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2020年5月

2020年5月30日 (土)

新型コロナウィルス禍における「運転免許証の更新手続き」

昨日(5月29日)のことです。運転免許証を更新する手続き中の同居者が有効期間を延長する2度目の手続きを最寄りの警察署で行いました。受講者が多いため有効期間を1か月間延長した上で5月中旬に予定されていた更新時講習が延期(実はキャンセル)になってしまったからなのです。運転免許証の裏面に有効期間をさらに3か月間延長するスタンプを貰いました。

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しかし、ゴールド免許の所有者(優良運転者)が更新時講習を受けるのはこれまでのように警察署内ではなく、横浜市旭区にある神奈川県の「運転免許センター」で一般運転者(ブルーの運転免許証所有者)と一緒に受ける必要があると言われたそうです。つまり、キャンセルされた更新時講習は、警察署で再度予約するのではなく、「運転免許センター」でしか受けることができないのです。

この話を聞いた筆者は混雑状況が改善されるのを待っていても埒(らち)が開かないと判断しました。26年前にアメリカから家族が一緒に帰国した時、同居者はアメリカの運転免許を日本の運転免許に書き換えるためにこのセンターを訪れていますが、方向音痴である彼女が一人で出かけるのは心配です。それに更新時講習の受け方(時間・手続きなど)を筆者が代行して調べる必要がありました。運転免許センターのhpを調べると、527日から同センターが業務を再開したことが判りました。週替わりで横浜市在住者と横浜市以外の在住者が受講できる時間帯(午前・午後)が指定されていることも知りました。ちなみに、免許証の更新待ちの人は県下に約26万人もいるそうです。

この状況下では窓口が空(す)くことは当分考えられません。『善は急げだ!』 と考えた筆者は同日(529日)の午後に更新時一般講習を受けることを勧めました。まだ午前11時過ぎでしたから、東名高速道路と保土ヶ谷バイパスで横浜市の二俣川駅方面へ向かうことにしました。所要時間は想定した通り40 分弱。午前12時20分ころに運転免許センターへ到着すると、正面玄関には長い列ができていました。50名近くと見積もられます。同居者を列の最後尾付近で降ろした筆者は同センターの専用駐車場(有料)に車を停めました。時間が掛かると判断したからなのです。

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下の写真は駐車場から正面入口に至る通路と時間帯の割り当て案内表示

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午後の講習については、午後1時に受け付け開始(午後3時まで)、講習は午後120分・午後150分・午後230分・午後320分の4回開催されます。ちなみに、1回当たりの受講者数は60名あるいは85名です。正面玄関に居た係員に講習受講者の付き添いであると申し出ると、『7番の講習受付に並んでいるでしょう』 とのこと。センター内に入ると、左手に大勢の人が並んでいました。横方向に8台並ぶ受付端末の前に各々20名ほどが列を作っているのです。即日で更新手続きを行う人たちです。入場制限が行われているため、正面入口に並ぶ人たちは入場待ちをしていたのです。なお、下の写真は退出時(午後2時20分ころ)に撮影したもので、人の列はすべて解消しています。

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同居者は更新手続きを最寄りの警察署で済ませていますから、更新時一般講習を受けるだけです。その受付は中央の奥、写真撮影コーナーの左隣にありました。下の写真で黄色い看板「7 講習受付」が目立ちます。

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同居者は行列の10番目あたりに並んでいることがすぐ分かりました。全体でも20人弱の列ですから、間違いなく最初の講習を受けられそうです。午後1時にまだ10分余りある時に列が動き始めました。しばらくすると同居者からショートメールが届き、『講習室5に入りました。午後120分から1時間です。』 とありました。すべて順調のようですから、『居眠りしないで頑張って!』 と返信。講習会が終わる午後220分までの1時間余り、今日の顛末(てんまつ)を"iPhone SE"のメモ・アプリに書くことにしました。下の写真は左手にある通路とその奥にある講義室。

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午後1時を過ぎると写真撮影コーナーの前に長い行列ができました。先ほど端末の前に並んでいた人たちが書類の記入を終えたようです。会場は広い(大規模)ですが、手続きの内容は警察署で行うものとまったく同じなのです。異なる点は新しい免許証を即日受け取れることです。このため、わざわざ運転免許センターへ足を運ぶ人が多いのでしょう。午後1時半を過ぎるとセンター内から人の長い列は、写真撮影を除いて、ほとんど無くなりました。午後に手続きをする人は午後1時半ころに手続きを開始するのが良さそうです。ちなみに、午後の受付時間は午後4時まで。

運転免許証の更新手続きは受付端末の他に、右手奥にある窓口(有人)でも更新を受け付けているようです。その窓口コーナーには更新以外にも、失効(有効期限切れ)、再交付、国外(国際)免許、自主返納、記載事項変更の窓口が並んでいます。

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さらに右手には適性検査(視力・深視力)コーナーがありました。同センターに約2時間滞在することになり、好奇心が旺盛な筆者はあれこれ観察することができました。その結果、同居者のように講習だけを受ける人は時間を気にする必要はないことが分かります。つまり、指定された時間帯(午前・午後)に従えば、受付開始時間前に長い列に並んで待つ必要はないのです。ちなみに、午後の初回講習以外では人の列はできませんでした。

午後220分になると同居者が講義室から意気揚々と出てきました。無事に受講終了証をもらったようです。早速、運転免許センターから自宅近くの警察署へ向かいました。これにて一件落着!! 終わってみれば、思ったよりも呆気(あっけ)ない手続きでした。◇

2020年5月28日 (木)

テレビドラマ「孤独のグルメ シリーズ 7 総集編」を観る

5月24日にテレビ東京で放送された掲題番組はシリーズ7の中から選ばれた番組の総集編(オムニバス)であり、20184月放送分の第1回の「本町の肩ロースカツ定食」(埼玉県上尾市本町)と第2回の「経堂の一人バイキング」(世田谷区経堂)が取り上げられました。

上尾駅で降りた主人公の井の頭は面倒な客と知人から聞かされた顧客の呉服屋「新井屋」へ向かいました。商談は順調に進みましたが、あれこれ着物を勧められてしまいます。どっと疲れた主人公はお腹が空いていることを思い出して食べたかったトンカツを食べられる店を探しました。そして、見つけたのは「キセキ食堂」。

メニューを見て惹かれた「キセキ定食(肩ロースカツ」を注文。配膳を待つ間にカウンター席に並べられた多彩なタレとソースに見入る主人公は、配膳されたカツの大きさに圧倒されて、思わずメジャーを取り出してその寸法を測る。先ず、カラシとトンカツソースを掛けて一口味わう。次いで塩に変えて、その味の変化に感動する主人公。白いご飯との相性も抜群。そして、シメジの味噌汁も。ゴマドレ、トンカツソース、塩レモンなども次々に試す。キャベツにはやはりトンカツソースを。辛味噌もトンカツに載せた主人公は名古屋の味噌カツとの違いを思う。

ここで、カツとステーキをミックスしても良いことを知った主人公は思わず「キセキのステーキ」を100g追加注文してしまう。先ずそのまま、次いでオニオンソースとワサビ醤油を試す。肉の旨(うま)さに感動しながら、例によって「白いご飯」を掻(か)き込む主人公。トンカツとステーキを堪能(たんのう)した主人公は大満足で店を出た時に改めて奇跡を感じている。そこへ、半分諦(あきら)めていた先ほどの呉服店から主人公が勧めた商品を注文するとの電話が。正に奇跡の店であると感じ入る主人公でした。

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次の店は世田谷区経堂。テニスをする年配の人たちに誘われてラケットを振る主人公がいました。スポーツは苦手のようです。息子の新築祝いにアンティークの時計を探す見込み客との商談を済ませてた主人公は客に教えられた道筋で最寄り駅へ向かいますが、途中で腹が減っていたことを思い出した主人公はさっそく店を探すことに。そして「マッシーナメッシ」の看板を発見。家庭料理のバイキング店です。中に入ると店というよりも民家そのものであることに主人公は驚く。店主が自宅のリビングルームでバイキングを提供している店なのです。

その店内に一人だけの主人公は、慎重に組み合わせを考えながら、多彩な料理を大きめの取り皿に少しずつ取り分けます。そこへ数名の女性客が入って来て、バイキング料理店の賑(にぎ)やかな雰囲気が出ました。「豚しゃぶ」「スパゲティサラダ(実は冷やし中華サラダ)」を味わう間に厨房から持ち込まれた「アスパラ」にもつい手が出てしまう。

カレーに似た「マフェ」(注釈:アフリカの代表的なシチュー)と「雑穀米のご飯」、そして「卵焼き」も。全メニューを制覇(せいは)したくなった主人公は「枝豆豆腐」「キュウリの塩麹和(しおこうじあ)え」「オクラ」などを選び、それらの手を掛けた味に感動する主人公は実家に帰ったように感じる。料金は1500円。店を出た主人公は最寄りの経堂駅から次の目的地である下北沢へ向かいました。

いつものことですが、料理選びのセンスと食べっぷりの見事さに驚かされます。主人公が思わず吐露した(とろ)した『料理上手なパートナーの存在に惹(ひか)かれる気持ち」に筆者も痛く同感しました。◇

2020年5月26日 (火)

「金沢まいもん寿司」のテイクアウト・メニューを楽しむ

「緊急事態宣言」が解除された昨日(5月25日)のことです。同行者が外出先から帰宅するやいなや、『たまプラへ買い物に行ったら、「金沢まいもん寿司」でテイクアウトをやっていたわよ!』 というのです。続けて、『テイクアウトのメニューが知りたいから、iPadで調べてくれない?』 と続けました。自分のスマホ“iPhone 6S”では画面が小さくてよく確認できないそうです。

スマホの陰で存在価値が低下しているiPad Airの出番です。筆者のお勧めメニューを伝えてから定例の散歩に出かけました。1時間弱で自宅へ戻ると、『二品を注文しておいたわ! 12時半に取りに行くことになっているからお願いね!』 とのこと。

ちなみに、「金沢まいもん寿司たまプラーザ店」のhpには57日より当面の間、店舗は短縮営業(営業時間:午前12時~午後8時)とあります。そして、「テイクアウト・メニュー」の注文方法は電話またはFAX、あるいはWEB(ネット)決済が可能。受け取り時間は電話・FAX予約の場合が午前1230分から午後8時まで、ネット予約の場合は午後320分から午後8時までとなっています。

午前12時を少し回ったところで自宅を出ました。10分ほどで「金沢まいもん寿司たまプラーザ店」に到着。予約した午前1230分が近づいたところで店内に入ると、入口付近にアルコール消毒装置が設置されていましたので、手をかざすとアルコール消毒液が適量だけ手に自動噴射されました。両手を擦(こす)り合せてよく消毒してから、フロアスタッフにテイクアウトを予約した旨と名前を告げると、『出来上がっているかを確認しますから、会計カウンターの前でお待ちください』 と告げられました。

店内のカウンター席と小上がり席はいずれもほぼ満席状態です。お昼の時点で「緊急事態宣言」はまで解除されていませんでしたが・・。ちなみに、席の予約は前日までに行う必要があるようです。ほどなく会計が済みました。『保冷剤が入っておりますが、お早目にお召し上がりください。』 との注意事項を伝えられました。

同居者は、筆者の勧めにしたがい、「琴柱(ことじ)」(10貫、1440円+税)と「卯辰山(うたつやま)」(10貫、1760円+税)を注文していました。

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帰宅して食卓に並べました。先ず、包装紙を掛けた寿司容器に入っている「琴柱」と

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同じく「卯辰山」です。

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そして、寿司容器の蓋(ふた)を外した「琴柱」と

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同じく「卯辰山」を撮影しました。

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同行者は遠慮したのか「琴柱」を選びましたので、筆者は「卯辰山」を食べることになりました。プラスチック製の寿司容器(フードパック)を使った盛り付けはやや寂(さび)しいのですが、「金沢まいもん寿司」らしくネタとシャリが美味しいことで、一気に食べ切りました。10貫というボリュームもランチとしてちょうど良いものです。ちなみに、「卯辰山」には、赤身、中とろ、白身、はまち、北陸あおりいか、ずわい蟹、ほたて、いくら軍艦、ねぎとろ軍艦、蒸しえびが入っていました。そして、ワサビは寿司容器の端にある小皿に入っており、醤油(しょうゆ)はプラスチック製の袋で提供されました。

同居者に味を聞くと、やや不満足のようです。『少し乾燥ぎみだわ。やはりお店で食べるべきだと思う。』 といいます。ちなみに、「琴柱」には、赤身2貫、サーモン、赤えび、いくら軍艦、白身、ねぎとろ軍艦、はまち、やりいか、玉子焼きが入っています。

この記事を書いた時には「緊急事態宣言」はすでに全面解除されていました。近いうちに「金沢まいもん寿司」の店へまた出かけたいと思います。◇

2020年5月24日 (日)

海外出張の7か国目はインドネシア

大型商談の入札で一番札を得たことで、その応札内容についての技術折衝(せっしょう、注釈:交渉のこと)を行うため、1985年2月にインドネシア(正式国名:インドネシア共和国)のジャカルタとバンドンへ出張しました。インドネシアは東南アジアな南端に位置する、人口が約26千万人(日本の2倍強、世界で第4位)、面積が約190万平方キロメートル(日本の5倍、世界で第15位)の大国です。

