「西門」を入ると、右手に駐車スぺースが2か所(計5₋6台分)ありました。その場所に車を停めて、境内へ向かうことにします。

ここで筆者は少し混乱していました。それは、(その4)で触(ふ)れた「王禅寺東門」とこの「西門」の位置関係についてです。現在の地図に依(よ)れば、両者の位置関係は「南」と「北」に当(あ)たるのです。
そこで”AI”に質問すると、”AI"はその理由を直(ただ)ちに教えてくれました。『寺社や宮殿などで、「南・北」にある門が「東門・西門」と呼ばれる理由は、「その門の物理的な方角」ではなく「門に繋(つな)がる参道や出入口の向き」を表(あら)わしているからです。』 と。
続けて、『これは古代中国の考え方に由来(ゆらい)するもので、東西南北の各方角には守護神(東の青龍(せいりゅう)、西の白虎(びゃっこ)、南の朱雀(すざく)、北の玄武(げんぶ))が割り当てられています。特定の場所に配置された門は、その方角を守る役割から名前が付けられます。』
さらに、『物理的な位置と呼称(こしょう)が異なることは珍しくなく、それぞれの門が「どちらの方角へアクセスするか」「どちらを向いているか」によって名付けられています。このため、南北一直線に位置する門が「東門・西門」と呼ばれることがあるのです。』 と。何やら「禅問答(ぜんもんどう)」のように難(むずか)しいのですが・・。
「閑話休題(かんわきゅうだい)」。右手の下方(かほう)、階段の下に「山門(さんもん)」のような建物が見えました。地図で確認すると、これは「仁王門(におうもん)」です。

その反対側(左側)にある「石段」の先には「観音堂(かんのんどう)」がありました。弘化(こうか)3年(1846年)に建立(こんりゅう)されたものだそうです。

なお、石段の手前には「石碑(せきひ)」が並んでいます。
右側の石柱(せきちゅう)には「星宿山王禅寺(せいしゅくさんおうぜんじ」の社号(しゃごう)が刻ま(きざま)れ、左側の石碑(せきひ)には『旧小机領三十三所 観音霊場 第廿二番星宿山蓮華蔵院王禅寺 ほしやどる寺はしんにょ(注釈:真理)のくもりなく ふだらくやま(注釈:補陀洛山)の じょうど(注釈:浄土)なるらん』 と刻(きざ)まれています。
注釈:平仮名の部分は「御詠歌(ごえいか)」(仏教賛歌)、「小机領(こづくえりょう)」とは、かつて現在の横浜市北部から川崎市、町田市の一部にかけて存在した古い地域区分(小机城を中心とする武蔵国都筑郡(むさしのくにつづきぐん)周辺)です。
後先(あとさき)になりましたが、この寺の正式名称は「真言宗(しんごんしゅう)豊山派(ぶざんは)星宿山(せいしゅくさん)蓮華蔵院(れんげぞういん)王禅寺(おうぜんじ)であり、「関東の高野山(こうやさん)」とも呼ばれたそうです。
☆
『寺伝によれば延喜17年(917年)高野山の三世無空上人が、醍醐(だいご)天皇から「王禅寺」の寺号(意味:王の命じた仏教を修行するに適した場所としての寺という意味)を賜(たまわ)り、同地に改めて創建(そうけん)され関東の高野山と呼(よび)せられ、東国鎮護(とうごくしんご)の勅願寺(ちょくがんじ、意味:天皇や上皇の発願(ほつがん)により創建または指定された由緒ある寺院の格式の一つ)となる。延喜(えんぎ)21年(921年)高野山の熊空(ゆうくう)により真言宗(しんごんしゅう)の寺となるという。』 (出典:Wikipedia)
また、『徳川幕府の歴代の将軍(徳川家康を始めとし、後の13人の将軍)の位牌(いはい)を奉(たてまつ)り、将軍家より葵(あおい)の御紋(ごもん)の使用を与(あた)えられた。』(同上)
この「王禅寺」は2007年に国指定の登録記念物に指定され、川崎市が指定する「まちの樹50選」や「ふるさと麻生八景」にも選ばれています。
ちなみに、隣接する「王禅寺ふるさと公園」は元々お寺が所有していた山を川崎市が買い取って公園にしたものだそうです。
前述しましたが、日本最古の甘柿(あまがき)の品種と言われている「禅師丸(ぜんじまる)が発見された寺としても知られ、境内には「国の登録記念物」に登録された「原木」が残っているとのこと。なお、「禅寺丸柿の木」は王禅寺境内にあるものを含め、計7本が「国の指定登録記念物」に登録されているそうです。
これにより、「柿生(かきお)」という地名・駅名の由来となったと言われています。
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石段を上がって「観音堂」へ向かうと、その両側に「仁王石像(におうせきぞう)」がありました。


