旅行・地域

2024年10月 7日 (月)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(最終回) 帰路は岡崎ICから東名川崎ICまで

午後4時30分ころ、岡崎ICから東名高速道路に入り、音羽蒲郡ICと豊川ICを経て三ケ日JCTで新東名高速道路(連絡路、片側2車線)に逸(そ)れました。通行する車はほとんどいません。

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新東名高速道路の富幕山(とんまくやま)トンネルに入ります。ここでは最高速度が80㎞/hに制限されています。

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いなさJCTで新東名高速道路の本線(上り線)に入りました。こちらも走行する車はごく僅(わず)かです。

前方に見えるのは都田川(みやこだがわ)橋。PC2径間連続エクストラドーズド橋(橋長268m、支間長133mx2)。中央に高さ56.4mの橋脚3本の上に繋(つな)がる主塔が3基並ぶとともに、それらに挟(はさ)まれた橋桁(はしげた)と斜材(ケーブル)で上下線(各3車線)を支えています。景観を重視したスマートなデザインです。

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新東名高速道路(上り線)は浜松SA方面へ向かって一直線に伸びています。

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浜松SAに近づきましたが、今回は通過します。駐車場の混雑を避けるためです。

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その代わりとして次の遠州森町PAに立ち寄りました。しかし、ここの駐車場もほぼ満車状態でした。唯一『混雑』と表示された一番奥のエリアで何とか空きスペースを見つけることができました

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西方が夕焼け空になりました。

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20分余りにわたって休憩と買い物をした後、おもむろに出発しました。ほどなく、路肩で電光式標識に『走行注意』と点灯する業務用車両(高速道路パトロールカー)が停まっているのが確認できました。この先に何かあるのでしょうか?

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筆者の懸念(けねん)は杞憂(きゆう)に終わりました。

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あっと言う間に日が暮れて暗くなりました。前方の電光表示板に混雑状況が表示されています。なお、夜間で照度不足のためこれ以降の写真(画面)がブレていることをご容赦(ようしゃ)ください。

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トンネルに入ります。この先にある2か所のPAに混雑はなさそうです。

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さらにトンネルが続きますが、前方に車が少ないことで一定速度で走行することができます。

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対向車線からの光が眩(まぶ)しい理由は何でしょうか?

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少しづつ車の数が増え始めたようです。とは言っても、路肩の案内標識は正常走行ができていることを示しています。

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第一走行車線に車が並び始めました。「新富士IC」から下道へ出る車でしょう。

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突然、雨が降り始めてフロントグラス(正式名称:フロント・ウインドシールド・ガラス)を濡らし始めました。ちょうど、左前方に「駿河湾沼津SA」が見え始めた頃です。なお、「駿河湾沼津SA」も「浜松SA」と同じ理由で通過します。

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先を走る車の速度が低下して、車間距離も短くなりました。

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ここは東名高速道路と交わる「御殿場JCT」です。戯言(ざれごと)ですが、『いつの日にか右車線に入りたい!』 ものです。しかし、早くても4-5年先でしょう。

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東名高速道路に入ったところで渋滞の最後尾に付(つ)きました

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案内標識版には、この先にある「足柄SA」と「鮎沢PA」の駐車場には空きがありますが、「中井PA」の駐車場はやや混雑していると表示されています。それよりも、この渋滞はどこまで続いているのでしょうか? なお、筆者は渋滞発生時に第1走行車線を走行することにしています。

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渋滞の理由は「足柄SA」に入る車の列が本線まで伸びていたことと、そのすぐ先で二輪車による小さな事故があったことによるものでした。

鮎沢PA」の手前で先を走る車の車速が上がって渋滞が解消し始めたようですから、追い越し車線へ移って走行しました。なお、案内標識には「御殿場IC」付近に加えて、「厚木IC-横浜町田IC間」で渋滞が発生していることが表示されています。

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高速道路パトロールカーの電光表示板には『右へ・・』 の表示があります。前方で事故が発生しているのでしょうか? 安全のため時速60㎞ほどで走行します。

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路肩に事故車が停まっているようでした。

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「圏央道」と交差する「海老名JCT」が近づきました。先ほどの表示情報から判断して、ノロノロ運転は「横浜町田IC」を過ぎるまで続いていそうです。

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やはり、「海老名JCT-横浜町田IC間」はずっと渋滞していましたが、これは交通集中によるいつもの自然渋滞でした。なお、「岡崎IC」を午後4時30分ころに入って「御殿場IC」(距離:201.9km)を午後7時15分ころに通過(所要時間2時間45分、通常は約2時間)、さらに2時間弱が経過した午後9時過ぎには自宅へ帰り着くことができました。ちなみに、御殿場ICから東名川崎ICまでの距離は76.1㎞(通常の所要時間は50分ほど)ですから、この日は自然渋滞のため2倍以上の時間が必要となりました。

