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2020年6月

2020年6月30日 (火)

金相場が高騰!

世界での感染者が1000万人を、死者が50万人を超えた新型コロナウイルス禍の被害拡大が引き続き懸念されるなか、金融政策を好感して株式市場が回復する一方、先行き不安により金相場が高騰しています。相反する二つの動きをどう理解したら良いのでしょうか。一見相反する動きのように見えますが、市場に共存する先行きに対する期待と不安を反映したものと言えるでしょう。

アメリカの株式市場では、昨年を通してほぼ一本調子で値を上げてきたダウ平均株価が、今年に入ってから荒い値動きを見せています。117日に過去最高値である29,348ドルを記録したあとは新型コロナウイルスの影響でジリジリ値を下げ始め、228日には史上最大の下げとなる1,190ドル安の25,409ドルを記録したあと、312日には2,352ドル安の21,200ドルへと急速に値を下げ、323日には18591ドルと34か月ぶりの安値を記録しました。

2か月間に約37%も値を下げていたのです。しかし、その後はFRBの積極的な金融政策を市場が好感し、ダウ平均株価は右肩上がりで値を戻して67日には25,983ドルと年初来下落幅の約2/3を挽回したのです。しかし、高値警戒感と新型コロナウイルスの第二波懸念からその後は25,500ドルを挟む小幅な変動が続いています。

一方、この数年間ボックス相場(説明:上限と下限がある程度決まった狭い範囲の値動き)で推移した金相場は、2019年中頃の5,000円水準から緩(ゆる)やかに値を上げて、今年1月初めに6,000円を超えた後は5,700円と6,500円の間を大きく振れたあと、4月には6,500円を超えました。そして、5月下旬から6月中旬に6,550円から6,700円の間を行き来していたものが、6月下旬に入ると一気に6,700円を超える高値になりました。一年間で30%超も上昇したことになります。

これまでは一般的に金と株価は逆相関するものと考えられてきました。つまり株価が上昇すれば金の価格は下落し、反対に金の価格が上昇すれば株価が下がるというのです。両者の違いを考えてみましょう。株は投資の対象です。経済活動が順調であれば株主は配当を受けとることができますが、経済が落ち込むと株価は下落します。(注、最悪時には無価値になる)一方、金はそのままでは何も生み出しません。万が一の時にも価値がある程度は保全される安全な資産です。

言い換えると、経済が安定しているときは「株」、不安定なときは「金」なのです。このように相反する性質を持つと言われる「株」と「金」が同時に上昇する現状をどのように理解すれば良いのでしょうか。

実は、この現象は今回が初めてではなく、2017年にも米国のトランプ政権を中心とする世界各国の経済対策が影響して発生しました。好調な株式市場が存在するとともに、無視できないリスク(戦争・経済の先行き・パンデミックなど)がある場合、両者のバランスにより、株価と金の両方が上昇するのです。しかし、2018年にはリスクが顕在化して株価が値下がり(ダウ平均株価と日経平均が12%下落)しました。今回も似た環境にあるようです。

もうひとつのポイントはドル相場の影響です。というのは、金の価格はドル建てで決められることによります。他の主要通貨に対するドルの強さが影響するのです。つまり、株価・金相場・ドル相場の相関関係をすべて考慮する必要があるのです。従来のように単純に『株価と金相場は逆相関の関係にある』とは言い切れなくなったと考えるべきでしょう。

金相場の上昇は『堅調に見える株価に大きなリスク要因が存在する証(あかし)』 であるというのが筆者の現状認識なのです。

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本題と関係はありませんが、「特別定額給付金」についても少し触れます。61日に「アベノマスク」が自宅の郵便受けに配達されましたが、同じ週の65日には「特別定額給付金」の申請書類も届きました。発送予定期限のほぼ最終日の到着です。さっそく、書類に必要事項を記入して、その日の内に郵便で返送しました。マイナンバーカードを持っていないことと、スマホからの申請に不安を感じたことで、郵送方法を選びました。注釈:申請書類は5月29日~6月5日に発送された模様

申請書類に不備がない場合は書類が地方自治体の事務センター(担当部署)に届いてから、人手による確認を経て、2-3週間で給付金が申請者の口座に振り込まれるそうです。3週間後の626日に新たな郵便(封書)が届き、625 日に給付を完了した旨が通知されました。注釈:6月18日から給付が開始

インターネットバンキングで当該の銀行口座を確認すると確かに所定の金額が振り込まれていました。日本はやはり郵便が一番頼りになるようです。ちなみに、630日現在、筆者が住む地方自治体では郵便申請者の約20%に振り込みが完了したと公表されていますから、わが家への支給はかなり早かったと言えるでしょう。なお、オンライン申請については、申請数が郵便申請数の約3%と少なく、630日までに給付を完了したそうです。

2020年6月28日 (日)

NHK総合テレビ「列島誕生 GEO JAPAN 2」 (第二集)列島大分裂

第一集の「列島大隆起」に続く第二集は「列島大分裂」です。NHK総合テレビの関連hpには以下のように説明されています。

『元々一つながりの大地が分裂し、今の列島が完成するまでの激動の物語。太古の日本には、巨大ゾウやワニが暮らす動物たちの楽園が広がっていた。だがある日、眠っていた長さ千キロもの「古傷」中央構造線が目覚め、激動の時代の幕が上がる… 最新研究に基づいた超リアルCGでタイムトリップ!列島誕生の驚きのドラマとは?』

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第二集「列島大分裂」では、300万年前の西日本は中国地方・四国・九州が地続きであり、ナウマンゾウなど絶滅した動物たちの楽園でしたが、巨大な火山活動によりその姿が大きく変わった経緯を解き明かしました。

先ず、瀬戸内海が300万年前できたことを示す証拠が発見されたことを紹介しました。60年ほど前にナウマンゾウの牙(きば)や骨が瀬戸内海で多数(100件ほど)見つかったのです。そして、山岳地帯と平野が入り混じっていた地域に海水が侵入して数多くの島々(説明:瀬戸と呼ばれるエリア)と灘(なだ、説明:流れが速い海)ができた経緯を紹介しました。

さらに、陸由来の土地と海由来の土地の境目が1億年前に大陸でできた中央構造線についても解説。この古傷を残したまま日本列島は、大陸から切り離され、300万年前に現在の位置まで移動したというのです。

この傷が確認されるのが四国の吉野川の下流域です。吉野川の上流と丸亀市で瀬戸内海へ注ぐ土器川(どきがわ)は元々一本の川であったものが、南側(太平洋側)の土地が300万年をかけて18kmも西方(現在の三好市付近)へ移動したため、別の川として分断されたことが分かったのです。これは300万年前に北へ移動していたフィリピン海プレートが西方に45度だけ向きを変えたために起こった大地の大移動でした。

中央構造線の北側の土地はその動きに引きずられて、多数の皺(しわ)ができて山になりました。さらに20万年前には淡路島と四国の間(鳴門の辺り)で大地が崩落。海抜0m以下であった現在の瀬戸内海エリアに海水が入り込んで内海になり、山の頂上部が3000ともいわれる多島となって残ったというのです。20万年前に起こった天変地異でした。

この大変化により魚介類が豊かな瀬戸内海が生まれると同時に、それまではナウマンゾウなどが生息する楽園だった陸地が失われたのです。ここでゲストたちは瀬戸内海で獲れたタコや牡蠣(かき)などの魚介類を味わいました。

ここで舞台はさらに西方の九州へ移りました。九州が中央構造線で南北に分裂する可能性があったというショッギングな話題で始まりました。大分県の別府湾には一夜で消失した島の言伝えについての調査が行われました。海底の地層が複雑に折れ曲がり、しかも大きく落ち込んでいることが分かりました。さらに、別府湾から島原半島まで巨大な溝が繋(つな)がっていることが分かり、九州の地下にある岩盤の深さが調査されると、2000mもの深さがあることが確認されたのです。

マントルの上昇によってできた巨大な柱状摂理(ちゅうじょうせつり)である「塩俵の断崖」が長崎県生月(いきつき)島の存在からマントルによりフィリピン海プレートが押し曲げたことで中央構造線に沿った弱い地盤が沈下して大地を切り離すことになりました。

地溝帯を境に九州の南部だけがフィリピン海プレートに押されて北西方向に押される他の地域とは反対に南東方向に力が働いていることが分かりました。つまり、九州の南部と北部を引き裂く力の存在です。マントルがフィリピン海プレートを押し下げる力により、中央構造線が生まれ、その周辺に多くの断層が存在することが分かったといいます。

一方、それを押しとどめる「絆創膏(ばんそうこう)」が存在していました。阿蘇山霧島連山桜島などの巨大なカルデラ噴火による噴出物が九州が分裂するのを防いだと考えられるのです。40万年前に中央構造線付近にあった湖には火山噴火による堆積物が高く積もっていることでその事実が確認されました。

500万年前にでき始めた地溝帯は大きく成長してカルデラ噴火が連続して起き、大地の溝を埋めるプロセス(分断と修復)が繰り返しされたことで一体としての九州の大地が維持されたと結論付けられました。

プレート(説明:地表を覆う岩盤)とマントル(説明:地球の内部構造)のダイナミックな動きなど、地球の長い活動の結果(説明:絶妙なバランス)により現在の日本列島が存在することを分かり易く解説する良質な番組でした。◇

2020年6月27日 (土)

NHK総合テレビ「列島誕生 GEO JAPAN 2」 (第一集)列島大隆起

6月14日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組を観ました。2週にわたって放送されるこの番組の第一集は「列島大隆起」をテーマに「日本の屋根」とも言うべき北アルプスに300万年前にあった高さ1mを超す幻の巨大火山と広大な関東平野の成り立ちを紹介しました。

NHK総合テレビの関連hpには次のように紹介されています。

『私たちの暮らす日本。地球上の陸地の1%にも満たない狭い国土の中に“宝物のような絶景”が満ちあふれている。さらに不思議なことに、大海原のただ中の島国なのに、なぜか三千m級の山々がそびえている。日本列島は、どうやって生まれ、どんなドラマをへて、今の姿となったのか?』

『最新科学は、数千万年に及ぶ“列島誕生の大地の物語”を解き明かしつつある。そして地球史上まれな“奇跡的な四大事件”があったからこそ、列島がここに存在していることを突き止めた。『ジオ・ジャパン』では、日本各所の絶景や、はるかな時空を超えたタイムトリップCG、そして列島誕生と深く結びついた“和食”を読み解くスタジオから、日本の“大地のドラマ”を描く。』

『第1集は『奇跡の島はこうして生まれた』。3000万年前、今の日本列島の位置には陸地もなかった。いったい何が起きて、大海原の中に島々が誕生したのか? そこには、想像を超えた驚くべき大地のドラマがあった・・・。』

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幻の巨大火山説を唱えた信州大学の原山智特任教授(地質学者)は黒部渓谷の上流に「マグマだまり」を20か所以上も見つけたことから番組が始まりました。同教授は、槍ヶ岳や穂高岳、そしてその北にある爺ヶ岳(じいがたけ)などはマグマが固まってできた山々の存在を巨大なカルデラが崩壊した跡と考え、爺ヶ岳では地層が垂直に立っていることからカルデラが横向き(垂直)に立ち上がっと推論したのです。

