(1928年)、小境灘(現一畑口)~北松江(現松江しんじ湖温泉)間、および昭和5年(1930年)の大社線開業に併せて新造された一畑電車唯一のオリジナル電車です。客貨同時輸送を考慮した荷物室付き車両であり、今ではほとんど見ることができない貴重な車両です。また、製造当時には当たり前だった客室の手動扉も、全国にいくつか残るふぉう時代の車両が全て自動扉に改造された中にあって、唯一製造当時のまま残されている点においても貴重な車両と呼ばれる由縁です。(以下略)』 と説明されています。
 
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「出雲大社前駅 駅舎屋根の古い瓦の展示」についての説明
 
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車両の中に入ってみました。昔懐かしい(小中学生時代に見た)スタイルの運転席です。
 
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ベンチ式の客席
 
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荷物室の壁には古い写真が飾られています。詳細な説明板に紹介されていた映画「RAILWAY 49歳で運転手になった男の物語」のシーンを2009年8月に撮影したもののようです。
 
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出雲商工会館の前を通過します。
 
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そこには御社(おやしろ)形の屋根を持つ公衆電話と、
 
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来月(10月)上旬に開催される「第29回 出雲駅伝」(全日本学生選抜)の横断幕がありました。
注、勢溜の大鳥居前をスタートし、神門通りから出雲市役所へ向かい、菱川直江から北上し、出雲市東部(宍道湖に近い)平田中の島で折り返し、国道431号で勢溜の大鳥居前に戻り、出雲ドーム前をゴールとする6区間、45.1kmのコースで21チームが競い東海大学が優勝
 
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予定した午前7時10分前には宿泊する「ファミリーロッジ旅籠屋・出雲大社店」に戻りました。
 
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(続く)

2017年10月20日 (金)

「出雲大社」の早朝参拝(中編)

前日と同様、「松の参道」の左側を進みます。
 
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「連理の松」の片方は大きく傾いています。
 
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「手水舎」に寄り、
   
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「荒垣」の出入口に立つ「銅の鳥居」を潜ります。拝殿の前に参拝者を一名発見。
 
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左脇には「神馬神牛(しんぎゅうしんめ)像」があります。
 
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神社にある牛や馬は神様の乗り物あるいは神様の使いとされますが、「出雲大社」では「学問」が進み、「子宝」に恵まれるとの言い伝えがあるそうです。実は、菅原道真は「出雲大社」に祀られている「天穂日命(あめのほのみこと)」(農業紳で学問上達のご利益がある)の末裔(まつえい)である「野見宿弥」の子孫であり、天満宮や天神社に「紳牛」があることに倣(なら)ったのでしょう。また、神馬は毛利家が寄進したもので、作者が「出雲大社」に祈ったところ、妻が安産で子供を生んだとの言い伝えがあるそうです。
 
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「拝殿」には先ほど美香型参拝者の姿はありません。
 
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静寂の中、「八足門」で静かに参拝しました。同行者と私の柏手(かしわで)の音だけが響くなかで、多くの良縁に再び感謝させていただきました。
 
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「八足門」の脇にも「手水場」あることに気づきました。
 
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「東十九社(ひがしじゅうくしゃ)」にも参拝
 
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その左手にある末社「釜社(かまのやしろ)」には素戔嗚(素戔嗚)尊の子神「宇迦之魂神(うかのみたまのかみ)」で、食物をを司る神様であり、全国にある稲荷社の祭神であることが説明されています。
 
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前日は歩かなかった「本殿」東側の参拝路を少し歩いてみました。奥に見える建物は「文庫」です。
 
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横から見る「拝殿」
 
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清々(すがすが)しい気持になりながら「銅の鳥居」から「松の参道」に出ました。ふと見た「連理の松」の太い幹と根の間には亀裂があり、しかも少し浮き上がってることが気になります。
 
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「松の参道」から見る「祓い橋」と「下り参道」
 
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(続く)

2017年10月19日 (木)

「出雲大社」の早朝参拝(前編)

県道29号と国道431号を戻り、「出雲大社」の「勢溜の鳥居」前から神門通りを南下し、約500m先にある「ファミリーロッジ旅籠屋(はたごや)・出雲大社店」に到着しました。今年6月、群馬県前橋市にある前橋南店に宿泊して利用しやすさが気に入り、今回も宿泊先に選んだのです。神門通りに面していることも魅力です。この日は疲れたこともあり、記録の整理はほどほどにして、午後9時には就寝しました。

 

翌朝は午前5時に起床。40分後には軽装で部屋を出ました。「出雲大社」を早朝に参拝するためです。前日参拝していますが、新たな気持ちで2度目の参拝をすることにしたのです。
 
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まず、石の鳥居(正式名:大鳥居)がある宇迦橋(うかばし)の北詰に出ました。
 
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堀川の中央にコンクリート製の仕切りがありました。
 
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上流側にも同様の仕切りがありました。遠くに見えるのは弥山のようです。
 
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地図で確認すると、古内藤川(南側)と高浜川(北側)という2つの川が宇迦橋の上流2kmで接近する地点から、同じく下流300mの地点までコンクリート製の仕切りで分流されているようです。

 

初めて見る施設ですが、思い出しました。岐阜県の南部を流れる木曽川・長良川・揖斐川の三川は伊勢湾に注ぐ河口付近まで互(たが)いに堤防で隔てられている「三川分流」です。江戸時代に幕府の命令で薩摩藩が行った大土木工事「宝暦治水工事」に加えて、明治時代にオランダ人技師の指導で再度工事を行った結果、その後は水害の発生が減ったと伝えられます。「三川分流」の様子は地図(航空写真)で確認することができます。

 

ネット検索で調べると、この堀川は出雲市小山の三木与平衛が元和2年(1616年)に菱根池(ひしねいけ)を干拓するために開削した川でした。菱根池は、中国山地に源を発し、雲南市と出雲市を経て宍道湖(しんじこ)へ注ぐ「斐伊川(ひいかわ)」の水が溜まってできた大きな池で、干拓により「出雲大社」から東方へ連なる地域(注、現在は大社町の修理免・入南・菱根と江田町など51町歩、注、東京ドーム11個分の広さ)の農地が生まれたそうです。

 

話がそれました。いよいよ、「出雲大社」への早朝参拝に向かいます。一番目の「石の鳥居」を潜ります。注、「出雲大社」では一の鳥居とは呼ばない
 
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石の鳥居から見る神門通りにはほとんど人影がありません。左前方に旅籠屋の看板が見えます。ちなみに、明治末に国鉄大社駅が開業した時、駅から出雲大社までの道が開設されて、神門通りと名付けられたものだそうです。ガソリンスタンドと旅籠屋の先から道路舗装がアスファルトからブロックタイル敷に変わっています。
 
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150mほど進むと、右手に出雲商工会館のビルがあり、
 
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その50m先には畑電車大社線の「出雲大社前駅」。早朝(午前5時50分ころ)のため、まだ扉が閉まったままです。ちなみに、昭和5年(1930年)に建てられた鉄筋コンクリート製平屋建ての駅舎は、半円形の緑の屋根に特徴があり、国の登録文化財に指定されています。
 
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その脇にある電車の展示場
   
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「出雲大社」の「勢溜(せいどまり)」まで約350mの地点を通過
 
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両側には飲食店や土産物店が並んでいます。
 
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「勢溜」の前に出ました。早朝にもかかわらず、自転車(スポーツサイクル)を止めて、石段で休憩するライダーがいました。
 