また、島の数が世界で最多となる13千以上もあり、東西に5000㎞以上伸びる領土を持つ海洋国家です。主な島は首都ジャカルタがあるジャワ島、マレー半島の南にあるスマトラ島、同じくその東にあってマレーシアと領土を分けるカリマンタン島(ボルネオ島)、その東隣りにあるスラウェシ島、ジャワ島の東隣にあり観光地としてよく知られるバリ島とロンボク島などがあります。そして、東端にはティモール島(西半分)があります。

地理的には日本列島、フィリピン、ニュージーランド、南北アメリカ諸国とともに環太平洋火山帯を構成しています。つまり、火山が多く(活火山が129)、地震が多発することでも知られます。

歴史についても概観します。この地に住んでいたマレー系の人々が5世紀ころからいくつもの王国を建国し、来航するインド商人からヒンドゥー教を受け入れました。また、12世紀以降にはムスリム商人がもたらしたイスラム教が全土に普及。ちなみに、国名のインドネシアはオランダ支配下の20世紀初頭にインドとネシア(諸島)を組み合わせて創られたもののようです。

大航海時代の16世紀になるとヨーロッパ諸国(ポルトガル、イギリス、オランダ)が進出し、17世紀にはオランダが設立した東インド会社が、18世紀から19世紀にかけてイギリスの影響を排してほぼ全土を植民支配しました。20世紀初頭には独立運動が起こりましたがオランダの植民地政府によって鎮圧されます。

1939年に第二次世界大戦がヨーロッパで勃発(ぼっぱつ)し、オランダが「対日ABCD包囲網」に参加。1941年に日米が開戦したことに伴い、日本軍はマレー半島に上陸し、1942年にはインドネシアにも侵攻してこれを占領しました。1943年以降、日本軍は戦況の劣勢を挽回(ばんかい)するためにインドネシア人に軍事訓練を施したことが、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争の下地になりました。

1949年にオランダから独立することが正式に決定し、インドネシア共和国が発足。スカルノ初代大統領は、国内勢力間(注釈:多民族国家である)の対立に加えて国軍との対立が激化し、1965年に辞任しました。後継者となったスハルト大統領は30年におよぶ独裁的な長期政権を維持して経済を発展させたものの、国内勢力間の対立は現在も続いているようです。

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私が出張した1985年は上記したスハルト大統領統治下(1968年-1998年)の中盤に当たります。1985年2月の技術折衝に続き、同年10月と198611月、19871月と立て続けに技術折衝のためにインドネシアを訪れました。顧客にとって一大プロジェクトであったこともあり、異例のペース(頻繁さ)で技術折衝が行われたのです。

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また、首都のジャカルタ(正式名称:ジャカルタ首都特別州、人口:950万人、都市圏では3120万人、地名の意味:偉大なる勝利の街)に加えてバンドンも訪れた理由は政府機関や有名な大学(バンドン工科大学など)が存在する地だったからです。

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ジャカルタの南東約200㎞にあるバンドン(人口約240万人)までは、列車を利用する場合には棚田が広がる傾斜地を抜けて約3時間半、飛行機では気流に揺られながら45分ぐらいかかったと思います。現在は高速道路が開通したため、約2時間で移動できるようです。

熱帯性気候の暑さと自動車の渦(うず)に包まれたジャカルタに対し、バンドンは高地(海抜700m強)にあるため快適な気候と落ち着いた街並みが気に入りました。ちなみに、1955年にバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議)が開催されたことでも知られます。

ジャカルタでの移動手段は現地スタッフの車あるいはタクシーを利用しました。人力三輪自転車「ペチャ」も多数走っていましたが、ジャカルタでは利用したことがありません。安全上の理由(交通事故・トラブル)から利用しないように助言を受けていたからです。なお、ジャカルタは港がある旧市街(コタ地区、注釈:コタは町を意味する)とその南に広がる新市街(中央ジャカルタ市など)に分けることができます。

オランダ時代からの官庁街であったビジネス街は後者にあります。ムルデカ・スクエア(広場)がその中心と言えます。定宿はビジネス街の中心を走るタムリン通りにある「ホテル・ニッコー・ジャカルタ」(現プルマン・ジャカルタ・インドネシア)でした。

コタ地区は、ジャカルタの観光地ですが、治安はそれほど良くありませんでした。特に夜間は立ち入りを避けた方が良いと助言されました。車中から何人ものオカマが客待ちをしながら立っているのを見かけました。

インドネシアについても、マレーシアと同様、写真がほとんど残っていません。数枚残っている写真の中から、上記の市内観光中と会食中の次の真を掲載します。

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ちなみに、インドネシアへは米国赴任期間を挟んで計6回出張することになりました。なお、インドネシアの観光旅行については20153月の関連ブログ記事「インドネシアの遺跡と舞踊劇を楽しむ旅」(バリ島・ジョグジャカルタ)を参照してください。◇

2020年5月23日 (土)

海外出張の6か国目はマレーシア

1985年2月にマレーシアへ出張することになりました。新商談への売り込みが目的でした。幸いなことに商談は順調に進展し、同年8月には顧客との技術折衝に入ることが出来ました。同年12月と翌19861月には詳細な技術についてのプレゼンテーション、同年6月には新技術紹介するプレゼンテーションが相続き、そして19871月には追加プロジェクトの技術折衝が始まりました。

5年間のアメリカ赴任(ふにん)から戻った19948月、19954月および12月と頻繁(ひんぱん)に出張したことで、1985年から1999年までの15年間でマレーシア出張はご合計20回にも及び、海外出張先としてはマレーシアが最多となりました。しかも、プロジェクトは途絶えることがなく、筆者にとってはニュージーランドと並ぶ重要なビジネス相手です。

ここでマレーシアを概観します。東南アジアにあるマレー半島の南部とその東にあるボルネオ島の北部を領有しており、面積は約33万平方キロメートル(日本の約86%)、人口は約3200万人。体制は立憲君主制、首都はクアランプールで、イギリス連邦に加盟しています。国名のマレーシアはマレー半島(サンスクリット語で山脈がある土地を意味するムラユ)が語源とされます。

次いでマレーシアの歴史を簡単に振り返ります。古代から小王国があったようですが、1400年に建国したマラッカ王国がマレー半島南部・マラッカ海峡・スマトラ島南東部を支配し、1528年以降はマラッカ王国を受け継いだジョホール王国が誕生した。これと相前後してポルトガルとオランダが植民地化を進めた。1874年にはオランダに代わってイギリスが植民地化(イギリス領マラヤ)し、1942年から1945年までは日本がマレー半島と北ボルネオを占領。日本の敗戦により1946年にイギリス領マラヤ連合となり1948年以降のマラヤ連邦を経て1957に独立。1963年にはマレーシア連邦と国名を変更して現在に至っています。

頻繁に出張したマレーシアですが、訪れたのは首都のクアラルンプールだけなのです。幸いにもビジネスが順調に進展したことで、クアラルンプール南方約20㎞の場所で新たに開発されたIT経済特区のサイバージャヤに現地子会社(研究・技術部門)を設立し、会長職(非常勤)を数年務めることにもなりました。当時のマハティール首相にも拝謁(はいえつ)する機会を得たことも忘れられない思い出になりました。

ただ、残念なことにクアラルンプールで撮影した写真はパソコン内蔵HDDのクラッシュ外付けHDDの故障によってすべて失われてしまい、今回の記事に掲載することができません。唯一、パソコンショップに救出してもらった写真が1枚あります。それがクアラルンプールの中心部にあったオフォスから撮影した当時世界一の高さ(452m)を誇った「ペトロナス・ツインタワー」(1998年竣工)なのです。

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私の好きなショーン・コネリーがキャサリン・ゼタ・ジョーンズと共演した1999年の映画「エントラップメント」(1999年公開)の舞台にもなりました。老練な美術品泥棒と保険会社の調査員が知恵比べ(駆け引き)をする痛快アクション(恋愛)映画です。結末の『どんでん返し』 が見事でした。注釈:エントラップメント(Entrapment)は『罠(わな)にかかること』  あるいは『囮(おとり)捜査』 を意味する ◇

2020年5月21日 (木)

日本料理店「木曽路」の持ち帰り弁当を楽しむ

新型コロナウィルスが全国的に蔓延(まんえん)して緊急事態宣言が47日に出されてからは外食を控えていますが、よく利用する日本料理店「木曽路」が418日より『お持ち帰り弁当』 の販売を開始したことを聞き知っていました。しかし、外出を極力控えていたことで筆者はその利用をしばらく待つことにしていました。そして、514日に発表された政府方針では筆者が住む神奈川県では非常事態宣言が延長されたままでしたが、巣篭り生活の持続エネルギーを補給するために「木曽路」の持ち帰り弁当を5月15日に利用することにしました。

「木曽路」のhpでは『お持ち帰り弁当』 として、すきやき重弁当 (税込1,296)、すきやき重弁当/国産牛ロース肉(税込1,620円)、すきやき重弁当/和牛霜降肉(税込2,484円)、すきやき重弁当/和牛特選霜降肉(税込2,916円)、国産うなぎ弁当(税込2,700円)、和牛あみやき弁当(税込2,700円)、木曽弁当(税込1,944円)の7種類が現在用意されています。牛肉が好きな筆者は早速「和牛あみやき弁当」を午前11時過ぎに電話で予約しました。(ネット予約は不可)

予約時間(午前12時)の少し前に店を訪れると、会計コーナーの脇にレジ袋に入れられた何個かの『お持ち帰り弁当』 が並べてありました。入店する客はまだ数えるほどであり、1分足らずで会計を済ませることができました。弁当は出来立てのようで、レジ袋を通して温かみを感じることができます。

帰宅して、早速ランチとして食べることにしました。透明なプラスチック製の蓋(ふた)にはメニュー名である「あみ焼き」と『賞味期限が2時間後の午後2時』 であることが表示されています。
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蓋を開けると6枚にスライスされた黒毛和牛肉と付け合わせが整然と盛り付けられていました。

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早速、黒毛和牛肉を口に運ぶと、いつも食べている「木曽路の牛肉」の味でした。まだ暖かいままであることも美味しさを感じさせます。また、付け合わせも同様に「木曽路の味付け」で、十分に満足できるものです。しかし、何か物足りません。皿や椀に綺麗に盛り付けされた料理にはやはり及ばないと感じられました。視覚による満足感が不足しているのです。「緊急事態宣言」が終了するであろう来月には「木曽路」の店内でゆっくり料理を楽しみたいと思います。◇

2020年5月19日 (火)

海外出張の5か国目はクウェート

1984年の年始早々(18日から)台湾へ出張することになりました。都合が悪くなった同僚に代わって4日間(実質2日間の業務)の短期出張です。(注釈:台湾への観光旅行は2014年11月のブログ記事を参照)3月にはニュージーランド出張からの帰路にオーストラリアのシドニーへ立ち寄りました。

台北の「忠烈祠(ちゅうれつし)」における衛兵交代セレモニー

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シドニーのオペラハウスから見た「ハーバーブリッジ
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しかし、いずれもフォローアップはありませんでしたから、同年4月に出かけたクウェートが私にとっての5か国目といえます。これも同僚から引き継いだプロジェクトで発生した技術問題について顧客と協議する目的でした。同年の8月と翌年(1985年の4月と10月にも技術問題の継続協議と新技術を提案するためでした。つまり、2年間で都合4回出張する慌(あわ)ただしさでしたが、顧客との交渉は困難を極めました。アラブ独特の商習慣がその大きな理由だったと思います。2008年のブログ記事「クウェートの砂嵐と冷や汗」で紹介しています。

クウェートについては産油国として日本でよく知られていますが、同国のプロジェクトに急遽対応することになったこともあり、筆者には地理や国情についての予備知識はほとんどありませんでした。その場所はサウジアラビアとイラクに挟まれ、ペルシャ湾に面した小国(面積:1.8万平方キロ/四国と同程度、人口:475万人/内アラブ人であるクウェート人は141万人)です。ちなみに、ペルシャ湾の対岸にはイランが位置しています。18世紀にアラビア半島中央部から移住した部族がクウェートの基礎を築き、1899年にイギリスの保護国になりました。1938年に大油田(世界第4位)が発見され、1961年にイギリスから独立しました。政体は首長制(首長家出身の元首サバーハ殿下、国民議会、内閣の3勢力による統治形態)です。一人当たりのGDP3.1万ドル(2018年)と高く、世界31位(スペインと同レベル)。ちなみに、日本は3.9萬ドルで26位。

成田空港発の南周り夜行便で早朝にクウェート国際空港(官民共用)に到着しました。日本の建築家丹下健三氏が設計したモダンなターミナルビル1979年完成)には人影がまばらであり、殺風景な雰囲気でした。到着した乗客たちはかなり待たされた挙句(あげく)、通関手続きにかなり時間を要した記憶があります。ビザとともに訪問先の機関からのクウェートの訪問先機関からのインビテーションレター(招へい理由書)が必要だったと思います。1980年から1988年にかけてイランとイラクが戦争していた時期でしたから、空港内はもちろん撮影厳禁です。

クウェート国際空港はクウェートの市街地(クウェート市)は空港の南方約16㎞にあり、砂漠の中にある道路を車で移動すれば所要時間は15分ほどだったと思います。宿泊する「クウェート・ヒルトン・ホテル」にチェックインしました。