2日間の楽しいドライブ旅でした!(終)

2024年10月 6日 (日)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その14) 岡崎市の岡崎城に初登城⑥

左手へ進んだところにある立派な建物は「巽閣(たつみかく)」です。展示館かと思いましたが、賃貸広間などがあるようです。

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意外なことに「アラモの碑」の説明看板がありました。『「アラモの戦い」と「三州長篠城の戦い」がよく似ていることに関心を持った地元出身の地理学者志賀重昂(しげたか)氏が大正3年(1914年)にサンアントニオ市アラモ砦史跡の一角に記念碑を建立されました。注釈:「三州長篠城の戦い」は天正3年5月(1575年7月9日)に、三河国長篠城を巡って、3万8千人の織田信長・徳川家康連合軍と、1万5千人の武田勝頼軍が戦った合戦、長篠・設楽ヶ原の戦いと記す場合がある。』

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遊歩道から見下ろす高い石垣と深い堀

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堀の中にある水草除(よ)けの噴水

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右奥の石垣

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遊歩道を進むと、お目当ての店「お休み処 いちかわ」がありました。午後3時40分と、予定よりかなり遅いランチです。

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店内には八丁味噌を使った土産物が並んでしました。

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店員さんから『食事メニューは終わりました』 との残念なお知らせが。そこで、気を取り直して他のメニューから選ぶことにしました。

同行者は見た目に派手な「井伊直正パフェ」(990円)です。

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この「パフェ」を見ていると兜(かぶと)の形に見えてきました。ちなみに、井伊直正(いいなおまさ)は徳川四天王のひとりで、後に彦根藩初代藩主になった武将です。岡崎市でも人気があるのでしょう。なお、岡崎市内には徳川四天王の像があるようです。

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筆者は八丁味噌が味わえる「木の芽田楽」(550円)。

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いずれも美味しく食べました。

店を出たところで、同行者が『この石は何?』 と訊(き)きます。『八丁味噌を造る時に使う重石(おもし)だよ』 と答えると、半分納得したようです。正確には八丁味噌を凝縮する時に使われる石積みです。

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もうひとつ気になったのが「家康くん?」。

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ダンボールで作られているようです。

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もう一度、遊歩道から水草で緑色になった幅の広い堀を眺(なが)めました。

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遊歩道を歩いて広場の横に出ました。先ほどよりも人出が増えたようです。

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ポニーが女の子二人を乗せて城郭内を闊歩(かっぽ)?しています。

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駐車場まで戻りました。しかし、出口へ続く車列の様子は1時間半前とあまり変わっていません。

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車をスタートして数分後には料金所(精算機)が近づきました。左から入る車は奥にある広場から来たようです。

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「岡崎城」は日本100名城の一つですが、天守閣は戦後にになって再建されたものです。筆者は展示物を楽しみましたが、天守閣はやや物足りないものでした。実は、筆者が「岡崎城」を訪れたかった理由は、15年前の「旧東海道53次を巡るドライブ旅」では岡崎城の北方500m~900mにある「二十七曲り」を辿(たど)ることに専念したため、家康が誕生した「岡崎城」に立ち寄れなかったためです。つまり、積年の思いがある城でした。(続く)

2024年10月 5日 (土)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その13) 岡崎市の岡崎城に初登城⑤

天守閣最上階(5階)の展望室から廻縁に出て外を見下ろしました。なお、隣の建物は「井戸櫓」(写真左)と「龍城神社」(同右)です。

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その先には「晨閣(たつみかく)」の建物と岡崎市の市街地が広がっています。注釈:難解な漢字である晨は早朝・夜明けを告げるを意味する

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カラー写真による案内パネル(東方向)

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別の方向を見るために廻縁を右手へ移動しました。

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南方向です。

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さらに西方向も

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最後は北方向です。

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何やら変な趣向があります。

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パイプを使って正確に大樹寺の場所(約3.5㎞の距離)を確認できる優れものです。超アナログな方法ですが・・。

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階段脇に何やら人の列ができています。ひょっとして、ここにも名城スタンプのコーナー?

