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2018年4月

2018年4月30日 (月)

久しぶりの入院手術: 白内障(後編)

4日目の視力測定では、裸眼で0.9、眼鏡ありでは1.2と、前日より改善されて、申し分ない結果でした。前日と同様、シャワー浴と洗髪(介護)

 

5日目の視力測定では、裸眼が0.9、眼鏡ありでは1.2+と、さらに良くなりました。この日もシャワー浴と洗髪(介護)

 

そして、6日目は午前7時に点灯。看護師により手術前の瞳孔を広げる目薬を左目に点眼してもらう。午前8時に朝食を摂り、右目に3種類の目薬を点眼。午前830分から眼科診察を受けた後、午前9時からシャワーを浴びる(洗髪はパス)。午前12時から30分毎に手術前の目薬を点眼してもらう。午前12時に昼食。右目に3種類の目薬を点眼。午後3時から左目についても右目と同様の手術を受けました。

 

手術当日のプロセスは2日目の右目とまったく同じであり、特記することもありませんので、細かい説明は省略します。後先になりましたが、入院中は飲酒ができませんので休肝日ならぬ「休肝週」と位置づけるとともに、食生活を改善する好機と考えました。日頃、食べ残すことを常としている私は、病院食を残さず食べることを目標に設定。6日目までの結果は、量が多かった棒棒鶏(バンバンジー)を少し残した3日目の夕食を除いて、すべての食事を完食しています。

 

翌日(7日目)は午前7時に点灯。午前730分ころ、看護師が左目の眼帯を外してくれ、午前8時には朝食、午前830分から左目の術後診察がありました。幸いなことに、右目と同様、左目も正常でした。そして、右目に加えて左目にも手術後の目薬(化膿止め)13回点眼することになりました。両眼を手術したことで、左右の見え方はがほぼ同じになり、裸眼での視界はバランスの良いものになりました。つまり、短焦点の眼内レンズを入れた両眼は近視の強さがほぼ数年前の状態に戻りました。午後120分ころから受けた視力測定(左右)では、裸眼で0.9/0.8、眼鏡補正付きではいずれも1.2でした。

 

手術から1か月以上が経過して両眼の状態が安定してから新しいメガネレンズを誂(あつら)えることになりますが、それまでは予備用としてキープおいた数年前(1つ前)のメガネを暫定的な使用することにしました。

 

注、子供の頃からメガネと無縁であった私も、30才代後半に眼の疲労により一時的に近視のような状態(仮性近視)になり、それが本物の近視へと移行してメガネの使用を開始

 

注、還暦を過ぎてから近視が進行した理由は核内白内障が起きたためと考えて
られ、左右で焦点距離が異なる不同視(左目:中等度近視-5D、右目:強度近視-8D)も生じた

 

最終日(8日目)の午前10時に予定通り退院することができました。当分のケアとして、両眼に手術後の目薬を13回点眼することが必要です。また、洗顔は医師の許可が出るまで禁止で、洗髪は介添えが当分(1週間程度)は必要とのこと。

 

今回の入院は白内障の手術が目的でしたが、①食事の内容に制約がないこと(ただし、飲酒は不可)、②病室での過ごし方は自由であること(ただし、生活のリズムは規則正しい)、③外部からの不必要な刺激やストレスが無いこと、により乱れ勝ちであった私の生活リズムを一旦リセットする貴重な機会になりました。つまり、視覚の曇りを取り除くとともに、心身のリフレッシュにも役立つ8日間であったと思います。

 

今後は通院で回復状況を担当医師に確認してもらえば、大学病院に通うことは必要はなくなり、自宅近くの眼科医院へ従来通り定期的に通院することになります。これまで消化器系の手術(入院3回、通院1)と外科・皮膚科の手術(すべて通院)を受けた経験がありますが、これまでの手術とは異なる心理的な抵抗感が眼科の手術にありました。しかし、担当医師と3回も事前打ち合わせする機会を通じて抵抗感や懸念は医師の懇切丁寧な説明によって霧消し、むしろ手術を楽しむ余裕さえ生まれました。最後に、患者をリラックスさせながら手際よく手術を進める高度な手術スキルを持つ医師に出会えた幸運に感謝します。

 

[参考情報] 近視・遠視・老眼・白内障

 

人の目は眼球の前部にある水晶体と網膜の組み合わせで外界の様子を視覚として捉える機能があります。(注、水晶体を保護する角膜および取り入れる光量を調節する虹彩は省略) 外部から眼球な入る光は水晶体で屈折して網膜上に像を結びますが、水晶体の屈折率と水晶体から網膜までの距離により、正確に像を結ぶ場所が網膜上・網膜の手前・網膜の後ろになります。それぞれ正視・近視・遠視と呼ばれる状態です。幼児は、眼球が未成熟で水晶体と網膜の距離が十分でないため、一般的に遠視であることが多いのです。

 

ひとが成長するにしたがって、眼球も大きくなるとともに、遠視から正視あるいは近視へと変化します。この変化は人の成長が一段落する20才過ぎまで続きますが、個人差があるため、正視・遠視・近視のいずれかになるのです。正視または正視に近い遠視と近視の人は裸眼でも支障はありませんが、中程度以上の遠視または近視の人はメガネまたはコンタクトレンズで矯正する必要があります。

 

水晶体は毛様体(もうようたい)と呼ばれる筋肉で眼球と結ばれており、この筋肉の緊張と弛緩(しかん)によっつ水晶体の厚さを変え、網膜上に像を結ぶように遠近調節します。このため、上記した軽度の遠視や近視をカバーすることができるのです。

 

しかし、加齢によって水晶体が硬くなったり毛様体の機能が衰えたりすると、毛様体筋が十分緊張できず、手元にピントが合わせられなくなります。この状態が老眼(老視)と呼ばれるものです。正視・近視・遠視のいずれであっても老眼になりますが、近視の人は変化を認識しにくいため、「近視の人は老眼にならない」という迷信(都市伝説)が生まれました。老眼になった人は近くに焦点が合うようにオーレンズを使った老眼鏡で補正する必要があります。ただし、遠方は逆に見えにくくなりますから、老眼鏡を外すことになります。

 

白内障は水晶体内の核と呼ばれる部分が紫外線など外的な影響や老化現象によって透明度が失われることが原因です。名称通りに水晶体が白濁して(通過する光量が低下して)物が薄暗く見える場合が多いようです。濁り方によっては水晶体内で光が乱反射して眩(まぶ)しく見える場合があります。この現象は夜間に強い光を見た時に起こります。つまり、白内障になると車を夜間に運転する時に明るい街灯や照度の高い信号を見るとこの現象が顕著になります。

 

