岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その5) 各務原市の坊の塚古墳
後先になりましたが、岐阜県と愛知県の古墳に関心を持った背景を披露します。
大和尊(ヤマトタケル)が東征に出発する際に立ち寄って武勲を祈願した「熱田神宮」のことは良く知られています。加えて、「壬申(じんしん)の乱」において「尾張連大隅」が大海人皇子(後の天武天皇)に「野上行宮(不破宮)」(岐阜県関ヶ原市)と兵を提供して大友皇子の追討軍を不破道で破って攻勢に出たことが伝えられています。また、戦国時代の信長が飛躍したのは尾張国(愛知県)および美濃国(岐阜県)でした。
これらの史実の背景として多くの史跡がありますが、これまで有名な城址である名古屋城と犬山城・小牧城・清洲城・岐阜城、三種の神器(「草薙の剣」(くさなぎのつるぎ)、「八咫鏡」(やたのかがみ)、「八尺瓊勾玉」(やさかにのまがたま)の総称)の一つである「草薙の剣」が安置されている「熱田神宮」および「断夫山古墳」などを訪れています。今回は岐阜県と愛知県にあるその他の主要な史跡を訪ねたいと思います。
☆
県道205号線をさらに東進し、県道93号線を南下して入った国道21号線を東進し、各務原(かがみがはら)市に入りました。余談になりますが、各務原の名称は市の正式名称ですが、昭和38年の町村合併で各務原市が誕生する前に命名されていたJRの各務ヶ原駅などでは各務ヶ原の表記が今も使われているようです。
鵜沼羽場町4交差点を左折して、住宅街を東へ進んだところに「坊の塚古墳」があるはずです。別のルート案内では鵜沼西町3交差点を右折してJR高山本線と名古屋鉄道各務原線を渡り、国道21号線と並行するように戻り、国道21号線の下を潜ったところにあると説明しています。
どちらのルートにしようかと思案しているうちに鵜沼羽場町4交差点を通り過ぎてしまい、鵜沼西町3交差点に差し掛かりました。ここは右折するしかありません。幅が狭い道を少し進むと踏切がありました。しかも、その踏切は線路の横方向に傾斜していて踏切の路面が階段状になっており、踏切を通過する時にはかなり緊張しました。そして、連続する2か所の踏切を何とか通過したあとには農道が長く続いていました。(次の写真)
どこで右折して国道21号線下のガードに出るか。筆者の無手勝流のルート選択は最悪の結果を招き、随分と時間をロスしてしまいました。踏切を渡ったことが最大のミスであり、その手前を右折すればそのままガードに行き着けたのです。
これは後知恵ですが、鵜沼西町3交差点を左折して住宅街に入っても目的地にたどり着けたようです。
やっとの思いで「坊の塚古墳」辿(たど)り着きましたが、車を停める場所がありません。そこで、国道21号線に面した飲食店「くうかい」などの広い駐車場を利用させていただくことにしました。なお、建物の左手に見える細い道が辿(たど)ったルートの終点です。その先に樹木に覆(おお)われた古墳が少しだけ見えます。
古墳脇の道路を左手へ進むと、「坊ノ塚古墳」の前方部(右手前)がありました。
案内看板には「岐阜県指定史跡 坊の塚古墳」の概要が説明されています。
内容は以下の通りです。
坊の塚古墳は、4世紀末~5世紀(古墳時代中期)に築造されたと考えられ、各務原市内で最大規模を誇る墳長120mの前方後円墳です。また、周辺の衣装塚(いしょうづか)古墳(前方後円墳 現存)、三角縁神獣鏡が出土した一輪山(いちりんやま)古墳(円墳 焼失)などとともに、各務原台地東部に古墳時代前・中期の大型古墳が集中する古墳群を形成しています。中でも坊の塚古墳は、台地の縁辺部に立地することから、築造された時代には、台地の下からその葺石(ふきいし)で覆われた威容を仰ぎ見ることができたことでしょう。
一方、各務原市北西部~岐阜市にかけては、柄山(からやま)古墳(前方後円墳 現存)、琴塚古墳(前方後円墳 現存)などの大型古墳が立地しています。各務原の東西に点在するこうした古墳群からは、坊の塚古墳が造られる以前からこの地域に有力な豪族が存在しており、前方後円墳の築造などを通じて、この地域が大和政権の連合下に組み込まれていったことが推測されています。
平成28年3月 各務原市教育委員会
左手方向は前方部の前縁と思われます。
右手方向は後円墳に続いています。
右手へ進みました。前方部と後円ぶの間(くびれ部)に上れそうな道筋がついています。
急坂ですが何とか上がれました。
急坂を上がりきって左手方向を見ると、前方部が長く続いていました。
反対方向にある後円部はかなり高くなっていますが、道筋が付いていますから上れそうです。
後円部の頂部には石が並べてありました。祭壇でしょうか?
後円部から下りる途中、右手に窪地があることに気付きました。目的や理由は不明です。坊の塚塚古墳では竪穴式石室が見つかっているそうですから、それと関係があるのかも知れません。
前方部と後円部の境に戻りました。先ほどは気づきませんでしたが、反対側にも道がありました。斜めで傾斜が緩(ゆる)やかですから下りることにしました。
下りる途中に振り返って見た前方部の方向
道路まで下りて、舗装された道路で後円墳に沿って回り込みました。次の写真は後円部の後縁です。
後円部の脇に戻って前方部方向を眺めました。舗装された道路が前方後円墳の縁をなぞっていることが分かります。参考:坊の塚古墳周辺の航空写真
前方部の角から見た遺跡左側の形状
「坊の塚古墳」をほぼ一週して分かりましたが、古墳は舗装された生活道路で囲まれているのです。住宅地が古墳の周辺部をすべて浸食したと思われます。また、「坊の塚古墳」は部外者でも立ち入りできる古墳でもあります。
参考までに「坊の塚古墳」の情報を以下にリストアップします。
所在地:各務原市鵜沼羽場町
形状:前方後円墳
規模:墳丘長120m、後円部の直径72m、後円部の高さ11.5m、前方部最大幅66m、前方部の高さ7.8m
内部主体:扁平な小板状の石材を積んだ竪穴式石室(天井は長さ2m、幅1.45m、厚さ23㎝ほどの石材で覆われていた)
主な出土物:鶏頭埴輪、勾玉、石槍、鏃、鉄器など
築造時期:4世紀末(古墳時代中期初頭)
周濠:幅2-24m
その他:岐阜県第2位の規模、岐阜県指定史跡、国の史跡に指定される予定
(出典:岐阜県のhp)
ここで余談です。岐阜市と各務原市は旧中山道(注釈:律令制時代の東山道の一部、なお中山道は江戸時代に入ってから整備された)が通っていますが、滋賀県に接する西濃(岐阜県西部)の大垣市には岐阜県で最大の昼飯(ひるい)大塚古墳があります。
先に述べた「壬申の乱」で初戦を決した場所である「不破道」は古代から有力者が居たことは「昼飯大塚古墳」の存在から想像に難くありません。乱の後、天武天皇は東山道を従来に増して重視したと伝えられます。機会があれば「昼飯大塚古墳」を訪れてみたいと思います。(続く)
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