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幅の狭い階段を下ります。

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「心礎(しんそ)」の説明パネルがありました。

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説明: この巨大な石は、かつての天守を支えた心柱の礎石(そいし)である。

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「用材」

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明治6年(1873年)の廃城令により取り壊された岡崎城の建物に使われていた柱材。3本ともケヤキ材。

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天守閣内の見学はここまでにして天守閣の外に出ました。

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(続く)

2024年10月 4日 (金)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その12) 岡崎市の岡崎城に初登城④

五万石を支えた岡崎城下町: 東海道や舟運により、交通の要衝(ようしょう)であった岡崎の城下町の賑(にぎ)わいを紹介しています。

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東海道二十七曲りと城下町十九か町: 田中吉政が岡崎城を総構えしたときに、東海道が城下に引き入れられた。慶長14年(1609年)、本田康重により総構えの北辺まで大きく廻され、東海道は「二十七曲り」と呼ばれる屈曲の多い道筋となった。

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岡崎城下町模型です。江戸時代後期の町並み(岡崎城の南東部)を再現。岡崎城総構えの東の入口 籠田(かごた)総門から大手門前の対面所辺りまでを示す。東海道の両側には町家が立ち並び、南側には侍屋敷が拡がる。町家の裏手には、城下町を囲む土類と総堀が巡る。

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伝馬町の町並み: 伝馬町は、慶長14年(1609年)本多康重(やすしげ)により東海道宿駅のまちとして新設された。通りの南側には旧榎町(えのきちょう、現裕金町)から、北側には八丁村(現八帖町)から住人が移り住んだ。

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八丁味噌製造道具: 上は蒸した大豆をつぶす「きね」、 下は味噌玉と塩水をこね合わせる道具の「てこぼう」

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神社の繁栄

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古写真に見る岡崎城 岡崎城天守の特徴

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混迷する岡崎城: 岡崎は矢作川の地の利により発展したが、次第に固定化した流路に土砂が堆積し、江戸時代後期には洪水が相次いだ。岡崎藩は、救米(すくいまい)などによる被災者救済や、決壊した堤防の修復に追われ、借財が膨らんでいった。

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これはアトラクションの「岡崎城シアター」です。

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床面と壁3面のスクリーンに投影された岡崎城総構えのマップを歩くと、江戸時代の城下町の映像が現れ、現在のまちと比較・体験できるようです。

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参加者が足で桜の花びらを踏むと黄色い煙が立ち昇るとともに大きなハートマークが現れました。

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岡崎城下町あんないじょ ー岡崎見どころマップー

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(続く)

2024年10月 3日 (木)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その11) 岡崎市の岡崎城に初登城③

岡崎城天守閣の前に出ました。三層のコンパクトな建物です。江戸時代には三層三階地下一階でしたが、現在(1959年再建)は三層五階になっているようです。なお、正面には入母屋破風(いりもやはふ)があり、最上部に連高欄(手すり)と廻縁(説明:建物まわりの縁、昔は無かった)が設けられています。そして、右側のベージュ色の建物の陰になって僅(わず)かだけ覗(のぞ)いている建物は井戸櫓(やぐら)。

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その右手には「岡崎東照宮 龍城(たつき)神社」があります。

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祭神は、徳川家康公、本多忠勝公、天神地祇、五穀英霊です。

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石段を上がって岡崎城の天守閣へ入ります。

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岡崎城の説明パネルには『15世紀中頃(室町時代)、西郷弾正(だんじょう)左衛門頼嗣(よりつぐ)が現在の岡崎城の位置にはじめて城を築き、のちに家康の祖父である松平清康が入城し本格的な岡崎城を構えた。1542年(天文11年)12月26日、徳川家康はここ岡崎城内で誕生した。』 とあります。

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パンフレット・ラック

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名城スタンプ・コーナー: 岡崎城は日本100名城 45

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休憩用の長いすの隣にはガチャガチャが

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正面奥にチケット売り場(発券所)がありました。

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チケット(大人300))を購入したあとは、階段で2階へ上がるのがルートのようです。

階段を上がり終えたところに岡崎城の歴史が説明されていました。まずは築城以前の状況として、室町将軍から領地を公認される総持寺領であった。岡崎城の南側を西流する菅生(すごう)川(乙川、おとかわ)は、室町幕府の命令で流れを南流から西流させる付け替え工事が行われた。これにより、矢上川から菅生や明大寺へ直接船が入れるようになった。(以下略)

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いよいよ築城です。西郷氏と清海堀: 岡崎城のはじまりは、永享年間(1429-41)に菅生川南岸の明大寺(みょうだいじ)付近に居館を構えた西郷弾正左衛門頼嗣による。享徳元年(1452)から康生元年(1455)にかけて、菅生川北岸の岡の先というに相応しい半島状段丘の先端にある龍頭山(りゅうとうざん、岡崎城本丸・二の丸)に、城館を構築したといわれる。(以下略)

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岡崎松平氏: 文明年間(1469-87)のはじめ、松平惣領家(そうりょうけ)の三代信光は地元の武士西郷頼嗣を追放し、五男光重を頼嗣の娘婿として西郷家を継がせた。これが光重を初代とする岡崎松平氏であり、光重ー親貞ー信定と続いたとされる。(以下略)

