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2020年3月

2020年3月31日 (火)

オードリー・ヘプバーンが主演した映画「麗しのサブリナ」を観る

相変わらず巣篭(すごも)り生活を続けていますが、例外的に外出した「お花見」の記事が長くなってしまい、最近見た映画の紹介が2週間ぶりになってしまいました。さて、モノクローム(白黒)の映画「麗(うるわ)しのサブリナ」は映画「ローマの休日」の翌年である1954年に公開されたアメリカのロマンティック・コメディです。私はこれらの映画は世代的に見ることはなく、高校生になった時に観た映画「ティファニーで朝食を」(1961年に公開された奔放な女性の純愛を描いた映画、主題歌の「ムーンリバー」がヒット)、「シャレード」(1963年のサスペンス映画)、「マイ・フェア・レディ」(1964年もミュージカル映画、アカデミー賞8部門を受賞)、「暗くなるまで待って」(1967年のサスペンス映画)などで知っ女優さんです。また、ヘンリー・マンシーニの美しい音楽(メロディ)も魅力的でした。注釈:「マイフェアレディ」の音楽はアンドレ・プレビンによる

私が社会人になったころ、私より二回りほど年上の叔母が彼女と同世代であるオードリー・ヘプバーンの長年のファンであることを知った時、ずいぶん昔から有名な女優だったことに驚いたことを覚えています。独特でスタイリッシュな髪形とハイセンスなファッション、そして魅力的な笑顔が人気でした。ちなみに、この映画は33日にWOWOWで放送されました。(注釈:414日に再放送予定)

今回、紹介する「愛しのサブリナ」(原題:Sabrina/英語圏の女性名)はオードリー・ヘプバーンのヒット作の一つと言われますが、上述したように初めて観る映画です。実はストーリーはおろか題名すら知りませんでした。主演は当時若々しく美しさが光輝いていたオードリー・ヘプバーンと中年の魅力に溢(あふ)れるハンフリー・ボガード(注釈:映画「カサブランカ」などで知られる)です。

それでは、ストーリーを紹介しましょう。(注釈:ネタバレあり、ウィキペディアの記事をベースに加筆)

アメリカ・ニューヨーク州のロングアイランドに暮らす大富豪ララビー家の運転手であるフェアチャイルドの娘サブリナは、ララビー家の次男デイヴィッドに幼いころから密かに恋をしていました。しかし、彼は女好きで、何度も結婚・離婚を繰り返した上、今は大銀行頭取の令嬢であるグレッチェンに夢中。サブリナのことはまったく眼中にありません。叶(かな)わない恋をするのは止めるように父からも言われた傷心(しょうしん)のサブリナは車庫で自殺しようとしますが、異変に気付いたララビー家の長男ライナスにより何とか事なきを得ます。(注釈:序盤はまるでB級映画のよう)

翌日、サブリナは以前から父に勧められていたようなパリへ留学して料理を学びます。2年後、サブリナは見違えるような美女(注釈:ファッションとヘアスタイルが評判)になって帰国し、デイヴィッドは彼女に惚(ほ)れ込んで自宅のパーティーに招待します。しかし、デイヴィッドはララビー家の事業拡大を図る父オリヴァーと兄ライナスの勧めで実業家タイソンの娘エリザベスとの結婚が決まっていたのです。「月に手を伸ばすのは止めろ」と諭(さと)す父に対し、サブリナは「月が私に手を伸ばしているのよ!」と自信満々に答えます。

パーティー会場で注目の的となるサブリナとダンスを踊るデイヴィッドは二人で会場を抜け出そうとしますが、エリザベスを放ってサブリナに夢中であり姿をライナスに見られ、ついには父に呼び出されてしまう。父と口論となったデイヴィッドは、ポケットにシャンパングラスを入れたまま椅子に座ったため、お尻に大怪我をしてしまいませ。待ち合わせ場所でデイヴィッドを待つサブリナの元にライナスが現れ、彼女の相手をします。ライナスはタイソンとの合併を実現させるため、障害となっているサブリナをデイヴィッドから引き離そうと画策するのですが、次第に彼女に心惹(こころひ)かれるようになってしまいます。

ライナスはサブリナをパリに追い出そうと考えて自分もパリに向かう振りをしてパリ行きの乗船券を用意しますが、その前夜にサブリナが彼の会社を訪れて『もう会うことはできない!』と告げます。ライナスは彼女をオフィスに入れて暫(しばら)く話を聞いていましたが、サブリナはライナスの机の上にパリ行きの乗船券が二人分あることに気付きます。『自分もパリに連れて行ってもらえる!』と喜ぶサブリナですが、ライナスは彼女を追い出すために乗船券を購入したことを正直に告げました。

事実を知ったサブリナは落胆(らくたん)してオフィスを後にします。翌日、考えを改めたライナスは重役会議に出席して合併の取り消し決めようとして、デイヴィッドに「1サブリナと共にパリに行くように!』と伝えます。これに対してデイヴィッドは『彼女は兄貴に恋している!』と告げ、デイヴィッドはライナスへ船に乗るように勧めます。デイヴィッドの説得を受けたライナスはサブリナへの想いを認めて会社を飛び出します。そして、出航したパリ行きの船をタグボートで追いかけて船に乗り込み、船のデッキでライナスはサブリナと抱き合います。(出典:ウィキベディアの記事を一部改変)

ウィリアム・ホールデンが演じた浮気男のデイヴィッドがこの映画を盛り立てたことが印象に残りました。ちなみに、彼は映画「慕情」(原題:Love is a Many-Splendored Thing 1955年公開)では英中のハーフであるハン・スーインと恋に落ちるアメリカの新聞記者のマーク・エリオットを好演しました。今風に言えばW不倫の関係です。主題歌 "Love is a Many-Splendored Thing"(意味:愛は多く輝くものだ)、歌唱:Nat King Cole、第28回アカデミー賞歌曲賞を受賞)は映画音楽史上屈指の名作として世界的に大ヒットしました。邦題の「慕情」もこの映画の内容をよく表していますが、日本人好みのタイトルと言えます。

さて、主演したオードリー・ヘプバーンは、映画「ローマの休日」と同様、奔放(ほんぽう)さとエレガントさを遺憾なく発揮(はっき)しました。もし、他の女優さんがサブリナを演じたとすれば、多くの視聴者は最後のハッピーエンドを心から喜べないでしょう。一方、ハンフリー・ボガードはビジネスにしか関心がない冷血漢を見事に演じました。しかし、怪我(けが)をした弟の代理と称して何度もサブリナをデートに誘うのは、例え弟想いの兄だとしても、不自然だと思います。そして、『弟からのキスだよ!』と言いながらサブリナにキスをするのです。代役を演じているうちにサブリナに心惹(ひ)かれたのかもしれませんが・・。

ラストシーンの重役会の場でライナスと弟のデイヴィッドはサブリナを巡って互(たが)いに譲(ゆず)り合います。実は前夜、サブリナがライナスに対する自分の気持ちをディヴィット告げていたのです。そして、二人の父親もこれを認めるように自分が重役会を取り仕切り始めます。エンディングでは、船員がサブリナも良く知っている中折れ帽をサブリナに差し出して、『鍔(つば)の形を整えて欲しい』 と突然言うのです。サブリナが咄嗟(とっさ)に事態を理解すると、ライナスがその場に現れて、二人はデッキで抱き合います。帽子が重要な小道具として使われる古き良き時代のアメリカ映画なのです。◇

2020年3月30日 (月)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(最終回) コリア庭園

門を潜(くぐ)って敷地内に入ると、目の前に見覚えのある建物が現れました。別堂(別棟)の「通友斎」です。

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右手(建物の正面)にある「主庭」には亀を模(かたど)った「亀形山」があり、

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その奥には「方池円島」(陰陽魚の形をした池)が続きます。その奥には塀越しに東屋(あずまや)が見えます。

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「通友斎」の入口へ向かいました。

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別堂「通友斎」の説明

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建物内の左手にある部屋

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右手にある板張りの部屋

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その右手には一段高くなった板張りの広い部屋があります。

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展示されている陶磁器や銅製火爐(かろ、火鉢)など

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木製長持(ながもち/キャビネット)

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建物の外へ出て反対側にある「後庭」の土塀(どべい)と花壇

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台所に近い後庭に造られた醤油・味噌・漬物置場の「醤壺壹(チャントッテ)」

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ちなみに、瓶(かめ)と壺(つぼ)の区別は日本と異なるのかも知れません。下の写真は「醤壺壹」の説明看板です。

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余談です。「醤壺壹」の最後の「壹」は数字の一を意味する漢字です。3世紀末に中国で書かれた魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に「邪馬壹國」、つまり日本語でいう「邪馬台国(やまたいこく)に女王の「卑弥呼(ひみこ)」がいたことが記述されています。ちなみに、中国語では「壹」を「イツ」または「イチ」と発音するようです。しかし、5世紀になると字体が似ている「臺」(台の繁体字で高い建物を意味する、中国語の発音:ダイ、タイ、日本語の訓読み:うてな/しもべ)を使って「邪馬臺国」と表記されるようになったことを「邪馬台国」関連の本で読んだことがあります。

「後苑」に出る「後門」を潜(くぐ)ります。ちなみに、「後苑」は土塀で囲まれたエリアの周囲(3方向)に広がっていました。

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六角亭の「観自亭」

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敷地の奥から見た正門方面

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想像上の神獣である韓国の狛犬「ヘテ石」

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正門前の駐車場は1時間半ほどの間にほぼ満車に近づきました。早めに訪れたことで、ほとんど人影のない園内をのんびり散策しながら、落ち着いてお花見を楽しむことができました。ただし、散策路にはベンチが一切無く、休憩できる場所は最初に立ち寄った正門近くの「パークセンター」(テーブルとイス)以外、「中の池北側の売店内」、中間地点の「遊びの森」「花の広場」「遊びの森」「中の池西端の親水エリア」「中の家南側の東屋」にある少数のベンチだけでしたから、混雑時にイスやベンチで休憩することは困難でしょう。午前10時を少し過ぎたところで小雨が降り始めましたから、そのまま帰路に着きました。

〈同行者のコメント〉 何処へも連れて行ってもらえない日々が続きましたが、旦那様が突然お花見に行くと言うのです。少し寒そうでしたので、コートとマフラーを持参しました。というのに、旦那様は軽装なのです。三ツ池公園の桜は綺麗に咲いていましたが、冷たい風が吹いていたため花冷えとなり、園内を歩いているうちに体が冷えてしまいました。それでコリア庭園はパスして車に逃げ込みました。

2020年3月29日 (日)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その6)

直前の天気予報通りでしたが、今、季節外れの本格的な雪が降っています。朝方、確認した時には雨でしたが、それが急に雪に変わったのです。外気温は1度で溶ける気配はまったくなく、植栽や屋根はもちろんのこと、路面にも雪が積もり始めています。最近、再開したウオーキングは終日控えるつもりです。閑話休題。「お花見」の記事を続けます。

<追記2020年3月29日午後2時45分> 雪が止んだ午後2時過ぎに通路と車庫の周辺を除雪すると、これを待っていたかのように同居者は車で出かけて行きました。

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「上の池」の東側に続く遊歩道を「中の池」方面へさらに歩きます。

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「池周りランニングコース」 の1000m地点

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「コブシ」の花も咲いています。

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「上の池」と「中の池」とを仕切る堤防に設置された水門

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「池周りランニングコース」 の1200m地点

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こちらは「中の池」と「下の池」との水路を開閉するもう一つの水門

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「下の池」の南岸を進みます。周回コースの終点である「水辺の広場」はもうすぐです。

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水辺の広場」に到着

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「水辺の広場」の端にある「天馬の像」は中国古代(1700年前)の芸術的逸品だといわれる「馬超龍雀(ばちょうりゅうじゃく)」の複製品だと説明されています。

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入園時には前を通過したコリア庭園の「前苑」(注釈:階段の下)と「前庭」(注釈:階段の上)を抜けて「正門」へ向かいました。李朝朝鮮時代の両班の住宅を再現した施設です。注釈:両班とは上流士族の東班(文人)と西班(武人)を総称する言葉

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門の右手にある案内看板には『神奈川県と韓国・京畿道(きょんきどう)との友好提携(19904月)を記念して作られた朝鮮王朝時代の両班(ヤンバン)の家を模した家と地方貴族の山荘庭園をイメージしたコリア庭園である』 ことが詳しく説明してあります。

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右手前にある「方池円島」は朝鮮時代の民家正門前の前庭に一般的に設置されたものであることが説明されています。

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土塀に囲まれた「前庭」とその説明

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(続く)

2020年3月28日 (土)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その5)

「中の池」の西端を回り込んだ所にある「親水エリア」から見た「花の広場」方面

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「中の池」の南側に続く遊歩道は緩(ゆる)やかに上って行きます。

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「池周りランニングコース」が正式名称でした。前方に「東屋(あずまや)」が見えます。

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鮮やかな黄色の花は「黄梅(おうばい)」でしょう。

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「中の池」と「上の池」の間に出ました。

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「ジャンボすべり台」と「大砂場」の脇を通過

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外周散策路に繋(つな)がる階段

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「横浜緋桜」

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通常は10月ころから12月ころと翌春4月中旬ころに開花するという「冬桜」が咲き始めています。
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噴水から噴き出した水が小川となって「上の池」に流れ込む「水の広場」脇を通過しました。子供の水遊び場でしょう。