サングラスをかけて強い日光を避けることで水晶体が劣化するペースを遅らせることができるかもしれません。ただし、誰にも不可避な老眼現象ですから、早い人は60才代始め、通常は70才前後、80才を超えるとほとんどの人が白内障になると言われます。白内障の進行を薬によって遅らすことができますが、元に戻すことはできません。生活に支障が出始めた場合は、眼科手術により水晶体を人工眼内レンズと交換する必要があります。
 
[追記] 術後の経過が良好であったことから、医師と相談の上、1か月が経過したところで新しい眼鏡を誂(あつら)えました。注、できれば眼が十分安定する2-3か月後が良い 掛かりつけの眼鏡店で相談した結果、手持ちのメガネ・フレームが古くなっていたため、フレームも新調することにしました。医師が設計通りの結果を出してくれたことで左右のバランスが良いため、左右のレンズはほぼ同じ(注、乱視の入り方が少し異なる)であり、左右の見え方はまったく同じとなるはずです。事実、1週間後に出来上がったメガネをかけてみるとその通りでした。ひと言で表現すれば、数年前の視界に戻ったのです。加えて、人工的な眼内レンズを入れたことで、眼で感じる明るさはこれまで以上ですから、クリップオン・サングラスは手放せません。注、色つきのレンズは採用せず ちなみに、医師の助言にしたがい、視力変化への補償(6か月)があるレンズを選びました。(2018年6月10日)

2018年4月29日 (日)

久しぶりの入院手術: 白内障(前編)

3年半前の定期健診で指摘された白内障が徐々に進行して、症状が悪化した右目の視力は0.5以下まで低下し、左目も0.7近くになったことが定期的に通院する眼科の視力検査で判明しました。担当医から視力が低下した右目の手術が必要となったことと、日常生活に支障がない視力がある左目も一緒に手術するかどうかは手術を担当する医師と相談するようにとのアドバイスとともに、私が希望する大学病院への紹介状を書いてくれました。これまで家族が入院と通院したことがあり、私自身も大腸ポリープの切除手術を入院と通院で計2回受けたことがある大学病院です。自宅から車でのアクセスが良いことも希望した理由の一つです。

 

自宅近くの眼科医院でさまざまな検査を受けましたから、その結果が生かされると考えましたが、大学病院ではより詳細な検査を受けることになり、2月初旬から3月にかけて3回も通院することになりました。身長・体重・血圧・心電図の測定にはじまり、血液検査(感染症を含む)、視力・眼圧・眼底・水晶体(屈折率)など数え切れないほど多項目に亘(わた)りました。大学病院の担当医師からそれらの検査結果(異常なし)の説明を受けたあと、私に与えられた選択肢(通院/入院・手術内容・レンズの種類)について一つひとつ確認する遣()り取りが行われました。

 

このプロセスを経て4月下旬の8日間入院して両目の手術を合わせて受けることと、両眼とも単焦点レンズを入れることが決まりました。注、片目の場合は3日間の通院または入院 ここまで決まれば、「まな板の鯉」も同然ですから、4月上旬に予定していた中央ヨーロッパ(中欧)への旅行(8日間)に予定通りに出かけました。そして、帰国してからは毎週教室に通うピアノの練習に専念する日々が続きました。入院する日の3日前からは右目を清潔に保つ(注、細菌の増殖を抑える)目薬を朝昼夕の13回点眼することは忘れませんでした。

 

入院日の朝、午前9時前に車で病院へ向かいました。手術前ですから、私自身が運転しましたが、自宅へ車を戻すため、同居者に同行してもらいました。入院手続きは事前に記入しておいた書類を大学病院の窓口に提出して午前9時過ぎには完了。病室のベッドが準備されるまで約2時間待った後、入院に際しての注意事項の説明を受けた上で、病室へ向かいました。ちなみに、追加料金が不要な多人数部屋は空いていないとのことで、差額料金を負担する必要がある病室です。

 

病室で寛(くつろ)いでいると、正午過ぎに昼食(一般常食)が配膳されました。病院食はボリュームが少ないので、年齢が進むとともに食が進まなくなった私にはもってこいの食事なのです。午後には翌日手術を受けるに際しての事前準備と手術の概要についての説明が15分ほど手術担当の看護師さんからありました。ここまでで初日のオリエンテーションは終了。翌日の手術に良好な体調で臨むため、病室でのんびりと過ごすことにしました。午後6時からの夕食を済ませ、午後7時半からシャワーを浴びてさっぱりしたところで、少し起こしたリクライニング式ベッドに横たわりながらラジコでラジオ番組を聴いた後、早めにに就寝しました。今回の入院は目の手術を受けるためですから、テレビの利用は申し込んでいません。ちなみに、消灯時間は午後10時です。

 

翌朝は午前6時に起床。午前730分ころ看護師が病室に現れて瞳孔を広げる(散瞳する)目薬を処方したことから始まり、午前8時の朝食、午前830分には眼科診察室で担当医師による診察、午前10時にも手術前の目薬を差してくれました。最初の目薬点眼で瞳孔が十分に開いていたそうですが、午前11時と午前12時にも同じ目的で3種類の目薬を点眼してもらいました。昼食を済ませた午後145分ころ、両眼に麻酔用の目薬をした後、車椅子に乗って病室から手術室へ移動。看護師が持参した手術関連の書類(手術同意書・各種検査データなど)と患者のバーコードを手術室のスタッフが確認したあと、午後2時に手術に移されました。

 

手術室の中央にあるリクライニングチェアに座り(横になり)、心電図・血圧計・脈拍計を身体に装着し、手術する右目に大量の麻酔薬を点眼(局所麻酔)。さらに、目の周囲を念入りに消毒し、瞼(まぶた)の周囲に麻酔薬を注射し、半透明のパッチを右目を覆うように貼られ、目が開いたままにする器具が装着されました。さらに、右目の部分だけを出す穴が空いた顔全体を覆う布(ドレープ)を顔に被せて、右目の周囲を両面テープで固定し、目の表面を清潔な水でたっぷり洗浄して、白内障の手術が始まりました。

 

右目の上には大きな医療器械(顕微鏡)があり、そこから右目に向けてカラフルな光が照射しながら手術が行われたため、患者である私には何が行われているのかはまったく伺い知れません。(注、あえて例えると半世紀前のSF映画「2001年宇宙の旅」のラストシーン近く、ボーマン船長が木星の軌道上に見つけたモノリス(石柱状の謎の物体)から別の銀河へワープ(超光速航法)する時に見た移り行く銀河) 

 

事前に入手した知識によれば、細いメスで角膜と結膜の境界あたりを切開し、その切開口から眼内に挿入した超音波が出るパイプで白濁した水晶体の核と皮質を細かく砕くとともに外へ吸い出し、その代わりに小さく折りたたんだ人工的な眼内レンズと清潔な水を残した嚢(のう)の中に挿入・注入し、傷口を閉じるプロセスが行われたようです。

 