右手に「石燈篭(いしどうろう)」がありました。これは「寺社への献灯(けんとう)」(意味:寺社へ灯(あか)りを奉納(ほうのう)すること)されたものです。

そして、正面には「観音堂」が位置し、
右手にあるのは「手水舎(ちょうずしゃ)」(説明:寺社の参拝前に手や口を洗い清める手水(ちょうず/てみず)を行う施設)です。
「観音堂」へ向かいました。これは嘉永(かえい)4年(1851年)に再建された歴史ある「旧本堂」です。寄棟造(よせむねづく)りの密教(みっきょう)建築で、本尊の聖観音菩薩像は12年に一度の子年(ねどし)に開帳(かいちょう)される貴重な秘仏(ひぶつ)とのこと。
説明:密教とは、言葉で語り尽くせない仏の真理を、儀礼(ぎれい)や呪術(じゅじゅつ)、瞑想(めいそう)などの実践(じっせん)を通じて直接体得(たいとく)しようとする仏教の一派 体得とは、知識や技術をただ頭で理解するだけでなく、実際に体験や実践(じっせん)を重ねることで「自分のものとして深く身に着けること
「観音堂」の右手には「書き物」が貼(は)ってあります。
「参拝の心得」が書かれているようです。『本尊(ホンゾン) 聖観世音菩薩(ショウカンゼオンボサツ)』『 南無観世音菩薩(ナムカンゼオンボサツ)又は「オンアロリキャソワカ」とおとなえ下(くだ)さい』 とあります。
なお、「オンアロリキャソワカ」は、観音菩薩(聖観音)に唱える真言(マントラ、説明:このサンスクリット語の意味は「思考の道具」)であり、その意味は『観音様、どうかお救いください。あなたを信じ、帰依(きえ)いたします』 といった、仏への深い信仰と祈りの意味が込められています。説明:日本の密教(真言宗や天台宗)などでは、仏(ほとけ)や菩薩(ぼさつ)の真実の言葉として唱(とな)えられる
「観音堂」の右奥には「小さなお堂」がありますので、そちらへ向かいました。
その途中、右手にある「石柱」には「日露戦役記念碑」(説明:明治41年建立された日露戦争の戦没者(せんぼつしゃ)などを慰霊・顕彰するための慰霊碑、注釈:日露戦役とは1904年~1905年(明治37年から明治38年)に行われた日露戦争のこと)がありました。
かって「王禅寺村」から出征(しゅっせい)した3柱の英霊(えいれい)の氏名が刻(きざ)まれているようです。
そして、その奥にある「小さなお堂」の中には「お地蔵様」(正式名称:地蔵菩薩(じぞうぼさつ))が祀(まつ)られていました。

「観音堂」の右横には「別の地蔵菩薩」と「小さな社(やしろ)」が並(なら)んでいます。

説明がありませんので、近づいてみました。
扉(とびら)の右側には「飛道忍禅門」(注釈:意味は不明)と書かれています。
中には「板碑(いたび)」が祀(まつ)られ、先の「地蔵堂」と同様、卒塔婆(そとば、そとうば)が多数ありました。説明:板碑とは、板状の石に梵字(ぼんじ)や仏の姿、建立の年月日などを刻(きざ)んだ供養塔のこと
なお、「卒塔婆」は、故人(こじん)やご先祖様(せんぞさま)の追善供養(ついぜんくよう)のために墓石の後ろや脇に立てる、文字が書かれた細長い木の板のことで、仏教の起源(きげん)であるインドのサンスクリット語「ストゥーパ(仏塔)」に由来(ゆらい)します。
その左隣には「地蔵菩薩」と「石仏」がありました。
そして、これらと対面するように、「観音堂」の左手には「石碑(せきひ)」と「石の仏塔(石塔)」(説明:仏舎利(ぶっしゃり、意味:お釈迦様の遺骨)を納(おさ)める塔(とう)を石で模(も)したもので、供養塔(くようとう)として広く普及(ふきゅう)した)が並んでいます。

この石塔は先祖供養や死者の追善供養(ついぜんくよう、意味:故人が成仏できるように読経や法事を行うこと)、現世利益(げんぜりやく)を祈(いの)るための「宝篋印塔(ほうきょういんとう)」でしょう。
「観音堂」を出て急な坂を下ると「大きなお堂」が見えてきました。

「現在の本堂」の脇(わき)に出たようです。

さらに前方へ進むと、右手に「石碑(せきひ)」がありました。

「檀徒寄付者芳名(だんときふしゃほうめい)」と刻(きざ)まれていますから、「本堂」を建設した際に寄付をした檀家(だんか、意味:特定の寺院(菩提寺)に所属し、葬儀や法要などの供養を任せる代(か)わりに、お布施(ふせ)や寺院の維持費などを納めて経済的に寺院を支(ささ)える家(世帯))の名簿(めいぼ)でしょう。
それと並んで、「石碑」がもう2つありました。

(続く)
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