旅行・地域

2020年6月25日 (木)

ブラタモリ「福井・一乗谷」を観る

6月20日にNHK総合テレビで放送されたブラタモリ「福井・一乗谷~アンコール~」を観ました。2019年22日)に放送された番組のアンコール放送です。

NHKの関連hpには、『旅のお題「福井のルーツは消えた都市にあり!?」を探る恐竜が出迎える福井駅から鉄道で一乗谷へ!大河ドラマ「麒麟がくる」でユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景、その繁栄の痕跡を訪ねるトイレの跡から見つかった日本初の〇〇〇〇〇とは!?当時の一乗谷を復元したエリアをタモリさんが歩く一乗谷で生まれた知恵が残る福井市内へ』 とあります。

以下は2度目となるこの番組を観ながら書いた概要です。

福井駅の駅前広場にある動く恐竜像を観ながらタモリさんはアシスタントの林田理沙アナウンサーを相手に掛け合い漫才をしているところへ「今回のお題」が届きました。「福井のルーツは“消えた都市”にあり!?」でした。博識のタモリさんは「滅ぼされた朝倉氏と一乗谷」に言及。タモリさんと林田アナは考古学の専門家と福井駅から越美北線(通称:九頭竜線)の電車に乗って15 分、5番目の「一乗谷駅」へ向かいました。

タモリさん一行は越美北線に平行して流れる足羽川沿いにある県道31号を東へ約500m歩いた丁字路で南へ伸びる県道18号に外れて「一乗谷」に入り、その約200m先で大きな土塁(どるい、高さ4m/長さ38m)と鉦折(かねおれ)状の巨大な石積み「虎口(こぐち)石垣」を見つけました。「一乗谷朝倉氏遺跡」の城戸(門)、つまり防御用の施設「下城戸跡」です。かつては1万人が暮らした街の南北に2か所あった「天然の要害」のひとつです。先へ進むと住居(町屋)跡「平面復原地区」が広がり、それぞれの区画には井戸と廁(かわや)跡が復元されていました。一際大きな区画は医師の屋敷跡とのこと。

信長に攻め滅ぼされたあと「一乗谷」に住んでいた人々は広い平野部へ移動し、「一乗谷」は土で埋められて田畑になったそうです。そのため、極めて保存状態の良い屋敷跡が50年ほど前に発見されたことを専門家から聞かされました。大きな武家屋敷が並んでいたエリア「復原町並」の先にはなぜか商家が混在していました。商業活動(経済)が発展して商人が重視されるようになったからなのです。「一乗谷」の中心部に再現された唐門が見事な「一乗谷朝倉氏遺跡(朝倉義景館跡)」では、遺跡で発見されたさまざまな遺物を見学します。

福井市の中心部(福井駅の北)にある福井城へ戻ったタモリさん一行は白い瓦で葺(ふ)いた城門を間近くから観察します。瓦と思われたものは、焼き物ではなく、「笏谷石(しゃくだにいし)」を削って作られていたのです。この笏谷石は火山岩や火山灰などが堆積して凝縮した凝灰岩(ぎょうかいがん)で、福井市で多く産出され、全国へ送られた名産品だったのです。福井市の西部「足羽山」の麓へ移動したタモリさん一行は料亭になっている石切場跡も見学しました。昔は足羽川がその石切場の近くを流れていたことで、船を利用して笏谷石を全国へ積み出すことが容易であったことも知りました。

次いでタモリさんが向かったのは商店街。江戸時代に大きな商家が立ち並んでいた場所です。「一乗町」の地名がある理由は「一乗谷」にいた商人たちがそこに移り住んだことによります。江戸時代の古地図にある組頭で御用商人の「国島家」を訪ねてご主人から昔話を聞き、朝倉家の家紋がある留袖(とめそで)を見せてもらいました。タモリさんは「一乗谷」から福井市の町へと歴史が続いていることをしっかりと確認したところで番組が終わりました。

〈筆者コメント〉 4年前(20168月)ですが、「続々・奥の細道紀行」の途中、永平寺に続いて福井市の城を訪れていますが、時間の制約で「一乗谷」には立ち寄っていません。機会があれは近いうちに「一乗谷」を訪れたいと思います。ちなみに、福井市文化遺産hpには「一乗谷」について詳しく解説してあります。