岡崎城の縮尺模型: この城郭模型は最後の岡崎藩主を勤めた本多家によって岡崎市に寄贈された。版籍奉還後の明治6~7年(1873-74)に取り壊される以前の岡崎城を知る人々の記憶や資料を基に作成されたものと伝わる。(以下略)

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水野時代・江戸時代中期: 総構え内の北辺に沿うように通る東海道二十七曲りに沿いに町家(茶色の着色部分)が並ぶ。
近世岡崎城の完成(内郭の整備): 大林寺曲輪堀(おおりんじくるわぼり)、菅生川端石垣の完成、天守の再建

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武士の備え: 徳川家康が開いた江戸時代も天下泰平の世となり、戦が行われなくなった。すると武士たちは日々武芸に励みながらも、武家の備えとしての甲冑や刀剣は実用の道具から武士階級のの象徴として重視された。(以下略)

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二の丸藩主御殿: 藩主の住居は、藩政実務の中心となる役所の機能もあり、城内でもっとも広い区画の二の丸に建てられていた。(以下略)

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岡崎藩の刀鍛冶: 岡崎城下町へは戦国時代末に田中吉政が新設した材木町に、美濃国関鍛冶(せきかじ)の刀工が移り住み、「兼有」名で代々作刀した。兼有のの小刀は岡崎宿の名産として広く知られた。(以下略)

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(続く)

2024年10月 2日 (水)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その10) 岡崎市の岡崎城に初登城②

徳川四天王の一人である本田忠勝公像がありました。鹿角脇立兜(かづのわきだてかぶと)と甲冑(かっちゅう)で身を固め、名槍蜻蛉切(めいそうとんぼきり)を携(たずさ)えています。姉川の戦い(注釈:織田・徳川連合軍が浅倉・浅井連合軍と戦った)、一言坂(ひとことざか)の戦い(注釈:徳川家康と武田信玄の戦い)、長篠(ながしの)の戦い(注釈:織田・徳川連合軍と武田勝頼の戦い)などで数々の武功を挙げた武将です。

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振り返って見た「本多忠勝公像」と「二の丸能楽堂」です。なお、それらの手前には藤棚と休憩所が。

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前方、木立の合間に天守閣が見えました。

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右手へ下る石畳の遊歩道を進みまました。

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標識によると、この先に「産湯の井戸」があるようです。後で調べましたが、「五万石ふじ」は城郭の南西部の乙川を望む場所にありました。花期は4月下旬から5月初めまでです。「えな塚は」後出。また、後方の「家康館」は先ほど通過した「ひょうたん屋」の裏手、国道1号線に近い場所にあります。

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畳の遊歩道はまだ続きます。

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堀端(ほりばた)に出ました。左手の石垣上に本丸と天守閣があるようです。

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「産湯(うぶゆ)の井戸」の説明パネルには、家康が生まれた時にこの井戸から産湯の水を汲(く)んだと伝えられると書かれています。

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井戸から水が出る仕掛けがありますが、『東照公産湯の井戸から汲み上げた水を浄水設備を通して触れられるようにしてある』 と説明されています。「産湯の井戸」はどこにあるのかが気に掛かります。

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左手には堀が続いています。

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マンホールの蓋(ふた)があります。お城と帆掛(ほか)け船をモチーフにしたデザインです。帆掛け船の帆には「五万石」の文字があるのは、江戸時代を通じて岡崎藩は石高(こくだか)が五万石と小藩並でしたが、家康の出身地であることから藩主は譜代大名並に扱われていたプライドを表しているのでしょう。なお、左下には平仮名で「おすい」とさりげなく表示しています。

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前方に大木があります。

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近くにある立て看板には、ふるさとの名木「岡崎公園の大くろまつ」と表示されています。

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先ほどの道標にあった「胞衣(えな)塚」の説明パネルです。これによると「胞衣塚」は子供の成長と出世を願う習わしとのこと。

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徳川家康の「胞衣塚」は石造りの立派なものです。

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本丸埋門(うずみもん)北袖(そで)石垣」は、本丸埋門から来た方向に伸びる石垣で、高さは10mを超える大規模なものであると説明されています。

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ゆるやかな坂道を上がると徐々に石垣が見えてきました。

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高い場所からは石垣をよく見ることができます。

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前方に見えてきたのは両側を石垣に囲まれた「本丸埋門」のようです。

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(続く)

2024年10月 1日 (火)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その9) 岡崎市の岡崎城に初登城①

投稿を再開します。

名古屋市守山区の「白鳥塚古墳」を出発して国道155号線を西進しました。ルートとしては少し戻る形になりますが、春日井ICから東名高速道路へ入るためです。

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東名高速道路のこの区間を走るのは久しぶりですが、道路の状況は特に変わったところはないようです。

