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2020年5月19日 (火)

海外出張の5か国目はクウェート

1984年の年始早々(18日から)台湾へ出張することになりました。都合が悪くなった同僚に代わって4日間(実質2日間の業務)の短期出張です。(注釈:台湾への観光旅行は2014年11月のブログ記事を参照)3月にはニュージーランド出張からの帰路にオーストラリアのシドニーへ立ち寄りました。

台北の「忠烈祠(ちゅうれつし)」における衛兵交代セレモニー

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シドニーのオペラハウスから見た「ハーバーブリッジ
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しかし、いずれもフォローアップはありませんでしたから、同年4月に出かけたクウェートが私にとっての5か国目といえます。これも同僚から引き継いだプロジェクトで発生した技術問題について顧客と協議する目的でした。同年の8月と翌年(1985年の4月と10月にも技術問題の継続協議と新技術を提案するためでした。つまり、2年間で都合4回出張する慌(あわ)ただしさでしたが、顧客との交渉は困難を極めました。アラブ独特の商習慣がその大きな理由だったと思います。2008年のブログ記事「クウェートの砂嵐と冷や汗」で紹介しています。

クウェートについては産油国として日本でよく知られていますが、同国のプロジェクトに急遽対応することになったこともあり、筆者には地理や国情についての予備知識はほとんどありませんでした。その場所はサウジアラビアとイラクに挟まれ、ペルシャ湾に面した小国(面積:1.8万平方キロ/四国と同程度、人口:475万人/内アラブ人であるクウェート人は141万人)です。ちなみに、ペルシャ湾の対岸にはイランが位置しています。18世紀にアラビア半島中央部から移住した部族がクウェートの基礎を築き、1899年にイギリスの保護国になりました。1938年に大油田(世界第4位)が発見され、1961年にイギリスから独立しました。政体は首長制(首長家出身の元首サバーハ殿下、国民議会、内閣の3勢力による統治形態)です。一人当たりのGDP3.1万ドル(2018年)と高く、世界31位(スペインと同レベル)。ちなみに、日本は3.9萬ドルで26位。

成田空港発の南周り夜行便で早朝にクウェート国際空港(官民共用)に到着しました。日本の建築家丹下健三氏が設計したモダンなターミナルビル1979年完成)には人影がまばらであり、殺風景な雰囲気でした。到着した乗客たちはかなり待たされた挙句(あげく)、通関手続きにかなり時間を要した記憶があります。ビザとともに訪問先の機関からのクウェートの訪問先機関からのインビテーションレター(招へい理由書)が必要だったと思います。1980年から1988年にかけてイランとイラクが戦争していた時期でしたから、空港内はもちろん撮影厳禁です。

クウェート国際空港はクウェートの市街地(クウェート市)は空港の南方約16㎞にあり、砂漠の中にある道路を車で移動すれば所要時間は15分ほどだったと思います。宿泊する「クウェート・ヒルトン・ホテル」にチェックインしました。

「クウェート・ヒルトン・ホテル」はアメリカ大使館の目の前(道路を挟んだ反対側)にあり、4か月前の1212日に爆破された大使館の建物は半壊して、ブルーシートで覆(おお)われているのが見えました。現在、「クウェート・ヒルトン・ホテル」は郊外へ移転したようです。

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ホテルから見た「クウェートタワー」は、市街地の北東端にある岬のような場所に、3本並んで立っているのが見えました。 手前に見えるプールがある施設がアメリカ大使館です。ちなみに、最近の航空写真を確認すると更地になっているようです。

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休日には「クウェートタワー」がある海岸を散策しました。

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「クウェートタワー」の展望台から見た景色、「市街地の中心部」と「夕日が沈む西方のペルシャ湾」です。後者の左手に写るのは「クウェートタワー」の一部です。

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一見すると長閑(のどか)そうに見えますが、海岸で写真を撮ることは極めて危険なのです。後になって知人に聞いたことですが、海岸で写真を撮影していて秘密警察に連行されて、尋問された上、一晩勾留(こうりゅう)されたことがあるそうです。国によりますが、海岸だけではなく、港湾・空港などの施設を写真撮影することはスパイ行為と見做(みなさ)されることがあるのです。ましてや、2008年のブログ記事「クウェートの砂嵐と冷や汗」に書いたように国境の検問所を物見遊山(ものみゆさん)で見に行くなどは自殺行為と同然です。

さて、出張の目的についても簡単に説明しましょう。最初の出張目的は、同僚から引き継いだプロジェクトにおいて、納入中のシステムと既存システムとの間に発生したインターラクション(相互作用)の不具合を解決するためでした。複雑な要因が絡み合っていましたが、ソフトウエアの一部を変更することにより解決することができました。困難な調査であったため、予定より長い15日間の出張になりました。

2回目は同年8月(10日間)で、上記不具合の改修状況の確認と新たな問題(ハードウェアの障害)への対処法についての協議でした。いずれの協議も順調に進展し、実質一週間で合意に至ることができました。