2020年6月21日 (日)

ブラタモリ「釧路湿原~アンコール~」を観る

2020年66日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組を観ました。2019720日に放送された番組のアンコール放送です。なお、事前に読んだNHKの関連hpには次のように紹介されています。

『野生のタンチョウ・エゾシカに興奮!「世界に誇る釧路湿原のスゴさとは?」貴重な大自然が4000年保たれる秘密をタモリさんがズブズブ歩いて解き明かすアンコール放送』

『北海道の東部、普段は入ることが出来ない湿原の中心部へ! ラムサール条約にも登録され世界的にも認められた湿原のスゴさを探る▽釧路本線の車窓から絶景を楽しむ!▽手こぎカヌーで蛇行する川を体感!▽湿原が森林化せず原始の姿を保っている謎。そのカギは「泥炭」にあり!?▽名曲「霧の摩周湖」誕生も釧路湿原のおかげ!?』

タモリさんは、アシスタントの林田理沙アナウンサーと一緒に、北海道の森の中を歩いています。やがて景色が開けてタモリさんは釧路湿原の細岡展望台に立ちました。見渡す限りの絶景が広がっています。北海道の東部に広がる日本最大の湿原(広さ227平方キロメートル)は山手線がすっぽり入る大きさです。有名な尾瀬の約30倍の広さ、日本の湿地の約3割を占め、ラムサール条約に日本で最初に登録され、世界的にも評価の高い場所と紹介されました。ブラタモリの今回のテーマは『世界に誇る釧路湿原のすごさとは?』 です。

釧路湿原はもとは海でしたが、6千年前から海が後退して西側の海岸に砂丘ができ、次いで湿原ができました。通常、湿原はなくなってしまうことが多いのですが、『なぜ釧路湿原はその姿を維持できているのでしょうか?』 の問への答えをタモリさんは探して釧網(せんもう)本線の釧路湿原駅に向かったタモリさんは駅周辺に多数ある湧き水が線路の下をくぐって低い湿原に流れて行くのを見ました。

タモリさんは釧網本線の車窓から釧路湿原の絶景を楽しみながら湿原の北にある茅沼駅で降ります。手こぎカヌーに乗ったタモリさんと林田アナは川の流れを体感しようと試みますが川には高低差がほとんどないことが分かります。タモリさんは水の流れがない川は蛇行を繰り返して蛇行する性質があると説明します。

タモリさんはカヌーを降りて湿原に入りました。川の蛇行部分では、水かさが増すと一面水浸しになり、土砂が溜まって湿原ができることを確認しました。湿原は時間が経(た)てば陸地化し、さらには森林化するのが普通ですが、釧路湿原は森林化しないのです。

タンチョウ(丹頂鶴)を見学したタモリさんは許可を得て湿原の中心地に入りました。タモリさん一行が湿原の小川の岸辺でジャンプすると、小川に気泡が現れました。植物の根や葉が分解されずに残って泥炭(でいたん)になっていたのです。この柔らかい泥炭は、10年で1cm堆積し、4000年が経過した現在は4mもの厚さに達しているそうです。樹木が育たないこの泥炭の存在が森林化を防ぐカギだったのです。謎の深い水たまりに林田アナウンサーが入って内部を確認するとゼリーのような感触があることが分かりました。あちこちにある水溜まりは川の跡だったのです。

釧路湿原の西側では砂丘が陸に入り込んだことで内陸方向への流れが生じ、湿原の東方で内陸から海の方向へ流れた水があり、両者で釧路湿原内に水のループができていたのです。これに加えて水に削られやすい泥炭で川の流れが変わりやすいため、でき始めた森林はすぐに湿原に戻ってしまうのです。

釧路湿原には年間に100日以上、霧が発生するそうです。釧路沖で、暖流(黒潮)と寒流(親潮)がぶつかることが原因とのこと。霧で覆(おお)われるため釧路湿原は気温が低く(説明:夏でも20度を超えることは滅多にない)、天然の冷蔵庫だったのです。名曲「霧の摩周湖」の誕生も、釧路湿原の存在抜きには語れません。摩周湖の第一展望台からタモリさんが約80km離れた釧路湿原を遥かに望みながら感動したと話したところで番組は終わりました。