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前日には潜らなかった「勢溜(せいだまり)の鳥居」(木の鳥居)です。「勢溜」とは聞きなれない言葉で、ネット検索で調べると、『江戸時代の遷宮の際、林を切り開いて広場が作られ、芝居小屋が設けられました。人の勢いが溜まるところということで勢溜と呼ばれるようになりました。』 との説明がありました。
 
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「勢溜の鳥居」のすぐ先にある「出雲大社境内案内図」
 
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「下り参道」が続きます。
 
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前日、駐車場から「下り参道」に入る時に通った通路
 
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「祓(はら)い橋の手前にある灯籠(とうろう)に火が入っています。
 
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「松の参道」へ向かうと、
 
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石灯籠も灯(とも)っていました。
 
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(続く)

2017年10月18日 (水)

「稲佐の浜」から「出雲日御碕灯台」へ(後編)

灯台の近くから見る日御碕は福井県の東尋坊(とうじんぼう)に似た景観です。

 
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記念撮影をする観光客たち
 
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「鳥見台」まではわずか500mですが、「出雲大社」の境内を歩き回ったことで両足の痛みが強まりましたから断念することにして、「日御碕灯台」の敷地内へ向かうことにしました。
 
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出雲日御碕灯台」の敷地に入ります。参観時間は9:00~16:30とあります。
 
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左手にある「灯台資料展示室」は閉まっているようです。
 
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間近で見上げてみました。外壁は八束郡森山(現松江市美保関町)で切り出された硬質の凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)を使用した美しい石造りですが、内壁はレンガ造りとのこと。
 
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「近代化産業遺産」(登録有形文化財)に指定されている「出雲日御碕灯台」は上部デッキまで上がれますが、かなり急な螺旋階段(163段)は痛む足には大きな負担ですから、参観することを断念しました。ちなみに、世界の歴史的灯台100選にも選ばれています。
 
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思いきり近づいて頂部を見上げるアングルで撮影
 
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日時計を見かけました。しかし、「出雲日御碕灯台」のイメージに似せた台座があるだけで、上部には何もありません。
 
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案内板には、『初点灯以来、時刻をしるための大切な施設として設置されていましたが、当台の微塵化に伴い昭和49年(1974年)3月に役割を終え廃止されましたが、平成15年(2003年)に灯台設置100周年を迎えるにあたり、日時計を復元した。』 ことが説明されています。計測部(指針と文字盤)は破損して撤去されたのかもしれません。
 
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駐車場の反対側に出ました。予約した時間(午後4時30分)にはまだ30分ほど早いのですが、食事処「ぐるめ幸洋」(注、ネット上の名称は幸洋丸)に入りました。オフシーズンのようで、店内に先客はありません。予約する必要はなかったのかもしれません。昼食に当初予定していた出雲そばではなくビーフシチューを食べたため、夕食は二人でシェアあることにして、心積もりしていた海鮮丼の2品から「古事記丼」(1300円)を選び、軽いメニューとして薦められた「出雲そば」(750円)と「焼きイカ」(600円)から後者も注文しました。

 

付けだしは「ヒラマサの肝(きも)」。思ったほど癖がなく、酒の肴(さかな)に向く味でした。
 
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先に配膳された「焼きイカ」は想像とは違うもので、しかもボリュームがないのです。店員さんは地元でシロイカと呼ばれる剣先イカでした。
 
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店員さんによると、「古事記丼」は近くの漁港に水揚げされたマンサクの漬(づ)け・サワラ・タイ・カジキ・ウニ・ヒラマサ・イカ・サザエ・ワカメがトッピングされた海鮮丼で、吸い物・小鉢・漬物が付いています。名前の由来は、1300年前から出雲で食されていたとされるサザエ・ワカメ、大社特産の海産物を使う海鮮丼で、日御碕の5店舗で提供するご当地メニューとのこと。注、島根半島はリアス式海岸で良い漁場に恵まれている
 
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食事を終えた同行者は大好きなソフトクリーム(350円)を見つけて満足そう。午後4時半ころ、この日の宿泊地がある大社町杵築(きづき)南へ向かいました。(続く)

2017年10月17日 (火)

「稲佐の浜」から「出雲日御碕灯台」へ(前編)

「出雲大社」の第2駐車場から国道431号に出て、 出雲の阿国(おくに)の墓がある奉納山公園の脇を通過すると、「出雲大社」から1km余りで海岸線に行き当りました。ちなみに、国道431号はこの交差点で左に折れて国道9号方面へ向かいます。正面(交差点の道路脇)には「日本の渚・百選」「みさきうみねこ海道」「稲さ海岸通り」などの案内看板があり、海から聳(そび)える「弁天島」に鳥居が見えます。ここが神話にも登場する「稲佐の浜」です。
 
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駐車場の防潮壁には「出雲路自転車道」の大きな表示があります。「稲佐の浜」の先に見えるのは「大社(たいしゃたいしゃ)漁港」のようです。
 
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「出雲路自転車道」は「宍道湖(しんじこ)」の鹿園寺(ろくおんじ)駐輪場から「斐伊川(ひいかわ)」沿いに出雲市へ入り、山陰本線「出雲駅」と「電鉄出雲市駅」の付近を通過し、「稲佐の浜」までのルート(30.9km)が地図を使って表示されています。
 
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防波壁の先には波消ブロックがあり、「稲佐の浜」で遊ぶ人たちがいます。大国主大神と最後の使者である建御雷神(たけみかづちのかみ)が「国譲り」の交渉をした場所とされます。注、日本書記では武甕槌神(たけみかづちのかみ)
 
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弁天島(べんてんじま)には「弁財天」が祀られていましたが、明治の神仏分離時から豊玉毘古命(とよたまひこのみこと)が祀られているそうです。
 
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「稲佐の浜」(長さ約2km)の南方向には、「薗(その)の長浜」(長さ約8km)が続いています。「出雲国風土記」の「国引き」の条には、八束水臣津野命(やつかみづおみつぬのみこと)が砂丘海岸である「稲佐の浜」と「薗の長浜」を強固な綱にしたと伝えられます。そして、「国引き」の後に、その綱は鳥取県西端部、美保湾と中海に挟まれた「弓ヶ浜半島」(注、米子市と境港市)になったそうです。
 
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ちなみに、「国引き」によって大きくなった土地は次の通りです。朝鮮半島の新羅(しらぎ)から切り取り丈夫な綱をかけて出雲まで引いたとされる土地「杵築(きずき)のみさき」(注、現在の出雲市小津町から日御碕まで)、北の方からは狭田(さだ)の国(注、小津町から鹿島町佐陀まで)と闇見(くらみ)の国(注、松江市島根町付近)、そして最後には北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国が三穂の埼(注、松江市美保関町付近)です。つまり、宍道湖と中海の外側に連なる丘陵地帯の島根半島(東西65km、南北15-20km)なのです。

 

県道29号(くにびき海岸道路)で大社町日御碕地区に入って北上すると、切り立った海岸線に沿うカーブの多い狭い道となって続きます。やっと見つけた展望所に車を停めて、「稲佐の浜」方向を振り返って撮影しました。
 
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左手(海岸方向)、300mほど先に見える「日御碕(ひのみさき)神社」は「出雲国風土記」に「美佐伎社」と記された古社です。
 
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神社は、上の宮「神の宮(かむのみや)」(写真右:拝殿・本殿)と下の宮「日沈宮(ひしずみのみや)」(左:拝殿・本殿)、中央:楼門と回廊)に分かれ、上の宮には素盞鳴尊(すさのおのみこと)、下の宮には天照大神(あまてらすおおみかみ)と、出雲神話に登場する伝説の人物が祀られていす。ちなみに、社殿(14棟)は国の重要文化財に指定されています。
 