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南端から見た「上の池」の岸辺は黒いシートで覆(おお)われています。

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ここにも「案内地図」がありました。

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幹が遊歩道へ傾いた「関山」

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「上の池」の東岸を北へ歩きます。

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「水仙」が開花し始めています。

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東側にある傾斜地の上に散策路が見えます。

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(続き)

2020年3月27日 (金)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その4)

白色の里桜「白妙(しろたえ)」は大輪八重咲の花が咲くはずです。

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まだ固い蕾(つぼみ)の「松月(しょうげつ)」の花は淡紅色の八重咲きで、花の中心は白色で細かい切れ込みが入るのが特徴のようです。

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「紅笠(べにかさ)」の花は大輪・八重咲き淡紅色で、開花期は4月下旬のようです。

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「紅豊(べにゆたか)」の花は八重咲で濃厚紅色で、通常の開花時期は4月上中旬

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「中の池」の西端近くにある「遊びの森

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「中の池」の西端に設けられた水辺階段(親水エリア)の下にできた「花筏(はないかだ)

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カモ科で渡り鳥の「金黒羽白(きんくろはじろ)」

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「江戸彼岸桜(えどひがんざくら)」の開花時期は通常3月下旬ですから、暖かい今年でも例年並みと言えます。

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若葉を塩漬けにして桜餅(さくらもち)を包む野生の「大島桜」(注釈:通常の開花時期は4月上旬)はすでに満開です。

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対岸の親水エリア近くを泳ぐのは水鳥の「軽鴨(かるがも)」でしょう。

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花の広場」です。奥へ続く舗道(ほどう)は公園敷地の周辺に続く散策路に繋(つな)がっているようです。名前通りに桜の木が群生していますから、草地にシートを敷けば、簡単に「お花見会場」になりそうです。

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野生種の「大島桜」は、通常4月上旬に開花するそうですが、323日というのにほぼ満開状態です。

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「大島桜」と「中の池」越しに臨んだ県域放送局「テレビ神奈川(TVK)」(昭和47/1972年開局)の電波塔(高さ170mの三ツ池公園送信所、愛称:三ツ池タワー)です。鶴見区と川崎市南部のランドマークと言えます。

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ちなみに、開局時はUHF電波を使うアナログTV放送(42ch)でしたが、200412月から地デジ放送(18ch)が始まりました。そして、アナログ放送は20117月に終了。また、東京にある"inter-FM"の中継局を併設しているそうです。

ここにも「三ツ池の桜」の案内看板があります。

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通常は3月上旬に開花する「大寒桜」は既に葉桜となり始めています。

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西端から見た「中の池」

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「水鳥」の説明看板

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「軽鴨」と「金黒羽白」を一緒に捉(とら)えようとましたが、シャッターのタイミングが悪くて・・!

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(続く)

2020年3月26日 (木)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その3)

山桜群の「山桜」も開花し始めています。通常の開花時期は4月上旬から下旬とのこと。

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野生の桜である「山桜」は芽出しとほぼ同じころに花が咲き、花や若葉の色の変化が楽しめるそうです。「山桜」から私は藤沢修平さんの短編小説「山桜」(1980年に小説宝石に掲載)を思い出します。海坂藩(山形県鶴岡市にあった庄内藩がモデル)の下級武士と同じく下級武士の娘の心情を見事に描いた小説です。2008年には東山紀之さんと田中麗奈さんの共演で映画化されました。二人は小説の風情をよく表現していたと思います。参考:中国語(繁体字)字幕付きのトレイラー映像

「下の池」と「中の池」を仕切る堤防に濃い桃色の桜が咲いているのが見えました。

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「下の池」の西端にある「染井吉野」の古木(開花標本木)

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「苔清水(こけしみず)」

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中の池」に群れる水鳥たち

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堤防の両脇に咲くのは「横浜緋桜(ひざくら)」でした。

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木立に覆(おお)われた「石の広場」にある歌碑(江戸末期の天保14年/1843年建立)には「三ツ池」を詠(よ)んだ和歌が刻(きざ)まれていました。

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同じく「百樹の森」碑は神奈川県知事津田文吾書とあります。昭和43年(1968年)に命名された「三ツ池公園」の雅称(がしょう)のようです。

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長い石段の上にある小さなお社(やしろ」

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桜の花越しに見る「中の池」

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遊歩道は「中の池」に沿ってさらに続きます。

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3つの池の周りに設定されたジョッギングコースの距離標識

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これも山桜群の「山桜」

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里の広場

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(続く)

2020年3月25日 (水)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その2)

里桜群の「普賢象(ふけんぞう)」は4月下旬に八重咲の大輪の花を咲かせるそうです。

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「染井吉野」の古木

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「下の池」を取り囲んで咲く桜

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モザイク状に舗装された遊歩道

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テニスコートの脇に出ました。「下の池」の周囲にはテニスコート、軟式野球場、いこいの広場などがあります。

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里桜群の「関山(かんざん)」もまだ蕾(つぼみ)が固い

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「大島桜」は幹や枝から芽吹き始めています。

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テニスコートを過ぎた所に立つ看板には園内の案内地図・桜の品種・開花時期が説明してあります。

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「下の池」に沿って続く散策路の両側には染井吉野(そめいよしの)・薄重(うすがさね)大島・普賢象(ふけんぞう)・関山(かんざん)・大島桜(おおしまざくら)が廻廊を造形しています。予想通りに染井吉野と大島桜は5分咲きですが、その他はまだ蕾(つぼみ)です。

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右手の坂道は高台を巡る散策路へ続いているようです。

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八重咲きの「横浜緋桜(ひざくら)」

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梅護寺数珠掛桜(ばいごじじゅずかけざくら)

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里桜群の「紅華(こうか)」

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「染井吉野」の古木は、幹が大きく刳(えぐ)れ、しかも反対側まで穴が貫通していますが、新芽には生命力が感じられます。

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(続く)

2020年3月24日 (火)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その1)

新型コロナウイルス感染拡大防止のため「さくらまつり」(316日〜415日)の開催が中止された「神奈川県立三ツ池公園」(横浜市鶴見区)へ3月23日に出かけました。2日前の321日に3分咲であると聞いて5分咲きの桜を期待したのです。天気予報は曇り一時晴れ(実際は午後にかけて小雨)、最高気温は16度(暖かかった前日より5度低いが平年並、実際には午前中12度・午後9度)、つまり「寒の戻り」になると予報されています。ちなみに、東京は一足早い3月22日に桜の満開が報じられました。一方、横浜での満開日は326日と予想されているようです。 

実は、今から50年近く前の独身時代にこの公園の近くに住んでいたことで、花見に訪れていた思い出の場所です。結婚後は同じ横浜市内の隣りの区に引越しましたが、二人で花見に出かけたことがありました。そして、30年ほどが経過した20063月にもお花見に訪れ、同年11月には紅葉狩りで立ち寄りました。その時には神奈川県と韓国・京畿道(きょんきどう)との友好提携を記念して作られた朝鮮王朝時代の両班(ヤンバン)の家を模した家と地方貴族の山荘庭園をイメージした「コリア庭園」を見学したことを覚えています。韓国のテレビドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」(2004-2005年)がNHKBSテレビで50数回放送されて関心を持ったのです。

「三ツ池公園」は日本の「さくら名所100選」に選ばれている横浜市における「桜の名所」(神奈川県内で第4位)です。ちなみに、江戸時代に灌漑用水池として利用された3つの池(下の池、中の池、上の池)があることが名前の由来です。 

混み合う前に花見をしようと考えて自宅を早めに出発しました。今回は環状2号の終点である川崎町田線(県道140号)と交わる上末吉交差点近い北口駐車場ではなく、さらに奥へすすんだ正門前の駐車場に車を停めました。園内へのアクセスがより便利だからです。有料期間の駐車料金(普通車)は繁忙期(316日~415日、429日~55日 )は830/日(後払い)です。

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まだ午前9時前ですから駐車場には2-3台しか停まっていません。

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駐車場脇で咲く桜が目に入りましたので、先ず何枚か撮影しました。

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午前9時前、脇に「園内案内図」がある正門を入って「芝生広場」へ向かいました。

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その右手にある「パークセンター」に立ち寄って情報を入手することにしました。

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広い館内にはテーブルと椅子がまばらに配置されていて、先客の男性グループが談笑していました。肌寒いことから暖房が入っていないのだろうとおもいましたが、入り口と反対側にある引き戸が全開されています。新型コロナウイルスの感染拡大防止策のようです。その手前に展示物がありました。何だろうと近づいてみると春に咲く桜の品種とそれぞれの開花時期の展示す。興味深く思って撮影しました。

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2月上旬から中旬には早咲きの寒桜が開花し、3月上旬は椿寒桜(つばきかんざくら)、3月中旬が寒緋桜(かんざくら)と大寒緋桜(おおかんひざくら)、3月下旬の修善寺寒桜・オカメ・枝垂桜(しだれざくら)、江戸彼岸(えどひがん)、4月上旬の紅枝垂(べにしだれ)・染井吉野・大島桜・横浜緋桜(ひざくら)、4月中旬の山桜や八重紅大島などまで、様々な桜を次々に楽しむことができることが分かりました。

ついでに「園内の地図」をもらって「パークセンター」を出て「水辺の広場」に向かいました。

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「水の広場」の右手にあるのは「コリア庭園」です。写真右端に写る「チャンスン(長生標)」(天下代将軍と地下女将軍のペア)は韓国の魔除け(守護神)で、埼玉県日高市の「高麗神社」で同じものを見ています。また、写真中央の日本の神社にある狛犬のような「へテ石」が「コリア庭園」入り口の両側に置かれています。想像上の動物(火災や災禍を避ける神獣)で、物事の是非善悪が分かるそうです。

前回訪れた時に見ていますから、見学するのは最後にして、前方の「下の池」へ向かいました。

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30ヘクタールあるという広大な土地を「三ツ池公園」の中央にある「上(かみ)の池」「中の池」「下(しも)の池」の外周を巡る「水辺の散策コース」を歩きながら、染井吉野(そめいよしの)、大島桜(おおしまざくら)や普賢象(ふけんぞう)など78品種、約1600本あるという桜の花を愛(めで)ることにしたのです。 

2月上旬から中旬には早咲きの寒桜が開花し、3月上旬は椿寒桜(つばきかんざくら)、3月中旬が寒緋桜(かんざくら)と大寒緋桜(おおかんひざくら)、3月下旬の修善寺寒桜・オカメ・枝垂桜(しだれざくら)、江戸彼岸(えどひがん)、4月上旬の紅枝垂(べにしだれ)・染井吉野・大島桜・横浜緋桜(ひざくら)、4月中旬の山桜や八重紅大島などまで、様々な桜を次々に楽しむことができるそうです。

「下の池」の東側(右手)にある散策路を進みます・

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「染井吉野」

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「薄重大島」(うすがさねおおしま)

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「染井吉野」

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(続く)

2020年3月22日 (日)

初めての海外出張はビルマのラングーン(市内観光編)

「ビルマの歴史」に続いて、ラングーンの歴史を紹介します。「ビルマの歴史」に書きましたように、1754年にビルマ人の「タウングー王朝」(首都:ラングーンの北東220kmにあるタウングー)がモン族に滅ぼされると、同じビルマ族のアラウンパヤーが勢力を拡大してビルマ最期の王朝である「コンバウン朝」(首都:ラングーンの北、約720kmにあるマンダレー近くのアマナプラ)を成立させました。急速に勢力を西方へ拡大させたためインドを支配下に置くイギリスと衝突し、三度の戦争(1824-1886年)に敗れて、1886年にイギリスの植民地(イギリス領インド帝国の1/後にイギリス領ビルマ、首都:ラングーン/現ヤンゴン)になりました。

ラングーン(現ヤンゴン)は、6世紀に下ビルマ(エーヤワディー川の下流域)を支配していたモン族により「ダゴン」の名で造られた小さな町でしたが、第二次英緬戦争で勝利したイギリスは下ビルマを併合するとともに、「コンパウンド朝」のアラウンパヤーによって1755年に命名された「ヤンゴン」(意味:戦いの終結)の名前を「ラングーン(Rangoon)」に変えて、イギリス領ビルマの商業的かつ政治的な中心地へと変えて行きました。ちなみに、「ラングーン(Rangoon)」は「ヤンゴン(Yangon)」を英語風に訛(なま)った都市名なのです。1948年にビルマがイギリスから独立した後も「ラングーン」がその首都の地位を継続し、2006年に「ネピドー」が首都となるとともに「ラングーン」が元の「ヤンゴン」に戻りました。

                          ☆

ラングーン(現ヤンゴン)最大の観光スポットであるシュエダゴン・パヤー(注釈:パゴダはビルマ語でパヤー/Paya)のストゥーパ(仏塔・卒塔婆、高さ約100m)です。詳細はブログ記事「40年ぶりのミャンマー訪問(その36)」を参照してください。

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それを取り巻く60以上の仏塔と仏堂(廟)

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テラスから見る北方向はまるでジャングルのようでした。

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ラングーンの都市計画上の中心であるスーレー・パヤー通りとマハバンドゥーラ通りが交差するロータリーにある「スーレー・パヤー(パゴダ)」