300万年前の日本では太平洋プレートとフィリピン海プレートが、大陸プレートに押し留められながら、激しく衝突しました。その時、勢いに勝る太平洋プレートに押されたフィリピン海プレートは、シワ(山や谷)を造るとともに、進行方向を北向から西側へ45 度転換し、60万年をかけて巨大カルデラ火山(説明:谷の地下に溜まった膨大なマグマ溜まりにより出来上がった直径10km以上のカルデラ噴火跡)を押し上げたと推論したのです。

爺ヶ岳は90度傾き、穂高岳と槍ヶ岳は20度傾いたと言うのです。傾く過程で爺ヶ岳は雨と風に徐々に削られて硬い岩だけが残って現在の形になった、つまり高さ1mの火山とは風雨に削られなかったと仮定した場合の存在である「幻の巨大火山」だったのです。そして、その西側にある大地の深い傷跡が黒部峡谷となったと説明しました。

次いで、舞台は関東平野へ移りました。この巨大で4000万人が住む広大な関東平野はどのようにしてできたのかを解き明かします。関東平野の西端に位置する八王子付近に堆積したローム層を垂直方向に調べると地下680mに岩盤がありました。立川市では地下980m、岩槻市では2880m、柏市では1490m、成田市では860m、旭市飯岡では400m、太平洋に面する東端の千葉県屏風浦(びょうぶがうら)では岩盤が地表(高さ3m)に現れていました。

この調査により関東平野は「お椀構造」の岩盤の上にできていることが分かりました。このお椀構造に山岳地帯(関東山地)から流出した土が堰(せ)き止められることで海に流出しないため、巨大な平野が出来上がったことを簡単な実験セットを使って説明。

お椀構造の縁(ふち)となる岩盤ができたのもフィリピン海プレートが地中に潜(もぐ)り込み、しかも進行方向が45度西側へ変わったことで大隆起が発生し、L字形の岩盤(お椀の端)が出来上がったというのです。その現象を元禄地震や関東大震災地震による地盤が隆起した事例で説明しました。そして、海が後退したことで現在の地盤が出来上がったのです。番組の最後には、東京湾で獲れた江戸前寿司を味わいながら、関東平野が出来上がったプロセスを振り返りました。(続く)

2020年6月25日 (木)

ブラタモリ「福井・一乗谷」を観る

6月20日にNHK総合テレビで放送されたブラタモリ「福井・一乗谷~アンコール~」を観ました。2019年22日)に放送された番組のアンコール放送です。

NHKの関連hpには、『旅のお題「福井のルーツは消えた都市にあり!?」を探る恐竜が出迎える福井駅から鉄道で一乗谷へ!大河ドラマ「麒麟がくる」でユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景、その繁栄の痕跡を訪ねるトイレの跡から見つかった日本初の〇〇〇〇〇とは!?当時の一乗谷を復元したエリアをタモリさんが歩く一乗谷で生まれた知恵が残る福井市内へ』 とあります。

以下は2度目となるこの番組を観ながら書いた概要です。

福井駅の駅前広場にある動く恐竜像を観ながらタモリさんはアシスタントの林田理沙アナウンサーを相手に掛け合い漫才をしているところへ「今回のお題」が届きました。「福井のルーツは“消えた都市”にあり!?」でした。博識のタモリさんは「滅ぼされた朝倉氏と一乗谷」に言及。タモリさんと林田アナは考古学の専門家と福井駅から越美北線(通称:九頭竜線)の電車に乗って15 分、5番目の「一乗谷駅」へ向かいました。

タモリさん一行は越美北線に平行して流れる足羽川沿いにある県道31号を東へ約500m歩いた丁字路で南へ伸びる県道18号に外れて「一乗谷」に入り、その約200m先で大きな土塁(どるい、高さ4m/長さ38m)と鉦折(かねおれ)状の巨大な石積み「虎口(こぐち)石垣」を見つけました。「一乗谷朝倉氏遺跡」の城戸(門)、つまり防御用の施設「下城戸跡」です。かつては1万人が暮らした街の南北に2か所あった「天然の要害」のひとつです。先へ進むと住居(町屋)跡「平面復原地区」が広がり、それぞれの区画には井戸と廁(かわや)跡が復元されていました。一際大きな区画は医師の屋敷跡とのこと。

信長に攻め滅ぼされたあと「一乗谷」に住んでいた人々は広い平野部へ移動し、「一乗谷」は土で埋められて田畑になったそうです。そのため、極めて保存状態の良い屋敷跡が50年ほど前に発見されたことを専門家から聞かされました。大きな武家屋敷が並んでいたエリア「復原町並」の先にはなぜか商家が混在していました。商業活動(経済)が発展して商人が重視されるようになったからなのです。「一乗谷」の中心部に再現された唐門が見事な「一乗谷朝倉氏遺跡(朝倉義景館跡)」では、遺跡で発見されたさまざまな遺物を見学します。

福井市の中心部(福井駅の北)にある福井城へ戻ったタモリさん一行は白い瓦で葺(ふ)いた城門を間近くから観察します。瓦と思われたものは、焼き物ではなく、「笏谷石(しゃくだにいし)」を削って作られていたのです。この笏谷石は火山岩や火山灰などが堆積して凝縮した凝灰岩(ぎょうかいがん)で、福井市で多く産出され、全国へ送られた名産品だったのです。福井市の西部「足羽山」の麓へ移動したタモリさん一行は料亭になっている石切場跡も見学しました。昔は足羽川がその石切場の近くを流れていたことで、船を利用して笏谷石を全国へ積み出すことが容易であったことも知りました。

次いでタモリさんが向かったのは商店街。江戸時代に大きな商家が立ち並んでいた場所です。「一乗町」の地名がある理由は「一乗谷」にいた商人たちがそこに移り住んだことによります。江戸時代の古地図にある組頭で御用商人の「国島家」を訪ねてご主人から昔話を聞き、朝倉家の家紋がある留袖(とめそで)を見せてもらいました。タモリさんは「一乗谷」から福井市の町へと歴史が続いていることをしっかりと確認したところで番組が終わりました。

〈筆者コメント〉 4年前(20168月)ですが、「続々・奥の細道紀行」の途中、永平寺に続いて福井市の城を訪れていますが、時間の制約で「一乗谷」には立ち寄っていません。機会があれは近いうちに「一乗谷」を訪れたいと思います。ちなみに、福井市文化遺産hpには「一乗谷」について詳しく解説してあります。

2020年6月23日 (火)

久しぶりの丸亀製麺で新メニューを楽しむ

新型コロナウィルス禍の影響により丸亀製麺では一部店舗において休業や営業時間の短縮が自粛解除まで行われていましたが、政府による都道府県境をまたぐ移動自粛や休業の要請が619日午前0時から全面解除されたことにより丸亀製麺の店舗は平常営業に戻ったようです。

週が明けた622日の昼食時、わが家に近い丸亀製麺の店を久しぶりに訪れました。2月4日に訪れてから 4か月半以上が経過しています。今回は530日から各店舗で順次提供され始めた新メニューの「鬼おろし肉ぶっかけ(並)」(628+税)が目当てです。

午前11時半前に入店したため、店内の注文カウンターには客の姿はなく、客席の先客は数えるほどしかいません。注文カウンター前の床には立ち位置がマークされていますから、それにしたがい筆者は歴代冷やしうどん一番人気という季節限定の「鬼おろし肉ぶっかけ(並)」を注文し、カウンターにある写真パネルと睨(にら)めっこした同行者はおすすめメニューの中から夏のおすすめうどん「すだちおろし冷かけ うどん」(410+税)を選びました。

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客席(テーブル席と小上がりの座席)はほとんど空いていますから、ソーシャル・ディスタンスを気にする必要はありません。給茶機と出口に近い(つまり店内の移動が最短となるコースにある)テーブル席を選びました。

同行者の「すだちおろし冷かけ うどん」は大根おろしがトッピングされたシンプルで爽(さわ)やかな冷やしうどん。好みに応じて天かすと刻(きざ)みネギを追加した上、スダチを絞ることで味を整えて食べるようです。

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筆者は「鬼おろし肉ぶっかけ」を「鰻(うなぎ)の櫃(ひつ)まぶし」と同じ作法で食べることにして、先ず牛肉がトッピングされた冷やうどんをそのまま味わいました。牛肉の甘辛い味と冷たいうどんはさっぱりとした味わいです。

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次いで刻みネギと天かす、および下ろし生姜(しょうが)をトッピングして牛肉と冷たいうどんを味わいました。

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この日は梅雨空で外気温度が20度ほどと涼しい(梅雨寒である)ため、暖かいうどんでも良いのですが、やはりこの季節に食べる冷たいうどんは格別でした。半分近く食べたところで「鬼おろし」を一気にトッピングすると、大根を粗目(あらめ)にすり下ろした「鬼おろし」は名前通りの食感があり、まったく違った味のうどんになりました。

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二人とも温かいお茶を飲みながら、うどんの美味しさの余韻(よいん)を楽しんだあと、丸亀製麺の店を後にしました。自宅へ向かいながら、6月初旬までの季節限定メニューである「うま辛 坦々うどん」(税込670円、温・冷あり)にしても良かったのではと考えてしまいました。ちなみに、この日はすでに6月の下旬に入っていましたが、店によってメニューの終了時期が異なるようです。

2020年6月21日 (日)

ブラタモリ「釧路湿原~アンコール~」を観る

2020年66日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組を観ました。2019720日に放送された番組のアンコール放送です。なお、事前に読んだNHKの関連hpには次のように紹介されています。

『野生のタンチョウ・エゾシカに興奮!「世界に誇る釧路湿原のスゴさとは?」貴重な大自然が4000年保たれる秘密をタモリさんがズブズブ歩いて解き明かすアンコール放送』

『北海道の東部、普段は入ることが出来ない湿原の中心部へ! ラムサール条約にも登録され世界的にも認められた湿原のスゴさを探る▽釧路本線の車窓から絶景を楽しむ!▽手こぎカヌーで蛇行する川を体感!▽湿原が森林化せず原始の姿を保っている謎。そのカギは「泥炭」にあり!?▽名曲「霧の摩周湖」誕生も釧路湿原のおかげ!?』

タモリさんは、アシスタントの林田理沙アナウンサーと一緒に、北海道の森の中を歩いています。やがて景色が開けてタモリさんは釧路湿原の細岡展望台に立ちました。見渡す限りの絶景が広がっています。北海道の東部に広がる日本最大の湿原(広さ227平方キロメートル)は山手線がすっぽり入る大きさです。有名な尾瀬の約30倍の広さ、日本の湿地の約3割を占め、ラムサール条約に日本で最初に登録され、世界的にも評価の高い場所と紹介されました。ブラタモリの今回のテーマは『世界に誇る釧路湿原のすごさとは?』 です。

釧路湿原はもとは海でしたが、6千年前から海が後退して西側の海岸に砂丘ができ、次いで湿原ができました。通常、湿原はなくなってしまうことが多いのですが、『なぜ釧路湿原はその姿を維持できているのでしょうか?』 の問への答えをタモリさんは探して釧網(せんもう)本線の釧路湿原駅に向かったタモリさんは駅周辺に多数ある湧き水が線路の下をくぐって低い湿原に流れて行くのを見ました。

タモリさんは釧網本線の車窓から釧路湿原の絶景を楽しみながら湿原の北にある茅沼駅で降ります。手こぎカヌーに乗ったタモリさんと林田アナは川の流れを体感しようと試みますが川には高低差がほとんどないことが分かります。タモリさんは水の流れがない川は蛇行を繰り返して蛇行する性質があると説明します。

