東濃の山城「岩村城址と苗木城址」を訪ねるドライブ旅(その5) 岩村城址①
いわむら観光協会のhpによれば、『文治元年(1185年)に源頼朝の重臣「加藤景廉(かとうかげかど)」がこの地の地頭に補せられ創築されてから、鎌倉・室町の300年間、戦国の100年間、更に江戸期の300年間に亙り城と城主が連綿と続き、明治に至り廃城令で廃城されるまで、連綿と存続しました。 700年間に及ぶ城の歴史は、日本の城史にも例を見ないものなのです。)とあります。注、この説明には明示されていないが、景廉の長男、遠山景朝(かげとも)が1221年(承久3年)以降に築城したとされる。また、岩村遠山家から分家した幕府旗本の明智遠山家の分家の子孫には江戸町奉行の遠山景元(金四郎)がいる
ちなみに、「岩村城」は、戦国時代に信長の叔母にあたる「お艶(つや)の方」あるいは「お直の方」が信長の命により武田氏との前線基地を確保する政略結婚により3度目の嫁ぎ先となりましたが、夫・遠山景任(かげむね)が武田軍との戦中に病死したため「女城主」になしました。3年後の天正元年(1573年)年に再び武田軍に攻められて「岩村城」に4か月間籠城したものの、長島の一向一揆などで多忙を極めた信長からの援軍がなく、自らの養子となっていた信長の五男(名目上の城主)を守るために「岩村城」を攻めた武田氏の重臣・秋山虎繁(別名信友)と結婚して武田側についたことで信長の怒りを買うことになった。そして、3年後の天正3年(1576年)、長篠の戦武田勝頼に勝利した信長軍が一気に「岩村城」を攻めたことで、数か月籠城したもののついに落城。「お艶の方」は夫の虎重とともに処刑されました。戦国の世にあって、数奇な運命に弄(もてあそ)ばれた悲運の女性です。
ちなみに、「お艶の方」については、私が好きなNHKの番組「歴史ヒストリア」で「戦場の花嫁 愛に生きた女城主」のサブタイトルで2017年9月3日に放送されています。
現在は管理棟と駐車場となっている出丸の説明です。『本丸の南西の防衛を担う重要な曲輪で、2棟の二重櫓、3棟の多門櫓で厳重に固められていた。二重櫓の一つは時を告げる太鼓が置かれた太鼓櫓である。また、多門櫓の一つは大工小屋としてつかわれるなど、平時には城の維持管理を担う曲輪でもあった。』

その隣には「岩村城跡 案内図」のパネルには城域全体の地図と主要な建物跡・坂などが図解されています。これにしたがって城域内を散策することにします。

「出丸址」から「本丸址」の高石垣に沿って「二ノ丸跡」へ向かう遊歩道を進むと、

「二の丸址」と思われるエリアの「本丸址」寄りにある細い道を抜けると、右手に「埋門(うずめもん)」呼ばれる構造の「本丸裏門」がありました。

ちなみに、「本丸址」の北側(「埋門」を挟んで反対側)に位置する「二の丸址」は、「本丸址」とほぼ同規模でしたが、高石垣は積まれておらず、しかも土に埋もれているようで、その存在は目立ちません。

『(埋門は)両側と奥の石垣の上にすっぽりとかぶさるような櫓が載せられ、石垣の間のクランクした通路には三つの扉が設けられている。門の右側には納戸櫓(二重櫓)が構えられていた。また左側の石垣は江戸初期の築城当初のものであると考えられる。』

「岩村城 再現CGビューア」はQRコードを読み取ると、岩村城を復元したCG画像を見ることができる案内方法です。ちなみに、写真に写るQRコードをお手持ちのスマホで読みこんでも説明を表示することができますから、興味がある方は試してみてください。

iPhone SEでQRコードを読み取ると、このような画面が現れました。その説明文は、『簡素な冠木門(かぶきもん)で、「棚門」(たなもん)「木戸と呼ばれています。本丸は上下2段の曲輪からなっており、下段から上段に入る門は三カ所ありましたが、防衛は重要視されておらず、本丸御殿の格式を整えることを重視していたようです。』となっています。

標高717mの山頂にある本丸の広いスペースには「岩村城 歴史方位盤」がありました。見て分かる通り、織田信長や徳川家康などの居城があった方位を示しています。

本丸の説明パネルには、『本丸は納戸櫓(なんどやぐら)など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣上に構えられていた。東と北には一段低い位置に長局(ながつぼね)と呼ばれる細長い曲輪(くるわ)が付属する。正門は東曲輪側の東口門である。内部には施設はなく、広場となっていた。』とあります。つまり、山城であるため天守は必要ないのです。

一段高いところにある本丸櫓址に立つ岐阜県史跡「岩村城跡」の標柱 注、二重の本丸櫓には藩主邸ができるまで藩主が居住していた

「昇龍の井戸」は山の頂にありながら、枯れることはなかったとのこと。

岐阜県指定史跡「岩村城址」の説明看板には、『岩村城は別名を霧ヶ城といい、天然の峻嶮な地形を活用した要害堅固な山城で、海抜717メートルに位置し、全国の山城の中で最も高地にあり、日本三大(山)城の一つである。岩村城の創築は鎌倉幕府初代将軍、源頼朝の重臣加藤景康が、文治元年(1185年)に遠山荘地頭に補せられたのに始まる。景康の長男景朝が岩村に移り、加藤の姓を地名の遠山に改め、以後遠山氏が代々居城した。戦国動乱の時代に入り、武田信玄の臣秋山信友が天正元年(1573年)に岩村城を奪取して入場したが、同3年に織田軍に敗れ、以後城主は川尻鎮吉と森蘭丸、森長一、森忠政の森三代、田丸具忠と28年間に目まぐるしく交代した。塀丁5年(1600年)関ヶ原合戦後、西軍に属した田丸氏に変わって松平家乗(大給松平家)が城主となった。(中略)建物は明治維新により廃城され、後明治6年(1873年)に取り壊された。』とあります。

その説明は、『本丸は上下2段の曲輪からなっており、下段は長局(ながつぼね)と呼ばれています。下段から上段に入る門は三か所ありましたが、防衛は重要視されておらず、本丸御殿の格式を整えることを重視していたようです。』となっています。

(続く)







































































































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