すべて順調に進んだようで、右目の手術は15分ほどで終了。眼帯を着けてもらったあと、再び車椅子に乗せられて午後230分過ぎに病室へ戻りました。血圧を測った後、2時間はベッド上で安静にするように言われました。そして、2時間後にも血圧を測定して安静時間が終了。病棟における自由行動が許可されました。ちなみに、この日は2つある手術室で15名ほどの患者が白内障の手術を受けたようです。夕食は午後6時。この日はシャワーと洗髪は厳禁です。

 

翌朝(3日目)630分ころ、看護師さんが手術を受けた右目の眼帯を外してくれると、室内の見え方がいつもとは違っていました。極度の近視と霞みがかかっていた右目の視界がクリアで明るくなった反面、左目の方は微(かす)かに霞みがかかってやや薄暗いことを知りました。つまり、これまでとは逆の状態になったのです。そして、午前715分に室内灯が点灯され、午前8時に朝食が配膳さるました。午前830分から眼科診察室での診察(毎日)があり、手術した右目は正常であるとの診断を受けました。これに安心した私はシャワーを浴びたくなり、午前930分から(30分間)のシャワー浴と洗髪を予約しました。首から下のシャワーは自分でしますが、洗髪は担当医師からOKが出るまで看護師さんにしてもらう必要がありました。

 

午前10時過ぎには前日あった説明通りに3種類の目薬が新たに処方されました。術後の化膿止め(朝昼夕に点眼)です。3-5分間隔に眼薬を点眼した後は通常のティッシュペーパーではなく、大学病院の売店で購入したクリーンガーゼ(ウエットティッシュ)を使うように指導されました。午前中に眼科外来で術後初めての裸眼視力検査を受けましたが、体感と同様、視力は裸眼で0.7まで大幅に改善しました。そして、左目の手術の準備として、右目と同様、目を清潔に保つ目薬を手術までの3日間、朝昼夕に点眼するプロセスが始まりました。 

 

午前930分から首の下に限定してシャワーを浴びた後、看護師さんに洗髪してもらったことで、スッキリすることができました。午前1210分ころ、昼食が配膳されました。

 

この日の午後から5日目までの2日半は朝の眼科診察と視力測定以外は予定が入っていませんので、ラジコでラジオ番組をたっぷり楽しみながら、中欧旅行のブログ原稿を書き溜めることにしました。チェコのプラハ(投稿済み記事の続き)、同じくチェスキー・クルムロフ、オーストリアのザルツブルクとウィーン、ハンガリーのワルシャワ、帰国フライトまですべてカバーしたいと思います。プロローグの「久しぶりの欧州旅行」で書きましたように、旅行の終盤に差し掛かったウィーンで、それまで旅行中に書き溜めて来た詳細メモ(忘備録)を誤って消してしまう失態を仕出かしたため、記憶が薄れる前に詳細メモを復元する作業を続けているのです。(続く)

2018年4月21日 (土)

中欧3か国を巡る旅(その9) プラハの歴史地区探訪「旧市街」②

前方に火薬塔(高さ65m)が見えます。18世紀に弾薬庫として利用されていたことからこの名がついたそうです。
 
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昼食は左手に入ったBOHEMICA Old Town Bar & Restaurantで摂ることになりました。旧市街広場から徒歩で約10分、4階建ての建物の一階にあるチェコ料理のカジュアルなレストランです。内部はそれほど広くはありませんが明るくておしゃれな雰囲気がありました。
 
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チェコのビールでスタートした料理もカジュアルです。注、メインのローストチキンは撮影洩れ
 
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昼食後は自由行動になりましたので、旧市街広場に接する旧市庁舎の塔まで戻りました。
   
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1階に置かれた彫像
 
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同じく天井画
 
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エレベーターで上がった3階にチケット売り場がありました。大人料金は500クローネ(約2200円)。
 
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塔の最上部へは螺旋階段でも上がれますが、円形の専用エレベーターを利用することに。
 
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エレベーター・ホールから見た展望所(展望回廊)
 
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展望所から見るプラハの旧市街(南側)の家並みとマレー広場
 
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旧市街(東方向)にあるティーン聖母教会(中央)とゴルツ・キンスキー宮殿(左下、赤い屋根)
注、18世紀後半にゴルツ伯爵によって建てられ、そのあとキンスキーがこの宮殿を購入したことでゴルツ・キンスキー宮殿と呼ばれている
   
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旧市街(東方向)の家並み
 
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旧市街(西方向)とヴルタヴァ(モルダウ)川の先にはプラハ城の聖ヴィート大聖堂が確認できます。
 
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旧市街(北方向)には聖ミクラーシュ教会(左)とユダヤ人地区
 
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ファサードが美しい教会です。
 
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旧市街広場の中央にあるのはヤン・フス像
 
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プラハの旧市街を散策中ですが、私的な都合により、投稿を1週間ほど休止します。(続く)

2018年4月20日 (金)

中欧3か国を巡る旅(その8) プラハの歴史地区探訪「旧市街」①

カレル橋を渡り終えて旧市街の”Karlova”(カレル)通りに入りました。人通りが多くて賑やかな道が微妙に曲がりくねりながら東へと伸びています。178番地にあるのは”Plones”(右)はギフトショップ、”Style Avenue”(左)はブティック(高級洋装店)です。2階以上の壁面に絡まる蔦(つた)と3階の窓辺に置かれた若い女性が2羽の鳥に守られている彫像が旧市街の雰囲気を演出しています。
 
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観光用と思われるクラシックなオープンカーも見かけました。
 
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両側に並ぶ店舗を眺めながらカレル橋方面へ向かう観光客の列が続きます。右前方には両替所が見えます。
 
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右手にはレストランが
 
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これはチェコの伝統的おやつ"Trdelnik"(トゥルデルニーク)です。熱く熱したパイプ状の焼き器の周りに薄く伸ばした生地を巻きつけて焼いた巻パン(筒状の食べ物)です。最近は中空の部分にホイップ・クリームなどを入れたもの(注、店内にその写真がある、110クローネ/約500円)も人気があるそうです。注、この店ではアイスクリームコーンのように円錐型に焼き上げている
 
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こちらの店のトゥルデルニークは円筒形をしています。プラハで一番人気はアイスクリームにイチゴをトッピングしたもの(125クローネ/約550円)と内側にチョコレートを塗ったものとPR
 
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マレー広場から旧市街広場へ向かう途中、ゴシック様式の旧市庁舎がありました。
 
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右端には天文時計塔がありました。毎正時には12人の使徒が姿を現すそうですが、外装工事中であるため、完成時の外観を描いた保護膜にプロジェクション・マッピングで時計を投影していました。
 
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塔はエレベーターで上がることができ、プラハの街を一望できるそうです。自由行動の目的地としてリストアップしました。
 
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その向かい側にある”ERPET”(エルペット)はボヘミアンガラスの専門店
 