タモリさんはカヌーを降りて湿原に入りました。川の蛇行部分では、水かさが増すと一面水浸しになり、土砂が溜まって湿原ができることを確認しました。湿原は時間が経(た)てば陸地化し、さらには森林化するのが普通ですが、釧路湿原は森林化しないのです。

タンチョウ(丹頂鶴)を見学したタモリさんは許可を得て湿原の中心地に入りました。タモリさん一行が湿原の小川の岸辺でジャンプすると、小川に気泡が現れました。植物の根や葉が分解されずに残って泥炭(でいたん)になっていたのです。この柔らかい泥炭は、10年で1cm堆積し、4000年が経過した現在は4mもの厚さに達しているそうです。樹木が育たないこの泥炭の存在が森林化を防ぐカギだったのです。謎の深い水たまりに林田アナウンサーが入って内部を確認するとゼリーのような感触があることが分かりました。あちこちにある水溜まりは川の跡だったのです。

釧路湿原の西側では砂丘が陸に入り込んだことで内陸方向への流れが生じ、湿原の東方で内陸から海の方向へ流れた水があり、両者で釧路湿原内に水のループができていたのです。これに加えて水に削られやすい泥炭で川の流れが変わりやすいため、でき始めた森林はすぐに湿原に戻ってしまうのです。

釧路湿原には年間に100日以上、霧が発生するそうです。釧路沖で、暖流(黒潮)と寒流(親潮)がぶつかることが原因とのこと。霧で覆(おお)われるため釧路湿原は気温が低く(説明:夏でも20度を超えることは滅多にない)、天然の冷蔵庫だったのです。名曲「霧の摩周湖」の誕生も、釧路湿原の存在抜きには語れません。摩周湖の第一展望台からタモリさんが約80km離れた釧路湿原を遥かに望みながら感動したと話したところで番組は終わりました。

〈筆者コメント> 大学1年(1964年)の夏休みに友人と二人で北海道一周旅行をしました。家庭教師のアルバイトで何とか賄(まかな)った周遊きっぷ(説明:道内での乗り降りが自由な均一周遊乗車券)を持ち、横長のリュックサックとテントを背負う「蟹(かに)族のゲルピン旅」でした。(注釈:ゲルピンとはお金(ドイツ語でゲルト)がピンチ、つまり金欠状態のこと)

上野駅発の夜行列車(蒸気機関車が牽引)と青函連絡船を利用して入った北海道の函館から反時計回りのルートで北海道をほぼ一周する旅でした。函館本線と室蘭本線で洞爺湖(昭和新山)と登別に立ち寄り、根室本線で十勝平野を横断して、釧網本線で釧路湿原を通過した(説明:車窓から眺めた)あと、摩周駅で下車。路線バスを利用して摩周湖に立ち寄りました。ロシアのバイカル湖に次いで世界で2番目に透明度が高い湖です。タモリさんが番組内で言及した布施明さんの「霧の摩周湖」がヒットする2年前のことでした。

下の写真は左端に写る「カムイシュ島」と右端の「摩周岳(カムイヌプリ)」(説明:摩周湖外輪山の最高峰)の位置関係から考えて「摩周第一展望台」で撮影したもののようです。ちなみに、アイヌ語で「カムイ」は神様を、「シュ」は老婆を、「ヌプリ」は山を意味するそうです。

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56年前の北海道旅行では摩周湖が利尻山(別名:利尻富士)と並んで最も印象深い場所でした。ちなみに、摩周湖の隣にある屈斜路湖(くっしゃろこ、川湯温泉)に立ち寄ったあと、知床(しれとこ)半島のウトロ・旭川・稚内(わっかない)・利尻島・礼文島・札幌・小樽などを経由して函館に戻る約3週間の長旅になりました。また、2005年10月のブログ記事では2002年9月の北海道旅行に基づいて北海道の温泉を紹介しています。◇

2020年6月19日 (金)

吉田類の「酒場放浪記」を観る

酒に造詣(ぞうけい)が深い酒場ライター吉田類さんの冠(かんむり)番組「酒場放浪記」(注釈:2003年から続く長寿番組)を観ました。毎週月曜日午後9時から午後10時までBS-TBSで放送され、東京およびその近郊を中心に、日本各地の酒場(主に家族経営の居酒屋)を紹介するバラエティ番組(説明:15分で紹介する酒場が4軒登場するオムニバス形式)であり、テレビ東京の「孤独のグルメ」とともに筆者の好きな番組の一つです。

後者(注釈:登場人物はすべて俳優)は個性的な料理を発見するプロセスと主人公の感想に重きを置いていますが、前者は立ち寄った場所の説明および何気なく入った居酒屋の雰囲気とそこにいた人たち(一般人)との会話にハイライトを当てています。いずれの番組も主人公の個性を生かしていることが共通する魅力です。

吉田類さんは画家、作家、タレント、歌手と肩書が多彩な人物であり、番組名に「放浪」が入っているように、自然体であることに番組の特徴があります。また、吉田類さんの特徴ある風貌と黒っぽい衣装(説明:目深に被った黒い鳥打帽子)も視聴者が惹(ひ)かれる理由でしょう。店を出た時には、演技ではなく、気持ち良く酔っ払っていることにも好感がもてます。

今回(202061日)放送された内容は、「今日はお家呑み」 ~和歌山・島根からお取り寄せ~(説明:吉田類さんの仕事場における家飲み)、恵比寿「居酒屋 ふくみ」(説明:駅至近ながら地下にある創業32年の昭和酒場)、八丁堀「いち」(説明:オフィス街の谷間にある一軒家)、滝野川一丁目「もつやき よだ」(説明:明治通り沿いから移転したが滝野川で40年越えの老舗酒場)の4軒の紹介でした。

                           ☆

第1話の「お家飲み」は和歌山と島根から取り寄せた絶品のおつまみと地酒を置き、新型コロナウイルス禍の当世風にTV電話を利用して、地方の酒場と乾杯するシーンがありました。先ずは白ワインでの乾杯。次いでお気に入りの酒器を紹介。和歌山からは「多田屋」のご主人とTV電話で旧交を温めます。さらに和歌山のワサビ寿司、島根・国輝酒造の酒を飲みながらTV電話を通して乾杯。同じく島根の「赤てん」と「子うるか」も楽しみました。

                           ☆

第2話(2017年6月初回放送)は恵比寿の「居酒屋 ふくみ」です。恵比寿駅に降り立った吉田類さんは渋谷橋の袂(たもと)でコマ(独楽)の店に入り、色々なコマとベーゴマの闘いを楽しみました。その後に入った「ふくみ」ではお勧めの「呑み比べセット」を選びます。そして、お惣菜も。新じゃがと加賀の煮付け、青森の新じゃがも。お勧めは純米酒と江戸前のお刺身の盛り合わせ。奥の常連に声を掛けると手作りコロッケを勧められました。シナリオのない展開で、最後はおにぎりで締めました。

                           ☆

第3話(2018年6月初回放送)は地下鉄の八丁堀駅からスタート。和菓子屋に立ち寄り苺(いちご)大福を食します。そして立ち寄ったのはビルの合間にある一軒家の八丁堀「いち」(食事処)。ウェルカムのグラスビールとお通しがセットで出されました。次いで刺身盛り合わせと銀鱈西京焼き。食中酒は「自然郷」。常連からのお勧めはハムカツ。牛すじカレーとイタリアワインも。和と洋を兼ね備えた店でした。

                           ☆

第4話(2019年6月初回放送)は滝野川の「もつやき よだ」。都電荒川線滝野川駅を降りた吉田類さんは路地を歩きます。心太(ところてん)と豆腐を味わった後は赤提灯へ。「よだ」ではホッピー&酎ハイを飲みながらモツ(希少部位のシビレ)の塩焼きを摘(つま)みました。先ほどの豆腐屋さんの豆腐が入った煮込みも。次いで初がつおと温燗(ぬるかん)、そして餃子(ぎょうざ)で締めます。店を出た吉田類さんは路地を歩いていつものように暗闇の中へ消えて行きました。

2020年6月17日 (水)

NHK「日台共同制作ドラマ 路(ルウ)」を観る

NHK総合テレビで516日から毎週土曜日の午後9時から3回に亘(わた)って放送された土曜ドラマ「路~台湾エクスプレス~」を観ました。5年半前に台湾を旅行した時に乗車する機会があったことで興味を持ったのです。日本と台湾を舞台に台湾高速鉄路(台湾新幹線)開通までの8年間を巡る日台の人々の絆(きずな)と人生の物語を描いた吉田修一氏の同名小説(2012年刊行)をテレビドラマ化したものです。ただし、ストーリーの細部に変更された点がいくつもあるようです。

ここでプチ蘊蓄(うんちく)です。漢字の「路」(ろ)は中国語でルウと発音し、地上・水上・航空の道(道路・水路・空路)などを意味します。ちなみに、日本の古都である奈良(平城京)や京都(平安京)では中国風に命名された道路名「〜大路(おおじ)」と「〜小路(こうじ)」が今も残っています。なお、現代の日本において道路は「〜道」と呼ばれることが多いのですが、元々「道」は地域(広域行政区画)を指す言葉(例、東山道や山陽道に代表される五畿七道の七道)であり、現在は「北海道」にその呼び方が使われています。

                            ☆

さて、ドラマを観ながら書いたあらすじです。

1999年の仕事納めの日、東京の大手商社大井物産(注釈:三井物産がモデルと思われる)の社内が大歓声に湧(わ)きました。台湾新幹線(正式名称:台湾高速鉄路)の車両システムについての優先交渉権を日本の新幹線株式会社(注釈:メーカーと商社が設立した会社)が大逆転で獲得したのです。そして、入社4年目の商社社員・多田春香(配役:波瑠)はプロジェクトの一員として商社が台湾の台北に設立した子会社(台北)へ出向することが決まりました。

その春香には、大学2年生であったの夏に初めて台湾を訪れた折、淡(あわ)い思い出があったのです。エリック(配役:アーロン)という名の台湾人青年と偶然出会い、たった一日だけ台北市内を案内してもらったものの、その後は連絡が取れなくなってしまい、自分の思いを封印することにしたのです。

そして6年後の2000年、二度と台湾へ行かないと心に決めていた春香は台湾新幹線建設チームの一員として、再びその地(台北市)を踏むことになりました。赴任(ふにん)する直前、春香は交際中であった名古屋のホテルマン男性から結婚を申し込まれています。

勤務初日に春香は上司の山尾一(配役:寺脇康文)に連れられて台湾高速鉄路の本社を訪れて、技術担当副社長のジャック・バルト(欧米人)や運行担当副社長代理のレスター・王(わん)などの幹部と面談しますが、冒頭から台湾側の考え方(台湾オリジナルを追求)と日本側の認識(新幹線方式に固執)が大きく異なっていることを知ります。

歓迎会の二次会で訪れたバーで不躾(ぶしつけ)な態度をとる同僚男性の安西誠(配役:井浦新)の存在がありました。そして6年前に立ち寄った食堂を春香は久しぶりに訪れます。ここで場面が東京に急展開。建設会社主催の講演会「昭和のインフラ整備」で聞いた葉山勝一郎(配役:高橋長英)の話に感動した大日本設計(業界大手)に勤務する劉人豪(リョウレンハオ、配役:炎亞綸)は講演を終えた葉山に声を掛けました。劉(りゅう)が台湾出身であることを知った葉山は資料が見たいという劉を自宅へ招待します。