「クウェート・ヒルトン・ホテル」はアメリカ大使館の目の前(道路を挟んだ反対側)にあり、4か月前の1212日に爆破された大使館の建物は半壊して、ブルーシートで覆(おお)われているのが見えました。現在、「クウェート・ヒルトン・ホテル」は郊外へ移転したようです。

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ホテルから見た「クウェートタワー」は、市街地の北東端にある岬のような場所に、3本並んで立っているのが見えました。 手前に見えるプールがある施設がアメリカ大使館です。ちなみに、最近の航空写真を確認すると更地になっているようです。

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休日には「クウェートタワー」がある海岸を散策しました。

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「クウェートタワー」の展望台から見た景色、「市街地の中心部」と「夕日が沈む西方のペルシャ湾」です。後者の左手に写るのは「クウェートタワー」の一部です。

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一見すると長閑(のどか)そうに見えますが、海岸で写真を撮ることは極めて危険なのです。後になって知人に聞いたことですが、海岸で写真を撮影していて秘密警察に連行されて、尋問された上、一晩勾留(こうりゅう)されたことがあるそうです。国によりますが、海岸だけではなく、港湾・空港などの施設を写真撮影することはスパイ行為と見做(みなさ)されることがあるのです。ましてや、2008年のブログ記事「クウェートの砂嵐と冷や汗」に書いたように国境の検問所を物見遊山(ものみゆさん)で見に行くなどは自殺行為と同然です。

さて、出張の目的についても簡単に説明しましょう。最初の出張目的は、同僚から引き継いだプロジェクトにおいて、納入中のシステムと既存システムとの間に発生したインターラクション(相互作用)の不具合を解決するためでした。複雑な要因が絡み合っていましたが、ソフトウエアの一部を変更することにより解決することができました。困難な調査であったため、予定より長い15日間の出張になりました。

2回目は同年8月(10日間)で、上記不具合の改修状況の確認と新たな問題(ハードウェアの障害)への対処法についての協議でした。いずれの協議も順調に進展し、実質一週間で合意に至ることができました。

3回目は19854月に別の問題(ハードウェア)への技術対応でした。内容はシンプルな部品不良でしたが、サービスに直結する不具合であったため顧客側はそれまでになく慎重な態度でした。協議が一週間を過ぎても協議は進展せず、一進一退を繰り返したのです。顧客側の対応者である技術課長(クウェート国外から来たお雇い技術者)は優秀な人でした。やっと彼を納得させたかと思うと、翌朝には前日の協議で口頭合意したことが白紙撤回されるのです。彼の上司であるクウェート人が駄目出しをしたようです。お雇い技術者(外国人)の彼は決定権を持っていなかったのです。新しい説明を加えてもやはり同じ状況が何度も繰り返されました。直接説明したくてもクウェート人の上司は打ち合わせの場に一度も顔を出すことはありませんでした。

埒(らち)が開かないと考えた私は一週間を過ぎたところで、『これまでの説明で納得してもらえないなら、明日は東京へ帰るつもりだ!』 と協議の終わりに技術課長へ告げました。ミッションを完遂しないで出張を終えることはそれまで一度もありませんでしたが、この時は本当に帰国するつもりでした。そして、翌朝に顧客の事務所へ出向くとその技術課長は笑顔でこう言ったのです。『上司のOKがもらえた!!』 と。彼も頑固な上司に閉口していたようです。これで一件落着!!! 顧客側から合意書を取り付け、安堵(あんど)して帰国することができました。

同年の10月には、クウェートにおける諸懸案が解決したことを確認するとともに、トルコでの技術問題対応とインドネシアの新しいプロジェクトの契約(技術)折衝のため、3週間の駆け足出張をすることになりました。

余談です。クウェートには観光施設と呼べるものはほとんどありません。したがって、休日には宿泊するホテルのプールで長時間過ごすことになりました。そして、中東の強い日差しを浴びていると面白いほど日焼けしたのです。この体験により中東に限らず、出張先で日焼けすることが病(や)みつきになってしまいました。今風に言えば「日焼けサロン通い」です。しかし、10数年後には顔に黒い染みがいくつも発生しました。まるで老人班点(ろうじんはんてん、老人性色素班)のようです。年齢には相応(ふさわし)くない症状ですが、筆者は負け惜しみで海外出張の勲章だと思うことにしました。

                             ☆

さて、筆者の海外出張に関する記事を読んで筆者の仕事がよく分からないと感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。蛇足と承知していますが、その概要を説明します。

開発技術者として社会人生活を始めた筆者が30 歳になった時に希望して従事した業務は海外企業向けシステムのシステムエンジニアリング(構想・実施計画の作成など)です。システム・ビジネスの主な業務は、他のビジネス領域と同様、幾つかのフェーズがあります。プリ商談(新しい技術やシステムの紹介)、実商談の推進(資格審査・入札・契約交渉)、システムの提供(システム構成要素の納期管理・実装工事の進捗把握・契約条件の履行把握)、アフターサービス(パフォーマンス評価・その改善策の提示・障害対応)まで広範囲です。

社内にはそれぞれの業務を担当する部門がありましたが、筆者が担当した仕事は主に最初の2つですが、3つ目と4つ目のフェーズでは顧客の立場に立って問題の解決に当たることでした。そして、社内の関連部門(営業部門・開発部門・製造部門・カスタマーサービス部門)に注文を付けることも筆者の重要な職務なのです。

筆者の会社と同様、多くの企業では上記した4つのビジネス・フェーズをそれぞれ担当する部門がありますが、筆者が所属していた会社(部門)のユニークな点は、一人の責任者(主にSE部門所属)が全ての技術関連フェーズに関与する仕組みになっていました。つまり、本業であるSE(システム設計)はもちろん、開発・製造・工事・CE(保守保全)の全業務に目配りする極めてユニークな存在でした。言い換えると、営業活動以外においては顧客との窓口役(相談相手/コンシェルジュ)なのです。

                             ☆

閑話休題。クウェートの後日情報です。筆者がクウェートへ出張した1984年と1985年というタイミングは、イラン・イラク戦争(1980-1988年)の真っただ中でした。この戦争でクウェートは港湾の提供と資金援助によりイラクを積極的に支援していましたが、その負債を返済するために、石油価格を上昇させる目的で石油の減産石油輸出機構(OPEC)へ石油の減産を働きかけましたが、OPECはイラクの求めに応じず、クウェートとサウジアラビアは逆に増産を行いました。

このため、イラクは国境に軍隊を動員して威嚇(いかく)しましたが効果が無いとみたイラクは19908月にクウェート領内へ侵攻する事件が発生し、イラクはクウェートを併合しました。国際社会はこれを認めず、国際連合が多国籍軍をイラクに派遣することを決定し、19911月にクウェートを占領するイラク軍への攻撃を開始して湾岸戦争が勃発(ぼっぱつ)するのです。

圧倒的な多国籍軍は翌月にはクウェートを解放しました。その後もイラクに対する国際社会の風当たりは強く、アメリカを中心とする融資連合軍が20033月にイラクへ侵攻し、200612月にサッダム・フセイン元大統領を処刑。7年後の2010年に戦闘が集結し、翌年(2011年)の12月にアメリカ軍がイラクから撤収しました。◇

2020年5月17日 (日)

BS-TBSのスペシャル番組「テレサ・テン 名曲熱唱 ~没後25年目の真実~」を観る

歌手テレサ・テン没後25年(説明:1995年5月8日に静養先のタイ・チェンマイで気管支喘息による発作のため死去)を迎えて202058日にBS-TBSで再放送された掲題の番組を観ました。2018年12月29日に初回放送されたこの番組は1989年(平成元年)1124日に放送された番組などTBSが保管する映像を集大成したものです。以下は番組を観ながら書いたあらすじです。

1953年に中国大陸出身の両親のもとに台湾で生まれたたテレサ・テンの生い立ちから、13歳で歌手デビューして、17歳の時香港に活動の場所を移し、さらに1974年、21歳には日本での歌手活動を開始。当時、テレサをスカウトした日本のレコード会社のスカウトなどがその経緯を証言しました。テレサの声の魅力や、父親が日本へ行くことに強く判断したことなどです。テレサの父親は戦時中、抗日活動をしていた国民党の軍人でした。日本のレコード会社の幹部がこの父親を直接説得したことでテレサは来日することになります。

演歌へ路線を変更した2作目の「空港」が大ヒットトし、この曲で第16回日本レコード大賞新人賞を獲得して日本でもトップ・スターの仲間入りを果たし、歌手活動も軌道に乗った。続く「雪化粧」もヒットし、さらなる活動が期待されました。しかし、台湾と香港などで実績があったテレサでしたが、日本では新人扱いで苦労したことと、それにめげないで歌に専念するテレサの歌声が続きました。日本での待遇も徐々に改善されて行きました。ドリフの人気テレビ番組である「全員集合」にも出演して活躍することになります。

テレサ・テンは日本以外での活動も続けていました。19735月に台湾で発表されたラブソング「月亮代表我的心」(邦題:月は何でも知っている)を1977年にカバーし、台湾だけではなく広く中華圏でヒットして、テレサ・テンの代表作になりました。中国語(北京語)だけで歌っているため、日本ではあまり知られていませんが、夏川りみさんが「永遠の月」(日本語の歌詞)の題名でカバーしています。ちなみに、原題を日本語に直訳すると『月は私の心を代表(表わ)している』 となります。

順風に思われた4年後の1979年、テレサは台湾(中華民国)のパスポートではなく、インドネシアの正規パスポートで日本へ入国しようとしたことで、一年間の国外退去処分を日本政府から受けてしまいます。グレーゾーンとの判断だったようですが・・。「紅白歌合戦」に出場する夢が破れたテレサはアメリカへ渡りました。

そんな折、テレサの歌(カセットテープのコピー)が中国国内で人気を博したことで、テレサは自らの意志と関係なく中国を巡る政治問題に巻き込まれて行きました。そして1年後、台湾政府に協力することを条件として台湾へ戻ることを許されたテレサは、台湾政府に利用され、軍の広告塔になります。時代の波に飲み込まれ始めたのです。

一方でテレサの日本復帰の動きが関係者達の努力によってデビューから5年後に実り始めました。1984年に再デビュー曲の「つぐない」(作詞:荒木とよひさ、作曲: 三木たかし)がリリースされました。しかし、パスポート事件の影響があったため、立ち上がりは絶不調。テレサの記者会見を機に人気が一気に復活してその年の「第17回日本有線大賞」を受賞。加えて、「日本レコード大賞」の最優秀歌唱賞にもノミネートされましたが惜しくも細川たかしに賞を譲ります。そして、翌1985年にリリースした再デビュー2曲目の「愛人」(作詞作曲は前作に同じ)も大ヒットして念願の「NHK紅白歌合戦」への初出場を決めました。しかも、前年に続き「日本有線大賞」を連続受賞。

番組の内容からそれますが、下の写真は1984年にリリースされたCD「つぐない」(オリジナル曲とカバー曲を計12曲収録)のジャケットを撮影したものです。

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閑話休題。翌1986年にリリーズされた第3曲目も「時の流れに身をまかせ」(作詞作曲は禅2曲と同じ)も大ヒット3年連続の「日本有線大賞」を受賞。1987年には「別れの予感」を・・。タイトルが自身の未来を暗示するようで意味深な曲でした。テレサ・テンが作詞家の荒木とよひささんと作曲家の三木たかしさんと対談してヒット曲について語り合うシーンが挿入されました。

中国で解放派の胡耀邦(こ ようほう)が実権を握ると、それまで禁止されていたテレサの歌が中国国内で解禁になり、テレサの夢であった中国本土でのチャリティコンサートが実現するかに見えました。しかし、ここで大きな波がテレサを襲います。胡耀邦が死去し、鄧 小平(とう しょうへい)が権力を握ると、民主化を要求する学生たちのデモ隊を中国の軍隊が鎮圧した「天安門事件」が1989年に勃発(ぼっぱつ)したのです。その直前、テレサは中国への返還が決まっていた香港で民主化活動を支援するコンサートを開いています。

天安門事件の直後に来日したテレサは自身の気持ちを記者たちに語り、また日本デビュー15周年番組の終盤にテレサは『自分が中国人であることを誇りに思っている。中国の将来を心配している』 と日本のファンに日本語で語りかけました。そして、最後に歌った2曲は「悲しい自由」と「時の流れに身をまかせ」です。

スペシャル番組の最後に民主化運動で荒れる現在の香港のシーン(注釈:香港の民主化デモは2019年3月に始まっていますから、今回の放送に当たって追加したと思われる)を流して2時間の番組が終わりました。テレサ・テンの生き様を知るとともに、自らのヒット曲と日本・中国・世界の名曲をカバーした曲など、多数のの名歌唱を堪能(たんのう)することができました。

                           ☆

最後に蛇足ですが、筆者の思い出を書きたいと思います。テレサ・テンが日本でデビューしたころから彼女の歌をラジオ放送やカセットテープで聴いていましたが、本格的に聴くようになったのは1983年からです。その切っ掛けになったのはソニーから発売されたカセットサイズ(伸縮ボディ)のウォークマン"WM-20"を購入したことです。

本体が小型(カセットケースと同じサイズ)であることと、解放型の小型ヘッドホン(バーチカルインザイヤー方式)が気に入りました。海外出張時に携行するのに最適なオーディオ製品でした。それまでも、搭乗する飛行機の機内サービスで音楽を聴いて楽しんでいましたが、好きな曲はそれほど多くない上、その音質に不満があったのです。

