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2024年9月

2024年9月26日 (木)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その8) 名古屋市守山区の白鳥塚古墳(後編)

急な下り階段について注意を促(うなが)す警告パネルがあります。

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上から見下ろす階段は上がる時以上に急峻(きゅうしゅん)に見えます。

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階段を下り切ったところに右手へ伸びる小径があります。これが順路でしょう。

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「アオハダ(青膚)」の樹木表示パネルとは聞きなれない名前です。その説明によると、雄の木と雌の木がある落葉高木とのこと。樹皮の内皮が緑色で、昔は緑のことを青といったことが名前の由来でした。

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見上げると、かなりの高木です。

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「アラカシ(粗樫)」は聞きなれた名前です。常緑高木。ドングリはアク抜きをしてから食べることができ、縄文時代の貯蔵穴から見つかることがあるそうです。

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「アズキナシ(小豆梨)」は初耳です。落葉高木。赤くじゅくした実は食べることができるとのこと。別名ハカリノメと呼ばれることがあるそうです。

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左手には低地が続いています。

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回り込んだ前方に説明パネルがあるようです。

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「白鳥塚古墳の渡土手(わたりどて)」について説明されています。

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[説明文]後円部の西側には「渡土手」とよばれる土手状の高まりがあります。幅は約9mで、斜面には葺石(ふきいし)が積まれていました。古墳の外から墳丘へ渡るための通路(陸橋)であったと考えられます。

ここで、筆者は急に気が変わってルートを変更することにしました。この先に「白鳥塚古墳」の葺石(ふきいし)があるはずですが、「手鏡型前方後円墳」と呼ばれる理由となったやや小さく細い前方部の様子を見たくなったのです。人が歩いてできた小径が左手へ伸びていますから、それに従って進むことにします。

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少し開けた場所に出ました。前方部先端が角が丸みを帯びているそうですが、この場所からはその形状を見定められません。

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左手方向には木々の間を通して低地の草原を見ることができます。

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奥まった場所(全方部の前縁、南西方向に向いている)に何か白いものを見つけました。

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白い茸(きのこ)でした。

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茸図鑑で調べると、食用の「オオイチョウタケ」あるいは「タマウラベニタケ」のようです。もしかしたら、猛毒のある「ドクツルタケ」かも知れません。野生に生えるキノコには近づかないことが筆者のルールです。

「白鳥塚古墳」の見学はここまでにして、駐車場へ戻ることにしました。前方部側にある階段はかなり緩(ゆる)やかです。

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元来た道に合流して入口へ向かいます。

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表の道路に出ました。駐車場は左手方向です。なお、今回見学しなかった葺石(ふきいし)については名古屋市の関連サイトを、そして「白鳥塚古墳」の航空写真はこちらを参照してください。

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歩道に消火栓とマンホールの蓋(ふた)を見つけました。消火栓には城と鯱(しゃちほこ)が、マンホールにはアメンボ(平成9年以降)がデザインされています。

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「白鳥塚古墳」の中を夢中になって散策していましたが、もう午後1時40分を過ぎていることに気付きました。古墳巡りのリストにはまだ候補が残っていますが、同行者のご機嫌が悪くなる前にその計画を打ち止めにして、同行者も気に入ると考えられる目的地へ向かうことにしました。

唐突(とうとつ)ですが、ここでブログ記事の投稿を小休止します。(続く)

2024年9月25日 (水)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その7) 名古屋市守山区の白鳥塚古墳(前編)

県道176号線に戻ってさらに東進しました。若宮交差点で県道177号線に名称が変わり、薬師前交差点のすぐ先にある信号のない三叉路を右に進んで県道195号線に入ると、ほどなく小牧市に入りました。篠岡小学校南交差点を通過する際、前方に電波塔のようなものが・・。

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次の桃花台センター交差点近くの高台に建っているようです。右側には水道タンクのような施設(茶色のキノコ型とベージュ色の円筒形)も確認できました。

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後で調べると、高台にあるのは桃花台(とうかだい)中央公園でした。芝生広場、噴水、長いローラー滑り台、アスレチックなどが充実している小牧市の施設とのこと。なお、筆者が気付いたタワーは1986年に運用を開始したテレビ放送(アナログ放送)用中継所でした。2011年7月にアナログ放送が終了した後は、携帯電話の基地局として活用されているそうですが、鉄塔を撤去するかどうかはまだ決まっていないそうです。

中央高速道路の下を潜り、大草東交差点で県道199号線に合流し、高蔵寺北交差点で国道155号線に合流、新東谷交差点を左折した県道255号の高蔵寺駅南交差点を右折して東谷橋(とうごくばし)で庄内川を渡り名古屋市守山区へ入ると、次の目的地である国指定史跡「白鳥塚(しらとりづか)古墳」に到着です。

このように表現する(長い一筆書き風)と目が回りそうですが、次の目的地である「白鳥塚古墳」をカーナビがヒットしてくれましたから、その指示通りに走っただけなのです。なお、走行距離は15㎞強、所要時間は約45分。

「白鳥塚古墳」にはきれいな駐車場(4-5台)とトイレの施設が道路の反対側に完備されていました。

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白鳥塚古墳」とその周辺の案内地図には庄内川の南岸(左岸)の東部に拡がる丘陵地帯と右上から左下へ伸びる河川段丘の等高線(参照:案内地図の右下にある小さな図)が伸びる様子が描かれ、その中位段丘に「白鳥塚古墳」があることが示されています。