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旧市街広場は観光客でごった返していいました。前方に見えるティーン聖母教会はヤン・フスの拠点だったそうです。2つの尖塔の間にマリア像があることが特徴です。
 
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飲食店が出店する旧市街広場の斜め向かいにあるのは聖ミクラーシュ教会で、聖ミクラーシュの生涯を描いた天井のフレスコ画が有名とのこと。
 
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旧市街広場からティーン聖母教会の脇を抜けて“Celetna”(ツェレトナー)通りに入り、さらに東方向へ進みます。先ほどまでよりも落ち着いた雰囲気に変わりました。
 
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SIBI ET POSTERIS”はプラハ大学の本部だったと思います。
 
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チェコ玩具の店“Pohadka”(ポハートカ)
 
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チェコのおもちゃメーカー、BINOのモグラ・キャラクター「クルテク」
 
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同じく“U Zlateho Iva Pohadka”
 
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交差点の角に立つ建物にはバルコニー席があるレストラン“Grand Caffee Orient”が入っています。
 
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(続く)

2018年4月19日 (木)

中欧3か国を巡る旅(その7) プラハの歴史地区探訪「プラハ城」から「カレル橋」へ

城壁を出たダリボルカ塔から右手方向へ向かう階段を下り、東門と黒塔の前にある展望台を通過した“Coffee in gardenの店先には、プラハ城やカルネ橋などの絵が展示されています。立て看板があることからこの店はホットワインがお勧めであり、壁面には”Furstenberska zahrada”(フィルステンベルグ庭園)の案内パネル(緑色)がありますから、店内からの展望が売りのようです。この店の少し先で広くなっている場所は展望台でした。後で調べると、プラハ城の東門から続く階段状の急坂"Stare zamecke schody"(スタレー・ザーメツケ・スホディ))とヴァルドシュテインスキー宮殿の間には6つの庭園があり、それらの一番上にあるのがフィルステンベルグ庭園でした。
 
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長い下り坂階段を下りきって右に折れたポト・ブルスコウ通りにある道標には右手方向が”Prazsky hrad”(プラハ城)、左手方向が”Karluv most”(カレル橋)・観光案内所・地下鉄と表示されています。
 
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その先の交差点にある売店で地下鉄・トラム・バスの共通乗車券(60分間有効)を24コルナ(約110円)で購入しました。午後の自由行動の後、ホテルまで戻るために使うことを考えたからです。
 
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プラハ城の東門から約20分(1km強)歩いてカレル橋の袂(たもと)にある小さな橋の上に出ました。カレル橋の下がレストランの入口になっています。右手奥に見える2つの塔はカレル橋の橋塔です。
 
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ヴルタヴァ(モルダウ)川から分流(派川)する運河の”Certovka”(チェルトヴカ川)が住宅地の間に続いています。
 
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その脇にある居酒屋BRUNCVIK
 
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階段で枯れる橋の上に出られるようです。その下にボートクルーズのチケット売り場があります。
 
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ヴルタヴァ(モルダウ)川に架かるカレル橋(長さ515.7m、幅9.5m、15のアーチがある)は神聖ローマ皇帝カレル4世の命で1402年に完成した美しいゴシック様式のプラハ最古の橋で「王の道」とも呼ばれたそうです。ちなみに、17世紀以降に造られた30体の聖人像が左右欄干に15体ずつ設置されています。
 
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DOCTORVM PRINCIPI”(聖アウグスティヌス)1708年作  注、古代キリスト教の神学者
 
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土産物を売る露店や似顔絵描きが両脇に陣取っている間を大勢の観光客が縦横無尽に歩くため、渋谷のスクランブル交差点顔負けの大混雑です。
 
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右手はボートクルーズの桟橋、遠方(南/上流方向)にはレギイー橋(ヴルタヴァ川の中州上に渡された石造りの橋、トラムの線路がある)、左手前はカレル橋の橋脚を流木などから守る木製の防御枠組
 
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カレル橋で最初に建てられたとされる聖ヤン・ネポムツキー〈1683年作)像の台座(右側)にはネポムツキーの遺体がカレル橋から落とされた場面のレリーフがあり、左側には王妃がネポムスキーに告解(注、秘密を告白して許してもらうこと)ます。注、骨美亜の守護聖人、プラハの歴史地区探訪「プラハ城」②に関連説明
 
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ネポムツキーに触ると幸せになれるとの言い伝えは、日本の「賓頭盧(びんずる)尊者」「ビリケンさん」「洗い観音」に通じるところがあって面白いと思いました。
 
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カレルの下をクルーズ・ボートが通過しました。下流に見えるのはマーネス橋で、その右端にある青い屋根の建物はチェコ・フィルハーモニー管弦楽団の本拠地である「ルドルフィヌム」です。
 
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聖フランシスコ・ザビエル像(1711年作)
 
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19世紀に造られた旧市街側の橋塔が近づきました。ゴシック様式の建築として名高いといわれるこの橋塔はチケットを購入すれば上まで上がれるそうです。ちなみに、カレル橋には3つの橋塔(先述したようにプラハ城側にはアーチ形の門で連結高さが異なる2つの橋塔、旧市街側には1つの大きな橋塔)が橋の入口付近にあります。
 
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プラハ城方面を撮影しました。カレル橋の橋脚が長い六角形をしていることが分かります。
 
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ズームアップすると聖ヴィート大聖堂の尖塔と聖イジー教会の尖塔が確認できました。その手前にあるのは大統領府(左)と旧王宮(中)とロブコヴィッツ宮殿(右)
 
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旧市街側から見るカレル橋の橋塔です。上段にチェコの守護聖人である聖ジクムンドと聖ヴォイチェフの像が、また下段には聖ヴィートを中央に、左側にカレル4世、右側にヴァーツラフ2世の像が並んでいます。この日は、下段の周辺を修復する工事が行われているようです。
 
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カレル橋の袂(たもと)にある広場に立つ“Karolo Quarto”(カレル4世)像はカレル4世が1348年に設立したプラハ・カレル大学の創立500周年を記念して1848年に建てられたそうです。中欧において最も長い歴史があり、神聖ローマ帝国(ドイツ語圏)で最古の大学です。ちなみに、後方に写る多々物は2007年に開館した”Muzeum Karlova mostu”(カレル橋博物館)で、カレル橋の歴史や橋に関係がある美術品が展示されているそうです。
 
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(続く)

2018年4月18日 (水)

中欧3か国を巡る旅(その6) プラハの歴史地区探訪「プラハ城」③

聖イジー広場まで進んだところで振り返って聖ヴィート大聖堂の東側(主祭壇側)を撮影しました。尖塔と小尖塔群に囲まれた大聖堂の前陣部分はフランス風ゴチック建築であり、正面(西側)の重厚なファサード、黄金の門と高い鐘楼が特徴である南側のファサードとは異なる繊細な外観に魅力があります。ちなみに、手前にはヨーロッパ風の屋台が並んでいます。
 