〈筆者コメント> 大学1年(1964年)の夏休みに友人と二人で北海道一周旅行をしました。家庭教師のアルバイトで何とか賄(まかな)った周遊きっぷ(説明:道内での乗り降りが自由な均一周遊乗車券)を持ち、横長のリュックサックとテントを背負う「蟹(かに)族のゲルピン旅」でした。(注釈:ゲルピンとはお金(ドイツ語でゲルト)がピンチ、つまり金欠状態のこと)

上野駅発の夜行列車(蒸気機関車が牽引)と青函連絡船を利用して入った北海道の函館から反時計回りのルートで北海道をほぼ一周する旅でした。函館本線と室蘭本線で洞爺湖(昭和新山)と登別に立ち寄り、根室本線で十勝平野を横断して、釧網本線で釧路湿原を通過した(説明:車窓から眺めた)あと、摩周駅で下車。路線バスを利用して摩周湖に立ち寄りました。ロシアのバイカル湖に次いで世界で2番目に透明度が高い湖です。タモリさんが番組内で言及した布施明さんの「霧の摩周湖」がヒットする2年前のことでした。

下の写真は左端に写る「カムイシュ島」と右端の「摩周岳(カムイヌプリ)」(説明:摩周湖外輪山の最高峰)の位置関係から考えて「摩周第一展望台」で撮影したもののようです。ちなみに、アイヌ語で「カムイ」は神様を、「シュ」は老婆を、「ヌプリ」は山を意味するそうです。

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56年前の北海道旅行では摩周湖が利尻山(別名:利尻富士)と並んで最も印象深い場所でした。ちなみに、摩周湖の隣にある屈斜路湖(くっしゃろこ、川湯温泉)に立ち寄ったあと、知床(しれとこ)半島のウトロ・旭川・稚内(わっかない)・利尻島・礼文島・札幌・小樽などを経由して函館に戻る約3週間の長旅になりました。また、2005年10月のブログ記事では2002年9月の北海道旅行に基づいて北海道の温泉を紹介しています。◇

2020年6月17日 (水)

NHK「日台共同制作ドラマ 路(ルウ)」を観る

NHK総合テレビで516日から毎週土曜日の午後9時から3回に亘(わた)って放送された土曜ドラマ「路~台湾エクスプレス~」を観ました。5年半前に台湾を旅行した時に乗車する機会があったことで興味を持ったのです。日本と台湾を舞台に台湾高速鉄路(台湾新幹線)開通までの8年間を巡る日台の人々の絆(きずな)と人生の物語を描いた吉田修一氏の同名小説(2012年刊行)をテレビドラマ化したものです。ただし、ストーリーの細部に変更された点がいくつもあるようです。

ここでプチ蘊蓄(うんちく)です。漢字の「路」(ろ)は中国語でルウと発音し、地上・水上・航空の道(道路・水路・空路)などを意味します。ちなみに、日本の古都である奈良(平城京)や京都(平安京)では中国風に命名された道路名「〜大路(おおじ)」と「〜小路(こうじ)」が今も残っています。なお、現代の日本において道路は「〜道」と呼ばれることが多いのですが、元々「道」は地域(広域行政区画)を指す言葉(例、東山道や山陽道に代表される五畿七道の七道)であり、現在は「北海道」にその呼び方が使われています。

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さて、ドラマを観ながら書いたあらすじです。

1999年の仕事納めの日、東京の大手商社大井物産(注釈:三井物産がモデルと思われる)の社内が大歓声に湧(わ)きました。台湾新幹線(正式名称:台湾高速鉄路)の車両システムについての優先交渉権を日本の新幹線株式会社(注釈:メーカーと商社が設立した会社)が大逆転で獲得したのです。そして、入社4年目の商社社員・多田春香(配役:波瑠)はプロジェクトの一員として商社が台湾の台北に設立した子会社(台北)へ出向することが決まりました。

