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2017年10月 8日 (日)

安来市荒島町の「古代出雲王陵の丘」

安来市には興味深い場所がもう一か所あります。それは古墳時代前期に築造された「造山(つくりやま)古墳群」。あまり知られていないようですが、安来市には弥生時代から古墳時代にかけて築かれた古墳群が多数(10か所以上)存在しているのです。「造山古墳群」の近くにある弥生時代の王墓である「仲仙寺古墳」と「宮山古墳」、四隅突出墓である「塩津山古墳」とともに公園として整備され、それらの総称として「古代出雲王陵(いずもおうりょう)の丘」と呼ばれています。つまり、「古代出雲(こだいいずも)」と深いつながりがある王族の墳墓なのです。

 

予備知識としてWikipedeiaで「古代出雲」を調べてみました。『古代出雲は、弥生時代、古墳時代の出雲の国(現在の島根県東部および鳥取県西部の出雲平野・安来平野・米子平野)にあった文化をさす。出雲の語源は、「八雲立つ出雲」から連想される雲の源泉という意味、あるいは諸神の母神イザナミの神陵地があることから、「母から生み出された」地の「出母」あるいは稜威藻という竜神信仰の藻草の神威凛然たることを示した語を、その源流とするという説がある。ただし歴史的仮名遣いでは「いづも」であり、出鉄(いづもの)からきたという説もある。』

 

島根県の遺跡についての他の項目では、『出雲平野の荒神谷(こうじんだに)遺跡(全国の総数を上回る銅剣358本、銅矛16本、銅鐸6個が出土)などからは青銅器(銅鉾や銅剣)が多数出土され、安来平野からは鉄器が多く、特にその東にある米子市淀江町から鳥取県大山町にかけて存在する妻木晩田遺跡(むきばんだいせき)群からは多数の鉄製品や銅鏡などが出土している。』 との情報も得られました。

 

私見ですが、日本には弥生時代に青銅器と鉄器が相次いで伝わったため、このように併存することになったようです。青銅器は主に祭器として利用され、鉄器は実用的な目的に使われたと考えられます。中でも、中国山地には砂鉄が存在し、木炭生産のための森林資源が豊富であることから、6世紀半ばに朝鮮半島から日本に伝わった「たたら製鉄」(フイゴを使う製法)が古墳時代後期には島根県を中心に行われたことが天平5年(733年)に編纂(へんさん)された「出雲国風土記」に記述されているそうです。

 

また、大和政権と古代出雲との関係は、大和政権が和銅5年(712年)に編纂した「古事記」(神話から推古天皇まで)と養老4年(720年)に完成した「日本書記」(神話から持統天皇まで)の伝承が、天平5年(733年)に完成した「出雲国風土記」の伝承(登場する神々と国引き神話など)と異なることが多いこともあり、史実として不明なことが多いようです。「国引き神話(出雲国風土記)」と「国譲(くにゆずり)り神話」(記紀)から想像を逞(たくま)しくすると、出雲を中心とする日本海側文化交流圏エリア(注、固有の四隅突出型墳丘墓が出雲から北陸まで分布)を支配した「古代出雲」を征服した大和政権が「古代出雲」の権威を取り込むため、天孫降臨前から国を治めていた国津神(くにつかみ))の大国主命を大物主大神(おおものぬしのおおかみ)として三輪山の大神神社に祀るとともに、大和政権の正統性を示す根拠として「記紀」を編纂(へんさん)した可能性を感じます。

 

「古代出雲」が滅びた経緯は不明としても、3世紀後半ごろには九州から北関東までのエリアに続いて古代出雲がヤマト政権の影響下に入ったことは史実です。そして、その有力な証(あかし)が各地に造られた王族の巨大な墓(つまり従来の四隅突出型墳丘墓ではない大和形の古墳)。安来市荒島地域に居た豪族は、大和政権下で出雲地域の盟主と認められ、中海を見下ろす主陵の丘に大型の古墳をいくつも築いています。

 

長くなった「古代出雲」の説明はここまでにして本題に入ります。

 

                         ☆

 