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その隣(南東)のマハバンドゥーラ公園に建つ「独立記念塔」とラ「ングーン(現ヤンゴン)市庁舎」

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人力3輪自転車のトライショー(trishaw)とその運転手 注釈:人力車から転じた中国語のリクショー(rickshaw)に対する呼び名、マレーシアとシンガポールでもトライショー、インドネシアではペチャ、ベトナムではシクロ、フィリピンではトライシクルと呼ぶ

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ヤンゴン川縁(べり)の「パンソダン埠頭(ふとう)」は埠頭のイメージではなく素朴な渡し場のようでした。

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ボータタウン・パヤー」と思われる寺院

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民族衣装「ロンジー」の店で2着購入

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サトウキビを家族で売る露店は終戦直後の日本でも見られた懐かしい風景です。

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インヤ湖の湖畔に建つ「インヤレイク・ホテル」は「ストランド・ホテル」と並ぶ高級ホテルで、ソ連(現ロシア)の援助で建設されたものだと記憶しています。

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なお、同様の写真集が3年前の関連記事にも掲載してあります。(終)

2020年3月21日 (土)

初めての海外出張はビルマのラングーン(1976年)

ヨーロッパ旅行に出掛けたちょうど1年後(翌年秋)、東南アジアにあるビルマ連邦(現ミャンマー連邦共和国)の首都・ラングーン(現ヤンゴン)へ出張することになりました。某研究所への出向から復社して新しい仕事に慣れた6か月後のことです。私が作成したテクニカル・プロポーザル(技術提案書)が一番札を獲得して、契約のための技術審査に臨(のぞ)むための出張でした。技術提案書は私一人で作成したものですから、全ページの内容は熟知しており、心配することは何もありません。

しかし、私ひとりで、しかも英語で、交渉相手とやり取りするのは初めての経験です。上司と先輩からは激励の言葉があっただけで、アドバイスらしきものは何もありませんでした。ちなみに、英会話は大学生の頃から足掛け10年近く習っていましたが、よく知った外国人の先生が会話の相手でしたから、初対面の外国人に専門技術について上手く(ビジネス的に)説明できるかどうか分かりません。ぶっつけ本番なのです。

どうなることかと思いながら、羽田空港(1978年以降は新しく開港した成田空港)からJALの直行便でタイのバンコクへ向かいました。当時のビルマはまだ経済封鎖中であり、日本からの直行便はありませんでした。バンコクのドンムアン空港(注釈:2006年まで国際空港、LCCの急増により2番目の国際空港として復活)でビルマ航空機に乗り換える必要がありました。つまり、トランジット(注釈:正しくはトランスファー)で、預けた荷物を格納庫のような場所で確認する手続きを求められました。前年の、ヨーロッパ旅行の帰路、ドンムアン空港に立ち寄っていますが、機内で他の乗客の乗降と給油を待っていましたから乗り換え(トランスファー)は不安でした。

搭乗待合室の表示盤には様々な便が次々に表示され続けるだけで、いつまで待ってもビルマ航空の便名をアナウンスしてくれません。耳が慣れたせいか、 "Attention, please." (お知らせします)で始まる英語のアナウンスは聞き取れますが、ビルマ語と中国語のアナウンスはちんぷんかんぷん。ちなみに、「ビルマ」を英語では "Burma"(発音:バーマ)であることは事前に知っていました。また、 "Attention, please."  は中国語で「請注意」(チィンヂゥーイー)と言うようです。何十回も聞いたため覚えてしまいました。

出発時間が迫り焦(あせ)っている私の耳に待ちに待ったアナウンスが聞こえました。指示された待合室の端にあるゲートへ向かうと、階段を降りてエプロンに出てしまいました。徒歩で駐機する小型機へ向かい、タラップを上って機内に入るのです。離陸して1時間ほど(約600㎞のフライト)でラングーン空港(現ヤンゴン国際空港)に到着。薄暗い部屋で通関手続きを無事に終えてターミナルの外に出ると、外は真っ暗で、真夏のような蒸し暑いさ。

現在は近代的で立派なターミナル・ビル(2007年5月開業)になっていますが、当時のターミナル・ビル(注釈:現在は国内線用に転用)は2階建ての質素なものだったと思います。ちなみに、滑走路は現在も1本だけであり、2022年には新空港がラングーン(現ヤンゴン)の北東80㎞にあるバゴー付近に完成するそうです。下の写真はヤンゴン国際空港の新しいターミナル・ビル(2017年3月撮影)。

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出迎えの人を探しますが中々見つかりません。あちこちから手が伸びました。子供も混じっています。荷物を運ぶ礼金が欲しいのです。しばらくすると私の名前を呼ぶ声が聞こえ、日本人らしき人が現れました。彼はパートナー会社の現地駐在員。正に地獄で救いの神でした。車で宿泊する「ストランド・ホテル」まで送ってくれました。ラングーンの市街地にある最高級ホテルです。

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チェックインも無事に終わり、自室に入るてウインドウ・エアコンがけたたましい音を立てていました。シャワーを浴びようとすると茶色く緩(ぬる)い湯が出ました。しばらく待つと段々透明になりましたので、軽く浴びるだけにして、寝ることにしました。

翌朝はコンチネンタル・ブレックファースト(注釈:暖かい食べ物がない朝食)を食べた後、駐在員の車で顧客のオフィスへ向かいました。2ブロックほどと近く、徒歩圏内にある4階建てのビルでした。飾り気のないビルですが周辺の建物に比べれば立派です。

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対応してくれたのは技術部長と課長の2人。部長は私の父と同じ世代でした。眼光が鋭い威圧感のある人ですが、綺麗な英語を話す柔和な紳士です。緊張する私に気遣(きづか)ってくれたようです。この人物とは計3回(都合2か月間)に及ぶミーティングが始まりました。この顧客にとっては初めてのビッグ・プロジェクトだったのです。

遣(や)り取りの内容は明かせませんが、部長の真摯(しんし)な態度と流暢(りゅうちょう)とはいえない私の英語に忍耐を持って対応してくれました。部長はエリートでイギリスへ留学したことがあったようです。予定通り1週間の出張で帰国できました。3か月後(翌年)にはいよいよ契約交渉が始まりました。

技術部長は技術審査時とは打って変わり厳しい態度で改善要求が矢継ぎ早に出されたため、ホテルに戻ってシステムの内容を見直す日々が続き、当初案を全面的に見直すことに。予想を上回る1か月の長期戦になりましたが、無事に契約調印することができました。会社にとってはかなり厳しい内容でしたが、その後の展開に繋(つな)がり、双方にとって有意義な結果になりました。

この部長とは3年間に5つのプロジェクトで丁々発止で遣(や)り合うことになりましたが、私の人生で最も感謝する人の一人になりました。そして、ビルマには最初の出張から10年が経過した時に4度目の出張をする機会がありましました。その部長は退職した後であり、物足りない結果になりましたが、私にはビルマが公私ともに思い出深い国になりました。私を成長させてくれた部長に今も感謝しています。

ホテルと顧客事務所の周辺を紹介しましょう。

先ずは「ストランド・ホテル」前の「ストランド通り」を走る満員(鈴なり)の路線バス

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ストランド・ホテル」のボールルーム(舞踏室/宴会場)で開催される結婚式に参加する正装の若い女性たち

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托鉢(たくはつ)中の子供たちは僧侶見倣(みなら)いです。

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顧客事務所近くの繁華街で見かけた店舗と露店

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日本のダイハツ製三輪自動車の「ミゼット」(1957-1972年製造)

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休日の散歩中に見かけたボーイスカウトとガールスカウトの集会。発祥の地であるイギリスの影響でしょう。

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偶然入った画廊で見たビルマ風の人物画

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2回目のビルマ出張をした時、職人宅を訪れて2週間の納期を条件に「ビルマの竪琴」を注文しました。乾燥させた木製の胴と大きく折れ曲がったフレームを在庫品の中から選び、琴の胴部にビルマ語とアルファベットで私と同居者の名前を入れてもらうことにしました。胴の上部には共鳴させるための滑らかな皮を張るそうです。

下の写真は完成期日に受け取りに行った時、職人さんが最終確認をしている風景と家族に入ってもらった記念撮影です。当時の私の月給よりも高価(注釈:現地の人たちの年収に相当する)でしたから、家族総出で歓迎してくれたのでしょう。

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この竪琴をめぐる帰国時のトラブルは古いブログ記事「ビルマの竪琴」で披露しています。また、映画「ビルマの竪琴」(1956年公開)については別の記事「40年ぶりのミャンマー訪問:準備編」で紹介しています。

                            ☆

ビルマについての参考情報です。ビルマ(現ミャンマー)の歴史を3年前のブログ記事「40年ぶりのミャンマー訪問:事前準備編」で紹介していますが、ここではビルマの歴史を再度紹介しながら新旧の国名について解説したいと思います。

現在、国民の多数(約70%)を占めるビルマ族は、11世紀に中国南部・雲南地方からビルマ北部(上ビルマ、エーヤワディー川の上流域)へ移住して、その中ごろに「パガン王朝」を起こしました。(注釈:地名はバガンと表記) 先住民であるモン族・ピュー族・シャン族・カレン族・チン族などを徐々に圧迫し、それらの小王国(都市国家)を支配下に置き、マレー半島の付け根まで支配地域を拡大します。しかし、モンゴルの侵攻によりその朝貢国となりましたがモン族やシャン族などの反乱が続きました。、

14世紀にティンカバーがビルマ族の王朝「タウングー王朝」をタウングーで再興しました。そして、最盛期の16世紀には、ビルマからタイ・ラオス(注釈:いずれも現在の国土)へと支配地域を拡大し、東南アジア最大の王国になります。16世紀末、アユタヤ王朝(注釈:タイの王国)による侵攻などで「タウングー王朝」は危機を迎えますが、ニャンウンが「タウングー王朝」を復興して100年以上続きました。

しかし、ペグーのモン族の勢力が拡大して圧迫したため、1752年に「タウングー王朝」は滅びます。その後建国したビルマ族の「コンパウンド朝」も他民族との争いが続きました。さらに、3度にわたるイギリスとの戦争に敗れて、1886年にその植民地となります。そして、第2次世界大戦後の1948年にイギリスから独立して「ビルマ連邦」が建国されました。

ビルマ族の王朝である「パガン王朝」の頃から「ビルマ」はビルマ族とその言語を指す言葉(口語)でしたが、同時に「ミャンマー」も書き言葉(文語)として使われたようです。つまり、古くから「ビルマ」と「ミャンマー」が共存していました、しかし、1989年に軍事政権が英文の国名表記を"Burma"から"Myanmar"へと変更してて現在に至っています。ちなみに、日本語の「ビルマ」はオランダ語の名称"Birma"(びるま)に由来するそうです。

また、ビルマ文字はインドから仏教とともに伝来した「パーリ語」の文字をモン族が使い、それをベースにした文字が11世紀後半ごろにビルマ語に使われるようになったそうです。このプロセスは中国から導入した日本語の文字(漢字)と似ています。文化についても、隣国のインド・中国と先住民族のものが混在あるいは融合した独自な文化圏を創(つく)り出しています。

「市内観光編」へ(続く)

2020年3月19日 (木)

人生100年時代を生きる処世術は?

お彼岸の前日ですが、近くの寺にある両親の墓参りに出かけました。年末、川崎大師に参拝した後に立ち寄って以来です。絶好の日和(ひより)であり、伸び始めた雑草を抜き、墓石を久しぶりに洗い、初夏のように清々(すがすが)しい気持ちになって帰宅しました。

連日報道されていることですが、新型コロナウィルスが中国から東アジア、そしてヨーロッパ、さらには全世界へと拡散しています。その対応策としてアメリカをはじめとする各国は人の移動を大幅に制限したことで、経済の先行きが不安視されて株価はアメリカで大暴落(この3週間で30%以上、トランプ政権が発足した3年前の水準まで低下)し、その余波は世界の主要国の株安となって一気に伝播(でんぱん)しました。

さらに原油安と円高も進行しています。つまり、金融危機、ひいては経済危機の足音が聞こえ始めているのです。ちなみに、原油価格はOPECの減産交渉が不調であったこともあり、年初の半分以下(2018年比で1/3)の20ドル台前半へと暴落して、20年ぶりの低水準になっています。

アメリカとヨーロッパ(EU)などの主要国は非常事態宣言を発令するとともに、金融市場安定化のため金融緩和策を矢継ぎ早に実施しました。また、日銀は企業への資金繰り支援を強化するとともに、株価を下支えするためETF(上場投資信託)の購入枠を倍増しました。つまり、世界は未曾有(みぞう)の危機状態に陥(おちい)ったのです。終わりの見えない世界大戦に突入したにも等しい異常事態と言えるでしょう。

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さて、本題です。「シニア世代の真っ只中」にいる私は、定年退職後の10数年は気ままな日々を送ってきました。予(かね)てより興味があった情報通信(インターネット)のレポートを作成する著述業と社員教育の非常勤講師(年に数回のアルバイト仕事)で得た僅(わず)かな収入を使って国内外の旅行(注釈:その多くの紹介記事を当ブログに掲載、カテゴリーで「旅行・地域」を選択するとまとめて閲覧可能)を楽しむ一方、不要不急の支出をできるだけ抑えました。