カセットサイズのウォークマンとカセットテープを数本、さらに交換用乾電池(単三アルカリ電池1本で約5時間駆動可)などをアタッシュケースに余裕を持って収納できました。テレサ・テンの歌声を聞いていれば長時間で退屈な長いフライト中も快適に過ごすことができました。特に、顧客とのハードな交渉を目的とする気が重い出張でもテレサの歌声で気持ちを落ち着かせることができるのです。つまり、私にとっては精神安定剤の「トランキライザー」代わりなのです。テレサの歌声に励まされたことで、度重なる難局をすべて乗り切ることができました。

どれほどテレサの歌を聞き続けたかを計算してみました。一回のフライトで少な目に見積もって20曲、おそらくカセットテープ2本の約30曲だったのでしょう。この推定によれば1983年からアメリカに転勤するまでの6年間(出張32回、64フライト)の累計で1200曲から1800曲を聴いたことになります。ちなみに、現在でもカラオケでテレサ・テンのヒット曲は例外なく歌うことができます。

今回のスペシャル番組において、30数年ぶりにテレサ・テンの曲をまとめて聴いているうちに、現役時代(特に1980年代)の海外出張を懐かしく思い出しました。

2020年5月15日 (金)

映画「日々是好日」を観る

「日々是好日」(にちにちこれこうじつ)は中国の唐未から五代にかけて活躍した「雲門禅師」の悟(さとり)りの境地を表した最高の言葉です。『優劣・損得・是非にとらわれた考え方をさっぱり捨て切って、その日一日をただありのままに生きる清々しい境地』 を意味する言葉であることをつい最近になって知りました。注釈:五代または五代十国は唐の滅亡から北宋の成立まで華北を支配した5つの王朝と華中・華南を支配した諸地方政権が興隆した時代を指す

この言葉を知ったのは5月6日にWOWOWで放送された映画「日々是好日」(2018年公開、上映時間:100分)のタイトルになっていたからなのです。

先ず、映画「日々是好日」についての映画.comの解説を以下に転載します。

『エッセイスト森下典子が約25年にわたり通った茶道教室での日々をつづり人気を集めたエッセイ「日日是好日 『お茶』が教えてくれた15のしあわせ」を、黒木華主演、樹木希林、多部未華子の共演で映画化。』

そのあらすじは、『「本当にやりたいこと」を見つけられず大学生活を送っていた20歳の典子は、タダモノではないと噂の「武田のおばさん」が茶道教室の先生であることを聞かされる。母からお茶を習うことを勧められた典子は気のない返事をしていたが、お茶を習うことに乗り気になったいとこの美智子に誘われるがまま、流されるように茶道教室に通い出す。見たことも聞いたこともない「決まりごと」だらけのお茶の世界に触れた典子は、それから20数年にわたり武田先生の下に通うこととなり、就職、失恋、大切な人の死などを経験し、お茶や人生における大事なことに気がついていく。』

『主人公の典子役を黒木、いとこの美智子役を多部がそれぞれ演じ、本作公開前の20189月に他界した樹木が武田先生役を演じた。監督は「さよなら渓谷」「まほろ駅前多田便利軒」などの大森立嗣(たつし)。』(出典:映画.com)

                            ☆

ここからは映画を見ながら書いたあらすじです。ネタバレとは言えませんが、ストーリーをすべて網羅していますからご注意ください。

一生をかけて身につける何かを求めて同い年(20歳の女子大生)である従妹同士の二人(典子と美智子)は茶道教室に通い始めます。大きな家に一人で住む初老の女性、武田先生から茶道の手ほどきを教えてもらうようになった二人は2週目にはお茶の作法と所作を学びます。細かい茶道の作法に戸惑い武田先生に質問する二人ですが、『そういう風に決まっていることだから、とりあえずまず身につけていくように』 と武田先生は諭(さと)します。『お茶はまず形から、そこでできた入れ物に心を後から入れるもの』 と言われた二人は次第に茶道に魅せられて行きます。武田先生の言葉が一つひとつ心に染み入りました。

1か月後にはかなり本格的な稽古(けいこ)が始まりました。そんな折、活発な美智子はお茶の稽古を休んでイギリスとフランスへ旅行に行くと言い出しました。それに影響された典子はお茶の稽古を休むと両親に告げますが、なぜか考え直して一人で稽古に行くことにして、武田先生から個人レッスンを受けます。心静かに稽古して手応えを感じる典子を武田先生は言葉少なく見守ります。

2か月後の立冬(りっとう)、旅行から戻った美智子と二人で稽古を受ける典子はさらに細かい指導を受けるようになりました。すると、少しできるようになったと喜んでいた典子はなぜか振り出しに戻ったように感じるのでした。そして、正月。晴れ着を着た多くの生徒たちが一堂に会して華やかな年始の初稽古の場で武田先生の所作をじっと見つめる典子がいます。

1か月後の大寒(だいかん)には横浜の三渓園(さんけいえん)で大規模な茶会が開かれました。招かれた和室には「日々是好日」の掛け軸が飾られています。緊張する典子でしたが、隣に武田先生がいることで安心できたことで、無事に茶会は終わりました。美智子は商社に就職しますが、典子は希望する出版社への就職は叶(かな)わず、そこでアルバイトとして働くことになりました。

夏至(げし)、そして立秋(りっしゅう)になると典子は生徒たちの先輩格になっていました。立冬、典子は茶席の亭主を務める練習を始めます。大暑(たいしょ)が過ぎて行きました。季節(二十四節季)の移り変わが時間の経過と典子の心の変化を象徴します。

時が過ぎたある日、美智子は会社を辞めて結婚すると突然典子に言うのです。結婚を機に美智子が田舎へ引っ込み一人になった典子は少し落ち込みますが、武田先生宅で達磨禅師(だるまぜんじ)の掛け軸を眺(なが)めて心を沈めます。一人で茶の練習に励む典子。相手の裏切りで結婚に失敗した典子ですが、この辛(つら)い経験が過ぎ去り、また大寒と立春が訪れました。ある日突然、母からの電話で父が倒れたことを告げられます。いつの間にか疎遠(そえん)になっていた父の急死を考えながら武田先生と語り合う典子。時間の経過とともにその悲しみを乗り越えて行きます。そして、典子は父に感謝します。

12年後(2018年)の小寒(しょうかん)、武田先生の言葉を安らかな気持ちで聴く典子がいました。「雨聴」の掛け軸と、「日々是好日」の額を見てそれまでの日々について納得する典子は『何でもない日々においてお茶を楽しむことの幸せ』 を改めて感じます。それが「日々是好日」が意味するところであることを知り、『ここからが本当の始まりなのか?』 という典子の呟(つぶや)きでエンドロールを迎えました。

<視聴後の感想> エッセイストの森下典子さんが著(あらわ)した『日日是好日-「お茶」が教えてくれた15のしあわせ-』 を映像化したこのユニークな映画は、何気ない日々の中に存在する「茶の湯」(注釈:16世紀末の安土桃山時代に完成)と「禅の言葉」(注釈:禅宗は14-16世紀の室町時代に普及)を通して、茶道の先生である年配女性と2人の若い女性たちの心の交流を季節の変化を背景に淡々と描いています。日本の静粛な景色と調和する3人の女優さんの抑えた演技が印象に残ります。故小津安二郎監督の古い映画に登場する優しい人物たちの穏(おだ)やかな会話シーン(東京弁ではありませんが)を彷彿(ほうふつ)させ、日本文化と日本人を気負いなく表現した良質な映画だと感じました。◇

2020年5月13日 (水)

4番目の海外出張先はタイのバンコク(後編) 観光地「パタヤ・ビーチ」と「ザ・オリエンタル・バンコク」

タイには1983年から1999年までに都合6回出張しましたが、顧客へのプレゼンテーションと公的団体が開催したセミナーの講演者としての活動に終わり、残念ながらビジネス活動では大きな成果を上げることはできませんでした。後者については1986年には観光地のパタヤ・ビーチで開催された公的団体のセミナーに講演者(スピーカー)として招待されたこと、そして13年後の1999年にもバンコクの「シャングリア・ホテル・バンコク」で開催されたセミナーにも講演者として招請(しょうせい)されたことが誇(ほこ)らしい思い出です。本稿では筆者が講演者として参加したこれらのセミナーと宿泊したホテルを紹介します。

1986年4月に国際的な団体から招待されてバンコクの南東方向、約160㎞にある観光地「パタヤ・ビーチ」へ出張しました。前日はバンコク市内、チャオプラヤー川沿い(写真左端)にある「ロイヤルオーキッド・シェラトン・ホテル&タワーズRoyal Orchid Sheraton Hotel & Tower)」に宿泊しました。チャオプラヤー川沿いには「ザ・オリエンタル・バンコク(The Oriental, Bangkok)」と「シャングリラ・ホテル・バンコク (Shangri-La Hotel, Bangkok)」(橋の袂)など超一流のホテルが建ち並んでいます。

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「パタヤ(パッタヤー)・ビーチ」はタイを代表する観光地ですが、歴史は意外に浅いことが分かりました。1960年代以前、パタヤは小さな村に過ぎませんでしたが、ベトナム戦争(1955-1975年)に対応するためアメリカ軍がこの近くにウタパオ空軍基地(、B-52爆撃機やKC-135空中給油機が駐留し南北ベトナムを空爆、現在のウタパオ空港)を造ったことで、米軍人用保養地として開発が進み、現在のような観光地へと発展したそうです。

セミナー会場が設けられたホテルSiam Bayview Hotel(現在のThe Bayview Hotel Pattaya/ザ・ベイビュー・ホテル・パタヤ)はパタヤ・ビーチのほぼ中央にありました。

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パタヤ・ビーチは約4km続く砂浜、ビーチでマリンスポーツ、繁華街でのショップや飲食、夜は「ウォーキングストリート」のディスコやゴーゴーバー、何といっても興味深いのは1,200人収容の「アルカサル・キャバレー」や「ティファニー」などで開催される「オカマ(ニューハーフ)・ショー」。筆者が鑑賞したのはそのどちらかでしょう。上演は毎夕3回、全て指定席、現在の料金は900-1600タイバーツ(約3300-5800円)です。ちなみに、日本でも似たショーを見ることができます。当ブログで2009年11月に紹介したショーレストラン「六本木 金魚」です。

1999年にも同じ団体にセミナーの講師として招待されました。会場は「シャングリラ・ホテル・バンコクShangri-La Hotel, Bangkok)」。

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前回よりも参加者が多いこともあり、より盛況なセミナーになったと思います。ホテル繋(つな)がりで、1986年に念願の「ザ・オリエンタル・バンコク」(2007年にマンダリン・オリエンタル・バンコへ変更)に宿泊した貴重な経験談を書くつもりでしたが、関連の写真が見つかりませんので、残念ですが本稿では割愛します。◇

2020年5月12日 (火)

4番目の海外出張先はタイのバンコク(前編) アユタヤへのクルーズ船旅

1983年11月にシンガポールとタイへ出張することになりました。両国の顧客へ新技術をプレゼンテーションするためです。シンガポールを経由して1126日(土曜日)にバンコク(注釈:バンコックとも表記)入りしましたので、1127日(日曜日)はバンコク市内と古都アユタヤを丸一日かけてのんびり観光することにしました。2005年12月25日のブログ記事と一部重複しますが、タイの記事を改めて投稿します。

最初に訪れたのは公園、宿泊したシーロム通りのホテルに近い「ルンピ二ー公園」だったと思います。ダウンタウンの中心部から東方へ約5㎞、シーロム駅のすぐ近くです。

入口付近には飲み物を売る露店と客待ちをするサンロー(人力三輪自転車)が並んでいます。ちなみに、東南アジア各国にありますが、ビルマ(現ミャンマー)の記事で紹介したように、ビルマ/マレーシア/シンガポールではトライショー(trishaw)、インドネシアではペチャ、ベトナムではシクロ、フィリピンではトライシクルと呼びます。

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東西に2つの大きな池を配した園内には多くの植物と小動物たちを見ることができました。日本の「回遊式武家庭園」と似たレイアウトで、市民の「憩いの場」といえる場所でしょう。

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多数の象の親子を表現した見事なトピアリーに目を惹(ひ)かれました。

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偶然通りかかった寺院です。残念ながら名称は覚えていません。

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寺院内に安置された仏像

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バンコクの中心部へ移動しました。チャオプラ川を遡(さかのぼ)るクルーズ船に乗ることを計画していました。

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古都「アユタヤ」へ向かうクルーズ船の乗り場は「ザ・オリエンタル・バンコク」の川沿いにありました。注釈:少し上流側のシェラトン・ホテル脇にもクルーズ船の乗り場があったようです。日帰りツアーの料金は覚えていませんが、現在のツアー料金は1400-1800タイバーツ(約4700-約6000円)のようです。川沿いに建つ寺院が走馬灯(そうまとう)のように次々と現れました。

先ず、「王宮」(写真左端)と「ワット・プラケオ(エメラルド寺院)」(写真中央) 注釈:ワットはタイ語で寺院を意味する

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次いで、「ワット・ラカン コーシッターラーム

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数ある寺の中で最も美しいとされる「ワット・アルン(暁の寺)」は中央に天に向かって聳える大きな仏塔と。その四方に立つ4つの仏塔で構成されています。ちなみに、中央の仏塔は階段を使って中段まで上がることができるそうです。つまり、その構造はインドネシアの「ボロブドゥール寺院」やミャンマーのオールドバガンにある「シュエサンド―パヤ寺院」などに似ています。