その春香には、大学2年生であったの夏に初めて台湾を訪れた折、淡(あわ)い思い出があったのです。エリック(配役:アーロン)という名の台湾人青年と偶然出会い、たった一日だけ台北市内を案内してもらったものの、その後は連絡が取れなくなってしまい、自分の思いを封印することにしたのです。

そして6年後の2000年、二度と台湾へ行かないと心に決めていた春香は台湾新幹線建設チームの一員として、再びその地(台北市)を踏むことになりました。赴任(ふにん)する直前、春香は交際中であった名古屋のホテルマン男性から結婚を申し込まれています。

勤務初日に春香は上司の山尾一(配役:寺脇康文)に連れられて台湾高速鉄路の本社を訪れて、技術担当副社長のジャック・バルト(欧米人)や運行担当副社長代理のレスター・王(わん)などの幹部と面談しますが、冒頭から台湾側の考え方(台湾オリジナルを追求)と日本側の認識(新幹線方式に固執)が大きく異なっていることを知ります。

歓迎会の二次会で訪れたバーで不躾(ぶしつけ)な態度をとる同僚男性の安西誠(配役:井浦新)の存在がありました。そして6年前に立ち寄った食堂を春香は久しぶりに訪れます。ここで場面が東京に急展開。建設会社主催の講演会「昭和のインフラ整備」で聞いた葉山勝一郎(配役:高橋長英)の話に感動した大日本設計(業界大手)に勤務する劉人豪(リョウレンハオ、配役:炎亞綸)は講演を終えた葉山に声を掛けました。劉(りゅう)が台湾出身であることを知った葉山は資料が見たいという劉を自宅へ招待します。

次いで舞台は台湾南部の高雄(かおしん)市に移りました。台北市まで90分で行ける台湾新幹線を話題にする八百屋夫婦のシーンに続いて、その息子と幼馴染(おさななじみ)の女性が登場して「高鉄機廠預定地」(和訳:新幹線整備工場の工事現場)を紹介します。

2001年に正式契約が締結されたものの、技術的な詳細についての議論が続いていました。台湾側と日本側がそれぞれ持つ車両のイメージが異なっているのです。春香は台湾人の女友達に、問わず語りに、思い出の台湾男性のことを話しました。出会いから台北市の各地を案内してくれたこと、帰国日にはホテルまで来て電話番号を教えてくれたことも。日本では劉が葉山に気に入られ、入院中であった葉山の妻から葉山夫婦が台湾生まれであることを聞かされます。病院を出た葉山は劉に台湾人の学友に言った酷(ひど)い言葉についての苦い思い出を話すのです。

台湾高鉄側はレールをヨーロッパ規格から日本のJIS規格へ変更することを決断しました。しかし、安西の頑(かたく)な態度に台湾側との間に不穏な雰囲気が漂います。これを心配した王は春香を食事に誘い、台湾独自(オリジナル)の高速鉄道を創りたいという自分の気持ちを春香に語りかけた。

年末に帰国した春香は神戸の実家に戻る途中、名古屋に立ち寄りました。プロポーズしてくれた男性に会うためです。その男性に問われて春香は台湾での古い思い出を正直に話しました。台北市に戻った春香は女友達(現地採用の同僚)からエリックの消息が分かったことを知らされます。そして、エリックからメールが届きました。一方、エリックは葉山から彼の妻が急死したことを知らされます。

春香はエリックと8年振りに台北市で会うことになりました。待ち合わせの場所で待つエリックを遠くから見た瞬間、8年前の自分の思いが恋であったことに春香が気づいたところで「第一回」が終わります。

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「第二回」は春香とエリックの再会シーンで始まりました。8年前と同じ食堂で再会を喜ぶ二人。『これからも連絡をして良い?』 と尋(たず)ねるエリックに、春香は『もちろん。友達でしょ!』 と反射的に心の想いとは違う言葉を発してしまいました。仕事においても台湾高鉄とは運転士の訓練についても意見が対立していました。日本(JR)の協力を得て訓練を日本で行いたいと言う日本側の提案に台湾高鉄幹部のバルトが難色を示したのです。しかし、王が進言したことでバルトは日本での訓練を受け入れました。