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拡大した地図で確認すると「白鳥塚古墳」以外にも多数の古墳が存在することと、大きな池がいくつも表示されています。

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道路を横断して「白鳥塚古墳」へ向かう途中にこの立て看板を見つけました。

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説明文は読み取れると思います。

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入口は近いようです。

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右手を見ると一面の草原があります。

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縦格子フェンスに両側を挟(はさ)まれたところが「白鳥塚古墳」の入口のようです。駐車場から100m余りの距離でした。

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門の中には車止めがあります。

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右前方にある「史跡 白鳥塚古墳」と彫られた石柱

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その右手には「国指定史跡 志段味(しだみ)古墳群 白鳥塚古墳」の説明パネルがありました。

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説明文は以下の通りです。

志段味(しだみ)古墳群は、濃尾(のうび)平野の東端に位置し、4世紀前半から7世紀末(古墳時代前期から終末期)に造られた総数約70基の古墳から構成されます。
白鳥塚古墳は、4世紀前半(古墳時代前期半ば)に築かれた愛知県で最も古い前方後円墳です。墳丘の長さは約115mで、県内で3番目の大きさです。古墳の周りには濠(ほり)がめぐり、後円部北側には渡土手(わたりどて、陸橋)が設けられていました。
埴輪(はにわ)が見つかっていないことから、この地域には埴輪を並べる文化が伝わる以前に造られた古墳であると考えられます。
渡土手があることや、墳丘が白色の石(石英)で飾られることなど、白鳥塚古墳と奈良県の大型前方後円墳には共通点が認められることから、白鳥塚古墳の被葬者(ひそうしゃ)はヤマト王権と強い結びつきがあった人物と推定されます。

説明パネルの右側にある地図には白鳥塚古墳を巡るルートが表示されていますので、これに従うことにしました。

後円部へ向かう直線的な道は、一旦急な階段を下り、その上で階段を上がるように続いています。

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上り階段の手前に「白鳥塚古墳の名前の由来」を説明するパネルがありました。葺石(ふきいし)として使われた石英の白さと、伊吹山で傷をおったヤマトタケル(日本武尊)を尾張まで運んだ白鳥の墓であるとする伝説によると説明されています。

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急な階段を上がります。

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階段の後に続く砂利道を上がると後円部の頂部が近づきました。

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頂部には小石を敷き詰められた円形状のものがあります。

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右手にある説明パネルには「白鳥塚古墳の埋葬施設」について説明されています。

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説明文は以下の通りです。

昭和初めに後円部墳頂中央部の発掘が行われましたが、埋葬施設や福装品は見つかりませんでした。これまで後円部墳頂の学術的な発掘調査は行われていません。
2006(平成18)年に実施された物理探査(レーダ探査・電気探査)では、南北方向を主軸とする二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されています。
なお、後円部墳頂の平坦部には、石英の小礫(しょうれき)が敷き詰められていたと考えられます。

指定されたコースに従って次へ進みます。(続く)

2024年9月24日 (火)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その6) 犬山市青塚の青塚古墳

国道21号線をさらに東進した鵜沼I.C交差点で県道207号線に入りました。さらに、鵜沼東町交差点を右折して県道27号線に入り、木曽川を渡って愛知県犬山市に入りました。犬山橋の上から右手方向に国宝犬山城を遠望することができます。

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4㎞ほど南下した五郎丸交差点(立体交差)で国道41号線(名濃バイパス)へと右折して犬山市青塚(あおつか)にある「青塚古墳」へ向かいました。片側3車線の走りやすい道路です。なお、国道41号線は名古屋市と富山市を結ぶ主要道路で、途中に岐阜県の下呂市と高山市を経由します。

5㎞余り走った新宮2丁目交差点を左折して県道176号線に入り、1㎞ほど西進して右手にある「青塚古墳史跡公園」の駐車場(20台)に車を停めました。とは言っても、カーナビに次の目的地を入力せずヤマ勘で走っていたため、少し行き過ぎてから引き返しましたが・・。

「青塚古墳」に沿って水が滔々(とうとう)と流れる農業用水沿いの道を歩き、200mほど先の十字路を右手に折れました。右手の角には「青塚古墳」と関係がありそうな建物があります。

初秋であり田んぼでは稲穂が実りつつあります。給水路(次の写真の右側)から田んぼへ間欠的に水を供給して水を張ることで稲の成長を促(うなが)しているのでしょう。そして、稲刈りの1-2週間前には最後の落水を行うのです。筆者の生半可な知識ですが・・。

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右手にある建物を過ぎると、生垣越しに国指定史跡の「青塚古墳」の全景が姿を現しました。

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さらに進んで敷地の奥に門のない入口を見つけました。敷地内左手には簡単な休憩施設(東屋とベンチ)があります。

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右手には三角屋根の立派な建物があります。これは先ほどすぐ脇を通過した建物です。

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古墳に近づいてみました。

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前方部の角に『古墳(墳丘)には登らないでください。』と書かれた看板が下がっています。

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前方部のもう一つの角には住宅が迫っているため、敷石と2m間隔で配置される壺型埴輪の列が途切れています。とは言っても、歩いて通過するには支障がなさそうです。

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前方部の反対側に出ました。ここから見ても後円部の高さが目立ちます。