3回目は19854月に別の問題(ハードウェア)への技術対応でした。内容はシンプルな部品不良でしたが、サービスに直結する不具合であったため顧客側はそれまでになく慎重な態度でした。協議が一週間を過ぎても協議は進展せず、一進一退を繰り返したのです。顧客側の対応者である技術課長(クウェート国外から来たお雇い技術者)は優秀な人でした。やっと彼を納得させたかと思うと、翌朝には前日の協議で口頭合意したことが白紙撤回されるのです。彼の上司であるクウェート人が駄目出しをしたようです。お雇い技術者(外国人)の彼は決定権を持っていなかったのです。新しい説明を加えてもやはり同じ状況が何度も繰り返されました。直接説明したくてもクウェート人の上司は打ち合わせの場に一度も顔を出すことはありませんでした。

埒(らち)が開かないと考えた私は一週間を過ぎたところで、『これまでの説明で納得してもらえないなら、明日は東京へ帰るつもりだ!』 と協議の終わりに技術課長へ告げました。ミッションを完遂しないで出張を終えることはそれまで一度もありませんでしたが、この時は本当に帰国するつもりでした。そして、翌朝に顧客の事務所へ出向くとその技術課長は笑顔でこう言ったのです。『上司のOKがもらえた!!』 と。彼も頑固な上司に閉口していたようです。これで一件落着!!! 顧客側から合意書を取り付け、安堵(あんど)して帰国することができました。

同年の10月には、クウェートにおける諸懸案が解決したことを確認するとともに、トルコでの技術問題対応とインドネシアの新しいプロジェクトの契約(技術)折衝のため、3週間の駆け足出張をすることになりました。

余談です。クウェートには観光施設と呼べるものはほとんどありません。したがって、休日には宿泊するホテルのプールで長時間過ごすことになりました。そして、中東の強い日差しを浴びていると面白いほど日焼けしたのです。この体験により中東に限らず、出張先で日焼けすることが病(や)みつきになってしまいました。今風に言えば「日焼けサロン通い」です。しかし、10数年後には顔に黒い染みがいくつも発生しました。まるで老人班点(ろうじんはんてん、老人性色素班)のようです。年齢には相応(ふさわし)くない症状ですが、筆者は負け惜しみで海外出張の勲章だと思うことにしました。

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さて、筆者の海外出張に関する記事を読んで筆者の仕事がよく分からないと感じた方もいらっしゃるのではないでしょうか。蛇足と承知していますが、その概要を説明します。

開発技術者として社会人生活を始めた筆者が30 歳になった時に希望して従事した業務は企業向けシステムのシステムエンジニアリング(構想・実施計画の作成など)です。システム・ビジネスの主な業務は、他のビジネス領域と同様、幾つかのフェーズがあります。プリ商談(新しい技術やシステムの紹介)、実商談の推進(資格審査・入札・契約交渉)、システムの提供(システム構成要素の納期管理・実装工事の進捗把握・契約条件の履行把握)、アフターサービス(パフォーマンス評価・その改善策の提示・障害対応)まで広範囲です。

社内にはそれぞれの業務を担当する部門がありましたが、筆者が担当した仕事は主に最初の2つですが、3つ目と4つ目のフェーズでは顧客の立場に立って問題の解決に当たることでした。そして、社内の関連部門(営業部門・開発部門・製造部門・カスタマーサービス部門)に注文を付けることも筆者の重要な職務なのです。

筆者の会社と同様、多くの企業では上記した4つのビジネス・フェーズをそれぞれ担当する部門がありますが、筆者が所属していた会社(部門)のユニークな点は、一人の責任者(主にSE部門所属)が全ての技術関連フェーズに関与する仕組みになっていました。つまり、本業であるSE(システム設計)はもちろん、開発・製造・工事・CE(保守保全)の全業務に目配りする極めてユニークな存在でした。言い換えると、営業活動以外においては顧客との窓口役(相談相手/コンシェルジュ)なのです。

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閑話休題。クウェートの後日情報です。筆者がクウェートへ出張した1984年と1985年というタイミングは、イラン・イラク戦争(1980-1988年)の真っただ中でした。この戦争でクウェートは港湾の提供と資金援助によりイラクを積極的に支援していましたが、その負債を返済するために、石油価格を上昇させる目的で石油の減産石油輸出機構(OPEC)へ石油の減産を働きかけましたが、OPECはイラクの求めに応じず、クウェートとサウジアラビアは逆に増産を行いました。

このため、イラクは国境に軍隊を動員して威嚇(いかく)しましたが効果が無いとみたイラクは19908月にクウェート領内へ侵攻する事件が発生し、イラクはクウェートを併合しました。国際社会はこれを認めず、国際連合が多国籍軍をイラクに派遣することを決定し、19911月にクウェートを占領するイラク軍への攻撃を開始して湾岸戦争が勃発(ぼっぱつ)するのです。

圧倒的な多国籍軍は翌月にはクウェートを解放しました。その後もイラクに対する国際社会の風当たりは強く、アメリカを中心とする融資連合軍が20033月にイラクへ侵攻し、200612月にサッダム・フセイン元大統領を処刑。7年後の2010年に戦闘が集結し、翌年(2011年)の12月にアメリカ軍がイラクから撤収しました。◇

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