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タイのバティックを着た筆者

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「アユタヤ」が近づいたと思われた時、突然 前方に奇妙な塔が見えてきました。1637年にアユタヤ王朝第24代目の「プラサート・トォン王」が建てた「バン・パイン宮殿」でした。

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出発して約3時間後、バンコクから約80㎞北にある「アユタヤ」に到着しました。

チャオプラヤー川とその支流に囲まれた中州にあるアユタヤは、1351年から1767年までの400年余りの長きに渡り栄華を誇ったタイ族の「アユタヤ王朝」の首都でした。日本では日本人の山田長政が活躍したとされていますが、現地には山田長政の記録はないそうです。NHKラジオの「新諸国物語」(1952-1960年)や民放のラジオ劇「風雲黒潮丸」(1956年)などの冒険番組を聴いて育った筆者にとって「アユタヤ」は夢の国の一つなのです。

史実によると、アユタヤ王朝は中国・東アジア、インドを経由するヨーロッパとの交易によって栄えたそうです。そして、カンボジアのクメール王朝やマレーシアにも影響力を及ぼしましたが、16世期になるとビルマのタウングー王朝がアユタヤを圧迫し、1569年にアユタヤを一時支配下に置きますが、1590年にアユタヤ王朝は再興を果たしました。しかし、1767年にビルマのコンパウンド朝によって滅ぼされてしまいました。

現在、残る遺跡群は「アユタヤ歴史公園」として整備され、1991年にはユネスコ文化遺産に登録されました。

主な遺跡は次の通りです。

〇ワット・プラ・シーサンペット:王室専用寺院で、アユタヤ王宮内にあった最も重要な寺院。「プラ・シーサンペット」と呼ばれる高さ16メートル、171キロもの黄金の仏像が置かれていたが、今は東西に並ぶ3基の仏塔のみが残り、寺院のシンボルとなっている。アユタヤの中央、プララーム池の西側にある。

〇ワット・マハタート:木の根に埋もれる仏頭の姿が有名な遺跡。アユタヤの中央、プララーム池の畔(北東)にある。

〇ワット・ロカヤ・スター:アユタヤの西方(中州の北西端)に、高さ5メートル、全長28メートルの巨大寝釈迦仏が横たわっている。

〇ワット・プラ・ラーム:アユタヤの中央、プララーム池の畔(南西)に位置し、初代ウートン王の菩提寺。

〇ワット・ヤイ・チャイ・モンコン:1357年、初代ウートン王がセイロンに留学中の修行僧たちの瞑想のために建てた寺院です。中州の外、チャヤプラ川の支流であるパーサック川の東方約1㎞に位置する。

ここが入口(門)になっているようです。

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王の墓である「ワット・プラ・シーサンペット」の3つの仏塔

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その他にも仏塔が多数ありました。

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アユタヤの中心にあるこの仏塔は初代ウートン王の菩提寺である「ワット・プラ・ラーム」であると思われます。

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当時もまだ発掘が行われているようです。

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大きな瓶(かめ)に咲く睡蓮(すいれん)を見かけました。

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アユタヤからバンコク市内への帰路は専用バスが準備されていました。ちなみに、私のルートとは逆回りに、先ず専用バスでアユタヤへ向かい、帰りが「ボートクルーズ」になるプランもありました。ボートに乗客を有効に乗せるための方策です。

後先になりましたが、Wikipediaを参考にしてタイの歴史を振り返って見ます。『タイの民族国家成立以前、中国華南に住んでいたタイ民族は、インドシナ半島を南下して現在のタイの位置に定住するようになった。当時、タイには、モン族、クメール人が先住していた。タイ人の多くを占める小タイ族(狭義のタイ族、モンゴロイドの一種)よる最初の国家とされるスコータイ王朝(1238 - 1350年)は、インタラーティット王がモン族やアンコール王朝の支配を退け成立した。その後、アユタヤ王朝(1350 - 1767年)、トンブリ王朝(1767 - 1782年)を経て、現在の王朝であるチャクリー王朝(1782 - )へと変遷した。』

『チャクリー王朝は英仏両勢力圏の緩衝地帯として独立を維持し、東南アジアでは珍しく植民地化を免れた。しかし、王が三権を持つ絶対王政に不満を持つ軍部のクーデターにより立憲君主制に移行。そして、第二次世界大戦時は日本と協力関係を維持して勢力を拡大する一方で、連合国側との関係も維持して英米と講和条約を結んだことで独立を維持した。しかし、2006年ころからは国内で政争が続き、クーデターが頻発(ひんぱつ)。発足した軍事政権は民主化運動を弾圧。現在はやや落ち着きを取り戻しているが、政治的に安定するには至っていない。』

                           ☆

さて、顧客へのプレゼンテーションが無事に終わった翌日(1130日)の朝、バンコクのドンムアン空港発の日本航空成田空港直行便に搭乗しました。機体が滑走路を滑るように加速して、いよいよ離陸というタイミングで急ブレーキがかかり(急減速し)ました。「何事か?!」と思いながら座席のひじ掛けを抑えていると、主滑走路の端でやっと機体が停止しました。オーバーランをしなかったことに安堵(あんど)していると、やおら機体が補助滑走路へと移動し始めました。

しかし、再び機体が停止。CAさん(当時はスチュアーデスさん)の機内アナウンスがありました。『手荷物をそのままにして後方のドアまで移動してください!』 を繰り返しました。『手荷物はそのままで!』 といわれても、アタッシュケースにはパスポートや所持金、業務用の書類など重要なものがすべて入っていますから、機内に放置するわけには行きません。アタッシュケースだけを持って後方のドアへ向かいました。

先行した人たちが「脱出用シューター」を滑り下りています。ドアの脇に立つCAさんからアタッシュケースをドアの脇に置くように強く指示された私は、堆(うずたか)く積まれたアタッシュケースの上に私の物を置いて「脱出用シューター」を滑り下りました。予想以上に急勾配(こうばい)で、下まで一気に下りることができました。次々と乗客が滑り降りてきますから、直ちに「脱出用シューター」から離れることに。

少し離れた場所で振り返ると、車輪の一部がバーストして発火したようで、消防車が車輪に向けて放水していました。国際便には数百回搭乗しましたが、後にも先に唯一の事故でした。

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当日はバンコクのドンムアン空港近くのホテルで一泊することになりました。公衆電話から会社の出先へ連絡を取り、事故の様子と帰国が1日遅れることを東京の本社へ連絡してもらいました。予定より1日遅れになりましたが、121日に無事帰国することができました。後日、日本航空からお詫びの手紙が自宅へ届きました。

このように、2か国を駆け足で訪れた慌(あわ)ただしい海外出張になりましたが、初めてのタイ出張では時間の余裕があったことで約3時間の「チャオプラ川クルーズ」と「アユタヤ遺跡の見学」を楽しむことができました。また、仕事の方も順調だったと思いますが、帰国時の飛行機事故は今も「危機一髪」の記憶として残っています。◇

2020年5月10日 (日)

NHKスペシャル 未解決事件「大統領JFK暗殺事件」 “Episode Ⅱ” 『浮かび上がる黒幕』

Episode Ⅱ” 『浮かび上がる黒幕』 」が52日に放送されました。前回と同様、NHKの関連hpにある説明を以下に引用します。

旧ソ連から妻マリーナと娘を伴い、帰国したオズワルドは、明らかにその様子が変わっていた。そして、マリーナの証言記録からは、オズワルドが、大統領が暗殺される半年前に、別の「暗殺未遂事件」を起こしていたことが明らかになった。今回、CIAの元調査員など専門家たちに取材すると、この事件がJFK暗殺と、オズワルドをつなげる重要な結節点となっていた可能性が浮かび上がってきた。

オズワルドは、本当に、JFK暗殺の単独犯なのか?

1963年1122日の暗殺当日。オズワルドは、ダラスにある教科書倉庫ビルにライフルを持ち込んだとされている。そして、政府の公式見解「ウォーレン報告」によると、ビルの6階から、3発撃ったと結論づけられている。今回、番組では、事件の目撃者の供述内容を洗い直し、66人の専門家の分析も加えて暗殺当日を検証する。果たして真相はどうだったのかー?浮かび上がってきたのは、あるストーリーだった。(出典:NHKの関連hp

                            ☆

以下は番組を観ながら書いた"Episode Ⅱ"の粗筋(あらすじ)です。

国家は何を隠したのか? それは超大国の深き闇(やみ)! 自白しないまま警察署内の移動中に射殺されたリー・ハーベイ・オズワルド。ある組織の存在が明らかになって来た。それはCIA。厚木基地にいたオズワルドに近づいてきたのはCIAのエージェント。これがすべての始まりであった。

オズワルドは亡命先のソ連からロシア人妻とともに帰国。精神的に不安定であったオズワルドが事件の半年前に起こした過激派のエドウィン・ウォーカー暗殺未遂事件があったことが明らかになる。そしてCIAとその関係者がオズワルドに接近したことも。CIAの元長官であるラーセンが一部の過激的なCIA職員が関わっていた可能性を示唆(しさ)する。

その根拠として挙(あ)げたのは「計画する能力」と「必要な情報へのアクセス」。クレージーな人物がCIAに多いことから、該当するケース・オフィサー(説明:極秘計画を立案して外部の人間を使って実行できる職員)の存在を指摘する。彼らは、暗殺未遂事件がオズワルドの犯行であることを知りながら、オズワルドを泳がせ、そして脅迫して巻き込んだと言うのだ。

他のCIA関係者はその可能性に首肯(しゅこう)するも、何十年も外部に漏れないことは考えられないと指摘する。他のCIA関係者はオズワルドの情報にアクセスできる人物(ケース・オフィサー)たちを調べて国内局と西半球局に所属していた2名に絞りこんだという。それは軍の諜報機関出身のウォルトン・ムーアとジェイコブ・エスターライン。

特にエスターラインには動機があるという。キューバ侵攻作戦で指揮官を務めたエスターラインは作戦の失敗により多くの部下を失っただけではなく、ケネディ大統領はその責任を追求してCIAの組織を解体しようとしたことを恨(うら)んでいたのだ。

大統領の暗殺を特定の人物の責任を押し付けるカバー・ストーリーが一部のCIA職員によって考えられ、そして実行に移された。その対象が打ってつけの経歴を持つオズワルドである。ケネディ暗殺事件を調査した政府のウォーレン報告書はオズワルドには「権力への反感」と「環境の拒否」が動機としてあったと指摘した。

ケネディ暗殺の前日、オズワルドは妻に和解を求めたことを後日になって妻のマリーナは証言した。そして事件当日、エドウィン・ウォーカー暗殺未遂事件に使用したライフル銃を教科書倉庫へ持ち込んだという。ウォーレン報告書は3発の銃弾をすべてオズワルドが発射したと断定した。これとは異なる目撃証言があったにも関わらずだ。また、暗殺事件発生時のオズワルドの不可解な行動に関する供述も無視された。

オズワルドは嵌(は)められことを悟(さと)るが、事件発生後1時間20分後に逮捕される。そして彼は"I'm just a pasty!(嵌(は)められた!)と発言している。

そして、事件直後にニューオリンズの脱キューバ人組織から『オズワルドがキューバに操られていた』 との情報が流されたことで、世論が一気に形成された。そこにもCIAのケース・オフィサー、ジョージ・ジョアニーデスが存在した。世論を形成するプロパガンダを担当していた人物である。これらのケース・オフィサーの上に立つ人物は誰か? 今も調査が行われている。

ウォーレン報告書にはオズワルド自身の言葉は一言も書かれていない。暗殺事件の2日後にオズワルドは暗殺されたからである。しかし、オズワルドは事件の数か月前に『あなたがたは真実を知り真実はあなたがたを自由にする』とCIA本部の壁に掲げられた新約聖書のヨハネの福音書の一節である。

Episode Ⅰ“の最後に書いたように、暗殺事件の調査報告書をすべて公開すると公言していたトランプ大統領はCIAFBI・国務省などの反対意見の押される形で、2018年に一部文書の公開を見送り、3年後の2021年に再検討すると発言。CIANHKの取材に対して『国家安全上の懸念があるため一部の資料は公開できない』 と回答したという。

『国家権力が今もひた隠す真実が自由をもたらす日は来るのであろうか?』 の問いで番組は終わりました。

〈筆者コメント〉 ケネディの大統領就任演説を高校の英語教科で学び、それを歌にした「自由の讃歌(Let us begin)」を聴き、1963年11月23日の早朝(午前5時28分)にケネディ大統領の暗殺を告げる衛星テレビ中継をリアルタイムで観た筆者は、ケネディ大統領暗殺事件の20数年後にダラスの教科書倉庫を何度も見学しています。ケネディ暗殺事件の真実を筆者は生きている間に知ることができるのでしょうか?