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「稲佐の浜」を出発して20分ほどで広い無料駐車場に到着し、席を予約した食事処「ぐるめ幸洋」(旧ぐるめ幸洋丸)に近い場所に車を停めました。ちなみに、同じ駐車場内に『日御碕灯台」のバス停があります。
 
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案内表示にしたがい、飲食店や土産物屋の並ぶ道を歩いて「日御碕灯台」へ向かいました。
 
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「出雲日御碕」は島根半島の西端にあり、古代より日没の地として、日本の夕日を代表する景勝地です。日御碕灯台と日本海が一望できるこの地ならではの景観を堪能できると説明されています。
 
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灯台に向かう遊歩道の脇には海の波に侵食されたと思われる深い溝があります。
 
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遊歩道の先に現れた「出雲日御碕灯台」は明治36年(1903年)4月1日に完成しました。地上からの高さは43.65m(注、海面からの高さは63.30m)、明るさは48万カンデラで、光到達距離は39kmとのこと。
 
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遊歩道の脇にある「ひのみさき案内図」には「灯台と夕日の小径」で海岸線を巡ることができることが描かれています。「日御碕神社」の聖地である「経島(ふみしま)」には立ち入りが禁止されており、またウミネコの生息地としてもしられますから、展望台(鳥見台)まで歩きたいところですが・・。
 
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「出雲日御碕灯台」と海岸線の崖の間に立つ「日御碕の地形」の案内板には、『日御碕一帯には標高20~36m程度のやや平坦な面が広がっています。これは海岸段丘とよばれるもので海面がこの高さまで上昇していた時期があったことを意味し、波による激しい侵食作用で東寺の海岸付近につくられた平坦部の名残です。これは約数万年前の出来事です。現在は、これらが風化した10~15m程度の表土におおわれていますが、このあたりのように季節風による波しぶきを受けやすい西側では表土がけずりとられ、そのしたにある硬い岩盤がやや平坦な面をなして地表に顔を出しています。』 と詳しく説明されています。
 
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(続く)

2017年10月12日 (木)

出雲市の「出雲大社」(最終回)

「発掘された御本殿の巨大な御柱」の発掘についての説明 注、左側は平成12年に「八足門」前で発掘された御柱の写真
 
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「八足門」の前にあったマークとの対応図(拡大写真)
 
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「荒垣」の出入り口にある「銅の鳥居」まで戻りました。
 
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右手の「荒垣」前にある「平成の大遷宮」に寄付した人たちの名簿(名札)
 
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「銅の鳥居」の右手前に置かれている有名な「ムスビの御神像」は大国主神の前に「幸魂(さきたま)「奇魂(くしみたま)」が現れて、大国主神がそれらを頂く場面を表現しているそうです。
 
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「古事記」の神話として、大国主神が大神になる前、日本海の荒波に乗ってこれらの魂が大国主命の前に出現し、大国主神は「ムスビの大神」になった話が書かれているそうです。
 
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「幸魂(さちみたま)奇魂(くしみたま)」の案内板には、『時に海を照らして依りくる神あり 吾在るに由り手てのゆえに汝その国造りの大業を建つるを得たり 吾は汝が幸魂奇魂なり 大国主神これ吾が幸魂奇魂なりけりと知りぬ』、『古事記また日本書記に述べるところであります。出雲大社のご祭神大国主大神はこの幸魂奇魂の「おかげ」をいただいて神性を養われ「ムスビの大神」となられました。生きとし生けるものすべてが幸福になる「縁」を結ぶ「えんむすびの神」と慕われるゆえんであります。(以下略)』 とあります。
 
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長く続く「松の参道」を戻ります。
   
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反対側(西側)の参道へ移動し、「縁(えん)むすびの碑(いしぶみ)」に立ち寄りました。説明パネルには、『即ち宇伎由比為(うきゆひして)うながけりて今に至るまで鎮(しず)まり坐(ま)す 「古事記」に綴られた、大国主大神と須勢理昆売神が出雲大社に仲陸まじくお鎮まりになられたゆえんを語る神話の一文です。(以下略)』 とあります。
   
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翅(はね)の模様が鮮やかな大型のチョウ「アサギマダラ(浅葱斑)と秋の七草の1つである「フジバカマ(藤袴)」の生態を説明するパネルと花壇
 
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予定通り、「白ウサギ」像にも立ち寄りました。
 
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「神話の杜」(平成13年3月瀧徹作)は神話の中の動物たちを通してはるかな時の流れ、日々の生活の中で少しずつ変化する自然を感じ取れる、そのような世界が生まれる杜であり空間をテーマとし、森のイメージを3本の石により象徴的に表現し、森を舞台に神話に登場する動物、とくにダイコクサマとゆかり深いウサギ・ヤマタノオロチ・イノシシ・ネズミ達が集い遊ぶ姿を抽象的に大理石に刻んだと説明されています。
 
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「祓橋(はらえのはし)」を渡ります。
 
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俗界と神域の結界である聖なる「素鵞川(そががわ)」
 
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右手に折れて、相撲ノ始祖「野見宿祢神社」へ向かいました。
 
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説明看板には、『「野見宿祢(のみのすくね)」は、出雲国造(出雲大社宮司)の祖先神天穂日命(あめのほひのみこと)の十三世の嫡孫で、代十三代出雲国造襲髄命(かねすねのみこと)にあたります。「日本書紀」垂仁天皇7年7月7日の条には、当時、天下一の力士と評判であった当麻蹶速(たいまのけはや)と御前相撲をとり見事に打ち勝ったことが記され、以来、野見宿祢命は国技大相撲の元祖と称えられ、今日では相撲をはじめスポーツを志す人々に広く崇められています。(以下略)』 とあります。
 
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第1駐車場の脇を抜けて第2駐車場に戻りました。次の目的地である「日御碕(ひのみさき)」へ向かう途中、「出雲大社門前町観光マップ」の左上に表示される「稲佐(いなさ)の浜」と「弁天島」に立ち寄ることにしました。「国引き神話」の舞台のひとつです。
   
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ここで記事の投稿を小休止します。(続く)

2017年10月11日 (水)

出雲市の「出雲大社」(その3)

「素鵞社(そがのやしろ)」の前景
 
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『出雲大社摂社「素鵞社」の祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)で、天照大御神の弟紳であり、出雲国に天降りされ、肥河上において八岐大蛇(やまたのおろち)を退治して人々を助け、奇稲田姫を妻として、大国主大神を生んだ』 と説明されています。
 
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もと来た道を引き返しました。出雲大社摂社「氏社」の祭神は「天穂日命(あめのほひのみこと)で、天照大御神の第二子神。「大国主大神」の「国譲り」に際してその功をあらわし、天照大御神の言葉によって出雲大社へ大国主大神が静まると祭主として仕えたと説明されています。注、「天穂日命」は最初の使者
 
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その隣(南側)には17代の祖で出雲氏初代の宮向宿彌を祀っています。

 

「西十九社」は八百萬神(やおよろずのかみ)の遥拝所(ようはいじょ)であり、神在祭の際には神々の宿舎となるそうです。ちなみに、「瑞垣」の東側には「東十九社」があります。
 
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右手(西方向)に折れて、石橋を渡ると、昭和56年に造られた「神楽殿」です。
 