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左手には蒲(がま)が植えられた水田があります。よく見ると穂が実っています。古代の雰囲気を演出するための環境でしょう。蒲の穂は切り傷に薬効があるそうで、古事記に記されている因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)と大国主の伝説に重要な役回りで登場します。なお、蒲の穂は、薬用としてだけではなく、地下茎とともに食用としても利用できるそうです。

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さらに進むと、前方部と後円部の境目(くびれ部)付近に差し掛かりました。

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ここにも先ほどと同じ看板があります。

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蒲の水田を過ぎると左手に折れる道がありましたので、興味を持ってそちらへ進んでみました。次の写真は左手に見える蒲の水田方面を写したものです。

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次の写真は振り返って後円部を写したものです。

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道の反対側には説明看板がありました。

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説明文は以下の通りです。

青塚古墳について

青塚古墳は、愛知県で2番目に大きい規模をもつ前方後円墳です。別名「王塚」、「茶臼山」と呼ばれています。この古墳は、犬山市から南方6㎞、標高31mの台地の端に築かれ、古墳の西側には木曽川によって形成された平野が広がります。

青塚古墳の形状は、前方部・後円部共に低い基壇(きだん)の上に築かれており、前方部2段・後円部3段の築成であります。また、各段のテラス(平坦面)には壺型埴輪(はにわ)が並べられています。前方部の墳頂には低い壇があり、この壇を囲むように円筒埴輪・鰭(ひれ)付朝顔型埴輪などが並べられています。

青塚古墳の周りは、自然の地形を利用した空堀の周濠(しゅうごう)があり、この周濠からは古墳東側のくびれ部より外に向かって延びる陸橋があります。注釈:陸橋は敷地東南にある建物方向へ

古墳の築かれた時期は、出土した埴輪などから4世紀中頃の古墳時代前期に造られたものと思われます。

前方後円墳(4世紀中頃) 国史跡指定(1983年2月8日)
保存整備事業(1996年度~1999年度)

全長       123m        くびれ部高    5.5m
後円部径       78m        前方部長      45m
後円部高     12m        前方部幅      62m
くびれ部幅    43m        前方部高      7m

事業者 犬山市


さらに進むと道路に出ました。ここが「青塚古墳史跡公園」の正面口であることが分かります。次の写真は駐車場から続く道です。

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後円部の周回ルートに戻りました。長い草が生い茂っているためはっきりしませんが、三段構造になっているようにも見えます。

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広場側へ出ました。正面に先ほどの建物があります。

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前方部が少し見えてきました。

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ここで、建物の方へ向かうことにしました。

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花壇の縁に見えた説明看板です。先ほどの説明看板とは異なりカラフルです。周郷を取り囲む外提部に烏(からす)塚古墳耳塚古墳(消失)が表示されています。

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説明文は以下の通りです。

国指定史跡 青塚古墳  墳長 123m  墳形 前方後円墳  時期 4世紀中頃(古墳時代前期)

青塚古墳は4世紀中頃(古墳時代前期)に造られた愛知県で2番目に大きい前方後円墳です。標高31mの台地の端にあり、古墳の西側には平野が広がります。古墳は、低い基壇(きだん)の上に後円部が3段、前方部が2段に築かれています。段ごとの平坦部には、赤く塗られた壺形埴輪が並び、前方部の頂上には、方形壇((注釈:羽柴秀吉と織田信夫・徳川家康の戦)を囲んで円筒埴輪、朝顔形埴輪が並んでいました。また、古墳全体は大量の河原石で覆(おお)われていました。古墳の周りには周濠(堀)と外提が巡(めぐ)り、周濠(しゅうごう)を横切って古墳に向かう通路(陸橋部)がありました。
1584(天正12)年の小牧長久手の戦い(注釈:羽柴秀吉が織田信雄・徳川家康と戦った)の際には、秀吉の砦(とりで)として利用されたとも伝えられます。


蛇足ですが、青塚古墳周辺に存在する烏塚古墳(注釈:青塚古墳の南西隣り)、花塚1号墳、2号墳、3号墳(注釈:青塚古墳の南西部)、尾張地区最古とされる東之宮古墳など多くの古墳が発見されているそうです。

立派な建物はガイダンス施設の「まほろ館」でした。
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開館中の標札が出ていますが、時間を確認すると午前12時40分を過ぎていました。スケジュールがかなり押していますから、先を急ぐことにします。(続く)

2024年9月23日 (月)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その5) 各務原市の坊の塚古墳

後先になりましたが、岐阜県と愛知県の古墳に関心を持った背景を披露します。

大和尊(ヤマトタケル)が東征に出発する際に立ち寄って武勲を祈願した「熱田神宮」のことは良く知られています。加えて、「壬申(じんしん)の乱」において「尾張連大隅」が大海人皇子(後の天武天皇)に「野上行宮(不破宮)」(岐阜県関ヶ原市)と兵を提供して大友皇子の追討軍を不破道で破って攻勢に出たことが伝えられています。また、戦国時代の信長が飛躍したのは尾張国(愛知県)および美濃国(岐阜県)でした。

これらの史実の背景として多くの史跡がありますが、これまで有名な城址である名古屋城犬山城・小牧城・清洲城・岐阜城、三種の神器(「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)の総称)の一つである「草薙の剣」が安置されている「熱田神宮」および「断夫山古墳」などを訪れています。今回は岐阜県と愛知県にあるその他の主要な史跡を訪ねたいと思います。