オズワルドの単独犯行説を否定し、CIA、FBI、マフィア、有力政治家による暗殺(クーデター)だと推測した映画「JFK」(1991年公開、監督:オリバー・ストーン、主演:ケビン・コスナー、助演:トミー・リー・ジョーンズ)も記憶に残っています。アメリカに住んでいた時に観た映画です。

それから30年近くが経過して晩年に差し掛かった筆者にとっては残された最大の謎なのです。

2020年5月 9日 (土)

NHKスペシャル 未解決事件「大統領JFK暗殺事件」 "Episode Ⅰ" 『はめられた男』 を観る

4月29日にNHK総合テレビで放送されたドキュメー番組「大統領JFK暗殺事件”Episode Ⅰ“ 『はめられた男』 を観ました。2回連続放送の初回です。

NHKの関連hpではこの番組を次のように説明しています。

未解決事件の真相に迫る人気シリーズ。第8弾は海外特別編。1963年11月22日にアメリカのケネディ大統領が暗殺された世紀の事件。NHKは専門家チームと共同で、機密文書や非公開ファイルを入手。「暗殺は単独犯」と米政府が断定してきたこれまでの定説が、根底から揺らぎ始めた。戦後の日本との事件の意外なつながり、JFK暗殺の半年前に起きた別の暗殺未遂事件。海外キャストによる実録ドラマとドキュメンタリーで衝撃的事件の闇に迫る。

その2日後、凶弾に倒れたもう1人の男がいる。リー・ハーヴェイ・オズワルド。事件直後に逮捕され、“暗殺犯”とされた人物だ。犯行を否認したまま暗殺されたオズワルド。実は彼は殺される直前にある言葉を残していた。

"I’m just a patsy ! "(俺は はめられたんだ!) 注釈:patsy(パッシー)は騙(だま)されやすい人のこと

オズワルドは、なぜ「はめられた」と叫んだのか?誰かに操られていたというのか?

今回、ケネディ暗殺を追い続けてきた66人の専門家とともに、新資料を発掘し、証言を集めていくと、オズワルドが事件へと導かれる知られざる原点が浮かび上がってきた。その現場は、日本。海兵隊員だったオズワルド。今回の取材で、“ある組織”と深い関わりをもつ謎の人物がオズワルドに接触をはかっていたことが分かってきた。

共産主義へのあこがれをみせる一方で、幼少期からスパイ映画を好むなど、情報機関の仕事にも興味を抱いていたオズワルド。旧ソ連に亡命を試みるが、そこにも組織の影が…。そして、ちょうどその頃、若きケネディ大統領が就任する。オズワルドの運命の歯車が、破滅へと回り出すー。(以上はNHKの関連hpより引用

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以下は番組を観ながら書いた粗筋(あらすじ)です。

リー・ハーヴェイ・オズワルドの単独犯だと最初に報じた組織は何故か沈黙したままである。オズワルドはアメリカ軍の軍人として日本の厚木基地にいた。当時の最先端技術である偵察機U2に異常な興味を持っていた。加えて反米的な発言をしていたとも言われる。CIAの職員であるナゲルがオズワルドに近づいたことを本人が認めている。ソ連の秘密組織KGBにオズワルドを近づける工作(ソ連との関係がある女性ホステス緑に接触させる手立て)をしたのだ。

そしてオズワルドはソ連へ亡命しますが、ナゲルは何らかの形でこれに関与したのです。少年のころからマルクスの本を読んでいたオズワルドは緑に導かれるように行動する。オズワルドは海兵隊を除隊し、何者かの誘導でソ連にあるアメリカ大使館へソ連への亡命を申し出た。そして、CIAの内部文書でCIAの関与がさらに明らかになったのだ。CIAはその内部にソ連のスパイがいると考えて、それを炙(あぶ)り出すための囮(おと)りとしてオズワルドを使ったのです。

ソ連によるキューバへのミサイル提供、マフィアと米軍の癒着(ゆちゃく)なとが背景として考えられたが、CIAが陰で動いていたらことが次第に明らかになった。キューバのカストロを暗殺する計画をケネディが知っていたとCIAが後に公言するのだが・・。そして、そのような状況下でケネディは暗殺の日を迎えます。

オズワルドはソ連への亡命からアメリカへ戻っています。アメリカへ戻ったオズワルドの態度が急変したことをロシア人の妻が事件後に証言しました。CIAの関与(オズワルドを捨て駒にして使ったこと)は濃厚ですが、一方でCIAがケネディ暗殺の主犯とする説にはいくつかの疑問があるようなのです。

オズワルドは過激思想を持つアメリカのエドウィン・ウォーカー元将軍を狙っていたのですが、それに失敗したオズワルドはJFKの暗殺犯に仕立て上げられます。ケネディがダラスの空港に到着してパレードに臨みました。ダウンタウンを抜けて高速道路に入る直前に射殺されたのです。その直後にアメリカから日本への衛星中継(注釈:筆者はリアルタイムでこの中継番組を視聴)で伝えられました。

事件の直後に犯人とされたオズワルドも暗殺されたことで事件は闇の中へと葬り去られました。56年以上が経過した今も機密文書は公開されていません。ケネディ大統領暗殺に関する機密文書については20171026日を最終期限として、すべての文書を公開するよう法律で定められていましたが、2018年にトランプ大統領も一部機密文書の公開を見送り、2021年に改めて検討すると発表しました。

『国家は何を隠しているのでしょうか?』の問を残して"Episode Ⅰ" は終了しました。(続く)

2020年5月 7日 (木)

NHKスペシャル 「天空と荒野の両世界」~アフリカ エチオピア高原~

4月26日にNHK総合テレビで放送された番組「NHKスペシャル 第4回 天空と荒野の両世界~アフリカ エチオピア高原~」を観ました。エチオピアの海抜マイナス100m地点から番組が始まりました。背後には3000m級の山々が聳(そび)えて、多様な生き物が生息しています。何がこの不思議な世界を生み出したのか?

標高3000m以上の高地から出演した福山雅治さんは「低地」と「高地」、2つの世界を俯瞰(ふかん)します。まず、高地には巨大な草と小さなネズミが多数生きており、そしてエチオピアのオオカミ「エチオピアンウルフ」も。わずか500匹しかいない希少動物で、主にネズミを食料としているのです。狩をする方法はネズミが棲(す)む穴を巧(たく)みに掘り起こして、ネズミを捕まえるのです。例え逃げ出したとしても俊敏に捉(とら)えてしまうことで、1日に10 匹のネズミを捕らえるといいます。

この大峡谷はいかにして誕生したのか?  40万年前、エチオピア大地の地下には「スーパーブルーム」と呼ばれるマグマから粘性の低い溶岩が地表に現れて、厚さ2000mの平らな地形を造りだし、そこでは毎日霧が発生して草原が発達したといいます。そして、様々な生き物が棲息(せいそく)するようになったのです。その一つが「ゲラダヒヒ」と呼ばれ猿でした。日本猿よりも少し大きく、顔が黒く、胸が赤いことがその特徴です。緊張すると大きな歯を剥(む)き出し、目の上がピンク色に染まります。この様相からは想像できませんが、食料はなんと草だけなのです。

食事が終わった夕方、猿たちは絶壁を下へと降ります。夜になると平原は氷点下の寒さになるため、猿たちは絶壁に屁張(へば)りついて過ごすのです。翌朝、目覚めると崖を登り、頂上の平原へ戻います。多数の猿たちは互いに争うこともなく毎日この行動を繰り返しているのです。ちなみに、草を食べて日中を過ごす雄猿は赤い胸が雄であることを示す良いシンボルになっています。

一方、海面よりも低い低地では硫黄の臭いがする熱水の池があります。熱水に含まれる様々なミネラルが結晶となって色鮮やかな地表(溶岩大地)を造り出しました。この奇妙な場所は、火山活動によりプレートが移動して亀裂が生じ、そこへ海水が侵入し、その海水が度重(たびかさ)なる火山活動により堰(せ)き止められて、世界一低い低地となったのです。砂と石に覆(おお)われたその低地には「マントヒヒ」が棲息しています。

赤い尻がその特徴で、石の下にいる虫や若葉などを食べて生き延びています。尻が赤い理由は一日中歩いて餌を探し回るために赤い尻が雄であることを示すのに好都合なのです。マントヒヒの雄は雌を常に自分の勢力圏に置き、他の雄に奪われないようにし、他の群れとは互いに雌を奪い合うのです。

天空に棲む猿「ゲラダヒヒ」は「マントヒヒ」とは対照的で母系家族であり、雌が雄よりも優位です。しかし、雄が子孫を残すためには雌を他の雄から奪う必要があります。つまり、雄と雄の戦いが始まるのです。戦いといっても相手へ優位さを示すことで決着します。「ゲラダヒヒ」が天空だけに生息するのは理由がありました。古代には草原が広がっていたアフリカは70万年前に環境の変化により乾燥化しました。このためアフリカの他の地域ではゲラダヒヒが衰退しましたが、草原が残った天空だけがゲラダヒヒの聖域となったといいます。

その天空の楽園で生きてきたもう一つの動物である「エチオピアウルフ」は群れの力(説明:仲間が協力して子育てをする)で子孫を残してきましたが、人間が高地に進出してきたことで、危うい存在になっているといいます。また、「ゲラダヒヒ」も同様に生活を脅かされているのです。

数千万年前に始まった大地の活動で生まれたた低地(荒野)と高地(天空)に棲む動物たちにとって、今やいずれの世界においても存亡の危機が迫っていると警告して番組は終わりました。◇

2020年5月 6日 (水)

ニュージーランド旅行は楽しい!(最終回) オークランド(後編)

市街地の南東約1.5kmにある火山の地形を生かして造られた「オークランドドメイン公園」(75ヘクタール/東京ドーム16個分の敷地)のひと際小高くなった場所にある重厚な建物「戦争記念博物館」は、ニュージーランドの先住民であるマオリ族の文化や日本のゼロ戦など「戦争と文化」に関するものが展示されているニュージーランド最大の博物館です。

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一際目を引いたのは「ゼロ戦」(艦上戦闘機22型)の実機展示です。終戦時にニュージーランド軍にによってソロモン諸島のブーゲンビル島で発見された日本海軍のものであったようです。ちなみに、館内はフラッシュを用いた写真撮影が許可されています。ただし、三脚の使用は不可。

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旧日本軍パイロット関連の展示

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同じ公園内(博物館の西方)には無料で入園できる大きな植物園「ウィンター・ガーデン」(1920年設立)がありました。晩秋でしたが、ニュージーランドの草花をはじめ、世界各国の花々も咲き乱れていました。各々の花についての説明がないことが少し残念! 参考:関連のURL

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2つの大温室内には熱帯植物やニュージーランドのシンボルとも言える白いシダ(Silver Fern/シルバー・ファーン)を含む100種類以上のシダ類が展示してありました。

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市街地から東方約5㎞の海岸にある「ケリー・タールトン水族館」はニュージーランドや南太平洋の様々な生き物を紹介するユニークな水族館で、オークランドの人気観光スポット。南極ペンギンも飼育しており、その規模は世界一だそうです。写真の「サメのトンネル」。このタイプの展示では、この水族館が発祥の地だそうです。

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近くのレストランで昼食を摂(と)ることに。ワイテマタ湾越しにシティ(市街地)を望むことができる場所でした。

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ホットドッグとアイスクリームを売る移動売店

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訪れた1999年の2年前(1997年)に完成した「スカイ・タワー」(108mの丘に建つ高さ220mの塔)に上がった時の写真がHDDとDVDの写真ファイル内に何故か見当たりません。とは言っても新しもの好きな私ですから、もちろん「スカイデッキ」(塔の112mポイント/地上220mにある展望台)まで上がり、見どころであるガラス床を楽しんだ(?)記憶があります。床に嵌(は)められた大きなガラス板(2m x 3m)越しに広がる地上の眺めは大迫力。怖(こ)がる同行者を前にした筆者は平静を装ってガラス床の上に立って見せましたが、本当はすごく怖かったのです。

ちなみに、国内では、明石海峡大橋のプロムナード(遊歩道)にある透明なガラス床を通して明石海峡を見る体験をしています。また、東京タワーのメインデッキ(地上高150m)にある小さめの"Skywalk Window"東京スカイツリーの展望デッキ(フロア340)でもガラス床を体験しています。

この日も前日と同じホテル「シェラトンオークランド」に宿泊しました。

次の写真は、ニュージーランド滞在の最終日(419日)、ホテル「シェラトンオークランド」のロビーで撮影したものです。ちなみに、1週間余りの海外旅行ですが、スーツケースは2つとも小型のもの(注釈:うち1個は機内持ち込み可のサイズ)を利用しています。 

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ホテル「シェラトンオークランド」のエントランスを出て再び撮影

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午前9時少し前にホテルを出発。午前11:30分に オークランド空港を離陸した日本航空のJL099便から見たニュージーランド北島周辺の島々が眼下に見えました。ちなみに、今回は観光旅行ですからチケットはエコノミー・クラスでしたが、幸運にも復路は二人ともビジネス・クラスの席にアップグレードしてもらえました。

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20年以上前のことであり時効と考えて写真を披露します。当時は例外的に許されていたことですが、水平飛行中(自動操縦モード時)に同行者とともにコクピットを見学させてもらうことができました。日本航空の「グローバル・クラブ」の優良会員(50万マイル搭乗、地球20周相当)であることで優遇されたのかもしれません。

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実は、この数年前、同じ日本航空の欧州路線においても、帰路のシベリア上空でジャンボ機のコクピットに入れてもらったことがあります。眼下に広がるアムール川付近の真っ白なシベリア大地を今も覚えています。

