文化・芸術

2017年6月23日 (金)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その14) 史跡「上野国分寺跡」

県道10号をさらに東へ進み、棟高東交差点を左折して県道25号(バイパス)を北上し、イオンモール高崎がある辻久保交差点を右折、県道127号(西毛広域幹線道路)の塚田交差点の先で左手の脇道に入りました。この先に史跡「上野国分寺跡」があるはずです。脇道が染谷川(そめやがわ)に行き当った場所にある駐車場に車を停めました。史跡「上野国分寺跡」の専用駐車は最近造られもののようで新しく、乗用車が20台余りとバス5台分のスペースがあります。
 

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「上野国分寺」は、天平(てんぴょう)13年(741年)に聖武(しょうむ)天皇が国ごとに僧寺と尼寺を建立する詔(みことのり、注、天皇の命令)を発したことにより、全国68の国々に国分僧寺と国分尼寺が創建されたものの一つです。上野国(現群馬県)のほぼ中央、高崎市塚田に建てられました。その後は次第に衰弱し、14世紀後半には廃絶したと考えられています。大正15年(1926年)に僧寺跡が国の史跡に指定され、昭和55年(1980年)から発掘調査、そして昭和63年(1988年)から史跡整備(七重塔基壇・金堂基壇・南面築垣の復元)が勧められてきたことが説明されています。
 
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当ブログではこれまでに、相模国分寺阿波国分寺讃岐国分寺土佐国分寺伊予国分寺山城国分寺信濃国分寺総国分寺(東大寺)、越後・五智国分寺など、各国の国分寺(跡)を紹介しています。

染谷川に架かる国分寺橋を渡ります。
 
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橋を渡りきると、前方にある木立の中にガイダンス施設「上野国分寺館」(入館無料)が見えました。開館時間は9:30から16:30と表示されていますから、まだ5分の余裕があり、滑り込みセーフです。
 
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急ぎ足で向かうと、「上野国分寺館」のドアには『入館は午後4:00まで』 と表示されていました。館内は照明が消されていて、人の気配はありません。迂闊(うかつ)でした。
 
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復元された基壇と築垣を見学することはできるだろうと、南築垣の方向へ向おうとした時、掃除道具を持った職員の方に声を掛けられました。挨拶をしたあと、どこから来たのかの質問に答えると、それでは「上野国分寺館」を開けましょうと言ってくださいましたので、お言葉に甘えることにしました。 

 

館内に入ると七重塔の立派な縮尺模型(縮尺1/30)がありました。神奈川県海老名市の相模国分寺跡でも想像画を見ています。天皇の詔(みことのり)によって建てられた各地の国分寺はほぼ同じ伽藍(がらん)を有しているのです。
 
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昭和55年(1980年)から行われた「上野国分寺跡の発掘調査」の結果によって、寺跡の規模は東西約220m、南北235mの範囲におよび、基壇と礎石(そせき)の一部が残っていた塔と講堂の正確な規模のほか、南大門や築垣などの痕跡を示す遺構も確認されたそうです。また、平成24年(2012年)から再開された第二次発掘調査によって、はじめて中門と回廊が確認され、長年にわたって金堂とされてきた建物は講堂であることが、その前面で本来の金堂が発見されたことにより、「上野国分寺」は塔と金堂が東西に並んで建つ特徴的な伽藍配置であることも分かってきたそうです。(出典:史跡上野国分寺跡のパンフレット)
 
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「上野国分寺」の想像図には、南大門、中門(ちゅうもん)、回廊(かいろう)、金堂、講堂、僧坊、七重之塔、東・西・北の門が描かれています。
 
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こちらは「上野国分寺」の縮尺模型
 
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午後4時半を過ぎましたので、職員の方にお礼を申し上げて退出しました。後片付けをしたあと、駐車場を午後5時に閉めるとのことですから、急いで境内を見学することにしました。 

 

「南築垣」が左右に再現されていますが、その中央にある南大門跡は更地のままです。ちなみに、古代と同じく、手作業により棒でつき固めて土を積み上げる版築(はんちく)工法で造られたとのこと。
 
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東側の築垣は西側よりかなり短くなっているのは、発掘調査により確認された部分だけが復元されたからです。つまり、伽藍の範囲を示す築垣の大部分の位置と北大門、西大門、僧坊の場所はまだ推定の域を出ないそうです。
   
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「南築垣」の間を通り抜けました。左手(西方向)にあるのは再現された「七重塔の基壇」がありました。
 
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右手にあるのは復元された「講堂の基壇」で、その上では子供たちが野球をして遊んでいます。
 
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北側に回り込むと、基壇に階段があることが分かります。
 
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基壇に上がってみました。巨大な礎石が規則正しく並んでいます。その先(南側)の草むらに「金堂跡」があるようです。発掘調査後に埋め戻されたのかもしれません。
 
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もと来た道を戻ります。この道が南大門と中門(ちゅうもん)から金堂が一直線に並んでいた場所のほぼ沿っています。写真の左手前が「金堂跡」でしょう。
 
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午後5時10分前、専用駐車場を後にして、この日の宿泊地へ向かいました。(続く)

2017年6月22日 (木)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その13) 「保渡田古墳群」(後編)

「石棺埋葬の推定断面図」
 
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石棺には長持型・家形・箱型の3種類があるようです。
 
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通路の背面に展示された写真パネル
 
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地下を一周する形で「円墳」の頂部に戻りました。円墳の北側には古墳時代に大噴火した榛名山の「二ツ岳」の方角が絵で示されていました。左端には「薬師塚古墳」も描かれています。
 
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その絵にしたがって榛名山方面を撮影
 
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下方を見ると「内堀」の島も石葺されて、頂部には円筒埴輪が並べられています。このことから、島も神聖な場所と考えられていたことが分かります。
 
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西方向に設置された説明板には、赤久縄山・稲含山(左奥)、妙義山と浅間山(右奥)の手前に「二子山古墳」(左)と「古墳時代の水位跡」(左から中にかけて)、「かみつけの里博物館」で説明されていた「下芝谷ツ古墳」(右)の位置関係が描かれています。
 
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「円墳部」見た「方墳部」
 
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「方墳部」にある階段を下りて「円墳部」の北側に出ました。下から見上がるとその高さに圧倒されます。
 
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2段になった「中島(なかじま)」の性格は、①古墳における祭祀(さいし)の場、②近親者や従者の埋葬施設(陪塚、ばいづか)、などが考えられると説明されています。
 
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「内堀」と「外堀」の間にある通路(中堤)で戻ることにしました。
 
