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2020年7月25日 (土)

にっぽん!歴史鑑定「平将門と藤原純友 東西同時反乱の真実」

7月20日にBS-TBSで放送された「平将門(たいらのまさかど)と藤原純友(ふじわらのすみとも) 東西同時反乱の真実」を観ました。TBSの関連hpには以下の通り紹介されています。

『平安時代中期。関東と瀬戸内という日本の東西で、同時に大規模な反乱が起こった。平将門の乱と藤原純友の乱である。』

『天皇の血を引く将門がなぜ朝廷から反逆者とされたのか? そして、名門貴族出身の純友が反乱を起こした意外な理由とは?』

『さらにこの2つの乱にまつわるこんな伝説が…「比叡山の山頂で平将門と藤原純友が共謀して反乱を企てた」』

『果たして、本当に将門と純友は共謀して反乱を起こしたのか? その真相に迫る!』

                            ☆

以下は番組を観ながら書いた概要です。

今から1080年ほど前の平安時代中期(天慶2年/939年)、日本の東西、つまり関東と瀬戸内で2つの大きな反乱が同時に起こりました。「平将門の乱」と「藤原純友の乱」です。「前太平記」には『比叡山の山頂から平安京を見下ろしながら将門(まさかど)と純友(すみとも)が桓武平氏の流れを汲む将門は天皇に、藤原氏の流れを汲む純友は関白になる約束をした』と伝えています。

先ず、将門と純友がほぼ同時に反乱を起こした背景を探りました。平将門は下総国(しもふさのくに)に桓武平氏(かんむへいし)の流れを汲(く)む高望王(たかもちおう)の三男平良将(たいらのよしまさ)の長男として生まれ、10代で京に登り摂政(せっしょう)藤原忠平に仕えたことで滝口武士(天皇を護る役職)に登用され、出世街道を歩み始めますが、父の死により出世を断念せざるを得なくなりました。藤原氏に生まれた純友も同様に京に上りましたが、純友の父が亡くなったため、後ろ盾(たて)を失いました。

下総国に戻った将門を待っていたのは一族の領地争いでした。父の領地を奪った伯父の国香(くにか)を将門が討ち取ったため、国香の弟(将門の伯父)の良兼と国香の長男貞盛の恨(うらみ)みを買うことになりました。将門の親分肌と過激な戦い方が後に将門が朝廷に反乱したと見做(みな)されことになると専門家は分析します。しかし、この紛争を知った朝廷は将門に紛争の当事者たちを捕縛(ほばく)する追補使に任命しました。その背景には摂政藤原忠平の存在があったのです。将門と敵対する平良兼と平貞盛は賊軍になったのです。

追い詰められた良兼は将門がいる石井営所を襲撃しましたが、将門はこれを撃退。貞盛は勝ち目がないと逃走。平氏一族の争いはこれで終結し、将門は坂東(関東地方)の治安維持を朝廷から任(まか)されました。富士山の大爆発と大地震が坂東を襲い、朝廷が派遣した国司による過酷な課税に耐え兼ねた農民たちは逃げ出しました。将門は朝廷に属さない荒地を開拓して農地に変えました。

隣国の武蔵野国で問題が起きました。朝廷から派遣された武蔵国権守(国司代理)の興世王(おきよおう)とそれを補佐する武蔵介(むさしのすけ)源経基(つねもと)が税を滞納する足立郡郡司武蔵武芝と対立。将門は手柄を上げるためにその対立の調停役を買って出て、興世王と武蔵武芝を和解させますが、その場にいなかった源経基は自分を殺そうとしたと勘違いし、将門が謀反を企てていると朝廷に申しでました。

当時、都にいた将門の従兄弟である貞盛も将門の悪行を訴えたことにより、朝廷も見過ごせなくなり、事情を聞くため将門に上京するように命じました。将門はこれに応じず、将門は坂東5か国の国司が将門の無罪を証明する書状「諸国之善状」をかつて仕えていた藤原忠平に送りました。これを見た忠平は困惑します。一方の将門は朝廷からの恩賞を期待していました。隣国の常陸国で税を払わない藤原玄明(はるあき)が将門の元に助けを求めてきました。