「足立美術館」の駐車場を出て県道180号を北上し、荒島交差点で国道9号に入って約600m西進。JR山陰本線荒島駅近くの踏切を渡って約500m進むと広い駐車場がありました。安来市の西部、山陰道(国道9号)と山陰本線のすぐ脇です。同行者は古墳見学と知ると、車の中で待つとのこと。
 
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駐車場の中に「造山古墳群」の案内板(右側)には「造山古墳群」「仲仙寺古墳」「宮山古墳」「塩津山古墳」の位置関係が地図で示してあります。
 
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左側にある国指定「造山(つくりやま)古墳群」の案内板は1号墳から4号墳までがあることが説明されていますが、表面が欠落している部分があり、一部は読み取ることができません。
   
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 右手へ進むと、比較的新しいと思われる「古代出雲王陵の丘案内図」がありました。
   
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案内図には次の説明が書かれています。『この「古代出雲王陵の丘」には、国指定史跡・県指定史跡となっている古墳が点在しています。ここには古代出雲を治めた歴代の首長が葬られています。日本では4世紀から7世紀にかけて、各地の主張が競って大きな古墳を築きました。この時代を古墳時代と呼んでいます。荒島地区には、弥生時代の終わりごろから古墳時代にかけて、四隅が突き出た、全国的にもめずらしい形の墳墓(国指定史跡仲仙寺(ちゅうせんじ)古墳群・県指定史跡塩津方墳)が分布しています。また4世紀に築かれた竪穴式(たてあなしき)石室の古墳(国指定史跡造山1号墳・県指定史跡造山3号墳・大成(おおなり)古墳)が至近距離にあります。これらの古墳はそのころの各地域の最も高い地位にあった首長のみが築くことができたのです。このような山陰地方で、最も古い時期の古墳が3基も隣接している例は、他にありません。このことから、この地域が古代出雲で最も輝いていたことを示す証(あかし)といえます。これにちなんで「古代出雲王陵の丘」と命名しました。(以下略)』

 

案内図の先に急な階段がありますので、さっそく上ることにしました。
 
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途中、振り返ると視界が広がり、
    
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階段を上がりきって「眺望の広場」に出ると、「月山富田城」の「本丸跡」から遠望した「中海(なかうみ)」を間近に(約500mの距離から)一望することができました。
   
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案内看板には、『目の前に広がる風景は西暦733年に完成した「出雲国風土記」に登場する「国引きの神話」の舞台となったところです。前方には中海、島根半島、弓ヶ浜半島を見わたすことができます。「出雲国風土記」の神話によると、その昔まだ出雲国が小さく造られた細長い未完成な国であった頃、八束水臣津命(やつかみずおみつののみこと)という神様が他の地方から土地を綱で引寄せて国を作りました。はじめに志羅紀国(しらきのくに、朝鮮半島)を2番目に北門の佐伎国(さきのくに)を、3番目に良波国(よなみのくに)、4番目に高志(こし、北陸)の都都(つつ)の三埼(みさき)などを引寄せました。それが八穂米支豆支(やほしねきづき、出雲市大社地域あたり)、狭田国(さたのくに、出雲市平田地域・松江市鹿島町あたり)、闇見国(くらみのくに、松江市北部)、三穂の埼(みさき、松江市美保関町あたり)、薗(その)の長濱(ながはま)と夜見島(よみしま、弓ヶ浜半島)はその綱のなごりと伝えられています。また綱の端は、杭にみたてた佐比売(さひめやま、大田市三瓶山)と火神岳(ひのかみのたけ、鳥取県大山)とにつなぎとめられたとされています。(以下略)』 と書かれています。
 
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まず、6世紀前半に築造されたものと考えられている「造山2号墳」と「造山4号墳」へ向かいます。位置関係からみて右手前の小高い部分が「造山2号墳」で、その先が「造山4号墳」でしょう。
 