次いで舞台は台湾南部の高雄(かおしん)市に移りました。台北市まで90分で行ける台湾新幹線を話題にする八百屋夫婦のシーンに続いて、その息子と幼馴染(おさななじみ)の女性が登場して「高鉄機廠預定地」(和訳:新幹線整備工場の工事現場)を紹介します。

2001年に正式契約が締結されたものの、技術的な詳細についての議論が続いていました。台湾側と日本側がそれぞれ持つ車両のイメージが異なっているのです。春香は台湾人の女友達に、問わず語りに、思い出の台湾男性のことを話しました。出会いから台北市の各地を案内してくれたこと、帰国日にはホテルまで来て電話番号を教えてくれたことも。日本では劉が葉山に気に入られ、入院中であった葉山の妻から葉山夫婦が台湾生まれであることを聞かされます。病院を出た葉山は劉に台湾人の学友に言った酷(ひど)い言葉についての苦い思い出を話すのです。

台湾高鉄側はレールをヨーロッパ規格から日本のJIS規格へ変更することを決断しました。しかし、安西の頑(かたく)な態度に台湾側との間に不穏な雰囲気が漂います。これを心配した王は春香を食事に誘い、台湾独自(オリジナル)の高速鉄道を創りたいという自分の気持ちを春香に語りかけた。

年末に帰国した春香は神戸の実家に戻る途中、名古屋に立ち寄りました。プロポーズしてくれた男性に会うためです。その男性に問われて春香は台湾での古い思い出を正直に話しました。台北市に戻った春香は女友達(現地採用の同僚)からエリックの消息が分かったことを知らされます。そして、エリックからメールが届きました。一方、エリックは葉山から彼の妻が急死したことを知らされます。

春香はエリックと8年振りに台北市で会うことになりました。待ち合わせの場所で待つエリックを遠くから見た瞬間、8年前の自分の思いが恋であったことに春香が気づいたところで「第一回」が終わります。

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「第二回」は春香とエリックの再会シーンで始まりました。8年前と同じ食堂で再会を喜ぶ二人。『これからも連絡をして良い?』 と尋(たず)ねるエリックに、春香は『もちろん。友達でしょ!』 と反射的に心の想いとは違う言葉を発してしまいました。仕事においても台湾高鉄とは運転士の訓練についても意見が対立していました。日本(JR)の協力を得て訓練を日本で行いたいと言う日本側の提案に台湾高鉄幹部のバルトが難色を示したのです。しかし、王が進言したことでバルトは日本での訓練を受け入れました。

誘われた食事の席で王から彼の真意を聞きながら春香は王が自分に好意を持っていることを感じます。運転士の訓練開始に合わせて帰国した春香はエリックとともに葉山宅を訪れました。エリックと春香は何か蟠(わだかま)りを持っている葉山を、彼の妻の願いにしたがって、台湾へ誘いました。神戸の実家へ行く途中、春香が名古屋に立ち寄ると、交際中の男性は婚約指輪を準備していました。心の準備ができていなかった春香はそれを受け取る時になぜかエリックのことを考えていました。

葉山がエリックと一緒に台北の空港に到着。春香以外にも出迎えた人がいました。葉山の同級生だった中野赳夫こと呂燿宗(配役:楊烈)です。二人は葉山が昔(戦前に)住んでいた思い出の場所を一緒に歩きました。そして、葉山は60年前に発した差別的な言葉について中野に深く詫(わ)びます。一方、美香とエリックは互いの生まれ故郷(神戸と台中)がそれぞれ大地震に襲われた時、二人はそれぞれ相手の街を訪ねて安否を確認しようとしたことを知ります。そして、エリックは付き合いたいと美香に言いますが、婚約者がいる春香はエリックの申し出を受け入れることができません。

そんな折、春香は台湾の東海岸にある花蓮(ファーリェン/かれん)を訪れました。エリックの所在を探し出してくれた女友達の故郷です。そこで少数民族(高山族)のお祭りを楽しんだ美香はエリックと分かれたことをその女友達に伝えます。私的にも慌(あわ)ただしい美香でしたが、新幹線の車両が高雄市に運び込まれる日がやってきました。高雄港に陸揚げされた車両はブラスバンドに先導されたトレーラーで市内へと運ばれる様子を大勢の市民たちが歓喜して見つめるシーンで第二回が終わりました。

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「第三回」(最終回)の冒頭、王からの電話で王が台湾高鉄を辞職したことを聞かされた春香は台湾高鉄の本社へ向かいました。副社長との対立が原因であることを察した春香の感情的な発言を王は途中で遮(さえぎ)ります。春香まで副社長と対立させたくなかったのです。その後、春香は王から『台湾の誇りになる新幹線を作ってほしい』 と言われます。

開業を1年後に控えた2005年、高雄(カオシン)県燕巣(エンチャオ)から台中駅の北までの約60km区間で走行試験が始まりました。最初は時速30kmでの低速走行試験です。橋梁などにおける設計変更個所の安全性確認がその目的でした。予定より遥(はる)かに遅い進捗状況です。これに焦(あせ)る安西。そして開通の遅れが日本の新聞で報道されたことに激怒する台湾高鉄副社長のバルト。

春香は台北市を突然訪れた婚約者と思い出の食堂にいました。台湾新幹線の開業が遅れたことは二人の関係にも影を落としていました。気持ちが噛(か)み合わない二人は互いに相手を咎(とが)める言葉が出てしまうのです。さらには、台北を訪問中の葉山が末期癌(がん)であることが旧友で医師の中野赳夫の診断で判明しました。

台湾鉄路の運転士とフランス人指導員(フランスのTGV方式の訓練)とのコミュニケーションが上手く行かないこともあり、開業までの工程はさらに遅れてしまいます。その状況を深刻にとらえたバルト副社長は王を台湾鉄路に呼び戻しました。王のリーダーシップによって工程を前進させたことで、やっと最終工程である1か月間の試運転が始まりました。

関係者が固唾(かたず)を呑(の)んでその進捗を見守る中、ついに試運転は最終日を迎え、バルト副社長と山尾が最終試験列車に試乗しました。始発駅の台北駅から終点駅の左営(ズォイン)駅(注釈:高雄市左営区)までの約350㎞を順調に走行。左営駅のホームではいつも激論を交わした安西がバルト副社長を出迎えて握手を交わしました。

帰国して名古屋駅に降り立った春香は婚約者に指輪を返します。謝罪の言葉とともに。これまでの言動を振り返って謝る元婚約者。言い訳をしないことが春香の誠意でした。台北市に戻った春香は上司の山尾から東京本社勤務の辞令を示されますが、台湾に残りたいと辞令を固辞します。高雄市の左営駅を出発した台湾新幹線の車両には幼馴染みの男女が乗っていました。男性はそれまでの思いを告白した勢いで思わず女性にプロポーズ。一方、台北駅発の台湾新幹線車両に同乗することになった春香とエリックは二人の出会いが運命であったことを確認し合うシーンでこのテレビドラマは終わりました。


〈筆者コメント〉 自動車列車飛行機など乗り物が大好きな筆者は台湾新幹線の走行シーンを楽しく観ました。そして、ドラマに登場した多彩な人たちの人間模様も。しかし、原作にしたがって詳しく描かれた何組もの恋愛関係はもう少し控(ひか)え目に扱った方が良かったと思いました。中でも主人公春香に思いを寄せる三人の男性と春香の複雑な関係はNHKのドラマとしてはリスキーだった思います。しかし、女優・波留さんの好感が持てる演技とNHKらしい巧みな演出によってその懸念は無用だったようです。また、主人公以外では同僚男性の安西誠役を好演した井浦新さんと葉山勝一役を渋く演じた高橋長英さんの二人が印象に残りました。

2020年6月15日 (月)

海外出張の9か国目はアメリカ(その2) カリフォルニアのサンフランシスコ

ワシントンD.C.へ出張した翌月(19879月)にはカリフォルニア州のサンフランシスコ9日間の出張をしました。顧客から要請があり、新技術を用いる先進のサービスをプレゼンテーションする目的でした。新技術の開発においては日本企業も競争力がありましたが、サービス分野においてはアメリカが日本より10年ほど進んでいるため、顧客の動向をいち早く知ることが重要なミッションです。

その結果、筆者はトライヤル(試行)を経て数年後にはアメリカで本格的なサービスが導入されることになるとの印象を持ちましたが、実際にはそれから10年以上の導入期間を経てやっと商用化されました。そして、21世紀初頭の現在においては当たり前のサービスとして全世界で普及しています。筆者の仕事(業務内容)についてはここまでに留(とど)めて、初めて訪れたサンフランシスコの魅力的な街並みを紹介しましょう。

最初にプチ蘊蓄(うんちく)です。カリフォルニア(California)は、スペイン領を経て、ネバダ州・ユタ州・アリゾナ州などとともにメキシコからアメリカに割譲(かつじょう)された土地であるため、地名にはメキシコ風、すなわちスペイン語の言葉が多く存在します。まず、カリフォルニアはスペインの神話に登場する空想上の天国を治(おさ)めた女王「カリフィア(Califia)」に由来するとする説が有力のようです。また、カリフォルニア州(人口約4000万人)第2の都市であるサンフランシスコ(人口約85万人、ベイエリア都市圏では約460万人)はキリスト教のフランシスコ会創始者「聖フランシスコ」にちなんで名づけられました。

仕事が一段落した週末の912日(土)、フェリー乗り場がある東地区の埠頭(ふとう)へ向かいました。サンフランシスコ湾に架かる「サンフランシスコ・ベイ・ブリッジ」(説明:別称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、1936年鉄道橋として開通、1963年に自動車専用に変更)が良く見える場所です。下の写真はサンフランシスコ湾にある「ヤーバ・ブエナ島」までの区間を撮影したものです。

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この橋はIS80(Interstate 80/州間高速道路80号線)の一部としてサンフランシスコとサンフランシスコ湾の対岸(約13㎞東)にあるオークランドを結んでいます。瀬戸大橋が1988年に開通するまでは世界一長い吊り橋でした。ちなみに、サンフランシスコへ入る時には通行料金がかかるそうです。

なお、サンフランシスコ湾は南北に伸びるサンフランシスコ半島によって太平洋と隔てられた内海で、南北方向に約60km、東西には約15km、面積が1280平方キロメートルと巨大です。ちなみに、山手線内の面積63平方キロメートルの20倍強(東京23区の丁度2倍)。サンフランシスコ半島の北端にあるゴールデンゲート海峡で太平洋と繋(つな)がっており、その北東でサンパブロ湾と接しています。

反対方向(西方)に視線を転じると、丘(テレグラフヒル)の頂上にある塔と金門橋を見ることができました。この塔は「コイト・タワー」(高さ約64m1933年完成)で、東地区の埠頭の北西約500mの場所にあります。写真の左端には「金門橋」が少し写っています。

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次いで、少し西方(ダウンタウンの北方)、金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)寄りのノース・ビーチにある波止場、「フィッシャーマンズワーフ」を訪れました。”Tarantino’s”(タランティーノズ)や”ALIOTO’S”(エリオットズ)などのシーフード料理店が並んでいます。

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「金門橋」を先ほどよりも少し大きく見ることができました。