同時に生活のスタイルも見直しました。具体的には、不要な不動産の処分(売却または贈与)とゴルフ会員権の返上、生命保険・損害保険・医療保険などの解約、その他の継続的な会員費など、定期的な支出の見直しを順次行ったのです。一方、日々の生活費(食費・日用品代など)の節約は生活の質が低下する割には出費の節約効果が少ないことからほとんど手を付けていません。また、健康が最重要であるとの考えから医療費も節約していません。重症化して辛い日々を送ったり、高額な医療費を支払ったりするリスクを減らしているのです。

最近、「サブスク」(サブスクリプション・サービスの略、定額料金で一定期間のサービスが受けられるサービス)が流行しているようです。身近なものは「有料テレビ放送(衛星・ネット)」「新聞・雑誌の定期購読」「高額商品の定額レンタル」などがあります。一見お得用に見えますが、あまり利用しない場合には割高になったり、それほど望んでいないこと(もの)に貴重な時間を割くことになるディメリットも生じます。ですから、私は必要最小限に絞っています。

言い換えると「生活の質(Quality of Life)」を節約の判断基準にしているのです。この考えは今から45年前に勤務(出向)していた某公立研究所で学んだ概念です。その時はあくまでも「研究テーマの尺度」でしたが、現役を退いてからは徐々に自身の「生活スタイルを確認する尺度」になったのです。ご存じない方のために「生活の質」とは何かを説明しましょう。

50年ほど前から研究されている「生活の質」は、医療・福祉・教育の分野で注目されている考え方で、『個人が与えられ環境の中で可能な限り快適に生きること』 を指します。したがって、「生活の質」は個人の収入や財産を基に算出される「生活水準」(Standard of Living)とは分けて考えられるべきものです。

もう少し易(やさ)しく表現すると、『人間らしく自分らしい生活を送り、人生に満足感や充実感を持って暮らしているか? 一人ひとりの人生の質や社会的に見た生活の質に重点を置いているか? を問う考え方』です。つまり、「より多く」よりも「より良く」という価値観であり、「物質的な豊かさに満たされた生活」ではなく、「毎日が充実し、心身が満たされた生活」に焦点を当てた考え方なのです。「幸福の度合いを表す尺度」ということもできるでしょう。

閑話休題。新型コロナウィルスの感染が「バンデミクス」(感染症の世界的な大流行)であるとWHO (世界保険機構)が認定したことで株価が暴落し、経済活動がさらに低迷すると、私たちの所得(賃金・年金・生活補助)が減少することは避けられません。『何とかなる!?』 と呑気(のんき)に構えてはいられないないのです。「生活の質」をできるだけ維持しながら、支出を抑える必要があるのです。「生活の質」に不可欠なものは個人によって異なると思いますが、ほとんどの人に共通する重要なことは、第一に「健康」、次いで「安定した収入」と「生活の基盤である住居」の確保です。

上述したように「健康」は最優先事項と考えています。そのため、昨年は医療費(自己負担)がこれまでにないレベルに達して大きな経済的な負担でしたが、そのお陰で私の「生活の質」は大きく改善しました。2つ目の「安定した収入」は『できるだけ収入を減らさないために必要なことは何かを考えて、かつ必要なことを実行すること』 です。気に入らないから、辛(つら)いからといって、収入源(仕事)を簡単に手放さないことが重要です。

そして、将来の生活費に充(あ)てる予定の蓄(たくわ)えを少しでも増やそうと、貴重なお金を高利回りが期待できる(つまりリスクが高い)金融商品に投資することも慎重になるべきでしょう。20年来のデフレが影響して物価が安定している現在、手持ちのお金を減らさないことを最優先にするのが良いと考えています。3つ目の「住居」は生活に必要不可欠なものであり、支出額を大きく左右して「快適な生活」を危うくする恐れがあります。つまり、いずれについても、一旦失うと取り戻すことが極めて困難であることが多いのです。

ただし、現役世代であれば努力次第で、あるいは時間をかければ、リカバー(回復)することが出来るかもしれませんが、収入機会と持ち時間が限られるシニア世代では極めて困難だと言うことを認識すべきだと考えます。最近、『老後に必要な資金はいくらか?』 の論議がありますが、貯蓄額そのものよりも個人の生活に対する考え方が重要だと考えるのです。つまり、『幾らあれば寿命を迎えるまで生活できるのか?』 を考えのではなく、現在ある経済環境で生き抜く知恵を磨(みが)くことがシニア世代には必要であると思うのです。

最後に本稿のポイントです。異論はあるかも知れませんが、所有する住居を売却する「持ち家から賃貸へ」の考え方や「リバースモーゲージ」(Reverse morgage/逆住宅ローン、つまり自宅を担保にする借金)と「リースバック」(Leaseback、自宅を売却後に賃貸で住み続ける契約)の手法に内在するリスクに十分留意すべきだと考えます。いずれも長期間の金銭支出(高額な利払いや割高なリース料)をともなう「背水の陣」(実は袋小路に追い込まれる状態)といえる方策であり、リスクマネジメントの観点からは大いに疑問がある方法だと考えるからなのです。

つまり、「持たないこと」(売る捨てる)の効用(重要性)を常に認識・実践(じっせん)している私ですが、住居だけは対象外だと確信しています。「新型コロナウイルス」の影響(中国人の投資減と国内景気の先行き不安など)で不動産(マンション)価格が急落(不動産投資信託/REITはこの1か月足らずの短期間で約30%の大幅下落)していますが・・。◇

2020年3月17日 (火)

体調の変化を確認する!

2年近く前の「白内障の手術」(20184月)と「ピロリ菌の除菌」、半年前の「気管支喘息の発作による入院」(20198月)、3か月前の「血管運動性鼻炎」(201912月)と体調不良が続きました。それらのアフターケアとして、眼科には3か月毎に検査通院し、内科には定期的な気管支喘息の診察時に吸入薬を処方してもらっていますが、いずれも症状は安定しています。また、ピロリ菌の除菌後は胃の調子も良好ですがかねて予定していた通り「胃カメラ(再検査)」(20202月)を受けました。前回の検査から1年半が経過していますから胃壁の状態を確認するために受けた検査です。

検査直後に担当医師の所見を聞きましたが、内科担当医師からは検査時に採取れた食道下部(赤化部)の検査結果を含めた診断を聞きました。『胃壁は一部炎症が認められるが異常は確認されない。食道下部の赤化は胃の噴門(ふんもん)が緩(ゆる)んでいるため胃液が逆流して食道の組織が変質・変形したものであり、採取した組織片に異常は無かった』 とのことでした。そして、この日に受けた血液検査の結果もほぼ正常値で、現在服用中である高尿酸値症治療薬と胆汁分泌促進薬に追加すべき薬は必要ありません。これで一安心です!

そこで、半年近く服用を休止している高血圧の症状変化を相談しました。昨秋は安定していた血圧が冬の寒さの影響なのか徐々に高くなっていたのです。担当医師と話し合った結果、血圧降下薬の服用を再開することになりました。以前処方されていた薬よりも弱い「アジルバ錠20㎎」をしばらく服用して経過を見ることになったのです。服用して10日ほど経った現在、血圧は正常値に近づいています。また、発疹(はっしん)・湿疹(しっしん)・痒(かゆ)みなどの副作用は出ていません。これで動脈硬化が進行するリスクは低くなり、体調についての心配ごとはすべてなくなりました。血圧が下がったことにはウオーキングを再開した効用もあるのかもしれません。

                            ☆

突然の降雪に驚かされた先週末、昨年4月に生まれた赤ちゃんがわが家に遊びに来てくれました。昨年の12月下旬に川崎大師に参拝した時以来、3か月ぶりの対面です。体重が10kgほどになった赤ちゃんを持ち上げるとズッシリと重さを感じました。人見知りをしない赤ちゃんですが、見慣れない私の顔には怪訝(けげん)な表情のまま。同居者にはすっかり打ち解けた様子で、対応力の差をまざまざと見せつけられました。同居者は子供を惹(ひ)きつける天才なのです。2時間ほど滞在した後、雪が降りしきる中を赤ちゃんの家族全員は車で帰って行きました。

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巣篭(すご)もり生活」を続ける私は相変わらずWOWOWで放送された映画を楽しんでいます。今回鑑賞したのは3月2日に放送された60年以上前のモノクロ映画「ローマの休日」(1953年公開)です。アカデミー賞の監督賞を3度受賞したウィリアム・ワイラーが製作と監督を担当し、主演した新人のオードリー・ヘプバーン(当時24歳)がこの作品でアカデミー賞の主演女優賞を獲得しました。この映画を成功させた立役者(共演者)は長身でイケメン俳優のグレゴリー・ペック(当時37歳)。ちなみに、南部における酷(ひど)い人種差別を扱った社会派映画「アラバマ物語」(1962年公開)でアカデミー賞やゴールデングローブ賞の主演男優賞を受賞することになる演技派俳優なのです。

私にとっては高校生になった時に観た2つの映画におけるグレゴリーのクールな演技が強く印象に残っています。第二次世界大戦終盤に連合軍の部隊がナチス・ドイツ軍の高性能要塞砲が設置されるナバロン島の要塞(ようさい)を奇襲して爆破するスリリングな戦闘を描いたフィクション映画「ナバロンの要塞」(1961年公開、原題:The Guns of Navarone)とアメリカの西部における1800年代前半から同後半までの西部開拓時代(50年間)を描いた「西部開拓史」(1962年公開、全5話中の第2話「平原」にグレゴリーが出演)です。そして、「ナバロンの要塞」で流れたミッチ・ミラー合唱団の歌声と「西部開拓史」の挿入歌であるイングランド民謡「牧場の我が家」(Greensleeves)もよく覚えています。

「ローマの休日」のストーリーは以下の通りです。ヨーロッパの古い歴史と伝統を持つ某国の王女アンは、ヨーロッパ各国を表敬訪問中、最後の滞在国であるイタリアのローマで、過密なスケジュールと自由のない日々への不満から滞在する城を抜け出しますが、街中でアメリカ人新聞記者のジョー・ブラッドレーと偶然に出会い、二人は「ローマの休日」を楽しみます。

「トレビの泉」近くの美容院で髪の毛を短くカットしたり、スペイン広場でジェラートを食べたり。そこで再開(実は王女と知った新聞記者が探していた)した2人はスクーターの「ベスパ」に乗ってローマ市内を廻り、真実の口を訪れた時にはジョーが腕を噛まれる真似をしたり、サンタンジェロ城前のテヴェレ川でのダンスパーティーにも参加したり、二人は男女として次第に親しくなって行きました。

そして、ラストシーン(記者会見の場)で、二人は王女と新聞記者の立場を貫きながら、視線を交わすだけで楽しかった「ローマの休日」を確認し合います。間違いなく名作中の名作といえる映画です。◇

2020年3月15日 (日)

45年前のヨーロッパ旅行(後編)

7日目はパリのノルド(北)駅へ向かいました。パリには中央駅がなく方面別に北駅・東駅・リヨン駅など6つのターミナル駅があり、北駅はベルギーのブリュッセル駅、オランダのアムステルダム中央駅、ドイツのドルトムント駅、そしてイギリスのロンドン駅などと結ぶ路線のターミナル駅になっています。午前1030分発のアムステルダム行き列車に乗って約6時間の長旅です。昼食は列車内でボックス・ランチ(折詰弁当)を食べました。下の写真はパリ・ノルド駅のプラットフォームで発車間際に現地ガイドさんと旅行仲間を撮影したものです。日本とは異なりプラットフォームが低いため、列車の出入り口には乗客用のステップ付いています。

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アムステルダム中央駅には午後421分に到着し、宿泊するアムステルダム・ヒルトン・ホテルにチェック・イン。下の写真は1998年11月に撮影したアムステルダム中央駅です。

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アムステルダム中央駅(1998年11月撮影)の夜景です。東京駅(1914年/大正3年開業)がアムステルダム中央駅(1889年/明治22年開業)と似ていることから真似たとする説があるようですが、建築様式がビクトリアン様式とネオゴシック様式と異なるため、「パクリ説」は誤りなのだそうです。ちなみに、両駅は2006年に姉妹駅になったそうです。

8日目はアムステルダム市内観光です。ちなみに、地名のアムステルダムはアムステル(川港)に築かれたダム(堤防)を意味するようです。海抜が低い地域に町を造るために堤防が築かれたです。アムステル川に架かる有名な「アヘレの跳ね橋」(1671年建造)を撮影しました。1994年まで手動で開閉していたそうです。

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昼食をホテルで採った後、ルフトハンザのLH087便でドイツのフランクフルト(正式名:フランクフルト・アム・マイン)へ移動。マインツのマインツ・ヒルトン・ホテルにチェック・イン。ちなみに、地名のフランクフルトは「ゲルマン人(フランク人)が川を渡った場所」を、アム・マインは「マイン川沿いの」(他の場所と区別するための修飾語)を意味します。注釈:マイン川はライン川の支流

フランクフルト市内の聖バルトロメウス大聖堂(1998年11月撮影)

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9日目はフランクフルトの南約70㎞にあるネッカー川(ライン川の支流)沿いのハイデルベルク観光です。写真はハイデルベルク城のテラスから展望したハイデルベルク旧市街地とネッカー川に架かるカールテオドール橋(1786年建造)を撮影したものです。この小さな町は2006年7月にも訪れています。