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案内看板には、『「造山2号墳は全長約50mの前方後方墳です。古墳全体に、葺石(ふきいし)が施されています。葺石は屋根瓦を葺くように敷きつめることからその名があり、盛土(もりど)の流失帽子とともに古墳の外観を荘厳にみせる効果があります。この古墳には、埴輪(はにわ)も並べられていました。1991年の調査で、前方部と後方部のくびれのあたりから須恵器(すえき、窯でやかれた硬質で、灰色の土器)土師器(どしき、赤褐色の軟質の土器)、さらに多くの円筒形埴輪の破片が見つかりました。これらの土器や埴輪の特徴から、造山2号墳が築かれたのは6世紀の初めごろと考えられます。(以下略)』 『造山4号墳は、造山2号墳の東約13mに位置に築かれた一辺約13mの方墳と考えられます。裾部(すそぶ)には、円筒形埴輪が1m間隔で飾りたてられていました。埴輪は2号墳のものとよく似ており、築かれた時期は6世紀の初めごろと考えられます。』 と説明されています。
 
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「造山4号墳」
 
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遊歩道が「造山4号墳の脇を上がって行きます。ここで左膝(ひざ)に違和感が・・。「月山富田城跡」の「本丸跡」まで上り下りしたことに加えて、「造山古墳群」への長い階段(170段ほど)を一気に上がったことが左膝に負担をかけたようです。
 
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右にカーブする遊歩道から見た兵陵の最高所にある「造山4号墳」(手前)と「造山2号墳」(後方)
 
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「東屋」を通り過ぎました。実は、「東屋」がある角を反対方向へ進むと、古墳時代前期(6世紀前半ころ)に築かれた「造山1号墳」(一辺60m、高さ5mで、2段の方墳)、さらに200mほど下りると「造山3号墳」(38mx30mの方墳)があるはずですが、左膝へさらに負担を掛けそうですから、立ち寄りを断念しました。ちなみに、「造山1号墳」は昭和11年(1936年)と昭和13年(1938年)の発掘調査で竪穴式石棺が発見され、副葬品には三角縁神獣鏡、方格規矩四神鏡、紡錘車型石製品、ガラス製管玉、鉄刀、鉄剣、刀子などが見つかり、「造山3号墳」は昭和40年(1965年)の発掘調査で竪穴式石室から斜縁二神二獣鏡、碧玉製管玉、ガラス小玉、刀子、ヤリガンナが出土しているそうです。ちなみに、出土品は東京国立博物館に収蔵されているとのこと。
 
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後で調べると、「造山1号墳」(一辺が60m、全国で最大級の方墳)は古墳頂上にある埋葬跡が埋め戻されており、しかも杉林の中にあるため、見学することは大変との説明がありました。思い返すと、「眺望の丘」の案内標識には「造山1号墳」の表示がありませんでした。

 

左膝を庇(かば)いながら、長い階段を下りました。「月山富田城跡」と同様、自生する曼珠沙華(まんじゅしゃげ)が咲いています。
 
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振り返って見た「眺望の丘」。右手の木立の中に「造山1号墳」があるのでしょう。
 
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何とか階段を下りきって30分後に駐車場に戻った時には左膝を庇(かば)ったため右足も痛くなってしまいました。この日に立ち寄る予定の場所がまだ2か所残っていますので、他の古墳には立ち寄らず、県道9号から山陰道(無料区間:東出雲IC-松江玉造IC、有料区間:松江玉造IC-出雲IC)に入りました。次の目的地は出雲市にある「出雲大社」です。(続く)

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コメント

王陵の丘で足が痛くなったのは蛇の霊です。4号古墳は大国主命の古墳です。5号古墳はスセリヒメの古墳です。3号古墳は事代主神、1号古墳は八十神の側室の古墳です。しかし、1号古墳は蛇の霊がたくさんいます。実は大国主命は出雲の霊能者の指示で大国主命を荒島まで追いかけて鳥取の八上姫まで月読命に案内させて二人の足を切り海に投げ込みます。その後荒島に古墳を作ったのです。大国主命は出雲では八十神が文化圏と作り米子では大国主命が文化圏を作ります。八十神は万九千神社に霊はいます。
出雲大社の祭神は大国主命ではなく日御碕神社の流れ着いた契丹族の人です。今では大国主命が祀られています。日御碕神社の宮司が言うにはまず日御碕神社に参拝して出雲大社に参拝するのが本当だと言ってました。
 最後に万九千神社に参拝して帰るのだそうです。

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