                            ☆

県道205号線をさらに東進し、県道93号線を南下して入った国道21号線を東進し、各務原(かがみがはら)市に入りました。余談になりますが、各務原の名称は市の正式名称ですが、昭和38年の町村合併で各務原市が誕生する前に命名されていたJRの各務ヶ原駅などでは各務ヶ原の表記が今も使われているようです。

鵜沼羽場町4交差点を左折して、住宅街を東へ進んだところに「坊の塚古墳」があるはずです。別のルート案内では鵜沼西町3交差点を右折してJR高山本線と名古屋鉄道各務原線を渡り、国道21号線と並行するように戻り、国道21号線の下を潜ったところにあると説明しています。

どちらのルートにしようかと思案しているうちに鵜沼羽場町4交差点を通り過ぎてしまい、鵜沼西町3交差点に差し掛かりました。ここは右折するしかありません。幅が狭い道を少し進むと踏切がありました。しかも、その踏切は線路の横方向に傾斜していて踏切の路面が階段状になっており、踏切を通過する時にはかなり緊張しました。そして、連続する2か所の踏切を何とか通過したあとには農道が長く続いていました。(次の写真)

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どこで右折して国道21号線下のガードに出るか。筆者の無手勝流のルート選択は最悪の結果を招き、随分と時間をロスしてしまいました。踏切を渡ったことが最大のミスであり、その手前を右折すればそのままガードに行き着けたのです。

これは後知恵ですが、鵜沼西町3交差点を左折して住宅街に入っても目的地にたどり着けたようです。

やっとの思いで「坊の塚古墳」辿(たど)り着きましたが、車を停める場所がありません。そこで、国道21号線に面した飲食店「くうかい」などの広い駐車場を利用させていただくことにしました。なお、建物の左手に見える細い道が辿(たど)ったルートの終点です。その先に樹木に覆(おお)われた古墳が少しだけ見えます。

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古墳脇の道路を左手へ進むと、「坊ノ塚古墳」の前方部(右手前)がありました。

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案内看板には「岐阜県指定史跡 坊の塚古墳」の概要が説明されています。

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内容は以下の通りです。

坊の塚古墳は、4世紀末~5世紀(古墳時代中期)に築造されたと考えられ、各務原市内で最大規模を誇る墳長120mの前方後円墳です。また、周辺の衣装塚(いしょうづか)古墳(前方後円墳 現存)、三角縁神獣鏡が出土した一輪山(いちりんやま)古墳(円墳 焼失)などとともに、各務原台地東部に古墳時代前・中期の大型古墳が集中する古墳群を形成しています。中でも坊の塚古墳は、台地の縁辺部に立地することから、築造された時代には、台地の下からその葺石(ふきいし)で覆われた威容を仰ぎ見ることができたことでしょう。

一方、各務原市北西部~岐阜市にかけては、柄山(からやま)古墳(前方後円墳 現存)、琴塚古墳(前方後円墳 現存)などの大型古墳が立地しています。各務原の東西に点在するこうした古墳群からは、坊の塚古墳が造られる以前からこの地域に有力な豪族が存在しており、前方後円墳の築造などを通じて、この地域が大和政権の連合下に組み込まれていったことが推測されています。

平成28年3月 各務原市教育委員会


左手方向は前方部の前縁と思われます。

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右手方向は後円墳に続いています。

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右手へ進みました。前方部と後円ぶの間(くびれ部)に上れそうな道筋がついています。

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急坂ですが何とか上がれました。

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急坂を上がりきって左手方向を見ると、前方部が長く続いていました。

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反対方向にある後円部はかなり高くなっていますが、道筋が付いていますから上れそうです。

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後円部の頂部には石が並べてありました。祭壇でしょうか?

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後円部から下りる途中、右手に窪地があることに気付きました。目的や理由は不明です。坊の塚塚古墳では竪穴式石室が見つかっているそうですから、それと関係があるのかも知れません。

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前方部と後円部の境に戻りました。先ほどは気づきませんでしたが、反対側にも道がありました。斜めで傾斜が緩(ゆる)やかですから下りることにしました。

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下りる途中に振り返って見た前方部の方向

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道路まで下りて、舗装された道路で後円墳に沿って回り込みました。次の写真は後円部の後縁です。

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後円部の脇に戻って前方部方向を眺めました。舗装された道路が前方後円墳の縁をなぞっていることが分かります。参考:坊の塚古墳周辺の航空写真

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前方部の角から見た遺跡左側の形状

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「坊の塚古墳」をほぼ一週して分かりましたが、古墳は舗装された生活道路で囲まれているのです。住宅地が古墳の周辺部をすべて浸食したと思われます。また、「坊の塚古墳」は部外者でも立ち入りできる古墳でもあります。

参考までに「坊の塚古墳」の情報を以下にリストアップします。

所在地:各務原市鵜沼羽場町
形状:前方後円墳
規模:墳丘長120m、後円部の直径72m、後円部の高さ11.5m、前方部最大幅66m、前方部の高さ7.8m
内部主体:扁平な小板状の石材を積んだ竪穴式石室(天井は長さ2m、幅1.45m、厚さ23㎝ほどの石材で覆われていた)
主な出土物:鶏頭埴輪、勾玉、石槍、鏃、鉄器など
築造時期:4世紀末(古墳時代中期初頭)
周濠:幅2-24m
その他:岐阜県第2位の規模、岐阜県指定史跡、国の史跡に指定される予定
(出典:岐阜県のhp