Heidelberg

レストランで夕食を採った後、午後855分発のルフトハンザLH242便でスイスのジュネーブへ移動。約1時間のフライトです。宿泊したのはホテル・メトロポール・ジュネーブ。1854年に建てられた豪華なホテルで、レマン湖の大噴水に近い場所です。

10日目は専用バスに乗り国境を超えてフランスのシャモニー・モン・ブラン登山観光へ向かいました。

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Mont_blanc

11日目はジュネーブから急行列車に乗ってイタリアのミラノへ向かいました。昼食は車内でボックス・ランチを食べました。保養地のコモ湖脇を通過して午後430分にミラノ駅に到着。列車を乗り換えてフィレンツェ駅に午後918分に到着。宿泊はフローレンスのグランド・ホテル・ミネルバ

12日目はフィレンツェの市内観光。ドゥオモミケランジェロ広場などを訪れました。午後は専用バスでローマへ移動。4時間半の長距離ドライブです。宿泊したホテルはバチカン市国の東側、グラッキ(Gracchi)通りにある「グランド・ホテル・レオナルド・ダ・ピンチ」(現状は不明)。

13日目はローマ市内観光。バチカン市国フォロ・ロマーノパンテオンカラカラ大浴場跡コロッセオなどを一日かけて巡りました。昼食はレストランで日本料理。夜には別のレストランで最後の夕食を楽しみました。ちなみに、ローマの観光スポットをまとめた「ローマとっておき地図」でそれらの位置関係を確認することができます。ほぼ4㎞四方のエリアに入っていますから、時間はかかるものの徒歩または自転車で回ることも容易でしょう。

写真はローマ市内にあるバチカン市国のサン・ピエトロ広場に集まっていた観光客用馬車。1929年に建国した面積が世界最小の独立国家(0.44平方キロメートルで東京ディズニーランドより少し狭い国で人口は約800人とこれまた世界最小。なお、ローマ市との入出国は自由です。

Vatican1

2006年12月に投稿した当ブログ記事「イルミネーション(神の啓示)」に掲載した写真を再掲します。ミケランジェロがデザインしたスイス傭兵(ようへい)の制服と宮殿の内部です。

Vatican2
Vatican3

昔話です。バチカン市国は世界各国向けに宗教放送を流していますが、日本向け(日本語)の短波放送を1959年2001年からまで40年以上も行っていました。受信状態は良くなかったのですが、ベリカード(受信証)をもらったことがあります。

バチカン市国から東方向、テベレ川を渡ったローマの中心部にある「スペイン広場」を経て少し南下した「ポーリ宮殿」の前(南側)に広がる「トレビ(トレヴィ)の泉」にコインを投げ入れました。しかし、45年を経た現在までローマを再訪する機会に恵まれませんでした。ですが、オードリー・ヘプバーンが主演した古い映画「ローマの休日」(1953年公開)が3月2日にWOWOWで放送されましたので、オードリーが演じるアン王女が「スペイン広場」(丘の上にあるトリニタ・デイ・モンテイ教会へつながるスペイン階段)に腰かけてジェラートを食べるシーンを久しぶりに観ることができました。(注釈:次回のブログ記事内で紹介する予定) これも「トレビの泉」のご利益でしょうか? なお、4月3日午前9時から再放送されます・

Trevi

14日目の午前中は自由行動。荷物の整理などで過ごしました。「アリベデルチ・ローマ」(Arrivederci Roma/また会いましょう ローマ、1955年のイタリアン・ポップス系カンツォーネ)を口ずさみながら、ホテルから約30㎞離れたフィウミチーノ空港(1960年ころ開港、現在はレオナルド・ダヴィンチ国際空港とも呼ばれる)へ向かい、午後215分発のJL464便(南回りのルート)で帰路に着きました。

途中、ギリシャのアテネ空港に着陸。次いで着陸したレバノンのベイルート空港では多くの日本人家族が乗り込んできました。レバノン内戦(1975-1990年)から逃れる人達で機内は満席状態に。ベイルートは昨年末に元日産会長のゴーン氏が日本を不法出国して現在滞在(潜伏)している場所です。インドのデリー(インディラ・ガンジー)国際空港とタイ・バンコクのドンムアン空港(注釈:現在は2006年に開港したスワンナプーム国際空港が主空港)にも着陸。気が遠くなるほど長いフライト(ほぼ25時間)の後、15日目の午後1025分に羽田空港に到着することができました。(終)

2020年3月14日 (土)

45年前のヨーロッパ旅行(中編)

3日目の夕方、専用車でコペンハーゲン空港へ向かいました。同空港を出発して2時間弱、午後810分にロンドンのヒースロー空港へ到着。夕食は機内で済ませています。宿泊するブリタニア・ホテルにチェックインしました。ロンドンの中心部ピカデリーサーカス、つまりハイドパークの近くにありました。

4日目はホテルで朝食を採った後、ロンドンの市内観光へ出かけました。定番の観光スポットを半日で回りました。テムズ川岸(イースト・エンド)に築かれた中世の城塞(11世紀末に建設、後に王宮として使われた)であるロンドン塔、イングランド国教会のウエストミンスター寺院(11世紀の建設、英国国王の戴冠式が行われている)、現在の王宮であるバッキンガム宮殿(18世紀初頭に建設された建物を19世紀に現在の形に大改築、1837年から王室の公式宮殿)、ウエストミンスター区(ウエスト・エンド)にあるピカデリーサーカス(1819年に建設された道路の接続点にある円形の空き地、現在は道路の数が増えたため円形ではない)、シティ・オブ・ロンドン(ロンドン中心部)にあるセントポール寺院(別名:聖パウロ大聖堂、17世紀のロンドン大火で焼失したが18世紀に再建)などです。次の写真はバッキンガム(Buckingham Palce)で行われる衛兵の交代式を遠くから撮影したもの。

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トラファルガー広場のにあるホレーショ・ネルソン提督の記念碑であるネルソン記念柱(2000年撮影)

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午後は自由行動で、グループ旅行で知り合った男性と午前中に訪れた「ピカデリーサーカス」を散策しました。高級店が並ぶリージェント・ストリートやボンド・ストリートなどいくつかの通りがありますが、中でも人気を集めているのがカーナビー・ストリートです。1960年代には流行の最先端として注目されていたエリア。

行き当たりばったりに歩いたため、詳細は覚えていませんが、その男性に先導される形でリージェント・ストリートにある何軒かのブランドショップを覗(のぞ)きました。その男性はバーバリーの店でかなり高価なコートを購入しました。私は同居者にブランドのスカーフを買いました。そして、ブリタニア・ホテルに戻ってレストランで夕食を採りました。

5日目は午前10時発のフライトでパリへ向かい、午前11時に到着。レストランにて日本料理を食べました。洋食に飽きるタイミングに旅行会社が設定したようです。午後はパリ観光の定番として「ノートルダム寺院」、「コンコルド広場」、「シャンゼリゼ通り」などを見て回りました。夕食はチェックインした「ホテル・コンコルド・ラ・ファイエット」(現在のハイアット・リージェンシー・パリス・エトワール)のレストランで夕食を食べました。33階建ての高層ホテルの自室から「エッフェル塔」が正面(南南東方向約2.5㎞)に、左手前(南東方向約1㎞)には「凱旋門(がいせんもん)」や「シャンゼリゼ大通り」を展望することができました。

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大型展示会場のシャイヨー宮(ベストビューポイント)から望むエッフェル塔

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ノートルダム寺院のステンドグラス

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6日目は1日中、自由行動です。正にお上りさんですが、フランスでも定番の観光スポットである「ベルサイユ宮殿」へ出掛けることにしました。パリの南西約20kmの田園地帯にある広大な敷地内に建つ豪華なバロック様式の建物とその内部の装飾が黄金に輝いていて印象的でした。また、幾何学的に造られた庭園はヨーロッパを象徴しているように感じられました。映画「去年マリエンバードで」(1961年)に登場した宮殿と庭園シーンを思い出させたことを覚えています。

夜はモンマルトルにあるキャバレーの「ムーラン・ルージュ」(注釈:フランス語で赤い風車を意味する)です。建物の上に聳える風車は真っ赤に塗られていました。そして料金は、夕食付きですが、230フランと高価。歌やダンス、フレンチカンカン(ラインダンスの一種)、大道芸を組み合わせたショーを楽しみました。(続く)

2020年3月13日 (金)

45年前のヨーロッパ旅行(前編)

今日、アメリカのトランプ大統領は311日(日本時間では312日)に行われた国民向け緊急テレビ演説で 『イギリスを除くヨーロッパのすべての国からのアメリカ入国を313日の真夜中から30日間停止する』 と発表しました。イタリアでは新型コロナウイルス感染者が12000人を超えて、中国の約8万人に次ぐ感染国となり、全土で人の移動が禁止されました。そして、ドイツやフランスなどのヨーロッパ諸国でも感染者が1000人以上に増加していることを重視した大胆な決断です。また、アメリカ国内での感染者が急増して、日本の感染者数を大きく上回ったことと、アメリカ株の大暴落に危機感、つまり大統領選挙への悪影響を懸念した結果といえるでしょう。

また、感染者が最初に拡大した東アジアだけではなく、欧米の航空会社も大幅に減便(1050%)することを310日ころから相次いで発表しています。新型コロナウイルスについて慎重な判断を押し通してきたWHO(世界保険機構)はついに「パンデミック」(疫病の世界的大流行)であることの見解を311日に示しました。つまり、1か月前には考えられなかったことですが、人の移動が全世界で制限されるという状況が現実になったのです。

一昨年の秋に気管支喘息を発症して昨年8月に重篤な発作を起こした私は以来海外旅行を自粛していますから、この大きな環境変化の影響を受けませんが、旅行好きにとっては残念であることに変わりありません。また、国内旅行も当分の間はお預けで、ピアノ教室についてももう暫(しばら)く休講が続きます。

そこで、当ブログに海外旅行の思い出話を投稿することにしました。最近は旅行先での見聞を必要以上(?)に詳しく書いていますが、ブログを始めた15年前には簡単な内容と数少ない写真を掲載するだけでした。微(かす)かに残る古い記憶を思い出しながら、改めて旅行記を書いてみようと思ったのです。

                        ☆

その最初に取り上げるのは私にとって初めての海外旅行である「45前年のロッパ旅行」(197510月)です。

当ブログの記事「どうして自分だけは?」で書きましたが、このヨーロッパ旅行は私の我がままで実現したものです。しかも、生まれたばかりの子供とその母親を残して一人でグループ旅行(パック旅行)に参加したのです。

旅行先としてアメリカも考えましたが、多様な文化と長い歴史があるヨーロッパに惹(ひ)かれたのです。初めての海外旅行ですから欲張って7か国を駆け足で巡るプラン(ジャルパック JOY ヨーロッパ15日間)を選びました。一流のホテルに宿泊するため、その費用は当時の私の年収レベルだったと思います。

出国する羽田空港まで家族が見送りに来てくれました。憧(あこが)れていたジャンボ旅客機(ボーイング747、機種の詳細は失念)は巨大で、新婚旅行で九州へ訪れた時に利用した中型旅客機とはまったく異なる迫力に驚かされました。午後1030分に羽田空港を出発したJL405便は北回り空路で最初の目的地であるデンマークのコペンハーゲンへ向かいました。途中、アメリカ・アラスカ州のアンカレッジ空港に給油のため立ち寄ったことは昨年の北欧旅行の記事に書いています。なお、掲載する写真はパソコンの”HDD"が”クラッシュしたことで旅行中に撮影した写真をほとんど失ってしまったため、専門業者に依頼して再現できた一部の写真、および後年に撮影した写真が混在することをご承知おきください。

Anchorage

コペンハーゲン空港に到着したのは午前650分、羽田空港を出発して15時間20分が経過していました。同空港の広大な敷地に驚きながら、空港から約8㎞と至近のダウンダウンにある「ホテルスカンジナビア」(現在のラディソン・ブル・スカンジナビア・ホテル)へ向かい、チェックイン。自室に落ち着いた後、朝食がレストランに用意されていました。午前中は自室で休憩し、再びホテル内のレストランで昼食を採りました。慣れないことでしたが何とか対応することができたようです。

当時の状況に触れます。ヨーロッパでは第二次世界大戦後に始まった国家の統合が進み、フランス・西ドイツ・イタリア・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクの6か国で構成していた欧州諸共同体(EC)にイギリス・アイルランド・デンマークが参加しました。欧州諸共同体においては経済だけではなく人の移動も自由なのです。これがさらに発展して現在に欧州連合(EU)になりました。27か国(人口約4.5億人、20201月に英国が離脱)が参加する政治経済同盟です。欧州諸国を駆け足で訪れる旅行が便利になったのです。

午後はコペンハーゲンの市内観光です。専用バスに乗って「クリスチャンスボー城」と「人魚姫の像」などを見て周りました。「クリスチャンスボー(クリスチャンスヴォルク)城」はスロッツホルメン島(コペンハーゲンの中心部)に位置する城で、一般公開されている 18 世紀建造の政府の建物で、王室や政府の迎賓館としても使用されているそうです。一昨年には近く(約1.5㎞北東、シュドハウネン運河沿い)のアマリエンボー宮殿に立ち寄ったため訪れていませんが、最大の観光スポットである「人魚姫の像」には再訪しました。