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「神楽殿」の正面
 
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神楽殿は「拝殿」にある注連(しめ)縄よりも大きな大注連縄(長さ13.5m、重さ4.5トン)があることで知られます。この日本一大きな大注連縄は来年7月に6年ぶりに取り換えられる予定だそうです。ちなみに、「出雲大社」の注連縄は他の神社とは捻(ね)じり方が反対です。その理由は、他の神社では神の領域に汚れたものが入らないための結界であるのに対して、「出雲大社」では大神が外に出ないための結界であるためとも言われます。注、注連縄の起源は、天照大神が天岩戸を出た際、二度と天岩度に入れないよう、布刀玉命(ふとだまのみこと、太玉命)が戸を塞(ふさ)ぐのに用いたこととされる
 
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「神楽殿」は名前が示すように、神楽を奏して神を勧請(かんじょう、迎えて奉安)する場所です。しかし、「出雲大社」の「神楽殿」場合、明治12年(1879年)、「本殿」とは別に出雲大社教の神殿として「大国主大神」を祀ったため、結界の役割を果たす大注連縄があるのだそうです。もともとは、「神楽殿」ではなく、宮司家の大広間として造られた建物だったようです。
 
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不思議な形をした噴水(あるいはオブジェ)
 
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石橋をふたたび渡って本殿方面へ向かいます。
 
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工事中のエリア
 
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国宝「出雲大社御本殿」と「平成の大遷宮」の説明
 
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「本殿」は、屋根が檜皮葺(ひわだぶき)で、屋根飾りとしてX字型・外削ぎの千木(ちぎ)が2組、横に伸びる鰹木(かつおぎ、勝男木)が3本、鬼瓦に似た鬼板(注、神紋が描かれている)が設置されています。ちなみに、鰹木は屋根と建物を守る重しといわれます。
 
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「拝殿」まで戻りました。
 
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「八足門」の右手(東側)にある「観祭楼(かんさいろう)」と「回廊(かいろう)」
 
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「東十九社」
 
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(続く)

2017年10月10日 (火)

出雲市の「出雲大社」(その2)

江戸時代初期の寛文年間(1661-1673年)に造営されたという「銅の鳥居」と「荒垣(あらがき)」(石垣と格子塀)の先に「拝殿」が見えます。左手の「荒垣」の前には60年に一度の「平成の大遷宮(だいせんぐう)」は平成28年3月にほぼ完了したことが説明されています。注、平成31年3月までが第2期事業期間として境内整備が行われている
 
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「出雲大社境内案内図」
 
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「拝殿」の「注連縄(おおしめなわ)」は、長さ6m、重さ1.5トンと大きなものです。注、「出雲大社」の大注連縄については後述
 
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「拝殿」の右脇を抜けたところにある立札には、「天皇陛下 御下賜金(ごかしきん)」(注、与える金一封)と「宮家」「旧宮家」の「神饌料(しんせんりょう)」(注、お祓いへの謝礼)が表記されています。
 
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寛文年間に造営され延享年間(1744-1748年)に解体移築された「八足門(やつあしもん)」は「拝殿」の奥にあり、4本の親柱の前後にそれぞれ4本の控え柱を設けた一重の門で、祈祷(きとう)を受けた人だけが入ることができます。しかし、一般の参拝者はその手前から参拝します。「出雲大社」では「二礼四拍一礼」でお参りする習わしであることに留意しました。そして、これまでのさまざまな良縁に感謝することも忘れません。
 
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「八足門」にある「出雲大社」の神紋は二重亀甲(きっこう)に剣花菱(けんはなびし)です。その由来を調べると、北方を守る中国の神「玄武(げんぶ)」(注、亀の姿をした霊獣)に「大国主大神」を擬(なぞら)えて亀甲紋とし、それに神が宿る依代(よりしろ、神が依りつくところ)を意味する剣花菱を組み合わせたものだそうです。

 

「八足門」越しに「楼門(ろうもん)」の一部を垣間見ることができます。
 
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参拝したあと場所を移すと、「八足門」脇の格子塀の隙間(すきま)から「楼門」(右)と「神饌所(しんせんじょ)」(左)の間には通りやすいように木版が敷かれているようです。これらの建物も「八足門」と同時期に造営・移築されたようです。
 
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「八足門」の手前に奇妙なマークを見つけました。平成12年に発見された御柱(1本約1.4mの柱を3本束ねたもの)の跡です。この大きさから推測して古代には高さ48m(あるいは96m)の「本殿」があったのではないかとの説が出ています。
 
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国宝でもある「本殿」は「玉垣(たまがき)」「瑞垣(みずがき)/廻廊(かいろう)」「荒垣」の三重の垣根に厳重に守護され、御祭神の大国主大神と御客座五神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、天之常立神)が祀られています。しかし、「出雲大社」のhpには御祭神については説明されていますが、御客座五神の詳細に触れていないため、大国主大神との関係とその役割は不明です。
 
参拝順路にしたがい「瑞垣」の外周に沿って左手に回り込み、「西十九社」「氏社(うじのやしろ)」「宝庫」の前を通過して、本殿の奥にある「素鵞社(そがのやしろ)」へ向かうことにしました。前方には、「瑞垣」の中に小さな屋根が見えます。ちなみに、「出雲大社」では二番目の「瑞垣」の中が「境内」と呼ばれるとのこと。
 
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「瑞垣」越しに見る国宝の「本殿」(左)、「神饌所」(右手前)、「楼門」(右奥)の屋根です。ちなみに、「本殿」(高さ24m)は延享元年(1744年)に造営されたものです。
 
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「本殿」は田の字型に配置された9本の柱で地上から浮かした大社造り(幅・奥行とも約11mの正方形)。右側の傾斜したものは「楼門」から「本殿」に上がる階段の屋根です。
 
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「瑞垣」内に祀(まつ)られる「神魂御子神社(かみむすびみこのかみのやしろ)」(筑紫社、つくしのやしろ)の祭神「多紀理比売命(たぎりひめのみこと)はお天照大神(あまてらすおおかみ)と「素戔嗚尊(すさのおのみこと)の間に生まれた三女神のうちの第一の女神で、福岡県宗像の沖ノ島(注、最近世界遺産に登録)に祀られている女神で、大国主大神との間に二人の子供を生んだとことが説明されています。
 
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「本殿」は南向き、つまり「八足門」「楼門」と一列に並んでいますが、「本殿」にある御神座は西向きであり、「筑紫社」がある側の「瑞垣」から大国主大神と向かい合って再び拝礼する作法が説明されています。
 
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「瑞垣」に沿って堀があり、清水が流れています。遠くに見えるのは「彰古館」
 
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「彰古館」は1914年に建てられた木造2階建ての建物で、「出雲大社に伝わる多数の大黒様像と「出雲大社」の30分の1模型を陳列する施設です。ちなみに、入館料200円。
 
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「本殿」の塀沿いに参拝路が右に折れました。左前方に見えるのが「素鵞社」のようです。
 
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奥の参拝路から見る「本殿」は平成25年(2013年)の「平成の大遷宮」で修理・補修が行われました。よく見ると「瑞垣」の外に「白ウサギ」がいます。
 
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出雲大社 宮司で84代出雲国造(くにのみやつこ)の千家(せんげ)尊祐氏と権宮司 千家国麿(くにまろ)氏の名前があります。注、出雲国造は上古に出雲国を治めた官職の人物およびその子孫、大化の改新以降は祭祀を司どる世襲制の名誉職となる
 
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(続く)

2017年10月 9日 (月)

出雲市の「出雲大社」(その1)