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44.2㎞先の岡崎ICを出て、国道1号線(下り)で名古屋方面を目指しました。手入れが行き届かないのか、路肩の雑草が伸びて鬱蒼(うっそう)とした感があります。なお、前方に見えるのは県道26号線が立体交差する陸橋です。

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3㎞余り先の左手に岡崎城公園乗用車駐車場(150台)がありました。『岡崎公園 岡崎城・家康館 P』の標識にしたがって国道1号線から細い脇道に入ると、右手に料金所まで車の列が続いているのが見えます。

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駐車場内に入りましたが、空きスペースを探すのが大変です。なお、駐車場から出る車の列が中央に見えます。

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何とか駐車できました。お城と思われる方向へ歩くと、城郭の地図がありました。地図の右側で上下(東西)に伸びるのが国道1号線で、中央下にある「菅生曲輪(すごうくるわ)」がこの駐車場ですから、掘に囲まれた天守閣は西方向のようです。注釈:地図の向きが変則で西方向が上になっている

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直線的に続く遊歩道を歩きます。右手の広場では催しものがあるようです。なお、右手に見える白い塀と二層の櫓(やぐら)がある場所は「東曲輪(ひがしくるわ)」です。

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「菅生曲輪」の説明看板には、菅生緑地は本丸東側に位置し、下級武士の居住地であったと説明されています。

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広場にはテントが設置され、キッチンカー(食堂自動車)も何台か停まっているのが確認できます。また、中央奥には赤白の横断幕で飾られたものがあります。

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岡崎市の立て看板です。いろいろなポスターが貼られていますが、その意味が・・。看板下部の地図によれば多目的広場と表示されています。

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多目的広場を振り返って見ると、中央にあるのは間違いなく盆踊りのやぐらでした。

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直進する道には店舗が並んでいますが、筆者は右手に続く階段が気になります。「東曲輪」を経由して本丸と天守閣へ続くと思い(勘違いして)、この階段を上がることにしたのです。

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二の丸」(左手)に出ました。右手にある「東曲輪」との間にある塀に沿う遊歩道を歩きながら悪い予感がしてきました。このままでは「東曲輪」に沿って城外へ出てしまいそうなのです。

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突然現れたこの建物は大手門のようです。

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門は開いていますから、出入りは自由です。

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「岡崎城総構え案内」の地図がありました。しかし、地図を確認すると、この場所は七間門(しちけんもん)付近であり、大手門は浄瑠璃(じょうるり)曲輪とともに左下に小さく示されています。注釈:この地図はなぜか上下(南北)が逆さま

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門を潜(くぐ)って外へ出ました。なお、次の写真は振り返って撮影したものです。

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左手の生垣の中に「岡崎城大手門」の案内が彫られている大きな石を見つけました。

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写真では読みにくいと思いますので、次に説明文を引用します。

岡崎城大手門

この大手門は、岡崎公園の表玄関にふさわしい建物として建築したものです。
本来の岡崎城大手門は、現在の浄瑠璃寺の南(北東約200m)にありました。
江戸時代の記録によれば大手門は「桁行十間、梁行二間四尺)でした。


近代になって、岡崎城の城郭北側を横断する形で国道1号線が建設されたため、元の大手門が城郭から切り離されたのです。なお、ここで分かったことがもうひとつありました。東曲輪にはバス優先駐車場(身障者の小型車も駐車可)があることです。

大手門についての経緯(いきさつ)を知ったところで、元来た道を引き返すことにしました。そして、やっと気づいたのは「二の丸」には集合写真を撮る場所と土産店「おかざき屋」があることです。また、左奥にある建物は「二の丸能楽堂」と思われます。

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(続く)

2024年9月26日 (木)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その8) 名古屋市守山区の白鳥塚古墳(後編)

急な下り階段について注意を促(うなが)す警告パネルがあります。

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上から見下ろす階段は上がる時以上に急峻(きゅうしゅん)に見えます。

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階段を下り切ったところに右手へ伸びる小径があります。これが順路でしょう。

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「アオハダ(青膚)」の樹木表示パネルとは聞きなれない名前です。その説明によると、雄の木と雌の木がある落葉高木とのこと。樹皮の内皮が緑色で、昔は緑のことを青といったことが名前の由来でした。

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見上げると、かなりの高木です。

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「アラカシ(粗樫)」は聞きなれた名前です。常緑高木。ドングリはアク抜きをしてから食べることができ、縄文時代の貯蔵穴から見つかることがあるそうです。

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「アズキナシ(小豆梨)」は初耳です。落葉高木。赤くじゅくした実は食べることができるとのこと。別名ハカリノメと呼ばれることがあるそうです。

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左手には低地が続いています。

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回り込んだ前方に説明パネルがあるようです。

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「白鳥塚古墳の渡土手(わたりどて)」について説明されています。