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金門橋」は、太平洋とサンフランシスコ湾を結ぶゴールデンゲート海峡に架かる世界一の吊(つ)り橋(注釈:1960年代まで)で、サンフランシスコとその北にあるエリアを結ぶ唯一の主要道路(6車線、有料)の一部になっています。1937年に完成したこの「金門橋」は、全長2,737m、中央径間1,280m(注釈:現在世界一の明石海峡大橋は1,991m)の鋼鉄製吊り橋です。ちなみに、主塔の高さは水面から227m

ビルに囲まれた広場に出ました。

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サンフランシスコらしい傾斜地に広がる町並みです。

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そして、有名なケーブルカー(1873年開通)が停まっていました。「ユニオンスクエア」と「フィッシャーマンズワーフ」を結んでいます。サンフランシスコのケーブルカーはケーブル(ワイヤー)が地下にあるため、一見すると通常の路面電車のように見えます。地下をループしているケーブルを車両が掴(つか)むと前進し、離すと減速する仕組みになっているそうです。なお、車体を停止させるにはブレーキを使う必要があります。つまり、後退することはできません。

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この先にも急な坂がありました。

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写真はそのさらに南方から撮影しました。湾内に見える島は有名なギャングの「アル・カポネ」が収監されたことで知られる監獄の跡がある「アルカトラズ島」のようです。ちなみに、この島は10年後の1997年に訪れています。

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ビル街に設置された小さな街頭時計

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別の日(916日水曜日)の朝、宿泊したホテルから郊外にあるオフィスエリアを撮影

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アメリカへの出張(説明:いずれも新技術と新サービスを主要顧客にプレゼンテーションすることが目的)は、ワシントンD.C.とサンフランシスコに次いで、1988年3月にテキサス州ダラス、同8月にコロラド州デンバーとテキサス州ダラス、同9月にジョージア州アトランタとイリノイ州シカゴ、同10月にはニュージャージー州、同12月にもジョージア州アトランタとテキサス州ダラス、つまり1年半の間に計7回も続きました。これがアメリカでのビジネスを担う子会社への転勤(出向)に繋(つな)がるのです。(終)

2020年6月14日 (日)

海外出張の9か国目はアメリカ(番外編) ヨルダンとシリアへの出張

アメリカへの出張記事を始めたばかりですが、前回の記事で書きました入国時のトラブルに関連するヨルダンとシリアへの出張(12日間)について参考までに概説します。成田空港からタイ・バンコクのドンムアン空港へ向かい、そこでヨルダンのアンマン行きのロイヤル・ヨルダン航空機に乗り換えました。アンマンへ予定通りに到着しましたが、預けた荷物が出て来ません。ドンムアン空港では自分の荷物を確かに確認したのですが・・。航空会社の説明によれば、『ドンムアン空港で積み残されたと考えられる。スーツケースは恐らく2日後の次の便で届くだろう』 とのこと。

翌日は顧客と面談する予定が入っていました。必要な書類はアタッシュケースに入れていましたが、移動時に着ていたラフな衣服から着替えるビジネススーツ類が一着も無いのです。背広上下は現地の日本人スタッフから借り、シャツなどは現地の店で急遽購入することにしました。サイズが合わないことには目をつぶることにして、顧客との打ち合わせには何とか対応。私のスーツケースは2日後に無事手元へ届き、何とか一件落着です。

それでは、ヨルダンとその首都であるアンマンについて概説します。中東に位置する立憲君主制国家「ヨルダン」の正式国名は「ヨルダン・ハシミテ王国」。イスラムの預言者ムハンマドの子孫であるハーシム家出身の国王が世襲統治しています。人口は約1000萬人。古代(紀元前8000年)には世界最古の農業が営まれ、西アジアにおける交易の中心となりました。紀元前1世紀にはペトラ遺跡を残したナバテ王国が栄えましたが、紀元1世紀から2世紀にはローマ帝国の支配下に入ります。7世紀にはイスラム帝国(アッバース朝など)の勢力下に入り、19世紀にはオスマン帝国の支配下になりました。第一次世界大戦後の1919年にはイギリスの委任統治領となり、1946年にイギリスから独立しました。

首都アンマンはヨルダンの政治・経済の中心都市で、人口は約210万人。オスマン帝国がシリアのダマスカスとアンマンを結ぶ鉄道を建設したことで物資の集散地として発展しました。映画「アラビアのローレンス」(1962年公開)にはオスマン帝国の重要インフラであったこの鉄道が登場します。

独立当時の人口は数万人と少なかったようですが、イスラエルが1948年に建国すると、その難民が大量に流入し、1967年代には1948年にヨルダン領に組み込まれたパレスチナとヨルダン川西岸へイスラエルが軍事侵攻して占領したため、この地域に勢力を持つとパレスチナ解放機構(PLO)との内戦が続き、さらに難民が流入して現在のような大都市へと膨れ上がったとのこと。

PLOはレバノンに本拠を移したことで、国内の宗教的なバランス(キリスト教・イスラム教)が崩れたレバノンが新たな火薬庫になって、1975年にレバノン内戦が勃発し、レバノン国軍/PLO/シリア/イスラエル/多国籍軍が入り乱れて戦うことになりました。1990年には内戦が終結しましたが、レバノンの不安定な国情が改善されることはないまま現在に至っています。

さて、本題です。アンマンへ出張した時の写真を使って主な観光地を紹介しましょう。

〇市街地に近いシタデル(Citadel)の丘からはアンマンの市街地を一望することができました。

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◯ローマの円形劇場
アンマンのダウンタウンから歩いてすぐところにあるローマ皇帝アントニヌス・ピウスの時代(138161年)に建てられた歴史ある劇場(6000席)。

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◯ ヘラクレス神殿跡
ローマ帝国時代に建てられたヘラクレス神殿の跡です。紀元160年ころ、高さ12mを超える彫像が立っていたとみられるそうです。

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◯死海
現在イスラエルによって占領されているヨルダン川西岸との間にある「死海」は海抜マイナス423メートルと地球で最も低い場所。アンマンから車で南西へ約1時間。岸辺から海よりも濃い塩水であることだけを確認しました。現地のグループ・ツアーも利用できます。ただし、個人でバスやタクシーを利用するのは現地対応に自信がある方だけにお勧めします。

〇立ち寄りが叶わなかった街「アカバ」
ヨルダン南端にあり、紅海の最深部、アカバ湾に面した小さな港町「アカバ」を訪れる機会は残念ながらありませんでした。私の好きな映画「アラビアのローレンス」ではサウジアラビアのネフド砂漠を横断した主人公が結集したアラブ軍を率いて陥落させたオスマン帝国の重要拠点「アカバ」を自らの目で見たかったのです。(注釈:リンクを張った予告編の最後にアカバのシーンが登場する) なお、この映画については以下に記述する「シリアへの出張」の記事でも再び言及します。

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ヨルダンのアンマンに続いて、シリアのダマスカスにも出張しました。シリアの正式国名はシリア・アラブ共和国で、面積は約18万平方キロメートル(日本の半分弱)、人口は約1800万人。国土の南西端近くに位置する首都ダマスカスの人口は約160万人。

シリアはヨルダンと同様に西アジアにあることから紀元前8000年ころから農業(主に小麦の生産)が始まり、紀元前3000年ころには都市国家群が成立し、通商の要衝としても栄えました。しかし、バビロニア(イラク南部の王国)、アッシリア(イラク北部の王国)、ギリシャ(アレキサンダー大王のマケドニア王国)、ローマ帝国と東ローマ帝国の支配を受けて、7世紀にはイスラム勢力(ウマイア朝とアッバース朝など)の支配下となりました。

そして、トルコ人のセルジューク朝とクルド人のアユーブ王朝が続き、1260年にはモンゴル帝国が占領。エジプトのマムルーク朝の支配を受け、さらにオスマン帝国がシリアを支配しました。1917年にアラブ軍がダマスカスを奪還(前述)した後は、1920年にシリア・アラブ王国として独立しましたが、フランスとの戦いに敗れてフランスの委任統治領になります。1946年にフランスから独立して現在に至ります。厳密には1958年から1961年までエジプトとアラブ共和国を構成しましたが、1961年のクーデターで現在の体制へ移行しました。

シリアへ出張した時の写真は残念ながら一枚も残っていません。ダマスカスと言えば、私の好きな映画作品のひとつ「アラビアのローレンス」のクライマックス・シーンに登場した都市です。主人公のイギリス人将校ローレンスは、多くの部族出身者を集めたアラブ軍を率いてオスマントルコ軍との戦いに勝利したものの、身内と思っていた多部族で編成されたアラブ軍を纏(まと)めきれず、大きな挫折(ざせつ)を味わった場所でもあります。

実際に訪れたダマスカスは、街のすぐ先には大きな岩山「カシオン山」(標高1151m)が聳(そび)えており、筆者は異様な雰囲気を強く感じました。海抜680mの高原に築かれた城壁に囲まれた古代都市ダマスカスの市内に見るべき場所があまりなさそうでしたから、休日にはダマスカスから車(運転手付きのレンタカー)で北東へ悪路を4時間ほど(約230㎞)走った「パルミラ遺跡」を訪れました。

阪急交通社の解説記事によると、『パルミラは広漠たる砂漠の中に建設されたオアシス都市。ナツメヤシの緑に包まれ、パルミラの名もギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」が起源といわれます。紀元前1世紀にローマ帝国の属州となり、中国とヨーロッパを結ぶ東西交易路の中継地として発展。2世紀にペトラ(ナバテア王国)が衰えると、通商権を受け継ぎ絶頂期を迎えます。267年になると、総督オダエナトゥスが暗殺されます。これを機に妻のゼノビアは息子を皇帝に擁立、自ら皇妃と称しパルミラ王国を打ち立てます。ゼノビアはクレオパトラの末裔を名乗る美女で、政治にも長けていましたが、272年にアウレリアヌス帝の遠征により捕えられ、パルミラの街は陥落。』 とあります。

数年前のニュース報道で知りましたが、勢力を拡大した「イスラム国」の軍隊がパルミラ遺跡を破壊したそうです。訪れた当時でもパルミラ王国をローマ軍の遠征の結果だと思われますが、遺跡はすでに半壊状態でした。AFP BB NEWS201641日付の記事)には「イスラム国」の軍隊による破壊前後の比較写真が掲載されています。(アメリカ出張の記事/その2へ続く)

2020年6月13日 (土)

海外出張の9か国目はアメリカ(その1) ワシントンD.C.