かつての配下の一人であったため、これを向かい入れます。常陸国の国司は玄明を引き渡すことを将門に要求しますが、物別れに終わり、攻められた将門は常陸国の国府を焼き払ったため、朝廷から謀反を起こしたと判断されました。将門は興世王に相談しますが、関東8か国と伊豆国を支配下に置くことを助言され、それを実行しました。坂東臨時政権を朝廷に認めさせることを決意します。朝廷との行き違いが生じたのです。占いで天皇になるとされた将門は「新皇」に即位することを宣言しました。

この頃、西国にいた藤原純友も瀬戸内で反乱を起こしました。3年前、50代半ばになっていた伊予掾(いよのじょう、説明:伊予国の三等官)の純友は海賊追補使(ついぶし、正六位)に任じられていました。純友は武力ではなく懐柔策で海賊を抑えますが、朝廷から評価されることはありませんでした。伊予国を出た純友は海賊たちを従えて備前国へ向かいました。

備前介の藤原子高(さねたか)が地元の豪族藤原文元(ふみもと)と税をめぐって対立し、これに耐えきれなくなった文元は海賊への対応で協力して親しくなった純友に支援を要請しました。これに対応することで3年前に朝廷からの恩賞を期待したと考えられます。しかし、純友に支援された文元が京へ向かう子高を追いかけて撃ったことで「純友の乱」が始まってしまいました。

純友は朝廷に官位(従五位)を要求する書状を送りました。この二つの反乱に朝廷は将門と純友が共謀して京に攻め上りのではないかと恐れます。朝廷の公卿たちの憶測であるが、純友が将門の乱に乗じて蜂起した可能性はあると歴史学者の下向井龍彦広島大学名誉教授は考えます。混乱に陥った朝廷は2つの乱をどう鎮(しず)めたのでしょうか。

摂政藤原忠平は急を要する「将門の乱」に集中的に対応し、一方の純友には官位を与えて和解することにしました。坂東に戻っていた貞盛は秀郷と協力して将門を攻めました。兵力で劣る将門は戦(いくさ)を優勢に展開しましたが、風向きが変わったことで劣勢になり、流れ矢に当たって戦死しました。新皇を宣言して2か月後のことです。反逆者となった将門の首は京で晒(さら)されました。

朝廷の次の敵は純友でした。朝廷は純友の配下が勝手に反乱を起こしとして討伐軍を派遣すると、配下は純友の元に救援要請が届きました。讃岐にいた討伐軍を攻撃し、朝廷と交渉するために京へ向かいましたが、討伐軍が陣容を立て直したため、引き返して、九州の太宰府を急襲して占拠しました。和解の手段にしようとしたのです。しかし、朝廷にはもはや和解する考えはなく、討伐軍が太宰府に近い博多湊に大挙して上陸して純友軍を撃ち破りました。純友は捕らえられて斬首(ざんしゅ)の刑に処せられて、「純友の乱」も鎮圧されました。

東西で同時に発生した反乱を鎮圧する上で大きな働きをした平秀郷は従四位下(じゅしいのげ)という破格の位が、平貞盛には従五位下の官位が与えられました。平貞盛の子孫に武家社会を造った平清盛が誕生します。圧政が人々を苦しめた貴族社会に大きな影響を与えた二人の武将、平将門と藤原純友は処刑されましたが、日本史に残る大事件であったと総括して番組が終わりました。

〈筆者コメント〉 平将門と藤原純友については、それぞれ当ブログ記事の「将門記(しょうもんき)」「悪人列伝(その4)」および「同(その5)」で紹介しています。特に平将門については、その本拠地であった茨城県坂東市都内(千代田区大手町)を訪れて、所縁(ゆかり)の場所についての詳細を当ブログに投稿しています。◇

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