翌日の午前中は市中心部から40kmほど北方のヘルシンゴー(Helsingor)にある「クロンボルク(クロンボー)城」(Kronborg Slot)へ向かいました。

Helsingor

この「クロンボルク城」は15世紀にヘルシンゴーの岬に築かれた砦跡に16世紀になって王宮として増改築された古い城ですが、それほど魅力的とは言えません。観光地として有名である理由はシェイクピアがこの城を舞台に戯曲「ハムレット」を書いたことによります。ちなみに、シェイクスピアの四大悲劇の一つで、正式題名は「デンマークの王子ハムレットの悲劇」(The Tragedy of Hamlet, Prince of Denmark)です。海岸に面して建つこの「クロンボルク城」からは約7㎞離れたスゥエーデンのヘルシンボリを望むことができたことを覚えています。

夕刻(午後625分)発のフライトでロンドンへ向かいました。(続く)

2020年3月11日 (水)

ソリッドステートの歴史を振り返る(後編)

ここでコンピュータに使われた記憶装置(メモリ)の歴史を振り返ってみます。コンピュータの黎明期(れいめいき)である1955年から1975年ころまで、大型コンピュータの主記憶装置には主に磁気コア・メモリ(小さなドーナツ状のフェライト・コア、容量:4K64K)が使われていました。コアを磁化させることで情報を記憶させる素子の集合体です。不揮発性(ふきはつせい、意味は後述)ですが、読み出すと情報が消えるため、データを書き戻す必要がありました。

発明者はワング・ラボラトリーズ(1951年設立)の共同創立者である中国系アメリカ人のアン・ワング(Wang An/王安)博士。その特許をIBM社に売却してコンピュータ会社を立ち上げ、1980年代には従業員3万人、売上高30億ドルの大企業へと発展させました。ワープロ(Wordprocessor)で大成功しましたが、その後の経営戦略が失敗したことにより、1992年に倒産、イタリアのオリベッティ社に買収されて、コンピュータ業界で輝いた40年あまりの同社の歴史を閉じました。

20年後(1970年代)には磁気コア・メモリに代わって半導体メモリの"RAM"が主記憶装置の主流になり、集積度の高い”DRAM"(ダイナミックRAM)と応答速度が速い"SRAM"(スタティックRAM)をキャッシュメモリとして組み合わせる形で"CPU"(中央処理装置)の処理速度とバランスを取る形で現在に至っています。

補助記憶装置には紙媒体の鑽孔(さんこう)テープとパンチカード、オープンリール式の磁気テープが、そして1971年にIBM社が開発した8インチのフロッピー・ディスクが使われました。私の学生時代は機械語(コンピュータのプロセサーがそのまま理解できるプログラミング言語)のプログラムとデータが入ったパンチカードを、開発技術者になってからは"Fortran"(フォートラン、IBM社が開発した高水準言語)のプログラムとデータを入力したパンチカードを使ったバッチ(一括)処理またはTSS(時分割サービス)で設計データを検証していました。注釈:鑽孔テープはテレックス用に開発された記憶媒体、パンチカードは統計機用穿孔(せんこう)カード、フロッピーとは「柔らかい」ことを意味する(ハードディスクに対比した表現)

商用ハードディスクドライブ(HDD)の始まりは、1956年に出荷されたIBMのディスク記憶装置からとされています。巨大な装置であったため、コンピュータ室やデータセンターで使われました。1980年に"Seagate Technology" 社が5インチの小型 "HDD" を発売し、1981年にはIBM社からパーソナル・コンピュータ”"IBM Personal Computer"が市販されたことで、一気に"HDD"が普及しました。

いつまで訳の分からないことを書いているのかと思われた方が多いと思います。遅ればせながら本稿の主題である「ソリッドステート」の核心に移りましょう。今振り返ると"HDD"は私がアメリカで出会った"MacIntosh SE""MacIntosh  IIsi"でも使われていましたが、最近、パソコンの補助メモリー(パソコン内蔵の大容量メモリー)の代名詞であった“HDD"(ハードディスク・ドライブ)が"SSD"(ソリッドステート・ドライブ)に置き換えられ始めました。ちなみに、”SSD”と同じフラッシュメモリを使った小容量外付けメモリの「USBメモリ」は20年ほど前に製品化され、現在はフロッピー・ディスクに代わって広く使われています。

一方、“iPhone”などのスマホには"RAM""ROM"が搭載されています。前者は読み書き可能な揮発性メモリで、後者は読み出し専用(読み書き機能を持つものも有り)の不揮発性メモリです。 "SSD" よりもさらに消費電力が少ない利点からこれらのメモリが使われているのですが、スマホの利用者はこれらメモリの違いを意識する必要はありません。

"HDD"と互換性があり応答速度が速い"SSD"は、主にコストの理由でパソコンの主記憶装置(キャッシュとレジスターなど)以外の補助記憶装置に広く採用されることはありませんでしたが、比較的小容量(1GB以下)のメモリでは"HDD"との価格差がこの数年で小さくなり、応答速度を重視する機種に搭載されつつあるようです。また、外付け用の”SSD”も市販されるようになりました。つまり、30年の時間を経てやっとパソコン用の大容量メモリ技術が大きく変わりつつあるのです。注釈: "drive" (ドライブ)は「運転する」や「駆動する」を意味するが、この場合は「駆動装置」を指す

"SSD"に使われている技術(NAND型フラッシュメモリ、不揮発性メモリ)に類似する”RAM"、具体的には"SRAM"(不揮発性メモリ)と"DRAM"(揮発性メモリ)は上述したようにかなり前から大型コンピュータのメモリとして使用されていましたが、パソコンにおいては主にコストの理由でメインメモリー(キャッシュとレジスターなど)以外には広く採用されることはありませんでした。

しかし、製造技術の進歩(量産化)によってパソコンのように比較的小容量(1GB以下)のメモリでは"HDD"との価格差がかなり小さくなったことで、最近は応答速度の速さを重視する機種に搭載されつつあるようです。また、外付け"HDD"と置き換え可能な外付け用"SSD"も市販されるようになりました。注釈:不揮発性メモリとは電源を切っても記憶内容を保存できるメモリ、揮発性メモリは電源を切ると記憶内容が失われるメモリ

「何だ!」と言われそうな記事になりましたが、「企業」や「世代」だけではなく、「技術」の分野においても30年前後で大きな変換点を迎えることが多いことを実感した私は、"SSD"がパソコンに採用され始めた背景とその理由を書きたくなったのです。書き忘れていました!! エジソンがおよそ140年前の1879年に実用化した白熱電球(真空管の一種)は、1930年代の後半に実用化された蛍光灯(これも真空管の仲間)を経て、「ソリッドステート」である"LED"(発光ダイオード)に移行しつつあります。これは60年~90年と長い(遅い)ペースで進化した例です。

最後に蛇足です。上記したように"SSD"はまだ容量単価が"HDD"に比べて割高である一方、書き込み・読み出し時間が短く(応答速度が速い)、しかも寿命が長い("HDD"2‐3年に対して"SDD"5年と言われる)特長があります。しかし、万一故障した場合には"HDD"のように記録内容を救出することができませんから、容量の大きな外付け"HDD"でバックアップすると良いでしょう。私が以前から実行していることですが、使用頻度が低いデータ(ファイル)をパソコン内蔵の補助記憶装置("SDD"または "HDD")から一時的に削除(退避)すれば補助記憶装置の容量不足をカバーすることもできます。◇

2020年3月10日 (火)

ソリッドステートの歴史を振り返る(前編)

今回は「専門的な技術分野」(オタク領域?)をテーマに取り上げました。日常では聴き慣れないと思われる英語の成句(フレーズ) "solid state" がテーマです。日本語でもそのまま「ソリッドステート」(注釈:英語ではソリッドゥ ステイトゥと発音)と言いますが、直訳すると「固体の状態」となります。 "solid" (固体)は物理学の世界では「液体 」(liquid)に対する物質(中まで同質で硬いもの)、また電子工学の分野では「電子回路」の主要部品であった「真空管」に対して新しく登場した「半導体素子」(トランジスタやダイオードなど)を指す言葉です。また、"state" は「状態」「威厳」「国または州」」と多様な意味があります。なお、本稿は主に電子工学における "solid state" について解説することにします。

"solid state"(ソリッドステート)が注目されるようになったのは"diode"(ダイオード)に加えて "transistor" (トランジスタ)が発明された70年ほど前のことです。これらが何であるかを簡単に説明しましょう。ダイオードは「2つ」を意味するギリシャ語の"di"と電極を意味する英語"electrode"の後半部を組み合わせた造語であり、具体的には整流作用を持つ電子素子(2極真空管と半導体ダイオード)を指します。ここで言う整流作用とは一方向にのみ電気を流す機能を意味し、主に交流を直流に変換するために必要な機能なのです。

半導体ダイオード(点接触型)は、1900年代初頭、つまり真空管とほぼ同時期に考案されましたが、真空管よりも信頼度が劣っていたためラジオやテレビに使われることはほとんどなく、主として「2極真空管」が整流機能を担っていました。つまり、昔のラジオやテレビにおいては、「2極真空管」は電源回路に不可欠な存在であり、100ボルトまたは110ボルトの家庭用交流電流を直流に変えてラジオやテレビの様々な機能を持つ電子回路に供給する縁の下の力持ちででした。注釈:真空管(vacuum tube/radio valve)は名前通りに内部を真空にしたガラス管内に電極と呼ばれるエレメント(構成要素)を封入したもので、電子管とも呼ばれる

加えて、真空管は増幅など様々な機能を実現できる「3極真空管」や「多極真空管」が次々と実用化されたことで、電子回路に不可欠な存在になりました。しかし、原理的(構造的)に小型化することが困難であり、電力消費量が大きい欠点がありました。その真空管と同等あるいはより優れたものになる可能性を秘めるた改良版(信頼度が高い接合型)の半導体ダイオードが開発され、「3極真空管」と同等の機能(増幅やスイッチング)を持つ半導体素子である "transistor" (トランジスタ、trans-resister/可変制御抵抗器に由来する造語とされる)が発明されるのです。

トランジスタの原理が様々な科学者によって確かめられる中、1940年代後半にアメリカのベル研究所でトランジスタの実用化につながる点接触技術が発明されました。(注釈:この研究開発によってショックレー博士を含む3名に1956年のノーベル物理学賞が授与された) そして、1950年代にはシリコンを使った接合型で実用的なトランジスタが米テキサス・インスツルメント(TI)社によって開発され、真空管に代わる電子素子として一気に普及することになります。

ほぼ同時期(1955年頃)、日本のソニー(当時の社名は東京通信工業)がトランジスタ(半導体素子)の製造とそれを使ったポータブル・ラジオの開発に成功し、先行する米企業(TI社など)に伍(ご)してアメリカ市場参入に成功しました。そして、内外の大手メーカーも競ってラジオとテレビの電子回路にトランジスタなどの半導体素子を採用しました。私が「ソリッドステート」の言葉を初めて耳にしたのは1960年代の前半、ステレオ用のアンプ(増幅器)にそれまでの真空管に代わってハイパワー(高出力)トランジスタが採用され始めたころです。「ソリッドステート」には近未来的な響きがありました。そして、その音もやや硬め(クール)だったと思います。

私の趣味の一つある「アマチュア無線」において当時は真空管を使用した自作無線機が全盛でしたが、「ソリッドステート化」はメーカー製の無線機がアマチュア無線家向けにも普及したことで、短期間で大きな潮流になりました。また、シャープが世界初のオールトランジスタ/ダイオードの電子式卓上計算機(電卓)を発売したのもこの頃です。当時技術者たちはトランジスタ(半導体素子)を数える単位として「石(せき)」を使っていました。つまり、機械式腕時計の軸受けに使われた人工のルビーやサファイアの数え方に倣(なら)って、使用したトランジスタの数で製品を表現。例えば5個のトランジスタを組み込んだラジオは「5石(せき)トランジスタ・ラジオ」と言う具合です。半世紀以上前の古い話ですが・・。

そして、あっと言う間に半世紀が経過し、ラジオとテレビにはほぼ例外なくトランジスタ(あるいはその発展形であるIC)が使われるようになり、真空管は超マニアや懐古趣味を持つ一部の人たちに珍重される存在になりました。

話は少し変わります。今から30数年前、新しいブームが起こりました。パソコンの登場です。パソコンは誕生した時から「ソリッドステート」でした。トランジスタが発明されて約10年後の1950年代末にTI社やフェアチャイルド・セミコンダクター社などによって実用化されたICIntegrated Circuit/集積回路、トランジスタを多数組み込んだ素子)が使われて、終戦直後に実用化された真空管式の大型コンピュータ"ENIAC"の性能をはるかに凌駕(りょうが)するパソコン(個人用コンピュータを意味するパーソナル・コンピュータの和製略語)が個人でも手が届く価格で買えるようになったのです。

以前のブログ記事に書きましたが、私と本格的なパソコンとの出会いは1980年代末、IBMとは路線が異なるアップルの第二世代パソコン "MacIntosh"  (マッキントッシュ)です。具体的には当時勤務していたアメリカの会社内の個室に置かれたモノクロ画面の "MacIntosh SE" でした。その魅力に取り憑(つ)かれた私は自宅用にカラーディスプレイが付いた "MacIntosh II si" を購入。フライトシミュレーターやピアノの自動演奏など、かなり贅沢(ぜいたく)な趣味になりましたが・・。(続く)

2020年3月 8日 (日)

巣篭もり(ネスティング)生活が続く!