同日の午後7:25分に予定通り成田空港へ帰着することができました。この旅行を皮切りにして、数年後に退職してからは同居者と一緒の海外旅行が毎年のように続くことになります。(終)

2020年5月 5日 (火)

ニュージーランド旅行は楽しい!(その5) オークランド(前編)

6日目の417日 は午前10時までホテルでのんびり過ごしてから「クィーンズタウン空港」へ向かい、午後105分発のアンセット・オーストラリア航空”AN630”便(オーランド行き)に搭乗しました。弓型に反ったニュージーランドの南島と北島の西側を飛行するルートです。南島の「南アルプス」と北島の孤立峰「エグモント山」の景観を楽しんでいると、2時間45分後の午後350分に「オークランド空港」に到着しました。

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ニュージーランド最大の都市であるオークランド(人口:約160万人)はニュージーランドの人口の4分の1以上が居住し、商業および経済の中心になっています。歴史的に見るとオークランドには1350年ころから先住民のマオリが肥沃な土地を求めて住み始めていたそうです。1769年に探検家のジェームス・クックがオークランドの東にあるワイテマタ湾を通過し、1820にはイギリスの宣教師が白人としては初めて移り住んだとのこと。

1839年から白人の入植が始まり、1840年に先住民のマオリと結んだ「ワイタンギ条約」によりイギリスの植民地になりました。これにともない、オークランドの街づくりが始まり、1841年にニュージーランドの首都としてオークランドと命名されたそうです。ちなみに、1865年に地理的に首都として相応(ふさわ)しいとしてウェリントンへ首都が移転しました。

オークランドは市域が広いためレンタカーを予約していました。国際免許証を提示してスムーズにチェックイン。最初に向かった場所は空港と市街地(ダウンタウン)の中間(市街地の南方約5㎞)にある「コーンウォール公園」です。

丘というよりも小山と呼べる「コニーデ型」をした死火山の「ワン・トゥリー・ヒルone tree hill)」(標高183m)の頂上付近に「オベリスク」がありました。頂上付近は草地ですが、公園内には様々な樹木が植わっていたと思います。当時の「ワン・トゥリー・ヒル」の様子は5年後の写真が掲載されている関連のhpを参照してください。

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「ワン・トゥリー」の名前の由来は頂上にニュージーランド原産の大きな木「トタラ」が聳(そび)えていたそうですが、1852年に入植した白人が切り倒して薪(まき)にしてしまい、その跡に松を植えたそうです。これに反発した先住民が1960年代にそれを切り倒したとのこと。

丘の頂上には50年以上も前、オークランド市の創設者でこの土地を所有していた医師のローガン・キャンベル卿により、マオリ族への敬意を表してオベリスクが建てられたものだそうです。たしかに、オベリスクには先住民のマオリ族と思われる人物像(レリーフ)が飾られています。

この日はシティ(市街地)の中心部にあるホテル「シェラトン・オークランド」に宿泊。

翌日(418日)はシティ(市街地)に近い場所には町並みを見下ろせる人気スポットの「マウント・イーデン」(死火山)にも立ち寄りました。写真に写るように、「マウント・イーデン」から約3㎞南にある「ワン・トゥリー・ヒル」を確認することができました。

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北側にある火口跡の先にはシティ(市街地)が広がっていました。ちなみに、一際高い建物は「スカイ・タワー」(高さ:328m、南半球で最大)です。

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次いで訪れたのはシティ(市街地)のすぐ西にある「ハーバーブリッジ」(全長:1020m、高さ:43m1959年完成)。市街地と「ノース・オークランド」を結ぶ美しい橋です。袂(たもと)にあるヨット・ハーバー「ロイヤル・ニュージーランド・ヨット・スコードロン」脇の桟橋から撮影しました。

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巨大なヨットは「アメリカズ・カップ」に出場するものでしょうか? ちなみに、ニュージーランドはヨットレースの強豪国のひとつです。

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昼食後に展示された乗り物で楽しむ同行者。「ハーバーブリッジ」の西方にある「交通科学博物館」(あるいは輸送技術博物館、通称:MOTAT/モータット、1964年開館)だったと思います。ちなみに、オークランド動物園がある”Western Springs Lakeside Park”の西隣りにあります。

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(続く)

2020年5月 4日 (月)

ニュージーランド旅行は楽しい!(その4) ミルフォード・サウンド

翌日(416日)は「クィーンズタウン」発のグループ・ツアー"Great Sights"(現在の料金はNZ$240/約15,600円)に参加しました。「南西ニュージーランド・フィヨルドランド国立公園」にある世界遺産(自然遺産)の「テ・ワヒポウナム-南西ニュージーランド」には14のフィヨルドがありますが、その中で最も知られるフィヨルドである「ミルフォード・サウンド(Milford Sound)」が目的地です。「クィーンズタウン」から「ミルフォード・サウンド」へは専用車で4時間のロングドライブ。 ちなみに、「テ・ワヒポウナム」は先住民のマオリ語で「グリーンストーン(翡翠)の産地」を意味する名称で、「サウンド」は英語で入り江を意味するそうです。

午前8時にクィーンズタウンを出発。「ワカティプ湖」沿いに国道6号(南島北端のブレナムから同南端のインバーカーギルまで南島を縦断)を南下して「キングストン」を過ぎると、午前9時半ころには「南アルプス(Southern Alps)」を離れて平原に出ました。そこには舗装道路が延々と続いています。注釈:写真に表示されている時刻は日本時間で現地時間より3時間遅れている

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午前10時ころ、「クィーンズタウン」から約150㎞、「テアナウ湖畔」の町「テアナウ」で専用バスから降りてしばらく休憩しました。「テアナウ湖」はその西側で「南アルプス」に接しています。

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南島南部にある町ゴアミルフォードサウンドを結ぶ国道94号が「テアナウ湖」の東岸に続きます。

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山岳地帯にある"Millor Lakes"の広い駐車スペースに入って一時休憩です。

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まだ晩秋ですが山の麓(ふもと)近くまで積雪が迫っています。

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周辺を5分(400m)ほど散策しました。

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景色が美しいポイント”Homer Tunnel"(長さ1.2㎞)付近で再び休憩

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黒っぽい鳥がバスの屋根に・・。嘴(くちばし)の形から鷲(わし)または鳶(とび)のようです。後で調べると「ケア/キーア」と呼ばれる高山地帯に棲むオウムだったのかもしれません。

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"Mirror Tunnel"から約15㎞、「テアナウ」から約2時間、お昼近くに「ミルフォード・サウンドMilford Sound)」の乗船場(観光船ターミナル)に到着しました。地図で確認すると「クィーンズタウン」から直線距離で約70㎞しかありませんが、自動車道(国道6号・国道94号)は南へ大きく迂回するためルート長は約200km。移動には4時間もかかりました。

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「ミルフォード・サウンド」は発見者の出身地であるイギリス・ウェールズにある「ミルフォード・ヘーブン」にちなんで付けられた名前のようです。発見当時は地理の知識が乏しかったことで入り江を意味する「サウンド」と命名されたそうです。フィヨルドの奥にある町の人口は約150名。年間雨量は7000-8000㎜で、一年の3分の2(約230日)は雨が降るそうです。

グループ・ツアーに含まれていた軽いランチ(弁当)を済ませた午後1時半ころ、「クルーズ船」は「ミルフォード・サウンド」の出口である「タスマン海」へ向けて乗船場から出港しました。しかし、残念なことに天候不良であるため、1200m以上の断崖絶壁に囲まれているという「ミルフォード・サウンズ」の上方が霞(かす)んでいます。ちなみに、約15㎞のルートを往復する「ボート・クルーズ」の所要時間は1時間45分、グループ・ツアー料金に含まれる現在の乗船料金はNZ$85(約5500円)。

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クルーズ船は右回りのルートを進むと、視界が少し良くなったようで、遠方に「スターリング滝」(落差155m)が見えてきました。ちなみに、雨天時には一時的に数千もの滝が現れるそうです。それらの滝は快晴時に枯れてしまうため、恒久的に見られるのはわずか2つの滝だけだそうです。それが「スターリング滝」と「ボーウェン滝」(落差160m)で、いずれも「ペンブローク山」に残っている氷河が溶け出した水が作り出す滝なのだそうです。しかし、あと20年ほどでこの氷河は完全に溶けて消滅するとみられるため、これらの滝も同時に見くことができなくなりそうです。

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待望の滝が間近に現れました。私は「滝オタク」なのです。

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斜面を流れ落ちる長大な滝を背景に記念撮影しました。雨天によって一時的に出現した滝なのでしょう。後で調べると、「シンドバッド渓谷」付近にある滝のようです。

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そして、クルーズの終盤に見た水量が豊富な「ボーウェン滝」(落差160m)には大満足しました。

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「タスマン海」の近くにある「デールポイント」まで航行したところで引き返したと思いますが、霧雨が小雨に変わったこともあり、「タスマン海」の様子をはっきり確認することはできませんでした。別の機会に期待することにしました。注釈:これが叶うのは20年後の2019年5月、ノルウェーの「ハダンゲル・フィヨルド」と「ネーロイ・フィヨルド」においてのこと

帰路も専用バスに乗車。4時間ほどかけて午後9時ころ「クィーンズタウン」到着しました。前日と同じホテル「ガーデンズパークロイヤル」に宿泊。長い一日(13時間の小旅行)になりました。(続く)

2020年5月 3日 (日)

ニュージーランド旅行は楽しい!(その3) クィーンズタウン

翌朝(415日)、ホテルから「ヴィクトリア・スクエア」越しに見たクィーンズタウンの町並みです。斜め(写真左上方)に伸びる「ヴィクトリア通とKilmore St(東西方向、写真の左右方向)Durham St N(南北方向、写真右上方に続く)による五角形の変則交差点角(ヴィクトリア通りに面した場所)には「クライストチャーチ・カジノ」が確認できます。注釈:写真に表示された時刻は日本時間(現地時間より3時間遅れている)

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午前8時にホテルを出発。北西方向へ伸びるヴィクトリア通りを通って「クライストチャーチ空港」へ向かう途中、先ほど出発したホテルから見た「クライストチャーチ・カジノ」の前を通過しました。

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「カジノ」前を通過したところで振り返ると、ヴィクトリア通りが行き当たる後正面の「ヴィクトリア・スクエア」の先に、出発したばかりのホテル「パークロイヤルクライストチャーチ」が見えます。

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20分ほどで到着した「クライストチャーチ空港」のロビーで搭乗を待ちました。

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午前1040分にクライストチャーチ空港を離陸したアンセット・オーストラリア航空機(AN609便)はクィーンズタウンへ向けて飛行し、「オプハ湖」(写真中央やや右)と「テカポ湖」(写真左上)の近くを通過します。遠くに見えるのは「南アルプス」の山々です。その左端に写るのが冠雪した「クック山」(標高:3724mかもしれません。

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次いで「オハウ湖」(写真左)と「プカキ湖」(写真右)

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搭乗する「AN609便」の機体が高度を下げました。「ワナカ湖」とそこから流れ出る「クルタ川」が確認できます。

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午前11時25分に山並に囲まれた「クィーンズタウン空港」に到着。クィーンズタウンの市街地は5㎞ほど西方にあるようです。

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年間およそ130万人の観光客が訪れるという「クィーンズタウン」の名前は周囲の山々に囲まれたその美しさが「ヴィクトリア女王にふさわしい」からとして名付けられたことに由来するそうです。ちなみに、「ヴィクトリア女王」については(その1)を参照。内陸に位置するため、昼夜の温度差が大きいようです。1862年に金脈が発見されて発展した町でしたが、金脈が尽きると衰退したそうです。現在は自然の地形や景観を生かした観光やスポーツの拠点として栄えています。ちなみに、人口は約16,000人(周辺を含めると約29,000人)。

軽く昼食を摂(と)った後、「ワカティプ湖」の湖畔に出ると、木製桟橋の巨大な「キウイの像」がありました。ニュージーランドを代表する飛べない鳥「キウイ」です。

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クィーンズタウン名物の「スカイライン・ゴンドラSkyline Gondolas)」に乗ることにしました。「キウイの像」から緩(ゆる)やかな坂道を約500m上がった山麓、「キウイバードライフパーク」のすぐ近くに乗り場がありました。思ったよりも小型のゴンドラが狭い間隔でロープで牽引(けんいん)されています。

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山麓駅の大きなガラスドアには頂上に様々な施設があることが表示されています。当時の利用料金を覚えていませんが、現在の大人料金はNZ$44(約3000円)とやや高額。しかし、「クィーンズタウン」の最大観光スポットですから、「クィーンズタウン」を訪れる人(観光客)にはぜひ利用することをお勧めします。

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急上昇するゴンドラからは「クィーンズタウン」の町並みと「ワカティプ湖」、そして「南アルプス」の冠雪した稜線(りょうせん)を一望することができました。

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「ワカティプ湖」に突き出した緑の半岬(みさき)が印象的です。

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「山頂の展望台」(標高800m)からの展望です。あまりの美しさにしばし見入ってしまいました。これまで世界各地(約50か国)を訪れましたが、間違いなくベストテンに入る景観です。

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「スカイライン・ゴンドラ」で麓(ふもと)まで下りた後は「キウイバードライフパーク」に立ち寄りました。「キウイ」は夜行性の鳥のようで内部は薄暗くなっていたと思います。写真撮影は禁止。高い料金(注釈:現在の入場料はNZ$30/2000円)だったと思いますが、よく観察することができず、やや期待外れでした。