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[説明文]後円部の西側には「渡土手」とよばれる土手状の高まりがあります。幅は約9mで、斜面には葺石(ふきいし)が積まれていました。古墳の外から墳丘へ渡るための通路(陸橋)であったと考えられます。

ここで、筆者は急に気が変わってルートを変更することにしました。この先に「白鳥塚古墳」の葺石(ふきいし)があるはずですが、「手鏡型前方後円墳」と呼ばれる理由となったやや小さく細い前方部の様子を見たくなったのです。人が歩いてできた小径が左手へ伸びていますから、それに従って進むことにします。

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少し開けた場所に出ました。前方部先端が角が丸みを帯びているそうですが、この場所からはその形状を見定められません。

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左手方向には木々の間を通して低地の草原を見ることができます。

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奥まった場所(全方部の前縁、南西方向に向いている)に何か白いものを見つけました。

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白い茸(きのこ)でした。

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茸図鑑で調べると、食用の「オオイチョウタケ」あるいは「タマウラベニタケ」のようです。もしかしたら、猛毒のある「ドクツルタケ」かも知れません。野生に生えるキノコには近づかないことが筆者のルールです。

「白鳥塚古墳」の見学はここまでにして、駐車場へ戻ることにしました。前方部側にある階段はかなり緩(ゆる)やかです。

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元来た道に合流して入口へ向かいます。

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表の道路に出ました。駐車場は左手方向です。なお、今回見学しなかった葺石(ふきいし)については名古屋市の関連サイトを、そして「白鳥塚古墳」の航空写真はこちらを参照してください。

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歩道に消火栓とマンホールの蓋(ふた)を見つけました。消火栓には城と鯱(しゃちほこ)が、マンホールにはアメンボ(平成9年以降)がデザインされています。

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「白鳥塚古墳」の中を夢中になって散策していましたが、もう午後1時40分を過ぎていることに気付きました。古墳巡りのリストにはまだ候補が残っていますが、同行者のご機嫌が悪くなる前にその計画を打ち止めにして、同行者も気に入ると考えられる目的地へ向かうことにしました。

唐突(とうとつ)ですが、ここでブログ記事の投稿を小休止します。(続く)

2024年9月25日 (水)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その7) 名古屋市守山区の白鳥塚古墳(前編)

県道176号線に戻ってさらに東進しました。若宮交差点で県道177号線に名称が変わり、薬師前交差点のすぐ先にある信号のない三叉路を右に進んで県道195号線に入ると、ほどなく小牧市に入りました。篠岡小学校南交差点を通過する際、前方に電波塔のようなものが・・。

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次の桃花台センター交差点近くの高台に建っているようです。右側には水道タンクのような施設(茶色のキノコ型とベージュ色の円筒形)も確認できました。

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後で調べると、高台にあるのは桃花台(とうかだい)中央公園でした。芝生広場、噴水、長いローラー滑り台、アスレチックなどが充実している小牧市の施設とのこと。なお、筆者が気付いたタワーは1986年に運用を開始したテレビ放送(アナログ放送)用中継所でした。2011年7月にアナログ放送が終了した後は、携帯電話の基地局として活用されているそうですが、鉄塔を撤去するかどうかはまだ決まっていないそうです。

中央高速道路の下を潜り、大草東交差点で県道199号線に合流し、高蔵寺北交差点で国道155号線に合流、新東谷交差点を左折した県道255号の高蔵寺駅南交差点を右折して東谷橋(とうごくばし)で庄内川を渡り名古屋市守山区へ入ると、次の目的地である国指定史跡「白鳥塚(しらとりづか)古墳」に到着です。

このように表現する(長い一筆書き風)と目が回りそうですが、次の目的地である「白鳥塚古墳」をカーナビがヒットしてくれましたから、その指示通りに走っただけなのです。なお、走行距離は15㎞強、所要時間は約45分。

「白鳥塚古墳」にはきれいな駐車場(4-5台)とトイレの施設が道路の反対側に完備されていました。

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白鳥塚古墳」とその周辺の案内地図には庄内川の南岸(左岸)の東部に拡がる丘陵地帯と右上から左下へ伸びる河川段丘の等高線(参照:案内地図の右下にある小さな図)が伸びる様子が描かれ、その中位段丘に「白鳥塚古墳」があることが示されています。

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拡大した地図で確認すると「白鳥塚古墳」以外にも多数の古墳が存在することと、大きな池がいくつも表示されています。

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道路を横断して「白鳥塚古墳」へ向かう途中にこの立て看板を見つけました。

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説明文は読み取れると思います。

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入口は近いようです。

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右手を見ると一面の草原があります。

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縦格子フェンスに両側を挟(はさ)まれたところが「白鳥塚古墳」の入口のようです。駐車場から100m余りの距離でした。