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920年に木造で創建された聖イジー修道院(教会)はプラハで最古の教会で、1142年の火災後に石造りで再建され、17世紀後半にバロック建築によるファサードが追加されたそうです。後方には2つの白い尖塔がある修道院で、右側の部分が礼拝堂。
 
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教会の内部(写真撮影禁止)は聖ヴィート大聖堂と同様、交差ヴォールトの高い天井が特徴的でした。また、天井と壁面はフレスコ画の装飾画が描かれていました。

 

この日は幸運なことに展望バルコニーに出ることができました。左手方向から大きくカーブするヴルタヴァ(モルダウ)川と、その先に旧市街の教会と丘の上に立つテレビ塔が確認できます。ちなみに、ブルタヴァとは"Wilt-ahwa"、「荒れる水」という意味のゲルマン語(注、ドイツ語・オランダ語・デンマーク語・スウェーデン語・英語などの祖先の言語)とのこと。
 
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正面にはヴルタヴァ(モルダウ)川とカレル橋
 
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右手方向にはドームはマラー・ストラナ地区のストラホフ修道院(左、1140年創立)と旧テレビ塔(右の丘)
 
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黄金の小路へ入りました。ルドルフ2世のお抱え錬金術師たちが住んでいたことが名前の由来とのこと。現在はすべて土産屋になっていました。開いた入口から見る店内は奥行きが短いのは敷地に制約があるからでしょう。
 
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2階の店舗へ上がる階段
 
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土産物屋を覗く観光客
 
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中央にプラハ市章の一部があり、円周にそって“PRAZSKA KANALIZACE”(プラハ下水道システム)と表示されたマンホール
 
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土産物屋のショーウインドウ
 
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黄金の小路はさらに続いています。
 
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黄金の小路に先には下方へ下りる階段がありました。
 
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城壁の外に出たようです。
 
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左手のダルボルカ塔の中には何かがあるようです。
 
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探検心をそそられて狭い階段を下りたところには骸骨が吊るされていました。
 
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その奥には様々な拷問道具が展示されています。
 
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(続く)

2018年4月17日 (火)

中欧3か国を巡る旅(その5) プラハの歴史地区探訪「プラハ城」②

聖シギスムンド礼拝堂の説明パネル
 
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プファルツ選帝侯フリードリッヒ5世がカレル橋を渡ってプラハを逃亡する様子を描いた木製レリーフ
   
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聖ヤン・ネポムツキー殉教の場面を描いた絵画です。左端の部分ではネポムツキーが王妃の懺悔(ざんげ)を聴いており、右側の部分では王妃の不貞を疑うヴァ―ツラフ4世がネポムツキーに王妃の懺悔の内容を明かすように命じています。しかし、ネポムツキーは王の命令に従わなかったため、拷問を受けて殺害されました。中央のやや左の部分ではネポムツキーの遺体が橋の上からヴルタヴァ川に投げ込まれるシーンが描かれています。
 
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プラハの守護聖人ヤン・ネポムツキーの墓碑には2トンの純銀が使われているそうです。天蓋の下には十字架を握る聖ヤン・ネポムツキー像と墓碑を支える天使・騎士が配されています。
 
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向って左側にある明り取りの窓
   
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王の像のようですが、現地ガイドからの説明がありませんでした。
 
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チェコの紋章
 
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聖ヴァ―ツラフ礼拝堂は聖遺物が保管された大聖堂で一番重要な礼拝堂とされており、立ち入りが禁止されていますから、入口付近から内部を覗くことができるだけです。
 
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壁に描かれた紋章とボヘミア王国の象徴であるライオン像 注、PRAVDA(プラウダ) VITEZI(ヴィテジィ)はチェコ語で「真実は勝つ」(チェコ共和国の標語)、宗教改革者ヤン・フスの最後の言葉と伝えられる
 
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交差ヴォールトの高い天井が印象的な中央祭壇付近
 
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中央付近から見た後陣(入り口付近)にあるバラ窓は天地創造の場面を表現しているそうです。
 
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ゴチック建築に特有なフライングパッとレス様式によって壁面を強化しながら、バラ窓がはめ込まれています。ちなみに、このステンドグラスには約2万7000個のガラスが使われているそうです。
 
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左側の上部に設置されたパイプオルガンは反対側(右側)から見ることができます。
 
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ステンドグラスの光が壁画と融合
 
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右手にある出口から外に出ました。写真は右側面(南ファサード)から見た聖ヴィート大聖堂です。高さが99mもあるゴシック様式の鐘楼(南塔)には2つの時計(それぞれ時と分を示す珍しい方式)が設置されており、別に入場チケット(150コルナ、約660円)が必要ですが、287段の階段で塔の最上部に上がることができるそうです。時間に余裕があれば、プラハ城の最高部からカレル橋と旧市街を展望したかったのですが・・。
 
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鐘楼の上部には、バロック様式のクーポラ(注、半球形の天井)が特徴的です。四角形の回廊部分あるいはその上の緑色の部分から旧市街を展望できるのでしょう。
 
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鐘楼下部の「黄金の門」には14世紀のモザイク画「最後の審判」のシーンが描かれています。
 
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旧王宮は大統領府として使われています。
 
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(続く)

2018年4月16日 (月)

中欧3か国を巡る旅(その4) プラハの歴史地区探訪「プラハ城」①

午前9時少し前、正門(西門、Matthias Gate)へ差し掛かると衛兵の交代式が始まるところでした。自動小銃を持った兵士がガードして、物々しい雰囲気です。それは、城の一部が大統領官邸として使われているためです。「マティアス門」は神聖ローマ皇帝マティアスの統治時代に造られたバロック様式の建造物です。
 
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交代式が完了して新しい衛視が持ち場につきました。
 
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正門を潜って第2の中庭に出ました。前方は王宮美術館です。白い円柱形の建物は「聖十字架礼拝堂」で、聖ヴィーㇳ大聖堂宝物展が開催されている場所です。中庭の中央には「コール噴水」と井戸がありました。左奥には王宮美術館の入口があるようです。
   
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「コール噴水」は17世紀に造られたバロック様式の噴水です。
 

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第3の中庭に移動するとゴシック様式の聖ヴィーㇳ大聖堂(1344年設立)の前に出ました。長さが約125m、幅は約60mあるそうです。また、2つの尖塔は高さが82mとのこと。中央扉を飾るルネット(注、壁面の半円形の部分)には「キリストの受難」が刻まれています。ちなみに、聖ヴィートはローマ帝国の皇帝ディオクレティアヌスとマクシミアヌスの共同統治時代の303年、迫害にあって殉教したとされる聖人で、聖ヴィート大聖堂の守護聖人になっています。
 
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円形の部分はバラ窓で、その下にはキリストの受難を表現した彫刻が刻まれています。
 