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怖い顔をした「人型埴輪」
 
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後先になりましたが、「保渡田八幡塚古墳の石棺展示室見学のご案内」と書かれた立て看板を見かけました。
 
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「薬師寺古墳」についても見学したくなりました。「八幡塚古墳」の「円墳部」から「薬師寺古墳」があるという「西光寺」までは直線距離で200mほどですが、戻り道のことを考えて駐車場へ戻り、車で移動することにしました。

 

県道123号に出て「西光寺」へ向かいました。境内は少し小高くなっているようですが、木立で覆われているため、古墳らしい形状は確認できません。
 
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東方向へ歩いて墓地に出ましたが・・
 
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発掘・復元されていませんから外観から「薬師塚古墳」を判断することが難しいのは当然でした。それ以上の探索は断念し、次の目的地へ向かうことにしました。

 

井出交差点から県道10号で上越新幹線の高架下まで戻りました。「かみつの里博物館」のスタッフに教えてもらった「三ツ寺1遺跡」があるという場所です。小さな案内看板を見つけました。
 
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発掘調査のあとは埋め戻されたことを聞いていましたから、高架下に立てられた「古代豪族の大居館 三ツ寺Ⅰ遺跡」の説明看板を読むだけですが・・。
 
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(続く)

2017年6月21日 (水)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その12) 「保渡田古墳群」(中編)

古墳の右手前にある史跡保渡田(ほどた)古墳群「八幡(はちまん)塚古墳」の石碑は逆光のため文字が読みづらくなってしまいました。
 
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外周溝
 
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NHK総合テレビの番組で詳しく紹介された「人物・動物埴輪群像」(A区形象埴輪配列区)は、周堀の中堤にある円筒埴輪列に囲まれた長方形の区画内に、数10体の人物・動物埴輪群が再現されていました。
 
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中央部分には相対する新旧の王とその妻がいて、その周辺には近くで仕える武人群や楽人、さらには内廷に仕える女性の埴輪群が並列し、馬と馬飼人・鶏・水鳥なども列を作って配置してあります。
 
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これらの多彩な人物・動物埴輪群の構成は葬送の荘重・厳粛な祭儀、つまり王に対する7種類の儀式を埴輪で説明しているのだそうです。朱に彩られた王の埴輪に注目すると、次第に埴輪のグルーピングが見えてきました。
 
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外掘と内堀の間にある中堤の縁に並ぶ多数の円筒埴輪
 
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内堀にある順路にしたがって方墳部へ向かいます。前方に2つの中島が見えます。
 
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「墳丘と葺石」の説明書きには、『墳丘は、堀を掘った土と近くから集めた土を盛り上げ、たたき締めて築かれた。斜面には、榛名山東南麓の側から採取した石により「葺石」が施される。上段・中段の葺石は、やや石の密度が高い状態で施工され、下段の葺石は間隔をあけて省略していた。葺石のなかに見える縦の石列は、一人ないし一班の作業単位(工区)だと考えられる。各段の平坦面のうち中段平坦面には、玉石がしかれていた。』 とあります。
 
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「方墳」の右手前に階段が設置してありました。
 
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「方墳」中段の左隅から見た「八幡塚古墳」は、当ブログで紹介した神戸市垂水区の「五色塚古墳」と長野県上田市の「森将軍塚古墳」と同様、斜面のすべてが石で葺(ふ)かれていることが分かります。
 
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「方墳部」の頂部に上がり、その先端方向を見ると、三辺は隙間なく円筒埴輪が並べてありました。
 
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「円墳」へ上がるスロープも同様です。
 
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「円墳部」の頂部
 
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この「八幡塚古墳」の「円墳部」の頂部には意外なことに下へ降りる階段がありました。
 
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地下室には「船形石棺」と「副葬品室」が再現してありました。
 
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「舟形石棺の分布」を示すパネルには、阿蘇石製の舟形石棺は九州から瀬戸内海沿岸と畿内まで分布しており、その他の石で作られた舟形石棺は出雲、丹後、越前、上毛野(北関東)に独立して存在していることが分かります。
 
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また、「舟形石棺」と「竪穴式石槨」が並んで埋葬されていたことも図解されています。
 
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(続く)

2017年6月20日 (火)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その11) 「保渡田古墳群」(前編)

「かみつけの里博物館」の右脇を通って、その西隣にある「二子山古墳」へ向かいました。左手には「休憩所(はにわ工房)」と「はにわ窯(かま)」があり、そこで適宜開催される「はにわ体験教室」(予約制)では「保渡田八幡古墳」に並べる約45cm(実物大)の円筒埴輪(えんとうはにわ)を粘土で作ることができるようです。
 
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「二子山古墳」の周辺にあった多数の「竪穴式小石槨(たてあなしきしょうせっかく)」の説明看板がありました。「保渡田(ほどた)古墳群」に葬られた王に属していた高い階層の人々を葬った10基の古墳(5世紀末から6世紀ころの築造)と噴火後に造られた数基の古墳があり、さらにそれらの人々に仕えていた身分の低い人たちの墓地(噴火後の6世紀の築造)が隣接する「井出北畑遺跡」で発見され、現在は移築保存されていることが説明されています。
 
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二子山古墳」の前に出ました。
 
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『「二子山古墳」は史跡保渡田古墳群で最初に造られた墳丘長(ふんきゅうちょう)108mの前方後円墳で、まわりに内堀と外堀を巡らしている。外堀まで含めた総長は213mあり、墓域の面積は約3万平米と広大である。また、内堀の中には円形の中島(なかじま、注、祭祀場)が4つ存在している。墳丘の頂上に設けられた埋葬施設は、大型の舟形石棺(ふながたせっかん)である。数千体の円筒埴輪(えんとうはにわ)が墳丘や内堤・外堤に並べられていたと推定される。発掘前の墳丘の形状をできるだけ変えない手法で整備され、堀の部分のみ形を再現した。つまり、葺石(ふきいし)を剥き出しにせず、土と草で覆われた状態にしてあります。』(出典:説明看板)
 
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「二子山古墳復元図」(100分の1)で示されているように、前方後円墳の名前とは裏腹に、円墳が手前(下側)で方墳が奥(上側)となる不死の壺(つぼ)をモチーフとして造られているのです。(注、NHK総合テレビの番組で解説された) ちなみに、「二子山古墳」は西南西の方向を向いています。
 
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「二重の掘」を横切って続く順路
 
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外側の掘
 
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内側の掘にある中島のひとつ
 
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円墳へ上がる階段
 
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円墳の頂部にある舟形石棺のイメージ模型(原寸大)です。石棺の石材は高崎市南部の観音山丘陵から凝灰岩(ぎょうかいがん)を切り出し、10kmほど運んできたものと説明されています。
 