誘われた食事の席で王から彼の真意を聞きながら春香は王が自分に好意を持っていることを感じます。運転士の訓練開始に合わせて帰国した春香はエリックとともに葉山宅を訪れました。エリックと春香は何か蟠(わだかま)りを持っている葉山を、彼の妻の願いにしたがって、台湾へ誘いました。神戸の実家へ行く途中、春香が名古屋に立ち寄ると、交際中の男性は婚約指輪を準備していました。心の準備ができていなかった春香はそれを受け取る時になぜかエリックのことを考えていました。

葉山がエリックと一緒に台北の空港に到着。春香以外にも出迎えた人がいました。葉山の同級生だった中野赳夫こと呂燿宗(配役:楊烈)です。二人は葉山が昔(戦前に)住んでいた思い出の場所を一緒に歩きました。そして、葉山は60年前に発した差別的な言葉について中野に深く詫(わ)びます。一方、美香とエリックは互いの生まれ故郷(神戸と台中)がそれぞれ大地震に襲われた時、二人はそれぞれ相手の街を訪ねて安否を確認しようとしたことを知ります。そして、エリックは付き合いたいと美香に言いますが、婚約者がいる春香はエリックの申し出を受け入れることができません。

そんな折、春香は台湾の東海岸にある花蓮(ファーリェン/かれん)を訪れました。エリックの所在を探し出してくれた女友達の故郷です。そこで少数民族(高山族)のお祭りを楽しんだ美香はエリックと分かれたことをその女友達に伝えます。私的にも慌(あわ)ただしい美香でしたが、新幹線の車両が高雄市に運び込まれる日がやってきました。高雄港に陸揚げされた車両はブラスバンドに先導されたトレーラーで市内へと運ばれる様子を大勢の市民たちが歓喜して見つめるシーンで第二回が終わりました。

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「第三回」(最終回)の冒頭、王からの電話で王が台湾高鉄を辞職したことを聞かされた春香は台湾高鉄の本社へ向かいました。副社長との対立が原因であることを察した春香の感情的な発言を王は途中で遮(さえぎ)ります。春香まで副社長と対立させたくなかったのです。その後、春香は王から『台湾の誇りになる新幹線を作ってほしい』 と言われます。

開業を1年後に控えた2005年、高雄(カオシン)県燕巣(エンチャオ)から台中駅の北までの約60km区間で走行試験が始まりました。最初は時速30kmでの低速走行試験です。橋梁などにおける設計変更個所の安全性確認がその目的でした。予定より遥(はる)かに遅い進捗状況です。これに焦(あせ)る安西。そして開通の遅れが日本の新聞で報道されたことに激怒する台湾高鉄副社長のバルト。

春香は台北市を突然訪れた婚約者と思い出の食堂にいました。台湾新幹線の開業が遅れたことは二人の関係にも影を落としていました。気持ちが噛(か)み合わない二人は互いに相手を咎(とが)める言葉が出てしまうのです。さらには、台北を訪問中の葉山が末期癌(がん)であることが旧友で医師の中野赳夫の診断で判明しました。

台湾鉄路の運転士とフランス人指導員(フランスのTGV方式の訓練)とのコミュニケーションが上手く行かないこともあり、開業までの工程はさらに遅れてしまいます。その状況を深刻にとらえたバルト副社長は王を台湾鉄路に呼び戻しました。王のリーダーシップによって工程を前進させたことで、やっと最終工程である1か月間の試運転が始まりました。

関係者が固唾(かたず)を呑(の)んでその進捗を見守る中、ついに試運転は最終日を迎え、バルト副社長と山尾が最終試験列車に試乗しました。始発駅の台北駅から終点駅の左営(ズォイン)駅(注釈:高雄市左営区)までの約350㎞を順調に走行。左営駅のホームではいつも激論を交わした安西がバルト副社長を出迎えて握手を交わしました。

帰国して名古屋駅に降り立った春香は婚約者に指輪を返します。謝罪の言葉とともに。これまでの言動を振り返って謝る元婚約者。言い訳をしないことが春香の誠意でした。台北市に戻った春香は上司の山尾から東京本社勤務の辞令を示されますが、台湾に残りたいと辞令を固辞します。高雄市の左営駅を出発した台湾新幹線の車両には幼馴染みの男女が乗っていました。男性はそれまでの思いを告白した勢いで思わず女性にプロポーズ。一方、台北駅発の台湾新幹線車両に同乗することになった春香とエリックは二人の出会いが運命であったことを確認し合うシーンでこのテレビドラマは終わりました。