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魔除けの装飾をズームアップ
 
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聖ヴィート大聖堂の前景を何とか斜め横から収めました。
 
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聖ヴィート大聖堂の奥にある聖イジー広場には第一次世界大戦で犠牲になった人々の慰霊碑と聖イジー像(その左奥)があります。トルコのカッパドキアの出身の聖イジーは聖ヴィートと同じく古代ローマ帝国のディオクレティアヌス帝による大迫害で殉教したと伝えられています。
 
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プラハ城Bコースの入場チケット(一般入城料:250コルナ、約1110円)は聖ヴィート大聖堂・旧王宮・聖イジー教会・黄金の小路・ダリボルカ塔に入場することができます。建物内で写真撮影したい場合は別途50コルナの写真撮影ライセンス料が必要。ちなみに、入場チケットは第2の中庭/第3の中庭にあるインフォーメーションセンター、王宮美術館、旧王宮、黄金の小道で購入可能。
 
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左手の入口から聖ヴィート大聖堂内に入ると、右手にいくつものステンドグラスが並んでいました。入場者は、美しいステンドグラスや20近くもある礼拝所を間近から見ながら、堂内の通路(側廊)を時計回りに一周することができます。注、入場チケットを持たない人は入口付近から堂内を眺めるだけ
 
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左手にあるステンドグラス
 
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同じく3つ目のステンドグラスはアールヌーヴォーの画家アルフォンス・マリア・ムハ(1860-1939年)の作品「聖キリルと聖メトディウス」とのこと。
 
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昨年、84歳で帰天されたプラハ名誉大司教のミロスラフ・ヴルク枢機卿 注、枢機卿(すうききょう、Kardinal)はカトリック教会における教皇の最高顧問(定員70名)で教皇選挙権を持つ
 
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フランティセク・トマセク枢機卿
 
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聖人たちを描いたステンドグラス
 
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明り取りの大きな窓
 
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(続く)

2018年4月15日 (日)

中欧3か国を巡る旅(その3) プラハで宿泊したホテルとプラハの歴史地区探訪

午後7時30分ころ、出迎えてくれたバスに乗車してプラハ市内のホテルへ向かいました。プラハ空港のアクセス道路から国道7号に入って南下し、2つ目のインターチェンジで国道5号にそれて東進し、午後8時過ぎにヴルタヴァ川西岸に近いトラムが通るプルゼニスカー通りのMozartova地区にある HOTEL NH PRAGUE CITYに到着しました。
 
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同ホテルにチェックインすると、5階の部屋が割り当てられました。
 
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少し休憩した後、プルゼニスカー通りを散策することにしました。
 
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 翌日は午前6時に起床して朝の散歩に出かけました。ホテルの前にあるロータリーにはクレーンが設置されていて、まだ工事が行われています。
 
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ホテルの右手方向には石畳の道が続いています。
 
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同じく左手方向
 
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午前6時30分にオープンするカフェテリアへ向かいました。
 
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ビュッフェスタイルの朝食から同行者が選んだメニューです。
 
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こちらは私の選択です。私が海外旅行で楽しみにしている大きなオムレツがポイント。人気があるため長い行列に並んで約20分待つことになりました。
 
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部屋に戻って窓の外を見ると、完成して間もないと思われるトンネルを抜けてくる車が増えて列をなしていました。
 
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午前8時30分ころホテルを出発して、プラハの歴史地区へ向かいました。最初の場所はプラハ市街地の北西部、フラッチャーニの丘にあるプラハ城です。セキュリティ・チェックがあるゲートを抜けると正門が見えました。9世紀に築かれた小さな砦を神聖ローマ皇帝カール4世が大改修したプラハ城は14世紀ころ、おおよそ現在の姿になったそうです。[プラハ城の航空写真](注、クサビ形の細長いエリア)
 
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歴史を感じさせる聖ヴィート大聖堂
 
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プラハ城の濠
 
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(続く) 

2018年4月14日 (土)

中欧3か国を巡る旅(その2) ワルシャワ・ショパン空港からチェコのヴァ―ツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港へ

ワルシャワ発ポーランド航空LO525便はエンブラエル製E-JetE17072席)で、定刻の17時50分を10分ほど遅れて出発しました。ちなみに、エンブラエルは中型旅客機を得意とするブラジルの航空機メーカーです。
 
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機の機首付近を撮影しました。後方はブリティシュ・エアウエイズ機です。
 
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LO525便の機内(キャビン)
 
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エプロン内を移動中
 
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エンター・エアー(enter air)はワルシャワ・ショパン空港などを拠点とするポーランドの航空会社
 
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ウィズエアー(Wizz Air)はハンガリーの航空会社
   
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敷地の奥に見えるのは管制塔
 
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誘導路の先端で先行する旅客機が離陸するまで待機中
 
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ウィズエアー(Wizz Air)機も後方で待機中
 
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いよいよ離陸します。後方に駐機するのはドイツのルフトハンザ機。
 
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急上昇すると、眼下に飛行場とその周辺が見えました。遠方に確認できるビル群はワルシャワのダウンタウンでしょう。
 
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LO525便は雲と同じ高さまで上昇
 
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雲の上に出ました。
 
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離陸して30分あまりを過ぎるとLO525便は徐々に高度を下げました。S字形に大きくカーブするのはヴルタヴァ(モルダウ)川のようです。
 
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午後7時15分、1時間20分のフライトでヴァ―ツラフ・ハヴェル・プラハ国際空港に到着。プラハの西端、市街地から約17km西に位置する広々とした国際空港です。ちなみに、ヴァ―ツラフ・ハヴェルビロード革命(民主化革命)の立役者で最後のチェコスロバキア大統領、初代チェコ大統領の名前です。
 
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ターミナル1にはフィンランドのフィンエアー機とイギリスに本社(スイスのジュネーブに本拠地)を置く格安航空会社の“easyJet Ailine”機が駐機しています。
 
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LOTポーランド航空機はターミナル2を利用するようです。
 
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ポーランド航空が利用するターミナル2は、ワルシャワ・ショパン空港と同様、新しくて綺麗なターミナルビルです。
 
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空港ビルを出た場所から見た景色
 
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左手のペデストリアンデッキの先にはビルの屋上に設置された管制塔が確認できます。
 
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(続く)

2018年4月13日 (金)

中欧3か国を巡る旅(その1) 成田空港からポーランドのワルシャワ・ショパン空港へ

京成電車のアクセス特急を利用して到着した成田空港駅からエレベーターを利用して第1ターミナル南ウイングの4階へ向かいました。今回の旅行で利用するLO T(ロット)ポーランド航空は南ウイングのJカウンターで搭乗手続きが始まっていました。

 