ここで余談です。岐阜市と各務原市は旧中山道(注釈:律令制時代の東山道の一部、なお中山道は江戸時代に入ってから整備された)が通っていますが、滋賀県に接する西濃(岐阜県西部)の大垣市には岐阜県で最大の昼飯(ひるい)大塚古墳があります。

先に述べた「壬申の乱」で初戦を決した場所である「不破道」は古代から有力者が居たことは「昼飯大塚古墳」の存在から想像に難くありません。乱の後、天武天皇は東山道を従来に増して重視したと伝えられます。機会があれば「昼飯大塚古墳」を訪れてみたいと思います。(続く)

2024年9月22日 (日)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その4) 岐阜市・金鳳山正法寺の岐阜大仏と岐阜市長森の琴塚古墳

長い一日に疲れた初日はJR岐阜駅に近いホテルに宿泊しました。かなり前に予約を入れていたのですが、その内容について筆者が大失態していたことが発覚しました。なんと宿泊日を間違えていたのです。

ホテル側のご好意により何とか宿泊させてもらうことができました。どっと疲れが出た筆者は、夕食のことを忘れて、自室のベッドで「白河夜船」状態になっていました。これが幸いし、爽快な気分で翌朝を迎えました。

窓越しに外を見ると曇天でした。天気予報では雨模様とも。金華山とその山頂に聳(そび)える岐阜城が確認できます。

なお、右側にある赤白に塗り分けられた電波塔「上加納山タワー」(1967年建設)は岐阜県南部地域内向けに電波を発射するテレビおよびFM放送用電波塔です。また、岐阜城との間に建つもう一つの電波塔はNHK岐阜放送局の電波塔で、地デジテレビとFM放送送信しているそうです。

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しかし、朝食から戻った時には、金華山の山頂付近が低く垂れこめてきた雲に覆(おお)われてしまいました。このため岐阜城の姿も・・。

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長良川河畔から金華山と岐阜城を写真撮影する計画は中止して、次の計画に移ることにしてホテルを出発しました。JR岐阜駅前を通過します。

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正面に見えるのは黄金に輝く織田信長像(後ろ姿)です。

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旧聞ですが、2022年11月6日に開催された岐阜信長祭には俳優の木村拓哉さんが信長に扮(ふん)し、地元岐阜出身の俳優伊藤英明さんとともにて登場したことで、46万人の観客が沿道沿いに集まって声援したそうです。これは岐阜市民の数39.4万人を大きく上回る人数です。

岐阜市街の北東にある岐阜公園前交差点を右折して折り返すように南下しました。一方通行の道路に右前方に寺院の建物が見えてきました。

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幸いにも道路に面した場所に7-8台分の駐車場がありました。無料です。

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見上げると三層構造の大きな建物です。

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駐車場に車を停めて細い道を抜けて建物の正面に出ました。左側に入口があるようで、受付所のような小屋が見えます。

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『日本三大仏 岐阜大仏殿』 と書かれた案内看板があります。

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ここは岐阜市大仏町8番地にある禅宗のお寺である「黄檗宗(おうばくしゅう)金鳳山(きんぽうざん)正法寺(しょうほうじ)」の大仏殿です。

『金鳳山正法寺は、天保3年(1683年)に大休(だいきゅう)禅師の命を受けた廣音(こうおん)和尚が金華山山麓の当地に草庵を結んだことに始まりました。開山は大休禅師の希望から祖翁千呆(せんがい:黄檗大本山萬福寺第六代住持)禅師とし、黄檗山萬福寺の末寺として今日に至っております。開創当時における正法寺の堂宇(どうう)は「獅子窟」の様相が伺えられ、大仏殿建立はのちの第11代惟中(いちゅう)和尚の時代であります。』(出典:正法寺の案内パンフレット)

入館料200円を窓口に差し出して入館しました。すぐ左手にある仏像は説明書きに寄れば、『「賓頭盧(びんずる)様」はお釈迦様の弟子であり十六羅漢の第一の人である。我国では古来からこの仏様を信仰すれば無病息災といわれています。自分の患部をなぜ、この仏様の同じ部分をなでると病気が除かれ霊験あらたかといわれています。』

7年前の12月には筆者一人で訪れた場所で、今回は同行者にも紹介したかったのです。内容が重複しますから、2017年12月20日のブログ記事を参照してください。

20分ほど滞在したあとは次の目的地である「琴塚古墳」へ向かいました。

一方通行の道をさらに南下します。

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小熊町2交差点を左折して県道152号線を東進、鶯谷(うぐいすだに)トンネルに入ります。なお、金華山南麓に造られた同トンネルは岐阜市の中心部と同東部を結ぶ至便なコース(ショートカット)です。

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折れ曲がった道を進むと金園町9交差点で国道248号線に出ました。ここを左折して東進し、北一色1交差点を直進して県道92号線に入ります。500mほど先の北一色7東交差点を右折(斜め右方向)して県道205号線をさらに2㎞余り東進しました。筆者のカーナビには琴塚古墳が登録されていないようなので、琴塚の地名を頼りに進みました。

東海北陸自動車道の少し手前、琴塚3交差点を過ぎた信号のない交差点を左折すると500mほど先(北方向)に琴塚古墳(国指定古墳)がありました。ここまでのルートは筆者が事前調べた情報にしたがったのです。なお、正法寺からの所要時間は約20分。

手前には琴塚公園と表記された看板があることから間違いなさそうです。。

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公園の入口から右前方を見ると滑り台があります。

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公園内に入って左手方向を見るとブランコも。普通の児童公園です。