山陰道の出雲ICから県道337号へ出て、大島交差点で国道9号を横切って国道431号に入り、案内標識に恵美須神社のすぐ先にある交差点を右折。そして、よく整備された市道を東に走り、2つ目の信号を左折、幅の広い市道を北上し、右手に平成2年(1990年)に廃止されたJR大社線の旧大社駅(国重要文化財)を見ながら直進すると、大きな石の鳥居が見えてきました。宇迦橋(うかばし)北詰(堀川北岸)にある「出雲大社(おおやしろ)宇迦橋(うがばし)大鳥居」(注、高さ23m、幅14m、鉄筋コンクリート製、「石の鳥居」とも呼ばれる)です。大正4年(1915年)に建造された時には日本一の大きさでしたが、現在は「熊野本宮大社」の大鳥居(高さ約34m、幅約42m、平成12年建設)にその座を明け渡したようです。注、「出雲大社」の正式な呼び方は上記したように「いずものおおやしろ」で、「いずもたいしゃ」は通称
 
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参道は電線が地下化され、路面はブロックタイルが敷かれ、しかも歩道と車道が同じ高さであることで、美しい景観となっています。
 
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緩やかな坂道となった参道を上がりきると「出雲大社」の正門である「勢溜(せいだまり)の鳥居」(注、「木の鳥居」とも呼ばれる)が現れました。
 
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「出雲大社」で参拝する前に右手(東方向)にある「古代出雲歴史博物館」を訪れる予定でしたが、この日は休館日でした。台風のため出発を1日遅らせたあと、「安来市立歴史資料館」と同様、休館日の確認を怠(おこた)っていたのです。
 
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「勢溜の大鳥居」前を通過して「出雲大社」の境内の西側にある「第2駐車場」(無料)に車を停め、最短コースで境内に入ると、「勢溜の大鳥居」の少し先に出ました。ちなみに、「第1駐車場」は「第2駐車場」の少し先にあるため、「下り参道」にある「祓社」や「松の参道」を経(へ)ないで「手水舎」に直行してしまう可能性があります。注、「出雲大社境内全域図」を参照

 

参道は、正門である「勢溜の鳥居」から緩(ゆる)やかに下っていることで「下り参道」と呼ばれています。次の写真は「勢溜の大鳥居」方面で、
 
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こちらが「松の参道」方面
 
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その途中、右手にある出雲大社末社「祓社(はらえのやしろ)」で俗世間の不浄を落として身を清めました。出雲大社のhpによると、『出雲大社に参拝する人々は、まずここで身心を祓い清めていただきます。 (ここに祀られている)祓戸四柱の神とは、瀬織津比咩神(せおりつひめのかみ)、速開都比咩神(はやあきつひめのかみ)、気吹戸主神(いぶきどぬしのかみ)、速佐須良比咩神(はやさすらひめのかみ)です。』 とのこと。
 
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右手、木立の先に「浄(きよめ)の池」が見えます。
 
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「祓橋(はらえのはし)」(石製)を渡ります。下に聖なる川である「素鵞川(そががわ)」が流れており、この先が神域であることを示す結界になっています。ちなみに、伊勢神宮でいえば「宇治橋」です。
 
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橋を渡ると「参道」(松の道)には玉石が敷き詰められていて、すぐ先には「鉄の鳥居」があり、厳かな雰囲気を感じます。
 
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小さな石橋の先で参道は通行止めになっていました。立札には樹齢数百年の松の根を保護するための通行止めである旨が書かれています。
 
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左手にあるコンクリート舗装された参道を進んだところで、「いなばの白うさぎ神話にちなむ出雲大社のウサギたち」の案内看板を見かけました。
 
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参拝した後に時間があれば立ち寄ることにします。
 
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「参道」が続きます。
 
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こちらには「白ウサギ」が4羽
 
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「縁(えん)むすびの碑(いしぶみ)」の前にも2羽の「白ウサギ」が
 
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左手に見える建物は左から、5月14日の「例祭」時に勅使(ちょくし、天皇の使者)の宿泊等に使われる貴賓室である「勅使館(ちょくしかん)」、神事の前に神職が心身を清めるためにこもる「斉館」、事務を取り扱う「社務所」
 
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「御慈愛の御神像」(大国主命と白ウサギ)
 
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唱歌「だいこく様」の歌碑
 
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「皇后陛下御歌」の歌碑
 
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次回はいよいよ「拝殿」と「本殿」へ進みます。(続く)

2017年10月 8日 (日)

安来市荒島町の「古代出雲王陵の丘」

安来市には興味深い場所がもう一か所あります。それは古墳時代前期に築造された「造山(つくりやま)古墳群」。あまり知られていないようですが、安来市には弥生時代から古墳時代にかけて築かれた古墳群が多数(10か所以上)存在しているのです。「造山古墳群」の近くにある弥生時代の王墓である「仲仙寺古墳」と「宮山古墳」、四隅突出墓である「塩津山古墳」とともに公園として整備され、それらの総称として「古代出雲王陵(いずもおうりょう)の丘」と呼ばれています。つまり、「古代出雲(こだいいずも)」と深いつながりがある王族の墳墓なのです。

 

予備知識としてWikipedeiaで「古代出雲」を調べてみました。『古代出雲は、弥生時代、古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部の出雲平野・安来平野・米子平野)にあった文化をさす。出雲の語源は、「八雲立つ出雲」から連想される雲の源泉という意味、あるいは諸神の母神イザナミの神陵地があることから、「母から生み出された」地の「出母」あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある。』

 

島根県の遺跡についての他の項目では、『出雲平野の荒神谷(こうじんだに)遺跡(全国の総数を上回る銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土)などからは青銅器(銅鉾や銅剣)が多数出土され、安来平野からは鉄器が多く、特にその東にある米子市淀江町から鳥取県大山町にかけて存在する妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)群からは多数の鉄製品や銅鏡などが出土している。』 との情報も得られました。

 

私見ですが、日本には弥生時代に青銅器と鉄器が相次いで伝わったため、このように併存することになったようです。青銅器は主に祭器として利用され、鉄器は実用的な目的に使われたと考えられます。中でも、中国山地には砂鉄が存在し、木炭生産のための森林資源が豊富であることから、6世紀半ばに朝鮮半島から日本に伝わった「たたら製鉄」(フイゴを使う製法)が古墳時代後期には島根県を中心に行われたことが天平5年(733年)に編纂(へんさん)された「出雲国風土記」に記述されているそうです。

 

また、大和政権と古代出雲との関係は、大和政権が和銅5年(712年)に編纂した「古事記」(神話から推古天皇まで)と養老4年(720年)に完成した「日本書記」(神話から持統天皇まで)の伝承が、天平5年(733年)に完成した「出雲国風土記」の伝承(登場する神々と国引き神話など)と異なることが多いこともあり、史実として不明なことが多いようです。「国引き神話(出雲国風土記)」と「国譲(くにゆずり)り神話」(記紀)から想像を逞(たくま)しくすると、出雲を中心とする日本海側文化交流圏エリア(注、固有の四隅突出型墳丘墓が出雲から北陸まで分布)を支配した「古代出雲」を征服した大和政権が「古代出雲」の権威を取り込むため、天孫降臨前から国を治めていた国津神(くにつかみ))の大国主命を大物主大神(おおものぬしのおおかみ)として三輪山の大神神社に祀るとともに、大和政権の正統性を示す根拠として「記紀」を編纂(へんさん)した可能性を感じます。

 