2月中旬に名古屋日本橋へ出かけて以来、遠出はもちろんのこと、外出(外食)を極力控えています。毎週、楽しんでいたカラオケも自粛して、晩酌用の飲み物を買うために近くのコンビニへ出かけるだけになったのです。例外的には、修理を依頼したパソコンを量販店へ取りに行く、あるいはティシュペーパーとトイレットペーパーが買えないと零(こぼ)す同居者に代わり、目星を付けたスーパー・マーケットで見事に入手して、同居者に感謝されたことがあるくらいなのです。ただし、「小人閑居(しょうじんかんきょ)して不善(ふぜん)をなす」の諺(ことわざ)通りにならないよう自戒(じかい)しています。

その自宅では、このところ"WOWOW"などで撮(と)り溜(だ)めた映画「グリーン・ブック」「バイス」「ウィンストン・チャーチル」などや地デジの経済番組をタイムシフトで観る以外、レコード・CD・ラジオ番組を聴きながらブログ記事を書いています。このため、ブログ記事のテーマ(話題)がこれまでとは様変わりしたようです。タネが尽きるまではこの状態が続くことになりそうです。ただし、寒さを理由にサボっていたウォーキングを再開しました。運動不足を補うためです。以前より人通りが減っていますからリスクは高くないでしょう。それに気温も例年より高めですから苦にはなりません。今年は桜の開花予想が10日ほど早まって1週間後に迫っているのです。

住宅地内を一周するするウォーキング・ルート沿いでは、椿・梅・桃に加えて木蓮の蕾(つぼみ)が開花し、早咲きの桜が咲き始めています。そして、町内の公園からは休校中の子供たちの歓声が聞こえてきます。何事も無いかのような穏やかな風景です。ちなみに、ウォーキングを長続きさせようと、一時期の1万歩の半分である5000歩ほどのコースを選んでいます。

話は跳びますが、2週間前(223日)にアメリカへ出張したチビスケくんとチビエちゃんのお父さんは、成田空港を経由してマレーシアにも出向いたあと、36日に無事に帰国しました。13日間でザッと35,000km、つまり地球一周に近い距離を移動したことになります。ちなみに、両国では入出国のトラブルがなく、しかも、いずれのフライトも機内が空(す)いていたそうです。以前から時々海外出張をしていましたが、最近はそのペースが高まったようで、海外出張に明け暮れた私の現役時代(関連記事:「想出に残る海外の旅行先」と「懐かしい海外の想い出」と段々似てきたなと思います。

閑話休題。今週も新型コロナウイルス問題に動きがありました。先週の小中高校の一斉休校に続いて、水際作戦の第二弾として、中国と韓国からの入国者に2週間の待機期間を設ける(ただし、特定地域に滞在した人は入国拒否)ことと、来週(9日)から香港・マカオ・韓国を対象にしたビザ免除を停止することが政府から発表されました。この対応に中国は理解を示しましたが、韓国は反発し対抗策としてピザ免除を9日から停止すると発表しました。4月に総選挙を控えている韓国では国民へ政府の強硬姿勢をアピールする目的があると思われます。ちなみに、韓国からの入国制限を行っているのは102か国(そのうち入国禁止は40か国以上)に上っています。

しかし、意外なことに、韓国は日本と同様の対応策を採っている中国やオーストラリアなどに対しては対抗措置を実施していません。手強(ごわ)い相手と見たのでしょうか。これは日本にとって「対岸の火事」ではなく「隣の火事」と考えるべきでしょう。「高みの見物」などと悠長(ゆうちょう)なことを言っていられません。実は、日本政府もつい最近まで中国に対して韓国と同じ態度を取っていた節があるからなのです。

そして、来週にはアメリカ政府(トランプ大統領)は新型コロナウイルスの感染が拡大している中国などに対して入国制限を発表すると予想されます。最大の感染地である中国(8万人強)、それに次ぐ感染地である韓国(7000人強)・イラン(約4800人)・イタリア(約4600人)、そして全国的な感染が広がる日本(420人、横浜港に寄港したクルーズ船では704人の感染を確認)も対象国になる可能性が取り沙汰(ざた)されています。トランプ大統領の発言を踏まえたものですが、そのアメリカ(カリフォルニア州)に寄港しようとしたクルーズ船(横浜港に寄港したクルーズ船と同じ会社が運行)でも新型コロナウイルスの感染者21人が確認されたため、寄港させず沖合に停泊したまま感染の検査が行われています。

横浜港に寄港したクルーズ船について日本政府の対応をアメリカのメディアは痛烈に批判しましたが、アメリカの政府は横浜港に寄港したクルーズ船と同じ対応を後追いで採っているのです。また、アメリカ国内では感染者が約330人(3月5日現在)に増加して死者が17人も出ています。この状態でトランプ大統領はどのような決断を下すのかが注目されます。

2020年3月 6日 (金)

LenovoのキャンペーンでV-preca(10,000円)を獲得!

パソコンなどのIT製品で知られるレノボ(Lenovo)ジャパンのキャンペーンが20191029日から1231日まで開催されました。このタイミングを狙ったわけではありませんが、パソコンを購入する時のインセンティブ(誘因)になりました。上位機種は1台当たり10,000円、下位機種は1台当たり5,000円相当のV-precaポイントが貰えるキャッシュバック・サービスです。ちなみに、V-preca(Vプリカ)とはネット専用のVisaプリペイドカードです。

購入直後に必要事項氏名、E-Mailアドレス、電話番号など)をキャンペーンサイト(WEB)で入力し、購入日がわかる書類レシートと領収書)のコピーを添付すると、「Vプリカギフト(コードタイプ)」の情報が1か月ほどで登録したE-メールアドレスに送られてくるのです。12月の中旬に上記のプロセスにしたがって申請しましたが、3月に入っても一向に連絡がありません。キャンペーンの締め切りが2020320日に迫っています。

そこでキャンペーン事務局へ電話をすると、丁寧(ていねい)に対応してくれて、『1月中旬にE-メールを指定アドレスへ送付しています』 とのこと。2月上旬に新しいパソコンが故障したため、その修理中はバックアップ用の古いパソコンを使っていたため、受信メールの管理が少し混乱し、迷惑メールと取り違えて消去してしまったようです。不要あるいは迷惑メールを適宜削除する習慣がある私の不手際でしょう。修理から戻ってきた新しいパソコンの過去のメール(1月受信分の1000通近く)を慎重に確認すると、1月下旬に着信していた関連メールを発見しました。

ここからはV-precaのカード情報を有効化する設定が必要です。「Vプリカギフトサイト」にアクセスして、E-メールで受け取った「認証番号」と「カード番号の下4桁」を入力するだけです。認証されるとクレジットカードに似たデザインのV-precaカード画面上に「カード番号」「有効期限(20211月)」「セキュリティコード」「現在残高(10,000円)」などが表示されました。これでV-precaカードが有効化されたのです。このカード情報をネットショッピングの会計時に使用することで買い物ができます。しかも、Visaのプリペイドカードですから、Lenovo製品に限らず、あらゆる商品を購入することができます。

早速、アマゾンのサイトにアクセスして、近いうちに購入しようと心積りしていた小物類を何点か申し込みました。各々の金額は2,000円以上でしたから、もちろん送料は無料です。今回の残高はすべてAmazonギフト券(15 円以上で購入可能、チャージタイプ)に変換しました。こうしておけばV-precaカードの有効期限を意識する必要はありませんし、次回ショッピングの支払い時に自動的に充当されますから使い忘れる心配はいりません。

参考情報です。世界最大の中国パソコンメーカーであるレノボ・グループは201910 -12月期の売上台数は1783万台と過去最高を更新(売上高は141300万ドルと微増)して、世界シェアが24.8%と米HP社を凌駕(りょうが)して1位(日経新聞220日)になったそうです。◇

2020年3月 4日 (水)

NHKスペシャル「食の起源(第5集/最終回) ~人類の果てなき欲望!?~」を観る

10日ほど前のことになりますが、NHK総合テレビで223日に放送された番組「食の起源 第5集 美食」を観ましたので、その概要を紹介します。当ブログでは同番組の『第3集「脂」 発見!人類を救う"命のアブラ"』 を紹介しています。

番組の冒頭、人類が"美食モンスター"になった理由は人類だけが手に入れた3つの特殊能力が関係しているとしました。その1つ目は「苦味」を感じる味覚力であるといいます。つまり、人間の遺伝子にその能力が組み込まれているというのです。苦味遺伝子は人類と同じ祖先を持つ猿も備えているものがいることを実験で確認しました。植物が無闇に食べられないように苦味成分を作り出しましたが、およそ6万年前に寒冷化により食料危機が発生し、人類は生きるために苦味のある植物でさえ食べるようになります。その経験を通じて苦味のある植物が身体に良いとの記憶が脳に刻み込まれたのです。「苦味」(高度な味覚)を「美食の妙薬」にしてしまったのです。

2つ目は「嗅覚」です。それには人類の頭の形が変わったことによると言うのです。恐竜時代の2億年前、鼻面の長い夜行性の小動物であった人類の祖先は鋭敏な嗅覚を頼りに生きていました。巨大隕石の落下により恐竜が滅びると人類の祖先は昼行性になり、目を使って活動するようになると、長い鼻は不要となり、鼻と口が一体化して鼻は短くなりました。そして、口で食べた食物の匂いを鼻で感じられるようになったのです。つまり、美味しさを嗅覚で感じるようになったのです。200万年前、人類は火を使って調理するようになると、嗅覚が脳を刺激して美味しさを感じさせるようになったのです。

3つ目は「他者情報」です。苦味が嫌いなチンパンジーと苦にしなチンパンジーを使った実験では明らかな行動差がありましたが、苦いリンゴを与え続けると苦手なチンパンジーも食べるようになりました。仲間が美味しそうに食べる様子を見て食べてみようと思うようになったのです。人類は前頭葉を大きくして仲間との共感能力を強めたのです。共感中枢が刺激されると記憶も書き換えられたのです。皆んなで食べ物の美味しさを共有すること(共感の記憶)に喜びを見出したのです。

最後にこれらの能力を生かして健康と美味しさを両立させようとする取り組みがフィンランドで行われていることを紹介して番組は終わりました。

NHKらしく丁寧に制作された分かりやすい内容に大いに納得。興味深く、かつ有意義な「食の起源」シリーズです。なお、3月28日午後7時30分からBS4Kにて「第5集」(73分特別版)が放送されるようです。


〈参考情報〉 第4集 「酒」〜飲みたくなるのは"進化の宿命"!?〜 (出典:NHKのhp

第4回のテーマは「酒」。適度な飲酒は体に良いかと思いきや、最新研究では『飲酒量が増えるほど死亡リスクが上がる』という衝撃のデータも。確かにアルコールは様々な病気を招き、脳をマヒさせる「毒」でもある。それを知りながら、なぜ人類はこれほど酒を愛飲するようになったのか?謎の真相を探ると、祖先にとって“酒の起源”はなんと『生きるために欠かせない“栄養食”』だったことが判明。それが思わぬ展開で「酔うための酒」へと大転換していったのだ。しかも日本人は超意外な理由で「酒に弱くなる進化」を遂げていた!?お酒に強い人も弱い人もビックリの「酒の知られざる真実」に迫る。

楽しく酔ってストレスを解消するのに愛飲されている「酒」。でもアルコールは、飲み過ぎると命を落としたり、ガンなどの怖い病気を招いたりもする怖いもの。そんな危ういものが、なぜこれほど人間社会に広まったのか?じつは最新研究で、『酒の“究極の起源”は命をつなぐ“栄養食”』だったという意外な事実が見えてきた。それがなぜ酔うための飲み物になったのか?さらに「酒に弱い人」が存在する理由にも、祖先の驚きのドラマがあった!◇

2020年3月 2日 (月)

購入して2か月のパソコンが動かなくなった!