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一方、右手方向には案内看板のようなものがあります。なお、先の方に見えるのはトイレのようです。

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案内看板には「琴塚古墳」の概要が説明されていました。

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説明文は長くなりますが以下の通りです。

琴塚古墳 国指定史跡 昭和9年(1934)8月9日指定

琴塚古墳は、全長約115mの岐阜県内で3番目の大きさを誇る前方後円墳です。周辺には各務原市にかけて4つの前方後円墳でこうせいされる古墳群がありましたが、現在は琴塚古墳と柄山(からやま)古墳(各務原市)のみが残っています。

前方後円墳とは、前方部と後円部の墳丘(ふんきゅう)を組み合わせた形の古墳で、古墳が造られた当初は後円部が大きく・高く造られていましたが、次第に前方部のほうが幅広く・高く造られるようになります。墳丘には段々状のものもあり、段の数は被葬者の格式と関係があると考えられます。

琴塚古墳は前方部と後円部がほぼ同じ巾であり、この形から5世紀頃に造られたと考えられ、墳丘は樹木に覆われ明瞭ではありませんが、形式の高い三段に築かれていた可能性があります。また周囲には岐阜県内では珍しい二重に巡らされた堀が造られました。現在外堀はほとんどが畑や道路の下に隠れていますが、外堀を含めた範囲が国の史跡に指定されています。

被葬者は、電照では景行天皇の妃である五十琴姫命(いそことひめのみこと)であると言われていますが、明らかにはなっておらず、埴輪や副葬品などの遺物もほとんど発見されていません。しかし、全国の同じ時期の古墳では鏡や武器・武具などの副葬品が多く見つかっており、琴塚古墳でもこのようなものが納められたのかもしれません。

現在、琴塚古墳は琴塚顕彰協会や地元の人たちによって保護活動が行われ、大切に守られています。

令和2年9月 岐阜市


公園とはフェンスで仕切られていますが、その左手に「琴塚古墳」の入口がありました。二重豪の内堀のようです。先ほどの案内看板にあった地図から判断して樹木に覆われた右手エリアが前方部と思われます。奥の方、少し迫り出したエリアが後円部と造り出しでしょう。

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右前方に石碑のようなものが確認できます。

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近づいてみると「史跡 琴塚古墳」の概略説明でした。

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記載されている内容は次の通りです。

位置 岐阜市長森左衛門新田
面積 279アール
指定 文化財保護委員会
   昭和9年8月9日
形状 平地に築かれた二重の周濠をもつ前方後円墳である
   墳丘の全長115m後円部の直径69m 高さ10.5m
   前方部の巾74.2m 高さ7.8m 内豪の巾約18.2m
   内堤の巾14.5m 外豪の巾72m
付記 この古墳は柄山古墳などと共に前方後円墳群を形成し
   この地域には約 200年前に有力な豪族が栄えて
   いることを推定させる 古墳時代中期のものとして
   代表的なものである
昭和38年5月
岐阜市教育委員会


直線的な境界(前縁)が右手方向へ続いており、その中央部に祈祷所と思われるものがあります。

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左側の石柱には『琴塚御墓  兆域 東西7間 南北88』と刻まれています。

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前方部の右手へ廻って見ることにしました。開けた場所は草が生い茂っていますが、何とか歩けそうです。雨に濡れた足元に注意しながら進みます。

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大きな樹木が並んでいる所まで進み、左手から伸びる樹木の枝を押し上げて覗(のぞ)きました。すると、前方部のフェンスがさらに先へと直線的に続いたところで右手へ大きく曲がっていることが見て取れました。ただし、造りだしと後円部の形までははっきりしません。

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もう少し先まで進みたいところですが、足元の悪さと枝の張り出しが邪魔になります。ここは無理をしないで引き返すことにしました。先の長い史跡巡り旅ですから。後知恵ですが、前方部の左側にある小径の方が歩きやすかったかもしれません。

なお、琴塚古墳の航空写真はこちらのサイトで見られます。

琴塚古墳の周囲を巡った後になって気づきましたが、公園の右隣に2台分ほどの舗装された駐車スペースがありました。(続く)

2024年9月21日 (土)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その3) 岐阜市への高速ドライブ③

トンネルに入りました。事故車に注意しながら走行します。天井に設置された電光案内標識パネルには『この先事故』 との表示があります。

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路肩に小型車が停まっていましたが、幸いにも大した事故ではないようです。

浜松いなさJCTを過ぎて愛知県新城市に入りました。案内表示板には「岡崎SA」についての混雑状況は表示されていません。次の立ち寄り先に決めている「同SA」までの40kmが遠く感じられます。

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岡崎東IC」を通過します。

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名神高速道路と中央高速道路の渋滞状況

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岡崎SA」に立ち寄りましたが、お目当ての「五平餅」が見つかりません。いつも利用する売店の場所が変わったのでしょうか? 同行者は『人が大勢並んでいた店があったから、そこじゃないの?』 と言いますが・・。

それではと代案を考えました。すぐ近くにある「東名高速道路 豊田上郷SA」で「五平餅」を探すことにしたのです。「豊田上郷SA」に立ち寄るのは何年振りでしょうか?(それとも10数年ぶり?)