「古代出雲」が滅びた経緯は不明としても、3世紀後半ごろには九州から北関東までのエリアに続いて古代出雲がヤマト政権の影響下に入ったことは史実です。そして、その有力な証(あかし)が各地に造られた王族の巨大な墓(つまり従来の四隅突出型墳丘墓ではない大和形の古墳)。安来市荒島地域に居た豪族は、大和政権下で出雲地域の盟主と認められ、中海を見下ろす主陵の丘に大型の古墳をいくつも築いています。

 

長くなった「古代出雲」の説明はここまでにして本題に入ります。

 

                         ☆

 

「足立美術館」の駐車場を出て県道180号を北上し、荒島交差点で国道9号に入って約600m西進。JR山陰本線荒島駅近くの踏切を渡って約500m進むと広い駐車場がありました。安来市の西部、山陰道(国道9号)と山陰本線のすぐ脇です。同行者は古墳見学と知ると、車の中で待つとのこと。
 
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駐車場の中に「造山古墳群」の案内板(右側)には「造山古墳群」「仲仙寺古墳」「宮山古墳」「塩津山古墳」の位置関係が地図で示してあります。
 
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左側にある国指定「造山(つくりやま)古墳群」の案内板は1号墳から4号墳までがあることが説明されていますが、表面が欠落している部分があり、一部は読み取ることができません。
   
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 右手へ進むと、比較的新しいと思われる「古代出雲王陵の丘案内図」がありました。
   
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案内図には次の説明が書かれています。『この「古代出雲王陵の丘」には、国指定史跡・県指定史跡となっている古墳が点在しています。ここには古代出雲を治めた歴代の首長が葬られています。日本では4世紀から7世紀にかけて、各地の主張が競って大きな古墳を築きました。この時代を古墳時代と呼んでいます。荒島地区には、弥生時代の終わりごろから古墳時代にかけて、四隅が突き出た、全国的にもめずらしい形の墳墓(国指定史跡仲仙寺(ちゅうせんじ)古墳群・県指定史跡塩津方墳)が分布しています。また4世紀に築かれた竪穴式(たてあなしき)石室の古墳(国指定史跡造山1号墳・県指定史跡造山3号墳・大成(おおなり)古墳)が至近距離にあります。これらの古墳はそのころの各地域の最も高い地位にあった首長のみが築くことができたのです。このような山陰地方で、最も古い時期の古墳が3基も隣接している例は、他にありません。このことから、この地域が古代出雲で最も輝いていたことを示す証(あかし)といえます。これにちなんで「古代出雲王陵の丘」と命名しました。(以下略)』

 

案内図の先に急な階段がありますので、さっそく上ることにしました。
 
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途中、振り返ると視界が広がり、
    
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階段を上がりきって「眺望の広場」に出ると、「月山富田城」の「本丸跡」から遠望した「中海(なかうみ)」を間近に(約500mの距離から)一望することができました。
   
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案内看板には、『目の前に広がる風景は西暦733年に完成した「出雲国風土記」に登場する「国引きの神話」の舞台となったところです。前方には中海、島根半島、弓ヶ浜半島を見わたすことができます。「出雲国風土記」の神話によると、その昔まだ出雲国が小さく造られた細長い未完成な国であった頃、八束水臣津命(やつかみずおみつののみこと)という神様が他の地方から土地を綱で引寄せて国を作りました。はじめに志羅紀国(しらきのくに、朝鮮半島)を2番目に北門の佐伎国(さきのくに)を、3番目に良波国(よなみのくに)、4番目に高志(こし、北陸)の都都(つつ)の三埼(みさき)などを引寄せました。それが八穂米支豆支(やほしねきづき、出雲市大社地域あたり)、狭田国(さたのくに、出雲市平田地域・松江市鹿島町あたり)、闇見国(くらみのくに、松江市北部)、三穂の埼(みさき、松江市美保関町あたり)、薗(その)の長濱(ながはま)と夜見島(よみしま、弓ヶ浜半島)はその綱のなごりと伝えられています。また綱の端は、杭にみたてた佐比売(さひめやま、大田市三瓶山)と火神岳(ひのかみのたけ、鳥取県大山)とにつなぎとめられたとされています。(以下略)』 と書かれています。
 
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まず、6世紀前半に築造されたものと考えられている「造山2号墳」と「造山4号墳」へ向かいます。位置関係からみて右手前の小高い部分が「造山2号墳」で、その先が「造山4号墳」でしょう。
 
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案内看板には、『「造山2号墳は全長約50mの前方後方墳です。古墳全体に、葺石(ふきいし)が施されています。葺石は屋根瓦を葺くように敷きつめることからその名があり、盛土(もりど)の流失帽子とともに古墳の外観を荘厳にみせる効果があります。この古墳には、埴輪(はにわ)も並べられていました。1991年の調査で、前方部と後方部のくびれのあたりから須恵器(すえき、窯でやかれた硬質で、灰色の土器)土師器(どしき、赤褐色の軟質の土器)、さらに多くの円筒形埴輪の破片が見つかりました。これらの土器や埴輪の特徴から、造山2号墳が築かれたのは6世紀の初めごろと考えられます。(以下略)』 『造山4号墳は、造山2号墳の東約13mに位置に築かれた一辺約13mの方墳と考えられます。裾部(すそぶ)には、円筒形埴輪が1m間隔で飾りたてられていました。埴輪は2号墳のものとよく似ており、築かれた時期は6世紀の初めごろと考えられます。』 と説明されています。
 
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「造山4号墳」
 
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遊歩道が「造山4号墳の脇を上がって行きます。ここで左膝(ひざ)に違和感が・・。「月山富田城跡」の「本丸跡」まで上り下りしたことに加えて、「造山古墳群」への長い階段(170段ほど)を一気に上がったことが左膝に負担をかけたようです。
 
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右にカーブする遊歩道から見た兵陵の最高所にある「造山4号墳」(手前)と「造山2号墳」(後方)
 
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「東屋」を通り過ぎました。実は、「東屋」がある角を反対方向へ進むと、古墳時代前期(6世紀前半ころ)に築かれた「造山1号墳」(一辺60m、高さ5mで、2段の方墳)、さらに200mほど下りると「造山3号墳」(38mx30mの方墳)があるはずですが、左膝へさらに負担を掛けそうですから、立ち寄りを断念しました。ちなみに、「造山1号墳」は昭和11年(1936年)と昭和13年(1938年)の発掘調査で竪穴式石棺が発見され、副葬品には三角縁神獣鏡、方格規矩四神鏡、紡錘車型石製品、ガラス製管玉、鉄刀、鉄剣、刀子などが見つかり、「造山3号墳」は昭和40年(1965年)の発掘調査で竪穴式石室から斜縁二神二獣鏡、碧玉製管玉、ガラス小玉、刀子、ヤリガンナが出土しているそうです。ちなみに、出土品は東京国立博物館に収蔵されているとのこと。
 
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後で調べると、「造山1号墳」(一辺が60m、全国で最大級の方墳)は古墳頂上にある埋葬跡が埋め戻されており、しかも杉林の中にあるため、見学することは大変との説明がありました。思い返すと、「眺望の丘」の案内標識には「造山1号墳」の表示がありませんでした。

 

左膝を庇(かば)いながら、長い階段を下りました。「月山富田城跡」と同様、自生する曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲いています。
 
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振り返って見た「眺望の丘」。右手の木立の中に「造山1号墳」があるのでしょう。
 
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何とか階段を下りきって30分後に駐車場に戻った時には左膝を庇(かば)ったため右足も痛くなってしまいました。この日に立ち寄る予定の場所がまだ2か所残っていますので、他の古墳には立ち寄らず、県道9号から山陰道(無料区間:東出雲IC-松江玉造IC、有料区間:松江玉造IC-出雲IC)に入りました。次の目的地は出雲市にある「出雲大社」です。(続く)