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方墳部へ続く順路
 
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方墳部に近い場所にある内堀の2つの中島
 
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順路は方墳部の下まで続いているようです。案内板の地図に表示された「北畑遺跡」はすべて耕作地になっています。航空写真で確認すると、簡易舗装された順路は方墳の中央部で行き止まりとなっていますが、人が通るようになったためか現在は未舗装の小道が内堀と外堀を巡る順路まで続いているようです。
 
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円墳の方向を振り返りました。
 
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円墳から階段を下り始めると、左手奥に「八幡(はちまん)塚古墳」が、右手に「かみつけの里博物館」、「休憩棟」、「はにわ工房」が確認できました。
 
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次いで、石葺(いしぶき)の「八幡(はちまん)塚古墳」へ向かうことにします。芝生で覆(おお)われた外周溝(外堀)と内周溝(内堀)の間に円筒埴輪が並んでいます。
 
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『「八幡塚古墳」は、かつて大きく削られていたため、この古墳に限って、発掘調査結果を基に、保存用の土を厚く盛って、築造時の姿に造られた時の姿に復元・整備することになったことが説明されています。墳丘は全長96mで3段に造られ、斜面は葺石で飾られる。周囲には、内堀・外堀・外周溝が巡り、それらの間には内堤(ないてい)・外堤(がいてい)が設けられる。墓行の長さは約190mに及ぶ。内堀の中には4つの島(中島)があり、この古墳の特徴となっている。この古墳には、外界との垣根である円筒埴輪が幾重にも列をなして並べられ、その数6000本と推定される。内堤上の2か所には人物・動物埴輪を億区画があり、各々50体以上が並んでいたと考えられる。遺体を納めた施設は、後円頂部に2か所存在した。後円部の中心には古墳を築いた豪族本人の棺「(ひつぎ)と考えられる舟形石棺が据えられた。その脇には竪穴式石槨(たてあなしき しょうせっかく、注、木棺を石で囲んだもの)も発見された。近親者の埋葬施設であろう。』(出典:石碑に書かれた説明)
 
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(続く)

2017年6月19日 (月)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その10) 高崎市の「かみつけの里博物館」

富岡市から前橋市まで走った県道10号を少し戻ることにします。まず利根川を渡り、次いで関越自動車道の高架下を通過して高崎市に入り、さらに上越新幹線の高架下を抜けた井出交差点で右折し、県道123号を700mほど北進した保渡田町(ほどたまち)にある「かみつけの里博物館」に到着。群馬県庁から車で約20分の場所です。広い駐車場(無料)が2か所ありますが、博物館に近い方に車を停めました。

 

「上毛野(かみつけの)はにわの里公園の概略図が描かれた案内看板によると、「かみつけの里博物館」を挟むように2つの前方後円墳、「国史跡二子山古墳」と「国史跡八幡塚(はちまんづか)古墳」が位置し、少し離れた場所にはもう一つの古墳「国史跡薬師塚古墳」と「土屋文名記念文学館」があります。ただし、公開されているのは色付けされたエリアだけのようです。
 
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こちらは駐車場から見た博物館の外観です。
 
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「かみつけの里博物館」は榛名山(はるなさん)東南麓で出土した5世紀後半(古墳時代)の人物・動物埴輪や当時を再現した模型が展示されている高崎市の考古博物館です。「保渡田(ほどた)古墳群」がある「上毛野はにわの里公園」内にあります。開館時間は午前9時30分から午後5時(入館は午後4時30分)まで、休館日は毎週火曜日、料金は大人200円(65歳以上は無料)。写真は正面エントランスで、その両側にコの字型をした建物があり、右側が展示室になっていました。
 
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4か月ほど前、1月20日にNHK総合テレで放送された「歴史秘話ヒストリア選 古代史ミステリー 古墳はワンダーランド」~地下に眠るお宝!壁画巨大船を地中に発見!~で紹介されました。古墳にも関心を持つ私は発掘・再現された1500年前のその古墳と出土品を自分の目で見たくなったことが今回のドライブ旅を思い立った理由のひとつです。

 

[保渡田古墳群の予備知識] (出典: Travel.jpのサイト

 

「上毛野はにわの里公園」内にある史跡「保渡田(ほどた)古墳群」は、「八幡塚古墳」、「二子山古墳」、「薬師塚古墳」の3つの前方後円墳があります。博物館の西にあるのが「二子山古墳」、北側には「八幡塚古墳」と「薬師塚古墳」が500mほどの範囲に並んでいました。注、上記の順に築かれた3つの古墳はほぼ同じサイズですが、現在西光寺が建っている「薬師塚古墳」は発掘・復元されていない

 

その中でも「八幡塚古墳」は1500年前の築造時の姿が復元された貴重な前方後円墳です。また、「保渡田古墳群」の周辺も古墳が作られた当時の社会がそのまま見られる稀有(けう)な場所です。その理由は1500年前に大噴火した榛名山にありした。大噴火によって降り積もった大量の火山灰によって榛名山の東南に栄えていた古代社会は、イタリアのポンペイ遺跡のように、そのまま閉じ込められてしまったのです。

 

(1)八幡塚古墳の説明

 

[八幡塚古墳」は長さが96mで三段になっており、斜面が葺石(ふきいし)で覆(おお)われています。この葺石の数はなんと40万個近くもあるのです。また、下段から上段へと次第に葺石の密度が高くなるように葺(ふ)かれています。各斜面の縁にはなんと6000本もの「円筒埴輪(えんとうはにわ)」が直線上に並べられています。古墳自体は広大な二重の堀に囲われ、内堀のなかには4つの円形の島が作られています。

 

後円部では死者が「舟形の石棺」に葬られていましたが、4つの島はこの後円部を囲むように作られており、ここで祭祀が行われたと推定されているそうです。

 

また円筒埴輪で結界(けっかい、注、聖と俗の境界)を張っていたと思われますが、6000本もの埴輪をつくることは、余程力のある豪族でなくてはできません。ちなみに埴輪はこの古墳の傍で焼かれたといわれますが、数が多いために一部は15kmほど南の藤岡にあった窯場で作られたとのこと。焼くための薪や材料の粘土だけでも大変な量です。

 

また外側の堤の上には「盾持ち埴輪」も所々に置かれています。これは、邪悪なものから古墳を守る役目をしていたといわれます。いわば聖域の守護者としての役割を担っていたのです。結界といい、いかに埴輪が古墳になくてはならない存在であるかが良く分かります。