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門の中には車止めがあります。

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右前方にある「史跡 白鳥塚古墳」と彫られた石柱

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その右手には「国指定史跡 志段味(しだみ)古墳群 白鳥塚古墳」の説明パネルがありました。

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説明文は以下の通りです。

志段味(しだみ)古墳群は、濃尾(のうび)平野の東端に位置し、4世紀前半から7世紀末(古墳時代前期から終末期)に造られた総数約70基の古墳から構成されます。
白鳥塚古墳は、4世紀前半(古墳時代前期半ば)に築かれた愛知県で最も古い前方後円墳です。墳丘の長さは約115mで、県内で3番目の大きさです。古墳の周りには濠(ほり)がめぐり、後円部北側には渡土手(わたりどて、陸橋)が設けられていました。
埴輪(はにわ)が見つかっていないことから、この地域には埴輪を並べる文化が伝わる以前に造られた古墳であると考えられます。
渡土手があることや、墳丘が白色の石(石英)で飾られることなど、白鳥塚古墳と奈良県の大型前方後円墳には共通点が認められることから、白鳥塚古墳の被葬者(ひそうしゃ)はヤマト王権と強い結びつきがあった人物と推定されます。

説明パネルの右側にある地図には白鳥塚古墳を巡るルートが表示されていますので、これに従うことにしました。

後円部へ向かう直線的な道は、一旦急な階段を下り、その上で階段を上がるように続いています。

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上り階段の手前に「白鳥塚古墳の名前の由来」を説明するパネルがありました。葺石(ふきいし)として使われた石英の白さと、伊吹山で傷をおったヤマトタケル(日本武尊)を尾張まで運んだ白鳥の墓であるとする伝説によると説明されています。

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急な階段を上がります。

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階段の後に続く砂利道を上がると後円部の頂部が近づきました。

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頂部には小石を敷き詰められた円形状のものがあります。

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右手にある説明パネルには「白鳥塚古墳の埋葬施設」について説明されています。

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説明文は以下の通りです。

昭和初めに後円部墳頂中央部の発掘が行われましたが、埋葬施設や福装品は見つかりませんでした。これまで後円部墳頂の学術的な発掘調査は行われていません。
2006(平成18)年に実施された物理探査(レーダ探査・電気探査)では、南北方向を主軸とする二つの埋葬施設が東西に並んで存在する可能性が指摘されています。
なお、後円部墳頂の平坦部には、石英の小礫(しょうれき)が敷き詰められていたと考えられます。

指定されたコースに従って次へ進みます。(続く)

2024年9月24日 (火)

岐阜県と愛知県の史跡を巡るドライブ旅(その6) 犬山市青塚の青塚古墳

国道21号線をさらに東進した鵜沼I.C交差点で県道207号線に入りました。さらに、鵜沼東町交差点を右折して県道27号線に入り、木曽川を渡って愛知県犬山市に入りました。犬山橋の上から右手方向に国宝犬山城を遠望することができます。

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4㎞ほど南下した五郎丸交差点(立体交差)で国道41号線(名濃バイパス)へと右折して犬山市青塚(あおつか)にある「青塚古墳」へ向かいました。片側3車線の走りやすい道路です。なお、国道41号線は名古屋市と富山市を結ぶ主要道路で、途中に岐阜県の下呂市と高山市を経由します。

5㎞余り走った新宮2丁目交差点を左折して県道176号線に入り、1㎞ほど西進して右手にある「青塚古墳史跡公園」の駐車場(20台)に車を停めました。とは言っても、カーナビに次の目的地を入力せずヤマ勘で走っていたため、少し行き過ぎてから引き返しましたが・・。

「青塚古墳」に沿って水が滔々(とうとう)と流れる農業用水沿いの道を歩き、200mほど先の十字路を右手に折れました。右手の角には「青塚古墳」と関係がありそうな建物があります。

初秋であり田んぼでは稲穂が実りつつあります。給水路(次の写真の右側)から田んぼへ間欠的に水を供給して水を張ることで稲の成長を促(うなが)しているのでしょう。そして、稲刈りの1-2週間前には最後の落水を行うのです。筆者の生半可な知識ですが・・。

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右手にある建物を過ぎると、生垣越しに国指定史跡の「青塚古墳」の全景が姿を現しました。

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さらに進んで敷地の奥に門のない入口を見つけました。敷地内左手には簡単な休憩施設(東屋とベンチ)があります。

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右手には三角屋根の立派な建物があります。これは先ほどすぐ脇を通過した建物です。

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古墳に近づいてみました。

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前方部の角に『古墳(墳丘)には登らないでください。』と書かれた看板が下がっています。