2017年10月 7日 (土)

安来市古川町の「足立美術館」(後編)

その右隣には「生の掛軸(かけじく)」があり、滝を中心とした庭園絵画を楽しむことができます。
 
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本館から出た茶室「寿楽庵」の脇にある「女と猫とヴィオロン弾き」(富田賢二、1970年作)がありました。 注、ヴィオロン(仏語)はバイオリンのなかでもっとも音色が高い楽器のこと
   

この場所からは、ガラス越しではなく、「白砂青松庭(はくさせいしょうてい)」を鑑賞することができます。ちなみに、この庭は横山大観の名作「白砂青松」のもつ雰囲気を日本庭園で表現したものだそうです。白砂の上に点在する大小の松が見どころ。滝と川を中心として、右側は黒松(男松)を使った男性的な庭園で、左側は対照的に赤松(女松)を使った情勢的な庭園となっているとのこと。池の中の黒っぽい佐治石。手前の青石(踏み石)、奥には薄茶色の雪見灯籠(とうろう)と白い春日灯籠(奥)も。
 
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滝の付近をズームアップ
 
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「白砂青松庭」の左エリアには茶室「寿楽庵」があります。
 
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本館の2階に上がって「大展示室」と「横山大観特別展示室」で開催(8月31日~11月30日)されている秋季特別展「制定80年記念文化勲章受章の作家たち」、および「小展示室」で開催されている「四季の日本画Ⅲ 秋を愉しむ」を約40分かけ見て回りました。

 

1階に下りました。予定外でしたが、午前11時にオープンしたばかりの喫茶室「大観」に入りました。先ほど鑑賞した「池庭」を見渡すことができることが最大の魅力です。
 
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同行者は「笹巻きおこわ 3種」(1200円)とドリンクセット(コーヒー、400円)を選びました。
 
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うなぎ・島根和牛・赤貝をそれぞれトッピングした「おこわ」は、具材に合わせて味付けしてあり、様々な味と食感を楽しむことができるものです。女性客に人気があるメニューなのでしょう。
 
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そして、私は数量限定の「特性ビーフシチュー」(1500円)です。
 
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野菜サラダの小皿付きで、パンまたはライスを選ぶことができます。野菜をじっくり煮込んでデミグラスソースと赤ワインをたっぷり入れたと思われるスープは濃(こ)くがあり、適度に柔らかいビーフは口に入れると柔らかく解(ほぐ)れて、一体化したスープとビーフの味が口の中に広がりました。クリームシチューとは異なり、具材であるビーフを楽しむための本格的なシチューです。付け合せのパンは柔らかすぎて食感が物足りませんが、プレーンな味ですから、スープを味わうには十分です。私は期待以上の料理に大満足。味見をした同行者も気に入ったようで、フロアスタッフを質問攻めにし始めました。『限定数量はどれくらい?(答:平日5人前、休日は10人前程度)、調理に時間が掛かることが数量限定の理由かの確認など。』

 

「童画展示室」の脇から長い通路を抜けて、正面玄関のある「陶芸館」に入りました。地元、安来市が生んだ陶芸家・河井寬次郎と、料理人であり陶芸家としても知られる北大路魯山人。「陶芸館」では、この二巨匠の作品を季節ごとに展示替えをしながら、それぞれ約50点順次公開しています。

 

1階の「河井寬次郎室」から2階の「北大路魯山人室」へ向かう途中に見た正面玄関わきの「歓迎の庭」
 
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地下通路を通って「新館」へ移動。そこでは院展の「足立美術鑑賞」を受賞した若手作家の作品などを展示する「現代日本画名品選Ⅱ」(平成29年7月13日~平成29年10月11日)が開催されていました。

 

「新館」を出て、そのエントランス付近を撮影
 
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「正面玄関」(左)と「新館」(右)の間を通る道路には両側に車止めが並んでおり、その先で県道45号に行き当ります。「足立美術館」に到着する時に前方に見える「歓迎 さぎの湯温泉」の看板下を通過しました。
   
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「月山富田城跡」(その1)で紹介したように、国民保養温泉地に指定されている鷺(さぎ)の湯温泉地区は「月山(がっさん)県立自然公園案内図」の3地域のひとつです。安来市観光協会のhpによれば、その昔、白鷺がこの湯で脚の傷を癒した伝説の残るかけ流しの温泉。古くは戦国時代の尼子氏をはじめ、歴代藩主の御殿湯として栄えたことでも知られているとのこと。

 

参考情報です。「足立美術館」に隣接して創業100年を迎える温泉旅館の「さぎの湯荘」、「竹養(ちくよう)」「安来苑」の3軒が立ち並び、飯梨川の対岸には「夢ランドしらさぎ」があるようですから、時間に余裕がある方は「鷺の湯温泉」に宿泊すると、ゆっくり「足立美術館」を鑑賞することができます。ちなみに、「さぎの湯荘」では午前8時半から入館できる特典付きの宿泊プランがあるようです。

 

今回のドライブ旅で宿願であった足立美術館への訪問がやっと叶(かな)いました。わずか2時間半の滞在でしたが、十分満足できる体験になりました。実は昨秋、鳥取県鳥取市から島根県松江市までドライブした時、時間が許せば立ち寄るつもりでいましたが、記事の中で簡単に紹介するだけに留め、米子中ICからを松江東ICまで山陰道を直行しています。

 

駐車場へ向かう通路脇にあるショップ街
 
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駐車場の全景
 
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南隣にある「安来節演芸館」では生の安来節(唄と踊り、大人600円、4回/日)を楽しむことができますが、時間の制約があるため外観を眺(なが)めるだけにして、正午過ぎには次の目的地である「古代出雲王陵の丘」へ向かうことにします。
 
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(続く)

2017年10月 6日 (金)

安来市古川町の「足立美術館」(中編)

茶室「寿立庵」の門と建物
 
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その反対側では本館の脇から先ほど通路から見た右手エリアへと「苔庭」が続いていました。案内看板によれば、右手前は杉苔・這苔(はいこけ)・砂苔など、左端と右端には赤松(女松)、本館の展望ロビー(左端)、岬灯籠(中央やや右)、木立の先には茶室があります。赤松などの樹木は山の斜面に生まれ育ったそのままに、すべて斜めに植えられています。
 
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本館の手前にあるせせらぎと庭
 
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「苔庭」を本館前(別のアングル)で撮影
 
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2003年から14年連続で「庭園日本一」に選ばれた記念碑の横で「日本庭園」を指さして来館者に案内する創設者の「足立全康翁」のブロンズ像(文化勲章と文化功労賞を受けた北村西望作) 注、アメリカの日本庭園専門誌「ジャーナル・オブ・ジャパニーズ・ガーデニング」の評価
     

本館入口の右手には「将軍の孫」のブロンズ像(北村西望作)
     

館内の美術品は撮影できません。
 
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本館ロビーからガラス越しですが「足立美術館」の最大の魅力である「枯山水庭」を鑑賞することができました。勝山(標高252m)とその右後方に少しだけ見える京羅木山(標高473m)が借景として生かされています。毛利元就が「月山富田城」の尼子氏を攻めた時に毛利方が陣を構えたのが勝山であると説明されています。その手前には「枯れ山水庭」の中心になる岩で、たきぐちを持った俊厳なる山を表しているそうです。一番手前にある白い砂は花崗岩(かこうがん)を砕(くだ)いたもので、流れ行く水の様を表しているとのこと。ちなみに、季節・時間・天候の変化によってさまざまな表情を見せる「枯山水庭」の写真は「足立美術館」のhpにある庭園写真集「フォトダイアリー」で見ることができます。また、「四季の庭園」のビデオもあります。
 