 

(2)下芝谷ツ古墳の説明 

 

榛名山の噴火の土石流に飲み込まれていた古墳が近くにあるそうです。「下芝谷ツ古墳」です。これは「方形積石塚」で朝鮮半島に由来する古墳です。ここからなんと黄金の飾り履が出土しました。日本では熊本県の江田船山古墳、奈良県の藤の木古墳や滋賀県の鴨稲荷山古墳など5世紀後半から6世紀の時期に、全国で20例程しか出土していない貴重なものです。

 

(3)三ツ寺Ⅰ遺跡の説明

 

保渡田古墳群の近くで、豪族の館が発掘されました。保渡田遺跡群から南東約1kmの場所で発見された「三ツ寺1遺跡」です。この館、上越新幹線の工事で見つかったもので、まだ全体の2/3が未発掘なのですが、写真のように、「かみつけの里博物館」で当時の姿が復元されています。

 

豪族の館は深さ3mの濠に囲まれ、1辺が86mの方形をしています。内部は三重の柵で2つに分かれており、写真左上の区画は生計を支えるゾーン、右下の区画は王が政治や儀式を司ったゾーンで、右下区画の中心にある大型の建物(赤い傘で、貴人が居る事が示されている)は建坪50坪もあり、当時東日本最大の建物だったといわれます。またこの建物の横には「屋根付きの井戸」があり、この井戸は祭祀専用の井戸であったといわれます。

 

実はここは崇神天皇を祖とする「上毛野氏(かみつけのし)」に関連した豪族、具体的には「車持氏(くるまもちし)」の館と推定されています。乗り物(輿)を提供する職務をしていた事から、雄略天皇より車持の名を与えられたのです。また、群馬県の「群馬」は奈良時代には「クルマ」と読まれていました。群馬は車持氏の「車」に由来した名前なのです。

 

保渡田古墳群の被葬者はこの車持氏なのです。また、上毛野氏は将軍として朝鮮半島まで行っていることから、前述の積石塚に葬られている渡来人は、この車持氏から招聘された可能性があるともいわれます。

 

                          ☆

 

予備知識の説明が長くなりました。それでは「かみつけの里博物館」に展示されている内容を入館時にもらったパンフレットを使って紹介しましょう。予備知識の説明が長くなりました。それでは「かみつけの里博物館」に展示されている内容を入館時にもらったパンフレットを使って紹介しましょう。「かみつけの里博物館」の館内は撮影が禁止されていますから、写真入りで同博物館の常設展示を紹介する高崎市のhpYahoo! JAPANの旅サイトTravel.jpのサイトもあわせて参照してください。

 

<エリア1> 「よみがえる5世紀」には、榛名山東南麓古墳社会復元模型(縮尺:1/500)が置かれ、ビデオを使って榛名山の噴火、火災流に呑まれた3つの古墳、復元された二子山古墳と八幡(はちまん)塚古墳を解説しています。

 

<エリア2> 「王の館(三ツ寺Ⅰ遺跡)」の復元模型(縮尺:1/100)は日本ではじめて発見された豪族の館跡と遺物群が展示されています。壁面に描かれた発掘調査図から王の館は一辺が86mもの規模があったことが分かります。上越新幹線の建設工事が行われた時に発見され、発掘調査後には埋め戻されたことが説明されています。

 

<エリア3> 「王の姿を探る」には全国の5世紀の前方後円墳分布図と古墳の動向から三ツ寺の王や上毛野地域がどのような位置づけであったかを推定し、三ツ寺Ⅰ遺跡、丸山遺跡、堀越遺跡(栃木県)など各地の豪族の館を比較しています。

 

<エリア4> 「王の墓を探る」には「八幡塚古墳の築造時推定復元模型」(縮尺1/80)を中心に、当時の巨大古墳造りについて、かかわった人々・使われた技術・築造工程などで、具体的に説明しています。

 

<エリア5> 「広がる小区画水田」には、大噴火によって5世紀の地表が良好に保存されていたため、当時の大規模な農地の状況や田作り作業の詳細な情報が遺跡に残されたことを紹介しています。発掘データから復元した古墳時代の「水田模型」(縮尺1/80)も展示されています。

 

<エリア6> 「火山灰に埋もれた村」には、火山灰によって覆われた下芝遺跡群、黒井峯遺跡、中筋遺跡などの発掘データをもとに、榛名山東南麓の典型的な村の姿を縮尺1/80の模型で再現しています。竪穴住居、大祭祀(だいさいし)の場をイメージした出土物展示があります。

 

<エリア7> 「海の向こうからきた人々」には、下芝谷ツ古墳から発見された日本最古の飾履(クツ)の展示を中心に、朝鮮半島の影響を受けた積石塚古墳分布やさまざまな渡来系文化を紹介しています。ちなみに、NHK総合テレビの番組では発掘された王とその家族の遺体を調査した結果、馬を育てる適地を求めて長野県南部(伊那地方)から群馬県に移り住んだと推定されることを紹介していました。つまり、騎馬民族の子孫だったと思われるのです。

 

<エリア8> 「埴輪(はにわ)に秘められた物語」には、保渡田Ⅵ遺跡から出土した埴輪群像を中心に、埴輪が物語るストーリーを映像で解説し、王の埴輪を中心とする儀式の群像、狩人の埴輪や猪の埴輪が示す狩猟、葬送や王位継承などの儀礼、当時の精神世界を表していることを紹介しています。

 

<エリア9> 「埴輪の人・動物・もの」には、種別ごとに埴輪を展示し、あわせて国内各地の事例を紹介しながら、埴輪が示す古墳時代の人々の実像を紹介しています。

 

次回の記事から「保渡田(ほどた)古墳群」を詳しく紹介します。(続く)

2017年6月18日 (日)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その9) 「群馬県庁舎展望ホール」

「敷島公園バラ園」の駐車場を出発し、利根川縁の道路を南下し、「ヤマダグリーンドーム前橋」の脇から県道10号の高架下を抜けて国道17号に入り、県庁南交差点を左折すれば群馬県庁に到着しました。
 

県庁東交差点から県庁の敷地に入り、高層棟(県庁舎)と低層棟(県議会)の間を抜けた県民駐車場(利用できる時間帯:午前8時分から午後10時)に車を停めました。県庁や県警本部などを訪れる人は2時間までは無料(それ以降は100円)/30分)で利用できます。写真は駐車場側から東の入口方面を撮影したものです。ちなみに、遠くに見えるグレーの建物は前橋合同庁舎。
 