〈筆者コメント〉 自動車列車飛行機など乗り物が大好きな筆者は台湾新幹線の走行シーンを楽しく観ました。そして、ドラマに登場した多彩な人たちの人間模様も。しかし、原作にしたがって詳しく描かれた何組もの恋愛関係はもう少し控(ひか)え目に扱った方が良かったと思いました。中でも主人公春香に思いを寄せる三人の男性と春香の複雑な関係はNHKのドラマとしてはリスキーだった思います。しかし、女優・波留さんの好感が持てる演技とNHKらしい巧みな演出によってその懸念は無用だったようです。また、主人公以外では同僚男性の安西誠役を好演した井浦新さんと葉山勝一役を渋く演じた高橋長英さんの二人が印象に残りました。

2020年6月15日 (月)

海外出張の9か国目はアメリカ(その2) カリフォルニアのサンフランシスコ

ワシントンD.C.へ出張した翌月(19879月)にはカリフォルニア州のサンフランシスコ9日間の出張をしました。顧客から要請があり、新技術を用いる先進のサービスをプレゼンテーションする目的でした。新技術の開発においては日本企業も競争力がありましたが、サービス分野においてはアメリカが日本より10年ほど進んでいるため、顧客の動向をいち早く知ることが重要なミッションです。

その結果、筆者はトライヤル(試行)を経て数年後にはアメリカで本格的なサービスが導入されることになるとの印象を持ちましたが、実際にはそれから10年以上の導入期間を経てやっと商用化されました。そして、21世紀初頭の現在においては当たり前のサービスとして全世界で普及しています。筆者の仕事(業務内容)についてはここまでに留(とど)めて、初めて訪れたサンフランシスコの魅力的な街並みを紹介しましょう。

最初にプチ蘊蓄(うんちく)です。カリフォルニア(California)は、スペイン領を経て、ネバダ州・ユタ州・アリゾナ州などとともにメキシコからアメリカに割譲(かつじょう)された土地であるため、地名にはメキシコ風、すなわちスペイン語の言葉が多く存在します。まず、カリフォルニアはスペインの神話に登場する空想上の天国を治(おさ)めた女王「カリフィア(Califia)」に由来するとする説が有力のようです。また、カリフォルニア州(人口約4000万人)第2の都市であるサンフランシスコ(人口約85万人、ベイエリア都市圏では約460万人)はキリスト教のフランシスコ会創始者「聖フランシスコ」にちなんで名づけられました。

仕事が一段落した週末の912日(土)、フェリー乗り場がある東地区の埠頭(ふとう)へ向かいました。サンフランシスコ湾に架かる「サンフランシスコ・ベイ・ブリッジ」(説明:別称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、1936年鉄道橋として開通、1963年に自動車専用に変更)が良く見える場所です。下の写真はサンフランシスコ湾にある「ヤーバ・ブエナ島」までの区間を撮影したものです。

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この橋はIS80(Interstate 80/州間高速道路80号線)の一部としてサンフランシスコとサンフランシスコ湾の対岸(約13㎞東)にあるオークランドを結んでいます。瀬戸大橋が1988年に開通するまでは世界一長い吊り橋でした。ちなみに、サンフランシスコへ入る時には通行料金がかかるそうです。

なお、サンフランシスコ湾は南北に伸びるサンフランシスコ半島によって太平洋と隔てられた内海で、南北方向に約60km、東西には約15km、面積が1280平方キロメートルと巨大です。ちなみに、山手線内の面積63平方キロメートルの20倍強(東京23区の丁度2倍)。サンフランシスコ半島の北端にあるゴールデンゲート海峡で太平洋と繋(つな)がっており、その北東でサンパブロ湾と接しています。