会社の所属部門で筆者が担当する地域が東南アジアとオセアニアなどからアメリカ(北米)へと変わった直後(4か月後)の19878月、アメリカにおける主要顧客へ新技術をプレゼンテーションするため、アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.へ出張(8日間)することになりました。
注釈:"D.C."は”District of Columbia"(コロンビア特別区)の略、50州とは別に連邦政府が管轄する区域(直轄地)

中学生のころからアメリカに憧(あこが)れ英語と英会話の勉強に励(はげ)んで約30年、海外ビジネスに携(たずさ)わるようになってからでも11年が経過していました。大きな手応えを感じていた前任地域を離れて憧れのアメリカ地区を担当することは、嬉(うれ)しさ半分、寂(さび)しさ半分の複雑な心境でした。ちなみに、今回の担当地区変更は私の我侭(わがまま)によるものではありません。組織の事情(都合)だったようです。

8月19日、国際線に本格参入して間もない全日空のワシントンDC直行便は成田空港を出発した約13時間後、ワシントンD.C.ダレス国際空港が近づいたようで、登場する飛行機が高度を下げました。海岸線とアメリカを象徴するような高速道路が眼下に広がりました。注釈:当時の日本航空にはワシントンD.C.への直行便がなかった

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滑走路が4本もある巨大なダレス国際空港(IAD)はワシントンD.C.の西方、バージニア州ダレスにあり、中心部へ向かうにはメイン・ターミナルからタクシー(所要時間:40分から60分)を利用することができます。2014年にワシントン・メトロ(地下鉄)のシルバー・ラインが一部開通しましたから、メイン・ターミナルから出るシャトルバスで移動したウィリー・レストン・イースト駅からこのシルバー・ライン(運賃:5ドル)を利用することもできるようです。都心のロズリン駅やメトロセンター駅までの所要時間は40-50分。

8日間のスケジュールには余裕があり、週末の822日(土)に「スミソニアン博物館」を見学することができました。スミソニアン博物館は国会議事堂から延びる幅の広い道路の両側に15の博物館が並んでいる様子は壮観です。

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ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(国立絵画館、入場無料) ルノワール作「アンリオ夫人の肖像」(1876年)が印象に残りました。

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女優アンリエット・アンリォが四角く胸の開いたイヴニングドレスを身にまとっている。白い服と白い肌を大胆なタッチで描いた。ルノワールのうまさが引立つ作品です。

もう一点はレンブラントだったと思いますが、タイトルを失念しました。

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圧巻だったのは、航空宇宙博物館の各種ロケットと月面着陸船です。

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ダレス空港で入国手続きをした時に大きなトラブルがありました。私のパスポートを確認したイミグレーションの職員が他の職員を呼びました。その職員は何事かと思う筆者を別室へ連れて行き、次々と質問を浴びせ掛けてきたのです。一つひとつの質問に答えているうちに事情聴取される理由が分かりました。前年の1月から2月にかけて中東のヨルダンとシリアの両国を訪問した履歴がパスポートにあったため、筆者が過激派あるいはそのシンパ(親派)ではないかとの疑いを掛けられたのです。

ちなみに、日本赤軍は1970年代にハイジャック事件や空港乱射事件などを頻繁(ひんぱん)に引き起こし、1980年代には先細りになったものの、日本赤軍がまだ活動を続けていた時代背景がありました。国内では1970年の「よど号ハイジャック事件」と1972年の「あさま山荘立て籠もり事件」が有名です。尋問は20分ほど続いたと記憶しています。

後日、アメリカを出国するときには、航空会社のチェックイン・カウンターで同じような質問を受けたことがあります。ちなみに、当時のアメリカでは出国時のパスポート・チェックは航空会社が行っていたのです。(続く)

2020年6月11日 (木)

映画「ロケットマン」を観る

5月30日にWOWOWで放送された英米が共作した映画「ロケットマン」を観ました。2019年に制作されたこの映画はイギリスのミュージシャン(シンガー・ソングライター)であるエルトン・ジョン(Elton John)の半生を描いた自伝的な音楽ドラマで、並外れた才能を開花させて成功の階段を駆け上がって行く一方で、孤独に苛(さいな)まれる自身の苦悩を描いています。なお、制作総指揮を本人が担当しました。ちなみに、第92回アカデミー賞(2020年2月)で歌曲賞を獲得しています。

エルトン・ジョン(出生時の名前はレジナルド・ケネス・ドワイト)は全世界でのレコード売上が3億枚以上、グラミー賞を5回受賞、イギリス王室からサーの爵位(騎士号)を与えられています。ちなみに、エルトンは同性愛者であり、イギリスで同性婚が認められた後、男性と結婚しました。

ちなみに、題名の「ロケットマン」はエルトンが初期にヒットさせた曲の題名であり、自身が仲間と設立した「ロケット・レコード」にも関係しているようです。

映画を観ながら書いたあらすじは以下の通りです。

派手な舞台衣装を着たエルトンは治療中である多くの中毒患者たちの中で自分の生い立ちを語るシーンで映画は始まりました。少年時代(5歳のころ)にピアノ演奏の才能があることを知った母親と祖母はエルトンにピアノを習わせることにしました。11歳の頃に王立音楽院に合格。エルトンの父親は家にいることが滅多にないだらしのない人物です。実は母親もボーイフレンドがいたことを知り、エルトンは傷つきます。ロックン・ロールに接したエルトンはエルヴィス・プレスリーのレコードを聴くようになり、ロックの世界に目覚めたのです。しかも、ピアノ演奏だけではなく、歌うことの才能も開花させて行きます。

夜の街に出て、バーやストリートでロック曲を披露するようになりました。アメリカから入って来たロックン・ロールがイギリスで新しいロックとして流行し始めていた時代です。つまり、ビートルズなどが人気を集めていたころです。「アーティスト求む」のビラを見たエルトンはその音楽出版社へ出向きましたが、真剣に取り合ってはくれません。しかし、エルトンの曲に興味を持つ人物が現れました。曲作りでコンビを組むことになるバーニー・トーピン(Bernie Taupin)です。そして、エルトンをある音楽出版社へ売り込んだのです。良い曲を作れば採用してくれることになり、二人は同居生活を始めました。

気が合った二人は親しくなったため、異性愛者であったバーニーはガールフレンドと別れることに。エルトンはバーニーの詩を使って曲作り(作曲)に専念しました。程なくエルトンは音楽出版社に認められて1968年(21歳の時)にアルバムを出すことになります。さらには、アメリカへも進出しました。魅力的な曲と派手なショーアップが受けたエルトンは全米で人気を獲得します。その一方でエルトンの奇行(派手な衣装と風変わりな言動)はエスカレートして行きました。

エルトンは再婚した父親を久しぶりに訪ねますが、感傷的になってしまいます。母親に電話をかけゲイであることを告白するエルトン。しかし、母親の反応はクールなもの。ますますナーバスになるエルトン。突拍子もないステージはファンの人気をますます盛り上げることになりました。豪邸である自宅へ古い知人たちを集めてパーティーを開きますが、上手く溶け込めません。突然、思いたったようなプールに飛び込んで幻想の世界へ迷い込みました。気づいた人たちに助け上げられて、救急車で病院へ運ばれます。

少し落ち着いたエルトンは移動中のプライベート・ジェットの中でバーニー・トーピンに向かい『自分を見つめ直す時間が欲しい』 と言います。薬物、アルコール依存性、過食症などで生活が荒れたエルトンは何故か女性と結婚しますが、エルトンは変わりません。バーニーとも喧嘩別れをしてしまいます。この状況を知りながらエルトンのマネージャー(兼恋人)は全米公演の計画を進めます。

母親や恋人との対話することで幼少時代に戻ったエルトンは精神的な落ち着きを少しずつ取り戻して行きました。バーニーとも和解し、再び彼の詩に曲をつけ始めます。

エンドロールの冒頭、その後のエルトンを簡単に紹介して121分の映画は終わりました。これは映画「ボヘミアン・ラプソディ」と同じ手法です。ちなみに、両作品の監督はいずれもデクスター・フレッチャーが務めた。注釈:ボヘミアン・ラプソディの監督ブライアン・シンガーは制作終盤に降板したが、クレジットには監督としてシンガーの名があり、フレッチャーは制作総指揮となっている

〈筆者コメント〉 エルトン・ジョンのことは少しだけ知っていましたが、この映画を通してその生い立ちや人となりを初めて知りました。映画「ボヘミアン・ラプソディ」と同様、主人公の個性的な魅力(カリスマ性)と多彩な楽曲を楽しめる映画です。ちなみに、数多くあるヒット曲の中で筆者が知っているは「僕の歌は君の歌」(原題:"Your Song")と交通事故死したダイアナ妃の追悼歌である"Candle in the Wind 1997"(CDを購入)くらいです。ちなみに、いずれの曲も作詞がバーニー・トーピン、作曲をエルトン・ジョンが担当しています。◇

2020年6月 9日 (火)

ブラタモリ「黒部ダム スペシャル」を観る

5月30日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組201710月に放送された「黒部ダム」と「黒部の奇跡」の総集編)を観ました。長野県にある関電トンネルの「トロリーバス扇沢駅」でのロケから番組はスタートしました。今回、タモリさんに与えられたお題(テーマ)は『黒部ダムはなぜ秘境につくられたのか?』 と真っ当なものでした。冒頭、岩をくり抜いて造られた崖沿いに手作りされた狭い道を通るしかない場所に造られたことを最初に紹介しました。

『最大の難関破砕帯とは?』『北アルプスの秘密はチョコレートにあり!?』などのキーワードがテロップで流れました。タモリさん一行はトロリーバスに乗って黒部ダムへ向かいました。バスが入った長いトンネル(長さ6.1㎞の関電トンネル)はダム工事用に造られたものです。バスは80mに及ぶ破砕帯(はさいたい、岩盤が砂のようになった地層)に差し掛かりました。冷たい地下水が大量に湧き出す場所です。

この対策として500mの水抜きトンネルが掘られたそうです。長いトンネルを抜けて「黒部ダム」の東端にある「黒部ダム駅」に到着。長い階段を上がって黒部ダムの上にある展望台に立ったタモリさんは、黒部ダム(高さ186m、横幅約500m)の大きさに驚きますが、アーチ式ダムでありながらダムの端(アーチ部)が山に接していないことが疑問だと言います。

突然ですが、ここで映画「黒部の太陽」が公開された今から56年前に戻り、大学1年生であった筆者が黒部ダムへ一人旅をした懐かしい思い出を手元に残る写真とともに紹介しましょう。JR大糸線信濃大町駅から路線バスでトロリーバス扇沢駅へ移動した筆者は、タモリさんと同様、トロリーバスに乗って黒部ダムへ向かいました。下の写真は黒部ダム駅に近いダムの堰堤(えんてい)上から立山連峰方面を写したものですが、残念なことに当日は雨天でしたから、手前の案内看板と対岸の崖(がけ)しか写っていません。

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次は日本一の堤高(186m)を誇る黒部ダムを見下ろして撮影した写真です。最上部の排水口が窓のように映っており、その遠方にはレストハウスが、そして排水口の下部には点検用の通路が幾段も確認できます。(注釈:最近の写真で確認すると通路の段数がかなり少なくなっている) その下方に通常の排水口のようなものが見えます。この写真は、アングルから見て、道路のようになっている長さ492mの堰堤上を対岸の黒部湖駅に近いウイングダム部まで歩いたところで撮影したようです。

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閑話休題。長い階段を降りてダムの中ほどに移動したタモリさんは黒部ダムにおける発電の仕組みを見学します。ダムのすぐ近くにある取水口を見たタモリさんは、約10km先、545m下にある発電所まで水が導かれる規模の大きさに驚きます。そして、黒部ダムはこの大きな落差と大量の水を貯めやすい地形(上流は川幅が広く、ダムがある場所は川幅が狭くなっている奇跡的な地形)に特徴があり、巨大な発電所が可能になったことを知ります。

つまり、大量の水と大きな落差です。これにより黒部川には黒部川第四発電所の他、数多くの発電所が造られ、約90kwの発電量が得られたのです。このため黒部ダムは以前、「黒四ダム」と呼ばれていました。

黒部ダムの上に戻ったタモリさんは奇跡的な地形が生まれた理由を探るため、地下式の黒部ケーブルカーに乗って大観峰へ向かいました。途中、黒部平でケーブルカーから立山ロープウェイに乗り換えます。支柱が無いロープウェイです。雪崩が多いエリアであることから支柱が無いとその理由を説明されました。そして、豊かな水量は豪雪の賜物であることを知ります。