これまで紹介した他、クィーンズタウンの観光スポットをリストアップすると,、「クィーンズタウン」の桟橋近くには市民が集う「アーンスロウ・パークのマーケット」、「ワイ・ウォーターフロント・レストラン」、「クルーズ船乗り場」、「ジェットボート乗り場」、「クィーンズタウン海中公園」などがあります。

この日はすぐ近くにある「ガーデンズパークロイヤル」(現クラウンプラサ・クイーンズタウン)に宿泊しました。(続く)

2020年5月 2日 (土)

ニュージーランド旅行は楽しい!(その2) 高原列車の旅

翌日(414日)は「高原列車の旅」に出かけました。他のホテルに宿泊する日本人客も乗り込んできた専用バスは午前830分にクライストチャーチを出発して午前945分に約70㎞西方にある「スプリングフィールド駅」へ到着。

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スプリングフィールドは南アルプスの山麓にある小さな町で、南西方向にある広大なカンタベリー平野と北西方向の南アルプス山脈(Southern Alps)を見晴らすことができる場所です。ちなみに、最高峰はニュージーランド1位の高さを誇る「クック山」(標高:3724m別名:アオラキ)。

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他のバスに乗車してきた観光客たちとともに午前10時発の「トランズ・アルパイン号」に乗車すると、「ワイマカリリ川」沿いにゆっくり上って行きます。座席は対面の4人掛けですが、オフシーズンであるためか、客車内は貸し切り同然でした。

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ここで海外における長距離列車の思い出です。最初の乗車経験は初めての海外旅行先であるフランスのパリ(ノルド駅)からオランダのアムステルダム駅までの国際列車でした。2度目はアメリカのワシントンD.C.のユニオン駅からニューヨークのペンシルバニア駅までのアムトラック(約330km/3時間40分)で移動、カナダのバンクーバー駅からジャスパー駅までの展望車が接続されたVIA鉄道の個室寝台列車「カナディアン号」(距離:約900km、所要時間:20時間)。

アメリカから帰国した後は、中国の南京駅から上海駅まで(約300km/3時間)の業務移動(説明:現在は新幹線/高速鉄道が2路線ある)、イギリスのロンドン駅からバーミンガムまでの近郊列車(約200kn/1時間50分)、そしてスイスのジュネーブ駅からフランスのパリのリオン駅までのTGV410km/3時間40分、説明:最高速度は速いが都市部では徐行するため平均速度は意外に遅い)と計6回。今回の「トランズ・アルパイン号」を含めても計7回なのです。

この10年来、密かに考えていたことですが、シンガポール(現在はマレーシアのジョホールバル)を出発してマレー半島を縦断、クアラルンプールを経由してタイのバンコクに至る鉄道路線、「イースタン&オリエンタル急行」とも呼ばれる「マレー鉄道」の旅(23日)の計画は、今となっては叶わぬ夢になりそうです。

閑話休題。広大な自然公園「アーサーズ・パス国立公園」内にある「アーサーズ・パス駅」(海抜737m)で一時停車。自然公園内にあるトレッキングコースを楽しむ多数の旅客が乗降するためです。生憎の雨天ですが駅構内を5分ほど散策した後、再び乗車して隣り(約40㎞先)の「オティラ駅」で下車しました。

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先回りしていた専用バスに乗り換えると、専用バスはさらに山奥へと分け入って行きます。

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アーサー峠」のレストランで昼食(鶏・鹿・魚から選択)を摂(と)ったあと、午後145分にアーサー峠を出発してクライストチャーチ方面の引き返し、午後315分にスプリングフィールド近く(約10㎞北方)の「ワイマカリリ渓谷」に立ち寄りました。

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最高速度が時速90㎞という「ジェットボート」(Wimak Alpine Jet)に乗船。20分ほどの快適(ややスリリング)な体験でした。流れが緩(ゆる)やかであることで、高速走行は快適。最後の360度ターンは「ジェットボート」の見せ所でした。

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プチ情報です。ジェットボートは推進力を、プロペラではなく、船底から吸い込んだ水を高速で噴き出すウォータージェット・ユニット(ジェット推進)で得るニュー―ランド発祥(1950年ころ)の高速レジャーボートです。船体はすべて軽量アルミニューム製で、30センチほどしか水がない浅い川でも進めるそうです。ちなみに、名前が似ている「パワーボート」はアメリカ発祥のレース用高速ボート。日本では小型の「パワーボート」が競艇で使われているようです。

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さらに、クライストチャーチ方面へ戻って、午後445分に「ディーンズ農場」に立ち寄りました。立派なお屋敷の前庭でやや遅めの「アフタヌーン・ティー」をいただきました。イギリス発祥の喫茶習慣です。

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「ディーンズ農場」は18430年にクライストチャーチへ入植したスコットランド人のディーンズ一家(法律家のウイリアムとジョン)とその子孫がエイヴォン川沿い(現在のクライストチャーチの市街地)に農場を開きましたが、後に手狭になったため郊外へ農場を移転し、1914年に元の農場と住居をクライストチャーチ市に寄贈したそうです。ハグレー公園(クライストチャーチ植物園)の西方約2㎞にある住居跡は市によって管理され、"Riccarton Bush"の名称で一般に公開されているそうです。

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午後315分に「羊の毛刈り」と「牧羊犬」の見学が始まりました。

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同行者がお手伝い

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飼育されている羊の頭数が人口の何倍と多いニュージーランドは「羊の毛刈り」の本場ですが、日本でも札幌の「丸山公園」、大阪の「天王寺動物園」、千葉の「マザー牧場」などで「羊の毛刈り」を見学できるようです。

午後545分に農場を出発して、午後630分にクライストチャーチに帰着。前日と同じパークロイヤルクライストチャーチに宿泊しました。(続く)

2020年5月 1日 (金)

ニュージーランド旅行は楽しい!(その1) クライストチャーチ市内観光

仕事が一段落した機会を利用して同居者と一緒にニュージーランドへ旅行することを思い立ちました。『退職したら世界一周旅行をしよう!』 と不用意に口走ったことがあり、その手始めにと考えたのです。定年退職が数年後に近づいたタイミング、19994月のことです。南半球にあるニュージーランドを訪れるベストシーズンは12月から2月のようですが、仕事の都合でタイミングを外していまいました。

そこで、休暇期間に合わせた往復航空券と現地の宿泊・移動手段(航空券/レンタカー/鉄道/クルーズなど)について、利用し始めて4年目のインターネットをフル活用することで、短時間ですべて予約することができました。航空券は海外出張でマイレージが溜(たま)まっている日本航空を利用することに。ちなみに、旅行の概要は15年前のブログ記事ですでに紹介しています。

旅程は次の通りです。

4月12日 20::55 成田空港発のJL090便

4月13日 10:50 クライストチャーチ着、市内観光、パークロイヤルクライストチャーチ宿泊

4月14日 高原列車の旅、パークロイヤルクライストチャーチ宿泊

4月15日 10:40 クライストチャーチ空港発のAN609便(アンセット・オーストラリア航空)

         11:25 クィーンズタウン着、市内観光、ガーデンズパークロイヤル宿泊

4月16日 ミルフォードサウンド観光、ガーデンズパークロイヤル宿泊

4月17日 13:05 クィーンズタウン空港発のAN630(アンセット・オーストラリア航空)

         15:50 オークランド空港着、レンタカー利用、シェラトンオークランド宿泊

4月18日 オークランド市内観光、レンタカー利用、シェラトンオークランド宿泊

4月19日 11:30 オークランド空港発のJL099便

       19:25 成田空港着

成田空港発のJL090便は定刻の午前1050分にニュージーランド南島にあるクライストチャーチ空港に到着しました。成田空港を出発してからほぼ11時間後です。当時、この便は北島のオークランド空港を経てJL099便と便名を変えて成田空港へ戻るルートを取っていたと記憶しています。後にニュージーランド航空とのコードシェア(共同運航)を行いましたが、20123月に提携先を同じスターアライアンスの全日本空輸(ANA)に変更。

すなわち、日本からニュージーランドへの直行便はニュージーランド航空だけ(ANAとのコードシェア)が、成田空港-オークランド空港間(NZ90便/NZ99便、毎日運航、所要時間:15時間30分)と関西空港-オークランド空港間(NZ98便/NZ97便、週3回運航)、季節限定)で運行しています。ちなみに、現在のJL090便(毎日運航)はソウルの金浦空港発-羽田空港着に、JL099便(毎日運航)は羽田空港発-台北の松山空港着に変更されています。

話がそれたついでにプチ蘊蓄(うんちく)です。日本航空(JAL)の便名は”JL”に続けて3桁の数字で分かり易いのですが、全日本空輸(ANA)の場合は”NH”で始まります。”NIHON”の略かと思ったことがありますが、実は「国際航空運送協会(IATA)が規定している2文字の「IATA航空会社コード」に従っています。全日本空輸の前身である「日本ヘリコプタ-輸送株式会社」(Nippon Helicopter)の頭文字を取ったものです。ただし、国内便には国連の専門機関である国際民間航空機関(ICAO)に登録されている3レタ-コ-ド(ANA)を使っています。ちなみに、日本航空も同様に国内便では"JAL”を使用。

閑話休題。ニュージーランドの南島中部のカンタベリー平野東海岸に位置するクライストチャーチ(人口:約40万人)はニュージーランドでオークランド(人口:訳170万人)に次いで人口が多い都市です。キリスト教会を意味する名称は移民段組織代表者の出身地、イギリスのオックスフォード大学のカレッジ名に因(ちな)むもので、1948年に市名に採用されたそうです。

おもな産業はカンタベリー平野を中心に酪農・畜産・農業が行われており、近年は海外からの観光客が多く、観光や旅行業も盛んであるそうです。海洋性気候の温暖な気候はニュージーランドの主要都市の中で最も人気があるとのこと。

市の中心部から西北西約9㎞に位置するクライストチャーチ空港からタクシーを利用して市街地へ向かい、この日宿泊する予定である大型ホテルの「パークロイヤルクライストチャーチ」のクロークに荷物を預けました。

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ちなみに、このホテルは後に「クラウン・プラザ・クライストチャーチ」に名称が変わり、2011年の大地震で大きな被害を受けたため取り壊され、その後 立て直されたそうです。

早速、市内観光に出かけることにして、ホテルの筋向いにある美しい公園「ヴィクトリア・スクエア」へ向かいました。その入口近くにある堂々とした「ヴィクトリア女王の銅像」前で記念撮影です。ちなみに、台座には移民者たち・農夫・牧羊者などのレリーフがありました。ちなみに、写真に表示された時刻はは日本時間ですから、時差分の3時間だけ遅れています。

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ヴィクトリア女王はイギリス・ハノーヴァー朝第6代女王(即位時の年齢:18歳、在位期間:637か月/1837620 - 1901122日)で、世界各地を植民地化して大英帝国を繁栄に導いた人物です。そして、その子でイギリス王のエドワード7世はニュージーランド王を兼務し、以降イギリス王(または女王)がニュージーランド王(または女王)を兼務して現在に至っています。つまり、ニュージーランドは立憲君主制の王国で、国家元首はイギリス王(または女王)が兼務するニュージーランド王(または女王)なのです。また、その代理者としてニュージーランド総督(Governor General)が置かれています。

閑話休題。公園の奥にはニュージーランドに到達した探検家「キャプテン・クック(ジェームス・クック)の像」もありました。

公園の脇を流れる綺麗な「エイヴォン川」へ向かいました。17年前(1983年)に出張で立ち寄ったことがある景色の美しい場所です。

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次いで、300mほど南にある「クライストチャーチ大聖堂」を訪れました。クライストチャーチのシンボルとして有名な観光スポットです。1864年に着工されて石造りで建設されましたが、3度の地震に見舞われたため、約40年後の1904年に竣工したそうです。

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有料の塔へ上がってみました。螺旋(らせん)階段の壁に落書きが目立ちます。ここには写っていませんが、日本語の落書きもあったことを後になって知りました。

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塔の上部からは周辺の建物が見渡せました。

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大聖堂は2011年の大地震で大聖堂全体が大破し、上半分が崩落した尖塔は完全に取り壊されたそうです。また、財政的な理由で一旦は大聖堂を解体することが決まりましたが、2017年に一転して修復することになったようです。現在は立ち入りが禁止されているとのこと。その代わり、近くに紙管を使った聖堂「カードボード・カセドラル」(日本人建築家の坂茂氏の設計)が仮設されたそうです。航空写真で確認すると大聖堂周辺にあった古い建物は取り壊されているようです。

市民の足であった「トラム(路面電車)」は1995年に市街地を網羅する観光用乗り物として復活していました。市街地の移動に何度か利用させてもらいました。

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この日は半日観光でしたから立ち寄りませんでしたが、時間の余裕があれば市中心部の西側にあって世界第3位の広さ(東京ドーム35個分)を誇る「ハグレー公園」とその中にあり四季の花々が咲き乱れるという「クライストチャーチ植物園」(1863年開園)、地元の歴史に関する展示がある「カンタベリー博物館」(1867年開館)、そしてホテル「クラウン・プラザ」の東方約100mにある「ニューリージェント・ストリート」(1930年代に作られたお洒落な通り)も訪れる価値がありそうです。(続く)

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