いつもは直進して伊勢湾岸自動車道へ入るのですが、今回は予定にしたがって「豊田JCT」から東名高速道路へ入りました。約1.5㎞先の「豊田上郷SA」も混雑していて駐車場へ続く車列ができていました。

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幸運なことにNEOPASAの前に空きスペースを見つけました。

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NEOPASAの右手端まで歩いたところに売店を見つけました。

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筆者が大好きな「五平餅」を!!

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店は営業しているようです。注文窓口で『「五平餅」を一本下さい』 と伝えました。すると、店員さんは申し訳なさそうに、『これから焼くところで、5分ほど掛かりますが・・』 と言います。筆者は『待ちます!』 と伝えて付近にあるベンチに座りました。時々は足慣らしのために近くを徘徊(はいかい)。

6-7分経ったところで、店員さんが筆者の許へ「五平餅」を届けてくださいました。料金は400円。『ありがとう』 と伝えて筆者の車まで戻りました。

やや小ぶりですが、味噌がたっぷり塗られています。

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濃い目の味は食欲をそそりました。同行者へのお裾分けを忘れません!

名古屋IC(名古屋高速への分岐ポイント)」を通過

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小牧ICで東名高速道路から名神高速道路へ変わりました。電光掲示板には 『名神 ここから一宮〇 事故渋滞2km 10分』 とあります。注釈:〇印の文字は読めません 表示通りに軽い渋滞がしばらく続きました。

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一宮JCT」で「東海北陸自動車道」(岐阜・高山方面)へ逸(そ)れます。

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一宮西 尾西IC」を通過。「一宮西IC」と「尾西IC]は別のICのはずですが、一緒に表示されています。後で調べると、前者は下り線出口専用であり、後者は上り線入口専用と変則ICでした。

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木曽川を越えて岐阜県に入ると、ほどなく「岐阜 各務原IC(出口)」の案内標識が見えてきました。

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ここが目的地の最寄りICです。

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料金ゲートを通過すると二方向への分岐します。「岐阜と西方の大垣」は左手へ、「各務原(かがみがはら)と東方の美濃加茂」は右手です。

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もちろん、筆者は左手の「岐阜」方向へ進みます。国道21号線に出ると岐阜の市街地は5-6km先と間近です。午前9時を少し過ぎていましたので、自宅からの所要時間は約6時間(通常約4時間)でした。走行距離は354.4㎞、通行料金は通常8,240円ですが、深夜割引(30%引き)が適用されて5,770円でした。注釈:三連休のため休日割引はありません

午前11時から市内である所用までには2時間弱と十分時間的な余裕がある到着です。(続く)

2024年9月20日 (金)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その2) 岐阜市への高速ドライブ②

走行車線の規制が右側の2車線(追越車線・第2走行車線)へと拡がりました。第二走行第二走行車2走行車線の舗装を補修する工事のようです。

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思ったよりも長い区間にわたっての車線規制です。

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規制区間を過ぎてから数分後にはトンネルを通過します。なぜか、最高速度が80km/hに制限されています。

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しかし、トンネルを抜ける前に通常の120km/hの表示がありました。

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朝靄が立ち込める幻想的な景色です。新清水IC付近だったと思います。

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東名高速道路との連絡路に接続する新清水JCTを通過します。

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静岡SAを通過

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藤枝PAと掛川PAはいずれも混雑しているようです。

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午前6時15分に浜松SA到着。長いランプから駐車場へ向かいます。

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何かと便利な左手の駐車場は満車と表示されています。

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表示通りに満車状態です。

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駐車ロットが空くのを待って車を停めました。

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遠くの山並に建つ風力発電所群です。

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駿河湾沼津SAからの平均走行速度は約100km/hと順調。東名高速道路で長めの休憩を取ったことを含めて自宅からここまでの進捗はほぼ想定通りです。ただ、想像できなかったことは、ほとんどのSA/PAが満車あるいはほぼ満車状態であったことです。

NEOPASA浜松に入ります。

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約30分間休憩したあと、午前7時55分に出発しました。『9km先路肩 事故走行注意』の案内表示が出ました。

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突然視界が遮られました。にわか雨のようです。

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『事故車注意』の案内表示とともに、最高速度が50km/hに制限されました。

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『トンネル内事故』の案内表示も出ています。

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(続く)

2024年9月19日 (木)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その1) 岐阜市への高速ドライブ①

所用があって岐阜市へ出かけました。東名高速道路で事故渋滞があるとのニュースを事前に知ったことで「七つ立ち」午前3時に自宅を出発)です。さらに、三連休の初日ですから混雑による自然渋滞も覚悟しました。なお、『史跡巡り』の本題に入る前に「岐阜市への高速ドライブ」と題した序文が3回続きます。『史跡巡り』だけに興味がある方は4回目のブログ記事からお読みください。

                            ☆

東名川崎ICから東名高速道路に入り、5㎞ほど先にある港北PAに立ち寄ってお握りなどの軽食と飲み物を購入しました。このPAはトラックなどの大型車が多数駐車することでいつも混雑していますが、筆者は人気No.1の海老名SAにおけるより酷(ひど)い混雑を懸念したのです。したがって、いつものルーチンとは異なりますが、海老名SAを通過して中井PAで最初の小休止をすることにしました。

港北PAから50㎞弱の距離を順調にドライブして中井PAに到着。ここの駐車場もほぼ満車状態でした。夜明けにはまだ時間がありますが、ファミリーマートの店舗から漏れる灯りが周囲を照らしています。