大観峰の展望台に到着したタモリさんは立山連峰と後立山連峰の間に黒部川が流れていることを説明されました。複雑な隆起を有するこの地形は地下から噴出したマグマが地表のプレートの力に押されて大きなシワ(3000m級の山脈)ができたと考えられるそうです。タモリさんはその様子を溶けたチョコレートを使った実験で確かめました。つまり、黒部峡谷ができた理由が分かったのです。

その後は視点を変えて水圧を分散して受け止めるアーチ式ダムの仕組みを学びました。しかし、黒部ダムは両端が折れ曲ったユニークな形状をしています。これはアーチ式ダムに掛かる力(水圧)を強固な両岸の岩盤へ効率的に伝えるための工夫だったのです。黒部ダムにおいては、アーチ式ダムの部分をやや前傾させ、両端の部分は重力式コンクリートのウイングダムを持つことで、ダムが貯めた水の圧力を上手く分散する仕組みになっていることが分かりました。

最後に、タモリさんは通路を通ってダムの中に入りました。点検用の長い通路を抜けてダムの外に出ると、すぐ目の前にある放水口から大量の放水が行われていました。放水が、通常の滝のようにではなく、霧状になっています。これは、放水口(バルブ)の形状を工夫することで、大量の放水がダム下流の地盤を傷つけることを防いでいるのです。戦後間もない日本の経済成長を支えた黒部ダムについてタモリさんが抱えていた多くの疑問が解け、タモリさんが大満足したところで番組は終わりました。

〈筆者コメント〉 学生時代に黒部ダムを訪れてから50年以上が経過しました。これまでも黒部ダムを紹介するテレビ番組を何度となく観たことがありましたが、今回ほど掘り下げた黒部ダムの紹介番組は初めてです。タモリさんと同様、筆者も今回の総集編に大満足することができました。◇

2020年6月 7日 (日)

逆転人生「親子2代の夢を実現 世界が認めたウイスキー」を観る

5月25 日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組を観ました。

ウイスキーの人気が右肩下がりで低下するなか、江戸時代から続く秩父の小さな酒蔵(造り酒屋)の息子・肥土(あくと)伊知郎さんは大手酒造会社に勤務している時、父親に請われて1994年に父親の会社へ入社。20年以上に亘(わた)ってウイスキー・ビジネスで奮闘し、ついには3年連続で世界最高賞を受賞。ウイスキーセットが約1億円で落札されるなど、世界から注目を集めるまでを描いたドキュメンタリー番組です。

ウイスキー造りを諦めて日本酒の量販ビジネスを目指す父親と対立しながら邁進(まいしん)する主人公は、本業の酒造ビジネスの低落による赤字で負債(39億円)が積み上がる中、主人公が取締役であった2001年に父親が病いに倒れる事態が発生しました。

造り酒屋である自社の経営権を売却して雇われ社長になった主人公は、新しい経営者からウイスキー・ビジネスを撤退すると通告されたため、原酒の入った400樽を引き取って自らビジネスを始めることを決意。福島の酒造会社にある倉庫に大量の原酒を置かせてもらった主人公は借金をして自ら有限会社(現在の株式会社ベンチャーウイスキー)を2004年に起こしました。しかし、ウイスキーの販路はなかなか広がりません。

個性で勝負しようとすれば原酒づくりに時間がかかってしまいます。そこで主人公はスコットランドから購入した古い樽に父親の原酒を詰め替えて(樽替えをすることで)味を創り上げる秘策を実行。これが奏功(そうこう)して国内の賞を受賞したことで、自社の知名度が徐々に上がって行きました。さらに、自らも原酒を造ることを決意します。

2006年に知り合いから朗報(ろうほう)が舞い込みました。ウイスキー・ビジネスから撤退しようとしていた洋酒メーカーから買い手のない原酒を買い取る代わりに、蒸溜所を再稼働してもらう条件を出して、1か月間だけその蒸留所を使って原酒造りの基礎を学びました。さらに、スコットランドへ渡り、老舗(しにほ)ウイスキー・メーカーに頼み込んで、短期間でしたが本場のウイスキー造りに接します。そして、帰国後にはスコットランドに負けない水の豊かな秩父に小さな蒸溜所を建設します。半年後、父親が造った原酒をベースにした7400 本のウイスキーを販売すると、期待以上の反応があり、即座に完売してしまいました。

父親が作った原酒のお陰と主人公は感謝。疎遠(そえん)になっていた父親を自分の工場へ招待したことで、親子の距離が一気に縮まりました。イギリスの品評会「ワールド・ウイスキー・アワード」で2017年から4年連続で日本部門の1位を獲得し、2018年には長く熟成した父親の原酒と自らが作った原酒をブレンドしたウイスキーが"World Whisky Award"で世界最高賞を受賞したことを紹介。そして、秩父で開催された「秩父ウイスキー祭り」で国産ウイスキーの飲み比べをするシーンを紹介して番組は終わりました。

〈筆者コメント〉 酒好きな私ですが、このウイスキー・メーカーの存在を知りませんでした。この番組を観ながら純米大吟醸酒「獺祭(だっさい)」の蔵元「旭酒造」(山口県)と新潟県の地酒メーカー「八海醸造」、そして長野県のワイナリー「サンクゼール」を想起しました。

2020年6月 5日 (金)

海外出張先の8か国目はトルコ

1985年10月のことです。クウェートとインドネシアへ出張することになりました。最初の訪問国クウェートでの業務がほぼ終わりかけた時、本社からトルコへ向かうようにとの指示が届きました。トルコのプロジェクトは筆者の担当ではなく、同国の顧客についての知識はほとんど持ち合わせていませんでした。しかし、その顧客と技術問題を至急協議する必要があるとのこと。トルコから約2000㎞(北海道北端-九州南端間に相当する距離)しか離れていないクェートにいて、しかも他の顧客において同様の問題に対応したことがある筆者が急遽(きゅうきょ)指名されたと思われます。ぶっつけ本番の仕事になりますが、もちろん本社の指示に従いました。

子供のころから地理が好きであった筆者はトルコの場所と地形などについての知識はありました。また、大学の教養課程で近代西洋史を学んだことがあり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれて第一次世界大戦勃発の切っ掛けになったバルカン半島の情勢とその近くに存在する大国「トルコ」(当時はオスマン帝国)の影響力についても知っていました。英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟、これら二大勢力は地中海周辺で支配地域を拡大させようと対立したことが背景になりました。つまり、衰退し始めたオスマン帝国支配下のバルカン半島におけるナショナリズム(民族運動)に乗じてヨーロッパの二大勢力がバルカン半島に干渉(かんしょう)したのです。後追いで知った知識ですが、トルコについて以下に概観します。

トルコ(正式国名:トルコ共和国)は西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパの東トラキア(エディルネとイスタンブール)を領有する国家で、面積が約78万平方キロメートル(日本の約2倍)、人口が約8200万人。ちなみに、トルコ語の発音では「テュルク」。英語では「トルコ人の国」を意味するターキー(Turkey)ですが、日本で「トルコ」と呼ぶのはポルトガル語での呼び方が取り入れたからのようです。

歴史を振り返ると、古代のアナトリア半島には鉄器で知られるヒッタイト(紀元前16世紀-紀元前12世紀)やリュディア(紀元前7世紀-6世紀)などの王国が存在しましたが、ペルシャ人によるアケメネス朝や東ローマ帝国(4世紀-15世紀)がこの地を支配しました。

一方、北アジアでは6世紀ごろにトルコ系民族が国家「突厥(とっけつ)」を建国。その一部が西進して中央アジアに「セルジューク朝」(11世紀-13世紀)を起こしました。さらに領土を拡大させた「セルジューク朝」(別称:セルジューク・トルコ)はイラン西部からアナトリア半島まで進出しましたが、次第に勢力を失くし、1243年にはモンゴル帝国の支配下に入ることになります。

13世紀末にアナトリア半島の西端で建国した小国「オスマン朝」は、「東ローマ帝国」(別名:ビザンティン帝国)や西アジア・北アフリカの諸国を征服して、「ローマ帝国」に比肩(ひけん)する巨大な「オスマン帝国」(15世紀-20世紀)へと発展しました。第一次世界大戦ではドイツを中心とする同盟国に加わって参戦しましたが、敗戦したことで「オスマン帝国」は解体され、1923年に「トルコ共和国」が建国されました。ちなみに、2018年6月のブログ記事「ハンガリー旅行記」の中でオスマン帝国の東ヨーロッパ侵攻について簡単に触れています。

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10月17日、トルコのイスタンブールのアタテュルク空港に到着。ちなみに、2019年にイスタンブール空港が市街地の北西部に新空港として開港しています。その日のうちに顧客の事務所がある首都アンカラへ国内便で移動することにして、エセンボーア空港へ飛びました。アンカラの市街地から北東約28㎞の場所にあります。翌18日に顧客と打ち合わせを持ち、午前中に改善策で合意することができました。

同日の午後は空き時間を利用してアンカラ市内のアヌトテペ地域にある高台へ向かいました。1953年に完成したというムスタファ・ケマル・アタテュルクの廟(びょう)が聳(そび)えていました。ちなみに、アタテュルクはオスマン帝国の将軍であり、トルコ共和国の創設者としてトルコ共和国の初代大統領に就任した人物で、トルコの国父と呼ばれているそうです。

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高台から見たアンカラの市街地(遠景)

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現地協力会社のオフィス前で記念撮影

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翌10月19日にはイスタンブールのアタテュルク空港へ戻りました。海岸沿いの道路を東進したところにイスタンブールの旧市街地がありました。アジアとヨーロッパを隔てるボスポラス海峡を体感するため、イスタンブールの旧市街とアナトリア半島側のイスタンブールを結ぶ自動車用橋「ボアジチ大橋」(1973年建設の吊り橋、長さ1074m)を渡りました。注釈:現在は「715日殉教者の橋」と呼ばれている

写真はボアジチ大橋から見た「ボスポラス湾」の南方(マルマラ海/地中海方面)と、

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ボアジチ大橋の東袂(ひがしたもと)付近の住宅地

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当時、自動車用の橋としてはこの橋だけが架かっていましたが、1988年に「ファーティフ・スルタン・メフメト橋」(長さ1090mの吊り橋)、2016年には「ヤウズ・スルタン・セリム橋」(長さ1400mの吊り橋)が建設され、現在は計3つの橋が架かっています。

10月20日には伝統的に様々な民族が住んでいたことでヨーロッパの雰囲気が漂う新市街にある現地事務所でトルコにおける出張報告を纏(まと)めながら過ごすことに。ちなみに、トルコはチュルク人は約70%と一番多いのですが、残りは様々な民族で構成される多民族国家なのです。民族が入り乱れて変遷した長い歴史を反映しています。

そして、翌10月21日は次の訪問国であるインドネシア行きの便を待つ間、イスタンブール市内(旧市街)を観光することにしました。なお、2005年12月の当ブログ記事「イスタンブールの思い出」で主な観光地を紹介しています。

まず、高台から世界文化遺産の「イスタンブール歴史地区」(1985年登録)の遠景を撮影。中央やや右手にはボスポラス湾とつながる「金角湾」があり、左端に聳(そび)えるのは「スレイマニエ・モスク」、その右手前にあるのは「リュステム・パシャ・モスク」のようです。右端にはガラタ橋でつながる新市街が少し写っています。