長い列に並ぶ前にJカウンターの前にあるQLライナーで事前に予約しておいた「イモトのWiFiレンタル」用の端末を受け取ることにしました。エクスコムグローバル社が提供するWiFiルーターのレンタルサービスで、携帯会社の海外パケットサービスを使わずに、WiFiルーターを経由して現地の通信会社に直接アクセスすることで安価にデータ通信サービスを常時利用することができる点が魅力です。これまでは携帯会社の海外パケットサービスや現地ホテルの無料WiFiサービスを利用してきましたが、それぞれ割高な利用料金と安全性に懸念がありました。

 

今回予約した利用プランは「3G WiFiプラン(ヨーロッパ周遊)」で、利用料金は1,280/日(8日間計10,240円)と旅行期間が長くなると割高になる傾向があります。もし、長期間の旅行の場合は「海外用プリペイドSIM」(有効期間1年、手動/自動チャージ可能)を利用すると料金を抑えることができます。取扱店舗あるいはアマゾンなどインターネット通販サイトで購入可能。ただし、利用するスマートフォン(携帯端末)がSIMロック解除されたもの、あるいはSIMフリーである必要があります。

 

搭乗手続きを済ませたあとは、銀行の出張所で円をユーロに両替し、セキュリティチェックとイミグレーションを通過して搭乗口へ向かいました。
 
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搭乗するのは午前1015分発ワルシャワ行きLO080便で、使用される機材はボーイング787-8(169席タイプ)です。
 
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搭乗口は42番ゲートですから、南端まで動く歩道を利用しながら歩く必要がありました。
 
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42番ゲートから伸びるボーディングブリッジの先にはポーランド航空機がすでに駐機しており、キッチン関係と乗客の荷物を機内に積み込む準備作業が行われています。
 
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成田発ワルシャワ経由プラハ行きのポーランド航空機LO080便に搭乗しました。定刻の10:15にターミナルを離れましたが、エプロンと誘導路で10分あまり待機したあと、ポーランドのワルシャワへ向けて離陸しました。飛行時間:は約11時間10分が予定されています。飛行ルートはシベリア上空を通過する通常のヨーロッパ便が利用するものです。
 
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目的地までの距離は8,622km
 
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離陸したLO080便はまず南東へ向かい、九十九里浜の上空でUターンしたあと北西へと進路を取りました。
 
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新潟市上空を通過
 
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佐渡島の北端上空を通過したあとは真北へと進路を変更
 
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旭川の西方で再び北西へと進路を変更し、ロシアのハバロフスク上空へ向かいます。 
 
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ロシア領の上空に入った辺りで昼食が出されました。味の濃いミートソース・パスタは食べきれませんでした。

 

今回は窓から離れた席が指定されましたので、機外の景色を楽しむことができませんので、もっぱら機内映画を観ることに集中しました。最初の作品は「ダイハード4.0」(121分)。

 

[解説]

悪の黒幕トーマス・ガブリエルは、アメリカのインフラを停止に追い込もうとしているために、ジョン・マクレーンはコンピュータ・プログラムに取り組まざるを得なくなる。そして、トーマスたちの攻撃を止めるために、ハッカーのマック・ファレルが警察側に加わる。

 

2作品眼は「スター・ウォーズ/最後のジェダイ」(152分)

 

[解説]

「最後のジェダイ」のヒーローが壮大な冒険で銀河の伝説に加わり、スカイウォーカーの英雄譚は続く。今回、フォースの古い謎が解き明かされて、過去の衝撃的な出来事が明らかになる 。」

 

3作品眼は「ウィンストン・チャーチル/ヒットラーから世界を救った男」(125分)

 

[解説]

ウィンストン・チャーチルの実話に基づくストーリー。第二次世界大戦中にいぎのチャーチル首相は、ヒットラーとナチに対抗するために国を鼓舞した。侵略の危機にさらされたチャーチル首相は一歩もひかなかった。

 

定刻より約10分遅れて、14時35分にワルシャワの南10キロに位置するワルシャワ・ショパン空港に到着。成田空港からのフライト時間11時間10分でした。ポーランドで最大の空港ですが、敷地はそれほど広くないようです。ちなみに、空港名はポーランド出身の作曲家であるフレデリック・ショパンの名を冠しています。
 
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2007年に完成した第2空港ターミナルはモダンで開放的な設計です。
 
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ドバイ首長国のエミュレーツ航空機が駐機しています。
 
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ワルシャワ・ショパン空港でイミグレーションを通過。これでEU内はパスポート・コントロール無に移動できます。
 
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(続く)

2018年4月10日 (火)

久しぶりの欧州旅行

4年前の早春に中欧のクロアチアを訪れて以来の欧州旅行です。同年夏にハワイ旅行をした後、3年前にはトルコ旅行を計画しましたが、中東情勢の悪化と難民問題でトルコの治安が懸念された取り止めとし、代わりに東南アジアのベトナムに行き先を変えました。それ以来、一昨年はインドネシア、昨年はミャンマーと行き先をアジアに限定してきたのです。欧州の混乱も少し収まりつつあることと、昨秋受けた定期健診のフォローアップが9割方進んだ4月上旬に中欧のオーストリア・チェコ・ハンガリーを歴訪することにしました。
 

中欧には主にドイツ系とスラヴ系の人種が居住する国々が含まれます。ちなみに、スラヴ系言語が使われる地域は、東スラヴ(ウクライナ、ベラルーシ、ロシア)、西スラヴ(チェコ・ポーランド・スロバキア)、南スラヴ(ボスニア・ヘルセゴビナ・クロアチア・ブルガリアなど)の3つに分類されます。
 

今回訪れることにした場所は、オーストリアでは首都ウィーンと音楽の街ザルツブルクと景勝地のハルシュタット、チェコでは首都プラハと古都チェスキー・クルムロフ、ハンガリーでは首都のブダペストの6か所で、これらすべてを陸路(バス)で巡ります。ちなみに、いずれも世界遺産に指定されている歴史のある場所なのです。
 

これらの国を理解する上で役立つ視点を3つ列挙しましょう。
 

1) 栄華の歴史が残る国々
 

◎神聖ローマ帝国
 

西ローマ帝国の衰退にともない、5世紀後半にゲルマン人の一部族であるフランク人によって建てられたフランク王国は8世紀後半から9世紀には現在のフランス・ドイツ西部・イタリア北部・スイス・オーストリアなど西ヨーロッパの全域を支配(注、2つの王朝が統治)しましたが、ルートヴィッヒ1世(ルイ1世)の死後、843年に東・中・西の3王国に分割され、3人の王子が分割統治するフランス王国・イタリア王国・神聖ローマ帝国の母体となりました。9-10世紀に成立した神聖ローマ帝国は西ローマ帝国の後継国家を称し、ローマ教皇に即位を認められたローマ皇帝を君主とした国家であることから、その名前があります。現在のドイツ、オーストリア、チェコ、イタリア北部を中心に存在し、15世紀半ばからはオーストリア大公のハプスブルク家が帝位をほぼ独占して、フランス(ナポレオン1世)軍の侵略により帝国が解散した1806年まで存在しました。
 