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こちらは地上32階建ての県庁舎
 
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県議会の建物脇から見た県庁舎の下部
 
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車の通路を横切って県庁舎に入りました。展望用エレベーターで最上階(32階)まで一気に上がりました。エレベーターホールからは西方向、隣の高崎市の市街地とその先にある榛名山系(はるなさんけい、写真右端)を、西南には妙義山(みょうぎさん)の山並みを望むことができました。ちなみに、妙義山は山系の名称で、最高峰は谷急山(1162.1m)。日本三大奇形の一つです。
 
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この日は幸いなことに浅間山を遠望することができます。
 
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右手に移動して榛名山系を撮影
 
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こちらは壁面にある前橋市と高崎市の夜景で、榛名山系と浅間山がシルエットとなって写っています。
 
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実は、榛名山系からなだらかな傾斜で高崎市へと続くこの景色を高い場所から確認したかったのです。榛名山系の主峰である「榛名山(はるなさん)」(標高1390.3m、通称:榛名富士)はその頂上付近にはカルデラ湖があり、それらの周囲を外輪山である最高峰の掃部ヶ岳(かもんがたけ、標高1449m)や尖った峰の相馬山(1411m)などが取り囲んでいますから、八ヶ岳山系や箱根山系のように複雑な形をしています。50万年前から噴火(ふんか)を繰り返し、5世紀から6世紀にかけての噴火でマグマを大量に噴出(噴出)させたそうです。活火山であった榛名山の地形(広大な山麓)が次の目的地の成り立ちを理解するために不可欠だったのです。

 

エレベーターホールの東側にある「展望ホール」に向かいました。
 
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右手に南方向の展望が広がりました。大きくうねりながら流れる利根川に架かる国道17号の群馬大橋、前橋市と高崎市の市街地の先には奥秩父(おくちちぶ)山系が見えます。
 
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東方向には前橋市から桐生市と伊勢崎市の市街地が続いています。
 
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県庁東交差点から東へ伸びる並木道の右手には前橋市役所の庁舎が見えます。
 
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北側の展望ロビーへ移動しました。真下には群馬県警本部、左下に前橋公園(注、前橋城跡地)、右下は前橋地方裁判所があり、遠くには赤城(あかぎ)山系(標高1827.6m)を見ることができます。ちなみに、赤城山(あかぎさん)もカルデラ湖を持つ火山で、榛名山・妙義山とともに上毛三山の一つに数えられていますが、最高峰の黒檜山(くろびさん)を含む火山の総称です。
 
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少し左に移動すると、「利根川と「ヤマダグリーンドーム前橋」の間に先ほど「敷島公園」から走った道路も確認できます。隣接する渋川市の先に見える2つの山は赤城山系から続く子持山(右)と小野子山(左)。
 
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前橋市にある群馬県庁舎展望ホールからは周辺の地理的な特徴に加えて、群馬県の中南部にある県の政治・経済・文化・交通の主要地域である前橋市と高崎市、南東部にある銘仙(めいせん)で知られる伊勢崎市と奈良時代から1200年の歴史がある桐生織(注、京都・西陣織の影響を受けている)と近世になって織られるようになった羽二重(はぶたえ、注、細い2本の経糸を使用)が有名な桐生市などの位置関係も把握することができました。(続く)

2017年6月15日 (木)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その8) 「前橋市蚕糸記念館」

「バラ園」の奥(北西の角)にある前橋市の「蚕糸記念館」(入館無料)にも立ち寄りました。
 
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明治44年(1911年)に国立原蚕種製造所前橋支所の本館として建てられた建物(注、国内6地方にあった支所のうち現存する唯一の棟)で、その後は名称が蚕糸試験場などと変わりましたが、昭和56年(1981年)に前橋市が払い下げを受け、解体・移築し、前橋市蚕糸記念館としてこの地に設置したそうです。玄関のエンタシス状の柱、レンガ積みの基礎、上下開閉の窓、入口のドアの低い取手(とって)、避雷針の設置など、明治末期の代表的な擬似洋風木造建築物の特徴をもっています。(出典:現地の説明看板)

 

館内には玄関から奥に続く廊下とそれと直行する廊下(つまり逆T字形の構成)によって4つの展示室が結ばれていました。順路にしたがい右手の廊下へ進むと、壁面に掛けられたパネルには「日本で最初の機械製糸場跡」(明治3年に前橋藩がスイス人技師を招いて住吉町で創業した藩営機械製糸所)および「糸の町前橋」の歴史が説明されていました。その先に第一展示室のドアが見えます。
 
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第一展示室は設立の経緯(いきさつ)と開所当時の様子を示す資料が並べられていました。まず、雅蚕(ちさん)人工飼料の「くわのはな」の説明とサンプルの展示および「繭見本」の展示があります。
 
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「天蚕(てんさん)」は日本原産の大型の野生絹糸虫(けんしちゅう)で、天然の山野でナラ・クヌギ・カシワなどの葉を食物として、美しい「緑色の繭」をつくることから「青やまこ」とも呼ばれています。第二次世界大戦によりその生産が途絶えましたが、長野県蚕業試験場などの30年にわたる努力が功をそうして現在長野県13市町村の約100戸で飼育されています。(出典:説明パネル)
 
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「蚕の一生」を説明するサンプル標本
 
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第二展示室に移ると、「絹の起源」と「養蚕に使われる道具類」の展示がありました。
 
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「蚕棚(かいこだな)」(右側)と蚕(かいこ)が繭(まゆ)を作る部屋となる「蔟(まぶし)」(左奥)
 
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第三展示室には製糸業に用いる道具と器械が並んでいました。

 

「毛羽(けば)取機」
 
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「生糸ができるまで」のコーナーには、4つの工程である①繭に熱を加えて蛹(さなぎ)を殺し、乾燥させ水分を取り除いて乾繭を作る、②鍋で蛹を煮て煮繭を作る、③繭の糸口を見つけて数本の糸を集めて生糸にして寄りをかけて小枠に巻き取る繰糸(そうし)、④小枠に巻き取った生糸を乾燥させてから太枠に巻き取る揚返(あげかえ)し、の説明と「繭煮鍋(まゆになべ)」と糸口を引く「箒(ほうき)」のサンプル展示があります。
 
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繭の糸口を見つけて小枠に巻き取る旧式の「牛首(うしくび)」とその改良型である上州座繰機(じょうしゅうざぐりき)は安政時代のものです。
 
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生糸の品質を計る秤(はかり)である「検位衡(けんいこう)」および糸の太さを調べるために一定の長さの糸を取り出す「検尺器(けんしゃくき)」など
 