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テオドシウス一世のオベリスク」は「ブルーモスク(スルタン・アメフトジャミィ・モスク)」の近くにありました。古代ローマ帝国の皇帝「テオドシウス1世」(注釈:4世紀末に東西ローマ帝国を一時的に統合した皇帝)がエジプトから持ってきたものであるため、ヒエログリフ(神聖文字)が刻まれています。案内書によっては元々の所有者であった古代エジプトのファラオの名を採(と)って「トトメス3世のオベリスク」としているものがあるようです。

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イスタンブール観光の定番である「トプカプ宮殿」(注釈:トプカピ宮殿とも表記)は半島の先端にありました。「アヤソフィア・モスク」の北隣です。

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宮殿内に展示されていた「エメラルドの短剣」

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イスタンブールの旧市街ではその他にも「ブルーモスク」と「アヤソフィア」に加えて、旧市街地の中心にあるカパル・チャルシュ(屋根付き市場、英語ではグランドバザール/Grand Bazaarも訪れました。西洋と東洋が融合した不思議な魅力を持つオスマン帝国の遺産に圧倒されたことを今でもよく覚えています。注釈:5月30日にテレビ朝日で放送された「旅サラダ」で「ブルーモスク」が紹介されました

慌(あわ)ただしい予定外の出張(寄り道)でしたが、そのお陰で空き時間を利用して上記したようにイスタンブール観光を楽しむことができました。しかし、今回のトルコ行きは代役の出張であり、残念なことにトルコへ再度出張する機会はありませんでした。

話が飛びますが、定年退職して時間の余裕ができたことで、2006年にドイツ・スイス・フランスへ出かけました。現役時代の1999年にニュージーランド旅行へ出かけてから7年後のことです。しかし、その後の数年は国内のドライブ旅として旧東海道(静岡京都)、大山道(川崎伊勢原)、西国街道、奥の細道(前編後編)、四国八十八霊場への遍路旅(徳島・香川・愛媛徳島高知・愛媛・香川)、3年連続の富士登山(2008年2009年2010年)、東北ドライブ旅、さらには全国の温泉巡りなどに熱中。

そして、それらが一段落したところで海外旅行を急に思い立ち、2013年にクロアチアへ、2014年にはハワイ台湾への観光旅行した後、2015年にトルコへの旅行を計画しました。もちろん、行先の候補地は古都イスタンブール、ほぼ中央部にあるカッパドキアのカルスト台地、エーゲ海に面したベルガマのギリシャ都市国家跡と同じくトロイ遺跡など。

しかし、2015年ころには西欧での難民流入の影響(混乱)が中東からの流入ルートにあるトルコにも及び始めたため、その旅行計画を取りやめて、急遽(きゅうきょ)東南アジアへの旅行へ切り替えることに。手始めとして2015年は「インドネシア」、2016年「ベトナム」、2017年「ミャンマー」、そしてヨーロッパ情勢が落ち着いた2018年になって「中欧3か国」、2019年「北欧4か国」と海外旅行を続けてきました。

このように「トルコ」の政情が安定化するのを5年間も待っていましたが、今年初めには「新型コロナウイルスのパンデミック」が世界的に発生したため、海外旅行はしばらくお預けになってしまいました。残念なことですが・・。◇

2020年6月 3日 (水)

「ブラタモリ 富士山スペシャル」を観る

5月23日にNHK総合テレビで放送された「ブラタモリ 富士山スペシャル」を観ました。5年近く前に3回に亘って放送された「富士山の総集編」です。NHKの関連hpには以下のように紹介されていました。

『タモリさんが富士山頂を目指す!2015年10月に3週にわたって放送した富士山シリーズの名場面をギュっとまとめてアンコール放送▽「日本最大の高低差」にタモリが挑む』

『「ブラタモリ#19富士山」「#20富士山の美」「#21富士山頂」(初回放送2015年10月10・24・31日)・富士山シリーズの3回を1本に再構成してアンコール放送!「富士山はなぜ美しい?」「人はなぜ富士山頂を目指す?」のお題を探る▽タモリ70歳で人生初の富士登山に挑戦▽江戸時代の噴火で生まれた「宝永火口」で富士山の美しさに迫る!▽「ご来光」の秘密とは!?▽初登頂の山頂でとっておきのサプライズ!?』

                           ☆

タモリさんは、パートナーの桑子アナウンサーとともに、先ず浅間(せんげん)大社を訪れました。本殿に参拝したタモリさんは旅のお題として『富士山はなぜ美しい?」を受け取り、いつも以上にハードな富士山の旅が始まりました。先ず、富士山の五合目に向かい、宝永火山の火口を目指します。生憎(あいにく)の天気で雲が立ち込めと視界はほとんどありません。

平安時代の噴火で積もった溶岩地帯を抜けると、上空に晴れ間が広がりました。6合目付近では岩の谷間が下方へ続いている所に行き当たりました。「割れ目噴火」が起こった跡「割れ目火口」です。

100か所以上もある火口がある富士山には「雪代(ゆきしろ)」と呼ばれる溶岩流による谷間がいくつもあり、それが噴火により修復されて現在の美しいかたちになったことが専門家によって説明されました。いよいよ、富士山で一番大きな割れ目火山である「宝永(ほうえい)火山」の火口へ降ります。五合目から約1kmの地点です。

「宝永火山」の火口は直径約1.1km。そこからは富士山が成長した2000-3000年の地層を確認することができました。「割れ目噴火」で地表へ噴出したマグマは冷え固まってたくさんの「岩脈(がんみゃく)」を造りました。何故か、その「岩脈」は頂上の方向に向かっています。多くの割れ目火口を作り出したのは地下のプレートの動きによるものでした。

タモリさんは富士山の頂上を目指して9合目付近に到達しましたが、そこからは登山道が急峻(きゅうしゅん)になる最大の難所なのです。雲海を下に見ながらタモリさんは登り続けました。御来光を見た後に下山する登山者たちとすれ違います。そして、溶岩が積もる急な登山道を経て山頂に到達。頂上にある浅間大社奥宮に参拝し、70歳以上ができる記帳をして、お神酒(みき)を頂きました。

こから山頂の火口と御来光(ごらいこう)について専門家から説明を受けます。それは山頂から見る日の出ではなく、山頂にある8体の仏様(頂き)が取り囲む火口に現れる大日如来(だいにちにょらい)のことなのです。御来光とは「ブロッケン現象」による人の影なのです。

最後にタモリさんは山頂の一番高い場所(注釈:昔、気象レーダーがあった場所)を目指しました。急坂を登る難所です。標高3776mの最高地点は「剣が峰」と呼ばれます。初めての山頂踏破で満足するタモリさんの笑顔で番組は終わりました。

                           ☆

〈筆者コメント〉 富士登山は室町時代から「お伊勢参り」とともに日本人が憧(あこが)れる一大イベントでした。ちなみに、タモリさんはこの富士登山の8か月後の20166月放送分(2回)で「伊勢神宮」を訪れています。

今回の番組を観ながら、定年退職をしてから念願の富士登山を2008年から2010年まで3年連続で体験できたことを思い出しました。とても幸運なことに3回(2008年2009年2010年)とも頂上で御来光(朝日)を拝むことができました。一方、「伊勢神宮」には小学校の修学旅行を手始めに、2016年7月まで何度か参拝しています。

また、ちょうど70歳を迎えたタモリさんが富士山の山頂まで無事に登り切ったことに敬服しましした。蛇足ですが、筆者の経験では山頂に至る登山道には様々な難所(滑りやすい場所や急な岩場なと)があります。そして、降雨は体力と気力を奪う難敵です。しかし、最大の難所は下山道の後半にあるのです。

それは、筆者が利用した「吉田ルート」では8合目から7合目までの「九十九折り」(上りと別ルート)は砂利交じりの砂地であり、「御殿場ルート」の大砂走(すなばし)りほどではありませんが、面白いほど快調に駆け下りることができます。しかし、下り傾斜が急に緩(ゆる)くなるその先(上りルートと合流する6合目を経て5合目まで)は疲労が溜(た)まって痛みを持つようになった自分の足(特にヒザ)との闘いになるのです。つまり、下山時の歩幅とペース配分が極めて重要であることを3回の富士登山を通して筆者は痛感しています。

なお、今年は新型コロナウィルスが蔓延した影響で、残念なことに夏季だけではなく年内の富士登山が禁止になりました。富士登山ファンの一人として来年には富士登山が解禁になることを切に願っています。◇

2020年6月 1日 (月)

今年も孔雀サボテンが咲きました!

孔雀サボテンは熱帯植物(多肉植物・常緑多年草)で原産地はメキシコ南部からアルゼンチンにかけての中南米とされます。日当たりを好み、耐寒性は余りありません。また、サボテンですから水や肥料のやり過ぎに注意する必要があります。わが家で育てている孔雀サボテンは20年以上前に同居者が知人から鉢植えを貰ったのが始まりで、以来 植え替えや挿木(さしき)で増やしてきました。

孔雀サボテンの特徴ですが、その丈(たけ)は50cmから1mですから、サボテンとしては中型と言えるでしょう。開花時期は5月から6月ですが、花の色は白・赤・ピンク・オレンジ・黄・紫と多彩です。

3年前に建物の改修を行ったため、長期間にわたって鉢植えを日当たりが少ない室内に退避させました。そのため孔雀サボテンはかなり衰弱してしまいました。しかし、昨年にはほぼ回復したことで、今年の開花に期待していたのです。ちなみに昨年のことですが、わが家の孔雀サボテンにカイガラムシが発生したため、丁寧(ていねい)に擦(こす)り落とし、カイガラムシ用の殺虫剤を噴霧して退治しました。

今年は期待した通りに2週間ほど前から孔雀サボテンの茎節に花芽がつき始めていましたが、最初の花芽がついに今朝(昨夜?)開花したのです。一夜しか開花しない「月下美人」とは異なり、孔雀サボテンは花を2-3日楽しむことができます。今年は多数の花芽がありますから、しばらく花を楽しめそうです。なお、下の写真は2020年6月1日午前9時ころに撮影しました。

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余談です。孔雀サボテンは月下美人と良く似ていますが、異なる点がいくつかあります。先ず花の色ですが、月下美人は白色のみです。また、茎(葉)についても、月下美人は薄くて刺(とげ)が無く、孔雀サボテンは厚めで刺(とげ)があります。さらに、開花時期についても孔雀サボテンは5-6月の一回ですが、月下美人は秋(9-10月)にも咲くようです。そして月下美人は草丈が1-1.5mと高く、芳香が強いことも孔雀サボテンと異なります。なお、両者は共にサボテン科エピフィルム属(クジャクサボテン属)の近縁種です。◇


〈2020‐06‐02追記〉 1日遅れで2輪目(右側)が咲きました。

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〈2020-06-03追記〉 3日間続けて開花しました。

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一方、3日目の朝を迎えた最初の花は萎(しぼ)み始めています。紡錘形(ぼうすいけい)をしている蕾(つぼみ(かが)、つまり花芽(かが/はなめ)とは形が明らかに異なります。

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ちなみに孔雀サボテンは、一旦閉花すると2‐3日で大きく開いた花が萎(しお)れ、さらに数日が経過したころに茎節の部分で茎から離れて、ついには落下してしまいます。

〈2020-06-05追記〉 ◇最初の開花から4日後、2鉢の孔雀サボテンはいずれも満開になりました。

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◇◇

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