◎ハプスブルグ家とオーストリア
 

ハプスブルク家は、神聖ローマ帝国から現在のオーストリアなどの領土を譲られ、ボヘミア(現在のチェコ西部)とハンガリーにも勢力を伸ばし、神聖ローマ帝国の消滅後もオーストリア皇帝、ハンガリー王としてオーストリア=ハンガリー帝国へと発展させましたが、第一次世界大戦の敗北により1918年に崩壊しました。これにともない、ドイツ人が多数を占める地域に領土が縮小。後に同じ民族であるナチス・ドイツに併合され、1955年の独立回復により現在に至っています。
 

2) 著名音楽家を輩出
  

  ① ポーランド(ワルシャワ)
    ○フレデリック・ショパン(数多くのピアノ作品で知られる)
   チェコ(プラハ)
    ○アントニン・ドボルザーク(交響曲「新世界」、セレナード、スラヴ舞曲)
    ○ベドルジハ・スメタナ(わが祖国 ヴルタヴァ/モルダウ)

    ○グスタフ・マーラー(数多くの交響曲、声楽曲、編曲作品)
   オーストリア(ウィーン)
    ○ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(フィガロの結婚、魔笛、交響曲40番、
      交響曲ジュピター、アイネ・クライネ・ナハト・ムジーク、フルートとハープのための協奏曲、
      ピアノソナタ・トルコ行進曲
    ○フランツ・シューベルト(多くの歌曲・ピアノ曲・歌劇)
    ○フランツ・ヨーゼフ・ハイドン(数多くの交響曲と弦楽四重奏曲)
    ○ヨハン・シュトラウス(美しく青きドナウなどの十大ワルツ、ポルカ、オペレッタ)
   ハンガリー(ブダペスト)
    ○フランツ・リスト(ピアニスト・指揮者・作曲家として有名、多くの交響詩とピアノ曲)
    ○バルトーク・ベーラ(ピアニスト・作曲家、多くの管弦楽曲・協奏曲・ピアノ曲
    ○コダーイ・ゾルターン(多くの管弦楽作品・合唱曲など)
 

3) 尖塔・展望所などから展望できる旧市街の美しい町並み
 

 プラハの市庁舎(尖塔)

 チェスキー・クルムロフ(高台にある城と塔)

 ザルツブルク(高台にある城)

 ウィーンの聖シュテファン寺院(南北の尖塔)

⑤ブタペストの漁夫の砦(高台にある砦)
 

今回の旅行を思い立たせた場所がウィーンにあります。それは毎年ニューイヤー・コンサートのテレビ中継を楽しみにしているウイーン・フィルハーモニーの本拠地である楽友協会、具体的には楽友協会内にある大小のホール見学ツアーと同ホールで開催される演奏会です。スケジュールが合わず、ウィーンフィルの公演ではありませんが、夜間に開催されるモーツアルト・オーケストラの演奏会のチケットをネット予約と郵送サービスで入手することができました。また、午後1時からの楽友協会見学(英語ガイド付)はネットで予約し、現地でチケットを受け取ることに。
 

もう1か所はモーツアルトの生誕地として知られるザルツブルク。ウィーンの西約300kmに位置し、ドイツとの国境に近い町です。名前のザルツ(塩)・ブルク(砦/街)が示すように岩塩の産地として栄えた町で、バイエルン王国の支配下(司教区管轄地)から、19世紀には複雑な経緯の後、オーストリアに併合されました。1920年に始まったザルツブルク音楽祭が開催される場所としても知られ、ミュージカル映画「サウンド・オブ・ミュージック」の舞台(ロケ地)となっています。
 

そしてチェコのプラハ。ヴルタヴァ(独語名:モルダウ)川の両岸に広がる古都で、プラハ城等中世の町並みが美しい町です。スメタナが作曲した6曲の連作交響詩「わが祖国」に含まれる「モルダウ」の名で知られます。昨年私がピアノで練習した名曲です。ボヘミア(注、現在のチェコの中部・西部、6世紀ころまでにスラブ人が定住)王を兼ねたドイツ人が神聖ローマ帝国(注、西ローマ帝国/フランク王国の後継を称した)皇帝をつとめ、14世紀から17世紀初頭のある時期にはプラハに首都が置かれました。このためチェコではドイツ語とドイツ文化の影響が今でも残っているそうです。1918年にオーストリア・ハンガリー帝国が崩壊すると、チェコスロバキア共和国として独立しましたが、ドイツに併合された後、第二次世界大戦後に再度独立し、1993年にチェコとスロバキアに2国に分離されました。その背景は人種の違い・経済格差・政治的対立があったそうです。
 

ハンガリーの首都であるブダペストは変わった名称のため記憶に残ります。5世紀ごろ、ウラル山脈付近から西進し始めたマジャール人は9-10世紀にはハンガリー平野に移住し、1000年ころにハンガリー王国を建国しました。スロバキアやクロアチアなどの隣国を次々と支配下に置き、さらにルーマニアのトランシルバニア(注、ドラキュラ伯爵で知られる)にも影響力を及ぼして、中欧の強国となりました。しかし、16世紀にはオスマン帝国とオーストリアに全土を占領され、17世紀末にはオーストリア(ハプスブルグ家)が全土を支配するようになりました。第一次世界大戦が終結した翌年の1919年、革命によりハンガリー民主共和国となりますが、1920年にはハンガリー王国が復活し、第二次世界大戦が終結する1945年まで続きました。終戦翌年の1946年にはハンガリー共和国(第二共和国)が成立し、1989年に第三共和国が成立して現在に至っています。
 

このように、オーストリア・チェコ・ハンガリーは歴史的に密接な関係があり、西洋史としても大変興味深い国々です。大学生の時に東欧と中欧(特にバルカン半島と神聖ローマ帝国)の歴史に興味を持って学んだ私には是非訪れたかった国々なのです。次回記事から、旅程にしたがって旅行記を掲載しますので、興味のある方はご一読ください。
 

なお、旅行中にはいつものように詳細な情報をiPhoneにメモしていましたが、旅行が終盤に入ったウィーンで大変なハプニングが起こりました。ガイド付きツアーで訪れた楽友協会の大ホールで説明を受けている時、長年憧れていた場所にいることに気持ちが高揚したせいか、我を忘れた私はそれまで書き込んできた詳細メモを誤って消去してしまったのです。茫然自失した私は復活する裏ワザ(iPhoneを強く振る動作)を実行することにも思いが至りませんでした。悔やんでも悔やみきれません。そのため、今回は、時間やルートなどにはあまり拘らず、私の記憶を蘇らせながら原稿を書くことにしましたので、細部に不確かさが含まれるかも知れないことをご了承願います。

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