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午前355分に出発。東名高速道路の下り線が2つのルートに分かれるポイントが近づきました。いつもは走りやすい右ルート(注釈:東名高速道路旧上り線)にしていますが、今回は左ルートを選ぶことにしました。

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鮎沢PAを過ぎて静岡県に入りました。早朝の東名高速道路下り線はSA/PAで休憩する人が多いためか、思ったよりも本線上の車が少なくて快調に走行できます。なお、東名高速道路下り線の上を通過するのは東名高速道路上り線でしょう。

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案内標識によると静岡県東部のSA/PAはすべて空いているようですが・・。

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足柄SAを通過

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御殿場ICを通過

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新東名高速道路へ入る御殿場JCTまで2kmの地点を通過

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御殿場JCTです。

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午前4時36分に駿河湾沼津SAに到着。ここでも駐車場はほぼ満車状態です。

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電気自動車(EV)用充電ステーション・エリアには急速充電器(仕様:CHAdeMO、90kW/200A)が4台並んでいます。

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エリアの右端にある急速充電器(使用:CHAdeMO、150kW/350A、2台用、充電可能車種に制限あり)を利用する人がいます。

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参考情報です。充電施設は年中無休で利用可。料金は充電カードにより異なりますが、充電1分当たり77円(税込み)程度とのこと。

沼津市方面の夜景を見ようと右前方の展望所へ歩いていると、地面に光る点が多数あることに気づきました。

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近づいてみると蛍のようです。

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夜明けが近いようです。幸いにも、天気は快晴で沼津市の市街地の灯りと駿河湾、さらに伊津半島を綺麗に見渡すことができました。

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駐車場に停まる車はなぜか白いワンボックスカーが目立ちます。

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少し明るくなるのを待って午前510分に駿河湾沼津SAを出発。休憩時間を含めて自宅からここまでの約100kmを走行するのに2時間10分を要するスローペースです。

新東名高速道路では『50km/hの速度制限』と『3km先工事』 の案内表示が出ています。

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追い越し車線が通行規制されています。

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(続く)

2024年9月11日 (水)

日本料理の木曽路で秋の食材に溢れた料理を味わう!

9月に入ると日本料理の「木曽路」から秋の便りが届いたことで、まだ残暑の日々ですが、思い切って出かけることにしました。秋を象徴する食材は何と言っても「松茸(まつたけ)」でしょう。「焼き松茸」「松茸ご飯」「松茸土瓶蒸し」などが代表的な料理です、松茸以外にも、秋茄子(あきなす)や玉ねぎなどの野菜、栗や柿・葡萄(ぶどう)などの果物、秋鮭(あきさけ)・鯖(さば)・秋刀魚(さんま)などの魚介も。猛暑で食欲が落ちた筆者には救いの神になってくれそうです。

昼の席(12:00)を予約して出かけました。いつも開店時間の11時30分に決めているのですが所用があったため30分遅れです。5分前に店舗の駐車場に到着。幸いなことに空きスペースを2カ所見つけました。いずれも駐車場の端にある停めにくい場所ですが・・。店内の受付で名前を告げると予約席に案内されました。その他の予約席はすべて先客で埋まっていました。平日のランチでもあり年配者がほとんどです。

事前に見た便り通りに『松茸と和牛フェア』が開催されていました。メニューには様々な料理の写真が並んでいます。

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「松茸(まつたけ)御膳」を一押にしているようです。

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メインメニューの最初のページにも「松茸御膳」が載(の)っています。

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こちらは同メニューの最終ページにある『おすすめ一品料理』です。「北海握り寿司盛り合わせ」が筆者の目に留まりましたが、残念なことに前日の8月5日(月)までの期間限定でした。

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同行者と相談して、店がランチメニューで一押しにしている「松茸御膳」(3,850円、86-916日)と一品料理から「季節の握り寿司盛り合わせ」(1,980円、86-930日)を二人でシェアすることにしました。もし、量的に不足するようであれば、一品料理メニューから追加すれば良いのです。

配膳された「松茸御膳」は料理の品数が多いのですが、それぞれの量はそれほどでもありません。同行者が「松茸御膳」の料理を取り分けてくれました。

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主な料理を近接撮影

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火を入れる前の「松茸と牛肉の棒葉焼(ほうばやき)」

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こちらが「季節の握り寿司盛り合わせ」です。

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筆者からは同行者の好きなマグロと貝柱の握り、それとしょうが(ガリ)をたっぷり添えてお裾分けしました。

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見た目通り美味しい寿司に大満足です。

松茸と言えば「土瓶(どびん)蒸し」です。小さな器に注いで香りを楽しみながら頂きました。松茸と海鮮の味がたっぷり感じられます。実は、田舎育ちの筆者は秋の食材の中で椎茸(しいたけ)とともに銀杏(ぎんなん)に秋を感じるのです。

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「松茸ご飯」はボリュームがあり、食欲を十二分に満たしてくれました。

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固形燃料で温めていた「松茸と牛肉の朴葉焼き」は味噌仕立てで濃い目の味付けです。『「炊き込みご飯」と一緒に食べるためだわ!』 と同行者は言います。

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デザートは「 ピーチシャーベット」でした。こちらも濃い目の味であり、口直しに適しています。

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筆者の方が先にお箸を置いたため、同行者はかなり頑張って食べ切ったようです。注文する時に予測したように、選んだ二品は二人にとって十分なボリュームでした。会計は二品で5,830円。ご馳走様でした。1日も早い本格的な秋の到来が待たれます。◇

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