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小枠(こわく)に巻き取った生糸を大枠に巻き取る「揚返器(あげかえしき)」
 
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野生の蚕蛾(さんが)の繭から取った「さくさん糸」、繭を真綿に成型して指先で紡(つむ)いだ「手紡(てぼう)」、渋柿で染めて生活素材として活用された「染糸(そめいと)」
 
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「結城紬(ゆうきつむぎ)」
 
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絹糸を何回撚(よ)ったかを計るための「検撚器(けんねんき)」
 
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「撚糸用六角棒」と「まわたつむぎ器」
 
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「撚糸機(動力式)」
 
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「糸巻機」と「糸撚車(いとねんしゃ)・紡車(つむぎぐるま)・竹車(たけぐるま)」
 
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見学コースで最後となる第四展示室には機織(はたお)りと養蚕信仰の資料がありました。

 

紡(つむ)いだ糸を整理したり、糸の必要量を数えたり、染色した糸を乾燥させ、杼(ひ)に巻き取る時に用いた折りたたみができる糸車である「糸かせ」
 
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座った状態で使う機織り機である「居座機(いざはた)」(奥の大きな器械)、織機の付属具である「筬(おさ)」(その手前)、布を機織り機で折る際に緯糸(よこいと)を素早く通すことができる「飛び杼(ひ)」(最前列、注、名札が居座機に載せられている)。ちなみに、「居座機」は5世紀ごろに中国から機織り技術が伝わったときに導入された織機であり、折進にしたがって座る位置を移動させることが名前の由来です。「筬」は竹または金属の薄片を櫛(くし)の歯のように並べて枠をつけたもので、経糸(たていと)を整え、緯糸(よこいと)を打ち込むのに使います。
 
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織り機の台に腰をかけた状態で使用する「高機(たかばた)」は木製手機(水平織機)の一種で、大和機または京機とも呼ばれます。(注、写真に写るのは足踏み式で踏み木が4本、つまり経糸を通す小さな穴が空いた糸状のものを収める綜絖枠(そうこうわく)が4枚あるタイプで、ペダルで綜絖枠に固定された経糸をまとめて上下させて緯糸を通す開口部を作ることができる) 原始的な織機である「地機(居座機)」を改良して、機の位置が地機より高い位置にあることが名前の由来。注、「居座機」と「高機」はいずれも「手織の機」で、動力を使用する織機(自動織機)と区別される
 
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ちなみに、当ブログでは、「インドネシア・バリ島」(2015年)と「ミャンマー・古都アマラブラ」(2017年)の記事で海外の機織り機を紹介しています。

 

かなり専門的な展示でしたが、分りやすく説明されていました。子供の頃に見た記憶があるものがいくつも展示してあり、昔を懐かしみながら館内全体を見学しました。

 

最後に養蚕についての薀蓄(うんちく)です。紀元前2000-3000年前に中国で発祥(はっしょう)したとされ、紀元前200年ころ(弥生時代)に稲作とともに日本に伝わり、大宝律令が制定された701年には租税(祖・庸・調)を絹で納める制度が定められました。(例、調布の地名)

 

同様に、隣接するアジア諸国(インド・ペルシャなど)やシルクロード(絹の道)の名にあるように陸路や海路でヨーロッパ(エジプトやローマ帝国など)へも伝わり、中世になるとヨーロッパでも生糸の生産が始まりました。 

 

「富岡製糸場」の記事で紹介したように、日本は明治初期から国策として生糸の生産を拡大する一方、先行するヨーロッパで病害が発生したてめ養蚕が大打撃を受けたことで、日本が生糸の主要輸出国になりました。その後も日本の生糸産業は興隆を極めて、昭和5年(1930年)には世界一の生産量(40万トン)を誇りました。しかし、第二次世界大戦後は海外諸国の安い生糸に押されて日本の生産量(養蚕農家)が激減し、1970年代中ごろには10万トンを切り、中国や韓国からの輸入が急増しました。現在は国内で消費される生糸の99%が海外製品になっているそうです。また、国内の生糸生産量は群馬県(シェア40%)と北関東・南東北・甲信・南九州に限定され、生糸を製造する企業は2社のみとなりました。ちなみに、繭の生産量では中国・インド・ブラジルが多いとのこと。

 

今回のドライブ旅は始まったばかりですが、ここで投稿を小休止します。(続く)

2017年6月14日 (水)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」 (その7) 前橋市の「原嶋屋総本店」と「敷島公園バラ園」

午前11時20分に「富岡製糸場」近くの駐車場を出発。国道254号(西上州やまびこ街道)のしののめ跨線橋南交差点を左折して県道10号に入り、前橋市へと向かいました。丘陵地帯に続く県道10号は車の通行が比較的少なく快適なドライブを楽しみながら安中市へ入り、碓氷川を渡れば高崎市です。

 

次の目的地はこの群馬県の中南部に位置する高崎市にありますが、隣の前橋市にも立ち寄ることにしました。関越自動車道の高架下を通過して前橋市に入り、利根川に架かる中央大橋を越えると前橋市の中心部です。前橋公園、群馬県庁、前橋市役所などがあります。前橋公園の中を通過し、大手町交差点を左折、川を渡った先、2つ目の交差点角。ちょうど1時間で「焼きまんじゅう」の「原嶋屋総本店」(前橋市平和町2-5-20)に到着。

 

駐車場に沿って造られた左手の白壁と時代劇のセットのような古風な造りが印象的です。「やきまんじゅう」と染め抜かれた暖簾(のれん)を潜(くぐ)りました。
 
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店内には調理場と向かい合う待合所のイスが並び、店内で食べる客は奥の小上がりが利用できます。
 
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注文をうけてから焼き始めるため、10分ほど待つ必要がありました。その間、店内を眺めていると「焼きまんじゅう おいしく食べるの図」が目に入りました。
 
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有名店らしく、取り上げられたテレビ番組のリストおよび芸能人の色紙や写真が壁面に掛けられています。
      

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「やきまんじゅう」(200/串)が2串盛られた皿を店員さんから手渡されました。
 
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通常のイートイン・スペース(小上がり、午後3時まで、ひとり一本以上)が空かないため、通常は利用しないと思われる囲炉裏のある小上がりを勧められました。
 
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添えられた小さな専用竹ホークでまんじゅうを串から外して1個ずつ食べました。
 
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ふわふわしていて、饅頭(まんじゅう)というよりも蒸しパンを焼いた食感があり、かなり甘辛い味噌がたっぷり塗られていました。群馬風の濃い味が同行者の口には合わなかったようで、私がほとんど(5個)を食べることになりました。見た目以上にボリュームがあって昼食には十分な量です。昼時でもあったこともありますが、滞在した30分弱の間にテイクアウトとイートインの来店客が絶えず、評判通りの人気店であることが分かりました。

