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2020年5月24日 (日)

海外出張の7か国目はインドネシア

大型商談の入札で一番札を得たことで、その応札内容についての技術折衝(せっしょう、注釈:交渉のこと)を行うため、1985年2月にインドネシア(正式国名:インドネシア共和国)のジャカルタとバンドンへ出張しました。インドネシアは東南アジアな南端に位置する、人口が約26千万人(日本の2倍強、世界で第4位)、面積が約190万平方キロメートル(日本の5倍、世界で第15位)の大国です。

また、島の数が世界で最多となる13千以上もあり、東西に5000㎞以上伸びる領土を持つ海洋国家です。主な島は首都ジャカルタがあるジャワ島、マレー半島の南にあるスマトラ島、同じくその東にあってマレーシアと領土を分けるカリマンタン島(ボルネオ島)、その東隣りにあるスラウェシ島、ジャワ島の東隣にあり観光地としてよく知られるバリ島とロンボク島などがあります。そして、東端にはティモール島(西半分)があります。

地理的には日本列島、フィリピン、ニュージーランド、南北アメリカ諸国とともに環太平洋火山帯を構成しています。つまり、火山が多く(活火山が129)、地震が多発することでも知られます。

歴史についても概観します。この地に住んでいたマレー系の人々が5世紀ころからいくつもの王国を建国し、来航するインド商人からヒンドゥー教を受け入れました。また、12世紀以降にはムスリム商人がもたらしたイスラム教が全土に普及。ちなみに、国名のインドネシアはオランダ支配下の20世紀初頭にインドとネシア(諸島)を組み合わせて創られたもののようです。

大航海時代の16世紀になるとヨーロッパ諸国(ポルトガル、イギリス、オランダ)が進出し、17世紀にはオランダが設立した東インド会社が、18世紀から19世紀にかけてイギリスの影響を排してほぼ全土を植民支配しました。20世紀初頭には独立運動が起こりましたがオランダの植民地政府によって鎮圧されます。

1939年に第二次世界大戦がヨーロッパで勃発(ぼっぱつ)し、オランダが「対日ABCD包囲網」に参加。1941年に日米が開戦したことに伴い、日本軍はマレー半島に上陸し、1942年にはインドネシアにも侵攻してこれを占領しました。1943年以降、日本軍は戦況の劣勢を挽回(ばんかい)するためにインドネシア人に軍事訓練を施したことが、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争の下地になりました。

1949年にオランダから独立することが正式に決定し、インドネシア共和国が発足。スカルノ初代大統領は、国内勢力間(注釈:多民族国家である)の対立に加えて国軍との対立が激化し、1965年に辞任しました。後継者となったスハルト大統領は30年におよぶ独裁的な長期政権を維持して経済を発展させたものの、国内勢力間の対立は現在も続いているようです。

                             ☆

私が出張した1985年は上記したスハルト大統領統治下(1968年-1998年)の中盤に当たります。1985年2月の技術折衝に続き、同年10月と198611月、19871月と立て続けに技術折衝のためにインドネシアを訪れました。顧客にとって一大プロジェクトであったこともあり、異例のペース(頻繁さ)で技術折衝が行われたのです。

また、首都のジャカルタ(正式名称:ジャカルタ首都特別州、人口:950万人、都市圏では3120万人、地名の意味:偉大なる勝利の街)に加えてバンドンも訪れた理由は政府機関や有名な大学(バンドン工科大学など)が存在する地だったからです。

ジャカルタの南東約200㎞にあるバンドン(人口約240万人)までは、列車を利用する場合には棚田が広がる傾斜地を抜けて約3時間半、飛行機では気流に揺られながら45分ぐらいかかったと思います。現在は高速道路が開通したため、約2時間で移動できるようです。

熱帯性気候の暑さと自動車の渦(うず)に包まれたジャカルタに対し、バンドンは高地(海抜700m強)にあるため快適な気候と落ち着いた街並みが気に入りました。ちなみに、1955年にバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議)が開催されたことでも知られます。

ジャカルタでの移動手段は現地スタッフの車あるいはタクシーを利用しました。人力三輪自転車「ペチャ」も多数走っていましたが、ジャカルタでは利用したことがありません。安全上の理由(交通事故・トラブル)から利用しないように助言を受けていたからです。なお、ジャカルタは港がある旧市街(コタ地区、注釈:コタは町を意味する)とその南に広がる新市街(中央ジャカルタ市など)に分けることができます。

オランダ時代からの官庁街であったビジネス街は後者にあります。ムルデカ・スクエア(広場)がその中心と言えます。定宿はビジネス街の中心を走るタムリン通りにある「ホテル・ニッコー・ジャカルタ」(現プルマン・ジャカルタ・インドネシア)でした。

コタ地区は、ジャカルタの観光地ですが、治安はそれほど良くありませんでした。特に夜間は立ち入りを避けた方が良いと助言されました。車中から何人ものオカマが客待ちをしながら立っているのを見かけました。

インドネシアについても、マレーシアと同様、写真がほとんど残っていません。数枚残っている写真(多くは業務関連)の中に会食中の写真を一枚を見つけました。

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ちなみに、インドネシアへは米国赴任期間を挟んで計6回出張することになりました。なお、インドネシアの観光旅行については20153月の関連ブログ記事「インドネシアの遺跡と舞踊劇を楽しむ旅」(バリ島・ジョグジャカルタ)を参照してください。◇

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