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前方部のもう一つの角には住宅が迫っているため、敷石と2m間隔で配置される壺型埴輪の列が途切れています。とは言っても、歩いて通過するには支障がなさそうです。

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前方部の反対側に出ました。ここから見ても後円部の高さが目立ちます。

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左手には蒲(がま)が植えられた水田があります。よく見ると穂が実っています。古代の雰囲気を演出するための環境でしょう。蒲の穂は切り傷に薬効があるそうで、古事記に記されている因幡(いなば)の白兎(しろうさぎ)と大国主の伝説に重要な役回りで登場します。なお、蒲の穂は、薬用としてだけではなく、地下茎とともに食用としても利用できるそうです。

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さらに進むと、前方部と後円部の境目(くびれ部)付近に差し掛かりました。

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ここにも先ほどと同じ看板があります。

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蒲の水田を過ぎると左手に折れる道がありましたので、興味を持ってそちらへ進んでみました。次の写真は左手に見える蒲の水田方面を写したものです。

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次の写真は振り返って後円部を写したものです。

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道の反対側には説明看板がありました。

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説明文は以下の通りです。

青塚古墳について

青塚古墳は、愛知県で2番目に大きい規模をもつ前方後円墳です。別名「王塚」、「茶臼山」と呼ばれています。この古墳は、犬山市から南方6㎞、標高31mの台地の端に築かれ、古墳の西側には木曽川によって形成された平野が広がります。

青塚古墳の形状は、前方部・後円部共に低い基壇(きだん)の上に築かれており、前方部2段・後円部3段の築成であります。また、各段のテラス(平坦面)には壺型埴輪(はにわ)が並べられています。前方部の墳頂には低い壇があり、この壇を囲むように円筒埴輪・鰭(ひれ)付朝顔型埴輪などが並べられています。

青塚古墳の周りは、自然の地形を利用した空堀の周濠(しゅうごう)があり、この周濠からは古墳東側のくびれ部より外に向かって延びる陸橋があります。注釈:陸橋は敷地東南にある建物方向へ

古墳の築かれた時期は、出土した埴輪などから4世紀中頃の古墳時代前期に造られたものと思われます。

前方後円墳(4世紀中頃) 国史跡指定(1983年2月8日)
保存整備事業(1996年度~1999年度)

全長       123m        くびれ部高    5.5m
後円部径       78m        前方部長      45m
後円部高     12m        前方部幅      62m
くびれ部幅    43m        前方部高      7m

事業者 犬山市


さらに進むと道路に出ました。ここが「青塚古墳史跡公園」の正面口であることが分かります。次の写真は駐車場から続く道です。

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後円部の周回ルートに戻りました。長い草が生い茂っているためはっきりしませんが、三段構造になっているようにも見えます。

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広場側へ出ました。正面に先ほどの建物があります。

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前方部が少し見えてきました。

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ここで、建物の方へ向かうことにしました。

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花壇の縁に見えた説明看板です。先ほどの説明看板とは異なりカラフルです。周郷を取り囲む外提部に烏(からす)塚古墳耳塚古墳(消失)が表示されています。

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説明文は以下の通りです。

国指定史跡 青塚古墳  墳長 123m  墳形 前方後円墳  時期 4世紀中頃(古墳時代前期)

青塚古墳は4世紀中頃(古墳時代前期)に造られた愛知県で2番目に大きい前方後円墳です。標高31mの台地の端にあり、古墳の西側には平野が広がります。古墳は、低い基壇(きだん)の上に後円部が3段、前方部が2段に築かれています。段ごとの平坦部には、赤く塗られた壺形埴輪が並び、前方部の頂上には、方形壇((注釈:羽柴秀吉と織田信夫・徳川家康の戦)を囲んで円筒埴輪、朝顔形埴輪が並んでいました。また、古墳全体は大量の河原石で覆(おお)われていました。古墳の周りには周濠(堀)と外提が巡(めぐ)り、周濠(しゅうごう)を横切って古墳に向かう通路(陸橋部)がありました。
1584(天正12)年の小牧長久手の戦い(注釈:羽柴秀吉が織田信雄・徳川家康と戦った)の際には、秀吉の砦(とりで)として利用されたとも伝えられます。


蛇足ですが、青塚古墳周辺に存在する烏塚古墳(注釈:青塚古墳の南西隣り)、花塚1号墳、2号墳、3号墳(注釈:青塚古墳の南西部)、尾張地区最古とされる東之宮古墳など多くの古墳が発見されているそうです。

立派な建物はガイダンス施設の「まほろ館」でした。
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開館中の標札が出ていますが、時間を確認すると午前12時40分を過ぎていました。スケジュールがかなり押していますから、先を急ぐことにします。(続く)

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