 

北へ2-km走った敷島公園内にあるバラ園で開催されていた「春のバラ園まつり」(開催期間: 5月13日~6月4日)に立ち寄りました。広い駐車場(無料、約150台)が利用できます。南北に長い洋風のバラ園で撮影したバラの写真をたくさん紹介したかったのですが、デジカメのモードダイヤルが誤ったポジション(手動モード)になっていたため、過剰露出で見るに堪えないものになってしまいました。バラ園の様子をお伝えするため、あえて数枚だけ掲載することをご容赦ください。なお、綺麗な写真は前橋市のhpにある「春のバラ園まつり関連」およびトリップアドバイザーの「敷島公園バラ園」で見ることができます。
 
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ここでモードダイヤルの誤設定に気づいて「自動」に再設定しました。デジカメのモードダイヤルは手で触れただけでは動かないのですが、ショルダーバッグに出し入れした時にしばしば経験するトラブルです。ただし、撮影済みの写真は一応写っていると判断し、撮り直しをしなかったのはお粗末な対応でした。バラではありませんが、ついでに撮影した園内の一画にある温室内の熱帯植物を紹介します。
 
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(続く)

2017年6月13日 (火)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その6) 世界遺産「旧富岡製糸場」⑥

保存修理工事中の国宝「西置繭所(にしおきまゆじょ)」を見学することにしました。「ブリュナエンジン(復元機)」展示場のすぐ先に仮設の窓口があります。ちなみに、公開は2019年春までの期間限定とのこと。ヘルメット貸出料は大人200円。
 
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「西置繭所」のやや左手、「副蚕場」の脇から専用通路を通って「保存修理仮設見学施設」へ向かいます。近くで見ると「西置繭所」の外観と思われたものは、保護用シートに印刷された壁面の写真でした。「東置繭所」と同様、2階が乾燥させた繭を貯蔵していましたが、1階の北東エリアは蒸気機関を動かすための石炭置き場として使われたため、東面には壁がなかったそうです。この部分のレンガは「富岡製糸場」が操業を停止する数年前の昭和56年(1981年)ころに積まれたとのこと。
 
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専用通路が「西置繭所」の右端部にある「保存修理仮設見学施設」に行き当りました。入口は右に折れた正面側にあるようです。
 
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「西置繭所」の前のエリアはトラックや重機の足場を確保するため鉄板が敷かれ、工事用のプレハブ事務所が建てられています。その後方には煙突のある「蒸気釜所」と、保存修理中の「乾燥場」、そして「繰糸場」の屋根が見えます。右端半分に写るのは「副蚕場」の青い屋根です。
 
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「保存修理仮設見学施設」は階段で上がった3階にあると表示されていますから、ヘルメットを被(かぶ)った同行者は階段ではなくエレベーターに乗るようです。残念ながらこの先は撮影禁止エリアです。
 
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3階の見学エリアには保存修理後の完成イメージ(縮尺1/50の模型)が展示してあり、西置繭所の歴史や保存修理計画、また調査解体の結果分かったことについて、映像とグラフィックパネルを用いて展示解説を行っていました。また
、ガラス窓越しに保存修理中の「西置繭所」の屋根を見ることもできました。 

一番奥まった場所にドアのない通路(開放廊下)がありました。そこへ入って「西置繭所」の建物に近づくと、瓦がすべて撤去されて野地板が剥(む)き出しになった屋根を間近で見ることができました。これは昨秋見学した姫路城の「りの一渡り櫓」と「りの二渡り櫓」の保存修理工事と同様の展示方法です。

 

参考情報です。2015年5月に鉄骨フレームの構造体を使って「素屋根」(注、建物を保護する仮の屋根)をかける工事が始まり、屋根瓦の取り外し、瓦の下に敷かれた杉皮の解体、傷んだ野地板(のじいた)の解体、2階ベランダの解体、レンガ壁の一部解体、1階床板と根太(ねだ)の解体、建具の取り外し、レンガ壁の補強、屋根(軒先)の乱れを補正するために柱の高さを調整する揚屋(あげや)作業、ベランダ用部材の補修までが2年間に行われてきました。(2017年5月28日現在)

注、上記の詳細については富岡製糸場のhpにある「西置繭所保存修理工事」の(1)(2)(3)(4)を参照)
 
 

反対側(北側)の階段を利用して1階に降りて見学用専用通路を戻りました。「西置繭所」の「保存修理仮設見学施設」の公開とともに、これまで公開されていなかった国の重要文化財「鉄水溜(てっすいりゅう)」も見学できるようになったことを3階にいたガイドさんの説明で知り、そちらにも立ち寄ることにしました。「西置繭所」の南端、「繰糸所」に近い場所にある「鉄水溜」は明治7年(1874年)の竣工した、直径15.0m、深さ2.4m、貯水量約400立方メートルの鉄製の水槽です。水を溜(た)め置くことによって軟水化させ、繰糸に適した水にするための水槽で、当初はレンガ積みの水槽が使われましたが、水漏れが発生したため、急遽(きゅうきょ)「鉄水溜」が造られたそうです。鉄製水槽は輸入した鉄板を使用し、横須賀造船所にて造船技術であるリベット接合を用いて組み立てられました。水圧を上げるため基礎は5段の石積みとなっています。ちなみに、平成18年(2006年)に国の重要文化財に指定されています。(出典: 説明看板の内容など)
 
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「鉄水溜」の前に見学用の階段がありますが、上から覗(のぞ)き込むには低すぎるようです。
 
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近づいて分かりました。水を出し入れするパイプがあった場所(覗き穴)から内部を見ることができるのです。
 
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低い場所にあるのは汚水の廃水槽かもしれません。
 
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その脇にある建物は説明がありません。
 
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「鉄水溜」の反対側に赤く錆びた機械があることに気づきました。上部に電動モーターがあり、その下部には羽根のようなものが多数見えますから、空調システムの屋外機かもしれません。説明ボランティアの方に尋(たず)ねましたが分からないとの返事が返ってきました。
 
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もと来た道を引き返す時、「西置繭所」の南端前にもコンクリート製の水槽があることに気づきましたが、この役割も不明です。
 
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ヘルメットを返却したあとは、「乾燥場」の前を通過。富岡製糸場」を退出するため「東置繭所」の中央にある通路を抜けて正面入口へ向かう途中、「東置繭所」の1階では「フランス式繰糸器実演」(午前10時から午前11時30分)がまだ行われていましたので、再度入ってみました。説明が細かくて長くなりますから、詳細については関連のYouTubeを参照してください。
 