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主庭「枯山水(かれさんすい)庭」と赤松が群生する側庭「苔庭」の接点付近には茶室「環翠庵(かんすいあん)」と「十三重の塔」(重要美術品)
 
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亀鶴(きかく)山の高みから流れ落ちる「亀鶴の滝」(高さ15m)
 
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「枯山水庭」をフレーム(額)に入れてみました。
 
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本館1階の童画展示室(童画コーナー)で、武井武雄氏、林義雄氏、鈴木寿雄(としお)氏、黒崎義介(よしすけ)氏、井口文秀(ぶんしゅう)氏などの作品を鑑賞し、田櫛田中(ひらぐしでんちゅう)氏の木彫「維摩一黙(ゆいまいちもく)」に心惹(ひ)かれた後、「中庭」を経由して「池庭」へ向かいます。注、維摩は釈迦の弟子のひとり、維摩一黙は多くのことを喋(しゃべ)るより沈黙が勝っているということ
 
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「池庭」は昭和43年ころから造園されたもので、昭和45年11月に「足立美術館」が開館した時には、ここが玄関になっていたそうです。ちなみに、池の水は地下水を使っているため、冬場でも恋は冬眠することなく泳いでいるとのこと。対岸には赤松・黒松・多枝松(たぎょうしょう)と佐治石を配し、木立の中には煎茶室「清風」があります。
 
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前方の建物に「見どころ」と表示されています。『中に入り、ソファーに腰かけて、左右をご覧ください』 とも。先に入った同行者たちは向かって右手方向を熱心に眺(なが)めています。
   
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ソファーに腰かけると、右手(注、外から見た場合は左手)には、「池庭」と横山大観特別展示館(1階喫茶室「大観」、2階「横山大観特別展示室)を眺めることができ、
 
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左手方向は和室の窓「生の衝立(ついたて)」を通して「枯山水庭」を額絵として眺めることができました。
 
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(続く)

2017年10月 5日 (木)

安来市古川町の「足立美術館」(前編)

県道45号を約2km戻って案内標識にしたがって右折、午前9時30分ころ、「月山富田城跡」と同じ安来市内の隣町・古川町(ふるかわちょう)にある「足立美術館」の正面玄関前に到着。
 
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道路の両側には車止めが続いており、駐車場は先(南方向)にあると表示されていますので、同行者を降ろして、駐車場へ向かいました。しかし、予想とは異なり、約200m先を左折し、300mほど先を再び左折して、さらに200m進んだところで広い駐車場に到着しました。何ということか、駐車場の奥に「足立美術館」の新館があり、本館は先ほど通過した道路を挟んだ反対側に位置していたのです。車の場合は県道45号と県道180号の交差点から入るのが正解でした。ちなみに、「足立美術館」のアクセスマップによると、安来ICからは車で約10分とのこと。

 

新館とショップ街の間にある遊歩道を抜けて「足立美術館」の正面玄関前で同行者と合流し、窓口で手渡された入館券のバーコートをゲートのセンサーに読み込ませてゲートを通過しました。入館料金(おとな)は2300円と高めにもかかわらず、多くの入館者が正面玄関のある陶芸館から本館へ向かっていました。注、館内を移動中にこの写真を撮影したため、時計が午前11時半過ぎを指しています
 
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世界的に知られる「足立美術館」は、広さ約16万5000㎡(約5万坪)の園内に借景との調和がとれた枯れ山水庭や苔庭など6つの庭があり、手入れの行き届いたアカマツ(約800本)やクロマツ、モミジ、ツツジ、サツキなどが専門庭師によって植栽、手入れをされているそうです。

 

創設者、足立全康(ぜんこう)氏は農家に生まれましたが、貧しい農家を離れ若くして自ら商いの道へと進み木炭の運搬、販売を始めたのをきっかけにその後、繊維や不動産等色んな事業を興して儲けた資金で日本画等美術品を蒐集(しゅうしゅう)しました。その後、昭和45年に美術館を創設。その美術館を世界の美術館にしたいと言う思いから美へのこだわりは庭へと続き自らが納得できる庭をと月日をかけて庭師に造らせたと言われています。(出典:足立美術館のhp)

 

本館へ向かう通路から見る「苔庭」は杉苔を主体に這苔・砂苔などを配した京風の庭園です。花崗岩から作られた白砂が流れをイメージしているようです。
 
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「苔庭」と「本館」の先に「枯山水庭」が少し見えます。
 
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さらに本館へと進む同行者
 
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通路脇の「工芸コーナー」ではショーケースに収められた「柴垣に梅蒔絵(まきえ) 琴形硯箱(すずりばこ)」と蒔絵の簡単な説明がありました。続いて、「光琳梅蒔絵碁笥(こうりん梅まきえごけ)」などの展示 注、碁笥は碁石を入れる丸い容器 「芝山細工」を施した和箪笥(わだんす)は明治時代の作「四季花鳥芝山絵大棚物(えおおたなもの)」なども。
   

漆(うるし)工芸の一種である「蒔絵」の3種類の手法について、もう少し詳しく説明します。奈良時代からある日本独自の技術「研出蒔絵(とぎだしまきえ)」は金粉や銀粉を付けたい場所に漆(yるし)を塗り、それが乾かないうちに粉を蒔(ま)き付け、漆が十分に固まったところで余分な粉を払いのけると、漆を塗った箇所(かしょ)に沿って金や銀などの装飾が施されます。さらに、漆を薄く塗って木炭などで金や銀が現れるまで削ると、金や銀の光沢がでるとともに、金や銀が漆器に強固に付着する効用があります。これを改良した「平蒔絵」は、金粉や銀粉の形や大きさを揃えることで、漆を2度目塗ることなく、ただちに磨(みが)き上げる手法です。また、「高蒔絵」は金粉や銀粉を蒔き付ける場所だけに漆を何度も重ね塗りすることで盛り上がらせ、そこに金粉や銀粉を蒔き付けて磨き上げる手法です。

 

桃山文化期に発展した日本の漆器や城郭御殿は東南アジア(タイ・カンボジア・ベトナム・中国華南など)から輸入された漆塗料が使われ、比較的簡便な平蒔絵技法が用いられました。東南アジアから「蒟醤(きんま)」が日本へと伝わったことはミャンマー旅行の記事で触れています。ちなみに、漆器の装飾方法には「蒔絵「「蒟醤」のほかに、「沈金」「螺鈿(らでん)」「彫漆」「漆絵」「箔絵」などがあります。

    

「芝山細工」とは角や貝などを染色して彫刻を加え、漆器や漆塗りの屏風や額などに象眼 (ぞうがん)する工芸技法で、江戸時代末期に下総 (しもうさ) の芝山仙蔵が考案したといわれます。ちなみに、象嵌とは金属や木材の表面に様々な模様を彫り、そのくぼみに金•銀•貝など他の材料をぴったり嵌(は)め込む手法。一方、「螺鈿(らでん)」は貝殻の光る部分を磨いて薄片にして種々の形に切り、漆器や木材の表面にはめ込み(または貼(は)りつけ)、その上に塗った漆を研(とぎ)ぎだす工芸技法です。

 

工芸コーナーを抜けた先には茶室「寿立庵」へと続く路地があり、
 
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前庭は「苔庭」になっています。
 
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赤松との組み合わせ
 
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右手に伸びる小路
 
201709230185
 
(続く)

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