2月8日のことです。昨年12月に中旬に購入して2か月弱が経過したパソコンLenovoIdeaPad L340)が突然動かなくなりました。"Word'を使ってブログ記事を作成していた時、パソコンの電源が突然落ちて、ホームボタンから電源を切った(スリープモードにした)時と同じ状態に陥ったのです。キーボードの電源スイッチを押しても反応がありません。バッテリー切れかとも思いましたが、電源アダプターを接続してあり、直前までバッテリー残量が低下したことを示す表示は出ていませんでした。

初期故障が発生したようです。数年前に購入した固定電話機(ワイヤレス子機付き)が突然動作不良になったのと同種の問題が発生したのです。この時はメーカーのカスタムセンターへ直接電話して、保証期間中でしたから、新品と無償で交換してもらいました。注釈:初期故障とは潜在していた設計ミスや製造工程での欠陥などさまざまな弱点が使用初期に現(あらわ)れるもの

早速、このパソコンを購入した家電量販店へ保証書と共に持ち込みました。修理窓口の担当者は 『何らかの理由で電源が落ちたと思われるが、電源が入っていることを示すパイロットランプ(筐体の左横手前にある超小型LED)が点灯しているので、電源を切断するプロセスの途中で止まっているようです。メーカーによる修理が必要となります』 と説明してくれました。

素人(しろうと)考えですが、電源スイッチの故障あるいは制御用ソフトのハングアップ(突然の動作停止)などが原因かも知れません。修理をして欲しいと申し出ると、PIN番号の開示と修理に当たっての同意書に署名することを求められました。その内容は、

・修理に際してパソコン内のデータが消える可能性があることに同意する

・メーカーの保証期間(購入後1年間)である(原則無料修理となる)ため、顧客へ料金などを確認しないで修理を行う

・修理できない場合は新品と交換する

と言うものです。修理期間について尋ねると2週間程度とのことでした。パソコンと保証書を引き渡し、預かり証を受け取りました。

自宅ではバックアップ用にしている従来のパソコンが活躍することになりました。セキュリティ・ソフトは動いていますが、OS "Windows 7" のままですからリスクがあることはやむを得ません。修理を依頼したパソコンが2週間後に戻ってくるまでトラブルが起きないことを願うばかりです。

2週間近くが経過したある日、家電量販店の修理センターから電話連絡(ナビダイヤル)で 『故障の原因はシステムボードの不具合であることが判明した。データを保護したままで修理するにはOSの設定に使用したパスワードが必要である。窓口に届け出たPIN(個人識別番号:パソコンへログインする時に入力する記号)ではない)』 との連絡がありました。パソコンを立ち上げた時に設定したパスワードの記録は見当たらず、また咄嗟(とっさ)には記憶を鮮明に蘇(よみがえ)らせることができない(曖昧な記憶で誤ったパスワードを伝えると混乱する)ため、初期化(データの消去)を了承することにしました。

と言うのも、ほとんどのデータは外付けHDDにバックアップしてありますから初期化しても困ることはないでしょう。また、初期化すればパソコン内のデータが外部へ流出するリスクが無くなりますから、かえって安心かも知れません。注釈:メインボードはマザーボードあるいはシステムボードとも呼ばれるパソコンの主要部分(大きなプリント基板)

修理が終わるのは2週間どころかずっと先になりそうだと思っていると、その5日後窓口に持ち込んでから17日後)、再び修理センターから電話があり、『パソコンを初期化する作業は有償となるので、SSD(電子記憶装置)の検証だけで良いか? データは消去されない』 との問い合わせがありました。保証期間中の修理作業が有償になる理由は理解できません。そこで 『もし初期化が必須でないならばSSDを検証するだけで良い』 と答えて修理作業を進めてもらうことにしました。新型コロナウイルスの影響で中国から修理用部品の供給が滞(とどこお)っていると漏れ聞いていますから、いつ修理が終わるかは予断を許しません。

それから4日後(229日)に量販店から修理が完了したとの電話連絡がありましたので、さっそく量販店の修理窓口へ出向いてパソコンを受け取りました。修理内容は修理センターから電話で聞いた通り、『システムボードの故障が原因と診断し、システムボードを交換した。作業後、検証用SSDにて電源ON/OFFテスト、各部のテストを行い正常に動作することを確認した。システムボードを交換した場合、”Windows OS”のライセンス認証が必要となる。初めにインターネット接続設定を実施してください』 と報告書に書かれていました。修理センターの説明とは細かい点(ニュアンス)が異なりますが、大人の対応ができる私は無粋な質問を控(ひか)え、店員に礼を述べて量販店から退出することにしました。

パソコンを量販店の修理窓口へ持ち込んでからちょうど3週間が経過していましたが、その間は古いパソコンがフル活動してくれましたから、何ら不自由を感じることはありませんでした。自宅に戻って直ちに修理が終わったパソコンを立ち上げると、”Windows OS"のライセンス認証のため、コード番号を入力してパスワードを更新するように求められました。コード番号を持っていませんから、登録済みのメールアドレスに(本人確認のため)新しいコード番号を送付してもらい、それを使ってパスワードを更新しました。(注釈:古いパスワードの再登録は不可) 念のため”PIN"も再設定。

するとパソコンは正常に立ち上がり、内部にインストールされていたメールやブラウザなどのアプリケーション・ソフトウェアとその関連データにはまったく影響がなく、すべてが故障前の状態で正常に動作してくれました。そして、2日が経過した現在、何事も無かったかのように快適に機能してくれています。購入して2か月足らずのパソコンが突然故障したわが家の小さな事件はちょうど3週間ですべて解決、これにて一件落着です。もちろん、この原稿も修理済みのパソコンで書いて投稿しました。◇

2020年3月 1日 (日)

最近注目する3つの話題

1.コロナウイルス感染

当ブログでは「久しぶりの名古屋行き」と「日本がさらに貧乏になる!?」の記事で触れましたが、今年に入って「新型コロナウイルス」がマスコミにおける話題を独占し、テレビや新聞で連日報道される「新型コロナウイルス」の爆発的な感染拡大が耳目(じもく)を集めています。

「新型コロナウイルス」対策では、当初(1月中旬以降)の「水際作戦」が失敗したにも関わらず、その後も有効な対策を打ち出せず国内でも感染が急速に拡大しました。内外の批判に起死回生を狙った安倍首相は自らが重用する萩生田(はぎうだ)光一文部大臣の反対を押し切って「小中高校の臨時休校」(3月2日から春休みまで)を地方自治体へ要請することを唐突に発表しました。『地域の事情に応じて自治体が判断しても良い』 との補足コメント(萩生田大臣)が付いています。つまり、「小中高校の臨時休校」は各自治体の判断(責任において)で行うようにと対応を丸投げしたのです。止(や)め時もはっきりしていませんが、これは安倍首相にとって「妙案!」と言えるでしょう。

というのは、もし「臨時休校」で感染拡大を抑制する効果が確認されれば安倍首相の「英断」となり、万一効果が無いあるいは逆効果となっても各自治体の対応の所為(せい)にすることができるのです。このためいく人かの県知事や市長が反発していますが、安倍首相は国民の前に顔を出すことなく、「だんまりを決め込む」姿勢です。スキャンダル塗(まみ)れで国民や記者の前に出たくないことと、責任の所在を不透明にして問題をやり過ごそうという日本人的発想によるものでしょう。見方を変えれば安倍首相が瀬戸際(せとぎわ)に追い詰められている状況にあるとも言えます。

海外に目を転じると、中国の習近平(しゅうきんぺい/シー・チンピン)主席や韓国の文在寅(ぶんざいいん/ムン・ジェイン)大統領が前面に出て国の対応策を国民に説明し続けている姿勢と安倍首相の対応は対照的です。また、隣国台湾の蔡英文(さいえいぶん/ツァィ・インウェン)総統は迅速な対応(中国本土からの入国制限・発症情報のネット公開・学校の休校・マスク在庫量の公表と買い占め禁止など)を矢継ぎ早に行って、感染者数を28人 (224日現在)に抑(おさ)えることに成功しているようです。また、アメリカのトランプ大統領は例によって自らの対応を自画自賛(じがじさん)しながら、楽観的な発言に終始していますが・・。


2.5G携帯電話サービス

2題目は昨年発表されて注目された「5G携帯電話サービス」です。今年(2020年)に本格運用が開始される予定ですが、昨今は「新型コロナウイルス問題」に押されて注目度が下がってしまいました。「5G携帯電話サービス」の目玉商品である「5Gスマホ」は国内メーカーの先頭を切ってソニーが224日に同社初となる製品「Xperia 1 II」(エクスペリア・ワン・マークツー)と「Xperia 10 II」(エクスペリア・テン・マークツー)を発表したのに続き、プロ仕様の5Gスマホ「Xperia PRO」の開発を228日に発表しました。ここでは紙面の都合で仕様の紹介を省略しますが、2020年春以降に日本を含む国と地域で発売予定。価格は未発表。

注目されたことは端末自身というよりも新製品の発表方法でした。当初は2月下旬にスペイン・バルセロナで開催される世界最大のモバイル関連展示会「MWC Barcelona 2020 」で大々的にお披露目(おひろめ)される予定でしたが、同展示会が「コロナウイルス問題」で開催中止となったため、通常のマスコミ発表に変更されたようです。この分野でも「コロナウイルス問題」が深刻な影響を与えていることが明らかになりました。

5G携帯電話サービス」の初期段階(5Gネットワークが普及する過程)では大手通信キャリアの5G回線に左右されない企業内における自社仕様の「ローカル5G」が注目されています。少し乱暴な例えですが、インターネットにおけるLAN(ローカルエリア・ネットワーク)の存在と言えるかもしれません。「5G携帯電話サービス」と「ローカル5G」の話題は別の機会に譲りたいと思います。

5Gスマホ」とは直接関係ありませんが、「コロナウイルス問題」は株式市場をも直撃して、米国では7営業日で3500ドル以上(約10%)も下落しました。あの「リーマンショック」(2008年9月)に並ぶ大幅な下落(暴落)は世界経済の先行きに暗雲が垂れ込めていることを予見するものです。日本の株式市場も同様で、日経平均株価は1月中旬の24,000円強から3,000円(12%以上)も下落して228日には一時21,000円を割り込みました。

3.楽天市場

3番目に私が注目したのは「楽天」の通販サイト「楽天市場」が一定額以上の商品の送料を無料とする方針を発表したことです。これに対して一部テナント(出店者)が公正取引委員会へ独占禁止法に違反するとして訴えました。これを受けて公正取引委員会は210日に「楽天」への立ち入り検査を行いましたが、同日「楽天」の三木谷(みきたに)社長は 『公正取引委員会には協力するが、予定通り318日に無料化を実施する』 と宣言。激しい競争を繰り広げている最大手の「アマゾン」に追い付くための荒技であることを三木谷社長は認めるとともに、『法令上の問題はないと考えており、国と争ってでも実施する』 と強気の考えを述べました。

その背景を考察します。盤石に見えた「楽天」の業績は2019年1月~9月(前期)で打り上げが伸びたものの赤字決算に陥り、同10月~12月(第3四半期)でも赤字決算となりました。国内の通販(EC)事業は堅調ですが、海外投資や海外事業展開の失敗や不振、そして本格参入を目指す国内携帯電話(モバイル)事業ではネットワーク設備(基地局)の建設がすでに半年近く遅れたことなどにより赤字幅が拡大しているようです。三木谷社長は、この状況から脱却するため、主力事業の「楽天市場」での収益性をさらに高めようとしていると考えられます。そこで、アマゾンとの競争を理由に挙げたのでしょう。

これらを受けて公正取引委員会は228日に独占禁止法違反の疑いで、緊急停止命令を出すように東京地裁に申し立てました。通常は検査結果がまとまるまで1年以上を要することから、無料化の実施を阻止する異例の手続きを行ったのです。「楽天」の強硬姿勢が裏目に出た可能性が高まりました。

また「楽天」は撤退する出店者に対して出店料の払い戻しなどに応じる方針を既に打ち出していますが、「楽天」の新施策を支持する声は広がっていないようです。もし出店者の撤退が相次げば、競争力が低下し、通販サイトの品ぞろえや価格にマイナスの影響が出る可能性があります。「楽天」は「消費者利益」を前面に出して送料無料化の必要性を訴えていますが、出店者に不利益が生じることは明白である一方、長期的にも消費者の利益につながるとの展望が不明確なままなのです。この問題を早期に解決することが「楽天」にとって喫緊(きっきん)の課題ではないでしょうか。

消費者も「楽天」のこの強硬策に両手(もろて)を上げて歓迎するとは考えられるません。冷静に考えれば、購入価格が安くなる可能性が低いことは容易に分かるからなのです。「楽天」は現状の「送料無料化」を 『送料込みの価格提示』 と言い換えていますが、内容は何も変わっておらず、当事者が皆納得できるような案、例えば「三方一両損」(大岡裁き)的な考えが不可欠でしょう。また、「アマゾン」と本気で競争しようとするのであれば、通販事業に不可欠な物流機能を出店者と宅配業者へ丸投げする現状に安住せず、「アマゾン」が実行しつつあるように自らの配送センターを含む物流(ロジスティック)システムを構築する努力も求められるでしょう。◇


〈2020年6月2日追記〉 6月1日に政府(厚生労働省)が配布した布製マスク(2枚)がわが家にも届きました。

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外袋から個別包装された布製マスクを取り出してみました。包装越しの確認ですが、汚れや遺物の混入はなさそうです。

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また、普段使用している不織布製マスク(写真の上)と比べると、横幅が短く、縦方向の寸法は長いのです。しかし、ギャザー入りの不織布製マスクのような伸縮性(特に縦方向)がないことで、顔へのフィット感で劣ると思われます。

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ちなみに、呼吸器が弱い筆者と花粉症を持つ同居者は不織布製マスクを常日頃からストックしていますから、わが家がマスク不足に困ることは当面ありません。そこで、筆者は布製マスクが到着する時のことを考えて、サイズがより大きな立体型マスクにリメイクするための型紙をネット上から予(あらかじ)めダウンロードしていまいした。服飾(ドレス作り)が得意な同居者が飛びつくと思ったのです。

しかし、同居者はまったく興味を示さず、『そのままでも使えるわ!』 と言うのです。わが家ではストックされたマスクたちの奥に置かれることになりそうです。

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