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約2時間半に及んだ「富岡製糸場」の見学を終えて駐車場へ戻る途中、城町通りで面白い形をしたバスを見かけました。「まちなか周遊観光バス」(ガイド料100円)は乗り降り自由で、富岡駅東駐車場→富岡駅→まちなか交流館→富岡製糸場を往復していますから、富岡駅東駐車場や富岡駅を利用して富岡製糸場を観光する人には観光案内を聞きながら移動することができる便利なサービス(午前9時から40分毎、1日10便)でした。(続く)

2017年6月12日 (月)

グルメを求めて上信越を巡るドライブ旅」(その5) 世界遺産「旧富岡製糸場」⑤

南隣にある「揚返場(あげかえしじょう)」(見学不可)は小枠(こわく)に一度巻き取った生糸を大枠(おおわく)に巻き直す工程を行う場所で、湿度の高い日本では生糸を繭として固めていたセリシンの作用で再融着することを防ぐため、欠かせない工程だそうです。

 

その向かい側(東側)にある「診療所」は、『昭和15年(1940年)に建てられた、3代目の診療所です。(明治時代には病院といっていました)注、世界遺産「旧富岡製糸場②」の写真で分かる 当初の診療所は敷地の北東部に建てられ、フランス人医師が治療にあたった。また、官営所代においては治療費・薬代は工場側が負担していました。官営から片倉までの全期間を通じ厚生面が充実していたことが分かります』 と説明されています。
 
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その南隣にある「病室」
 
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通路が行き当たる「ブリュナ館(首長館)」(明治6年の建築、国の重要文化財)は、創業時に指導者として雇われていたフランス人ポール・ブリュナが家族やメイドと暮らしていた住居です。桟瓦葺(さんかわらぶ)きの寄棟屋根をもつ巨大な住宅です。高床式で周囲に回廊風のベランダをもつことで風通しが良く、開放感のある設計です。ブリュナが明治9年に契約満了で帰仏したあとは、寄宿舎や工女に読み書きや和裁を教える夜学校、後には片倉富岡高等学園の降車として利用されたため、内部は大幅な改造が加えられているそうです。
 
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「洋裁室」と「第一教室」の表示板が確認できます。
 
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「ブリュナ館」の周囲にそって歩くと、南東角に「場内の案内」と書かれた構内図がありました。
 
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敷地の南端に出ました。大きな桜の木々が印象的です。フェンスには国の重要文化財に指定されている「レンガ積排水溝」の説明看板があり、『製糸場から出る糸を取ったあとの排水と建物屋根の雨水ために造られたもの』 と書かれていました。
 
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フェンス越しに見下ろした鎧川(よろいがわ)と対岸の風景
 
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振り返って見た「ブリュナ館」の南面
 
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その西隣には何棟かの「寄宿舎」があります。
 
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「富岡製糸場」がこの地に建設された理由は、①富岡周辺で養蚕(ようさん)が盛んで生糸の原料である良質な繭が確保できる、②工場建設に必要な広い土地が用意できる(注、江戸時代末期に代官所の予定地)、③生死に必要な水が既存の用水を使って確保できる、④蒸気機関の燃料である石炭が近くの高崎・吉井で採れる、⑤外国人指導の工場建設に対して地元の人たちの同意がえられた、ことが富岡製糸場のhpに説明されています。ガイドさんの説明では、それ以外にも、瓦やレンガを近隣から調達できたこともあったとのこと。

 

「東置繭所」の中央にある通路を抜けて「乾燥場」の前に出ました。左端に写っているのは「東置繭所」の2階へ上がる階段です。
 
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その格子塀に「ブリュナエンジン(復元機)」が公開中であると表示されています。
 
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「西置繭所」の方面へ歩きました。保存修理工事中のためフェンスで立ち入りが制限されています。
 
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左へ折れた場所にある純白の新しい建物の中に「ブリュナエンジン(復元機)」がありました。横型単気筒蒸気機関のようです。
 
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反対側へ回り込むと、回転を安定させる大きな弾み車(フライホイール、直径約2.5m、重量1200kg)がついていました。
 
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蒸気の供給パイプと排出パイプ、主軸の回転を調圧バルブに伝える多段可変のベルト駆動機構、シリンダー内にあるピストンの往復運動を主軸の回転運動に変換するクランク機構、そしてシリンダーの両側へ蒸気を交互に供給する切り替える弁を駆動するカムが主軸に取り付けられていることが確認できます。また、中央上部にある2つの金属球が主軸が回転する速度に応じて水平方向に広がることによってバルブを駆動し、シリンダーに供給される蒸気圧を調整する調速機(ガバナー)を備えた優(すぐれ)れものです。つまり、主軸の回転速度を一定に保つ仕組み(自動制御機能)が具備された完成度の高い蒸気機関です。注、シリンダー径254mm、ストローク500mm、つまりシリンダー容量約2万cc、出力は17.5馬力
 
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「ブリュナエンジン(復元機)」1/5縮尺模型には主軸のカムとシリンダーを繋(つな)ぐシャフトが付いています。
 
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「ブリュナエンジン(復元機)」の説明パネルには、『平成28年にできるだけオリジナルに近い材料を使って復元された。創業時の「ブリュナエンジン」は煙突脇の蒸気釜所に設置され、その主軸の回転力(エネルギー)は地下を経由して南隣の「繰糸所」と「揚返場」にある枠(わく)を回転させる動力として利用された。そして、動力源が電気モーターに換わる大正9年までの約50年間使われたた。昭和43年に当時の片倉工業から博物館明治村へ寄贈され、現在はその施設内に展示されている。この蒸気機関には銘板がなかったため、フランス人技術指導者の名前で呼んだ』 ことなどが書かれています。
 
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イギリスのジェームズ・ワットにより実用的な蒸気機関が開発された1769年の約100年後である1872年(明治5年)に導入されたこの「ブリュナエンジン」は最先端で完成度の高い蒸気機関であったと思われます。 

 

おまけとして、「川岸の風景」、「寄宿舎跡」、「ブリュナエンジン(復元機)」を案内してもらったことで、ガイドツアーは予定時間(40分)を大幅にオーバーして1時間近くになりました。

 

参考情報です。ガイドツアーに参加しなくても、スマホを使う音声ガイド(無料)も利用できますが、もし時間がゆるせば、ガイドさんの生の説明を聞くことができるガイドツアーへの参加をお勧めします。(続く)

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