反対方向(西方)に視線を転じると、丘(テレグラフヒル)の頂上にある塔と金門橋を見ることができました。この塔は「コイト・タワー」(高さ約64m1933年完成)で、東地区の埠頭の北西約500mの場所にあります。写真の左端には「金門橋」が少し写っています。

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次いで、少し西方(ダウンタウンの北方)、金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)寄りのノース・ビーチにある波止場、「フィッシャーマンズワーフ」を訪れました。”Tarantino’s”(タランティーノズ)や”ALIOTO’S”(エリオットズ)などのシーフード料理店が並んでいます。

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「金門橋」を先ほどよりも少し大きく見ることができました。

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金門橋」は、太平洋とサンフランシスコ湾を結ぶゴールデンゲート海峡に架かる世界一の吊(つ)り橋(注釈:1960年代まで)で、サンフランシスコとその北にあるエリアを結ぶ唯一の主要道路(6車線、有料)の一部になっています。1937年に完成したこの「金門橋」は、全長2,737m、中央径間1,280m(注釈:現在世界一の明石海峡大橋は1,991m)の鋼鉄製吊り橋です。ちなみに、主塔の高さは水面から227m

ビルに囲まれた広場に出ました。

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サンフランシスコらしい傾斜地に広がる町並みです。

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そして、有名なケーブルカー(1873年開通)が停まっていました。「ユニオンスクエア」と「フィッシャーマンズワーフ」を結んでいます。サンフランシスコのケーブルカーはケーブル(ワイヤー)が地下にあるため、一見すると通常の路面電車のように見えます。地下をループしているケーブルを車両が掴(つか)むと前進し、離すと減速する仕組みになっているそうです。なお、車体を停止させるにはブレーキを使う必要があります。つまり、後退することはできません。

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この先にも急な坂がありました。

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写真はそのさらに南方から撮影しました。湾内に見える島は有名なギャングの「アル・カポネ」が収監されたことで知られる監獄の跡がある「アルカトラズ島」のようです。ちなみに、この島は10年後の1997年に訪れています。

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ビル街に設置された小さな街頭時計

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別の日(916日水曜日)の朝、宿泊したホテルから郊外にあるオフィスエリアを撮影

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アメリカへの出張(説明:いずれも新技術と新サービスを主要顧客にプレゼンテーションすることが目的)は、ワシントンD.C.とサンフランシスコに次いで、1988年3月にテキサス州ダラス、同8月にコロラド州デンバーとテキサス州ダラス、同9月にジョージア州アトランタとイリノイ州シカゴ、同10月にはニュージャージー州、同12月にもジョージア州アトランタとテキサス州ダラス、つまり1年半の間に計7回も続きました。これがアメリカでのビジネスを担う子会社への転勤(出向)に繋(つな)がるのです。(終)

2020年6月14日 (日)

海外出張の9か国目はアメリカ(番外編) ヨルダンとシリアへの出張

アメリカへの出張記事を始めたばかりですが、前回の記事で書きました入国時のトラブルに関連するヨルダンとシリアへの出張(12日間)について参考までに概説します。成田空港からタイ・バンコクのドンムアン空港へ向かい、そこでヨルダンのアンマン行きのロイヤル・ヨルダン航空機に乗り換えました。アンマンへ予定通りに到着しましたが、預けた荷物が出て来ません。ドンムアン空港では自分の荷物を確かに確認したのですが・・。航空会社の説明によれば、『ドンムアン空港で積み残されたと考えられる。スーツケースは恐らく2日後の次の便で届くだろう』 とのこと。

翌日は顧客と面談する予定が入っていました。必要な書類はアタッシュケースに入れていましたが、移動時に着ていたラフな衣服から着替えるビジネススーツ類が一着も無いのです。背広上下は現地の日本人スタッフから借り、シャツなどは現地の店で急遽購入することにしました。サイズが合わないことには目をつぶることにして、顧客との打ち合わせには何とか対応。私のスーツケースは2日後に無事手元へ届き、何とか一件落着です。

それでは、ヨルダンとその首都であるアンマンについて概説します。中東に位置する立憲君主制国家「ヨルダン」の正式国名は「ヨルダン・ハシミテ王国」。イスラムの預言者ムハンマドの子孫であるハーシム家出身の国王が世襲統治しています。人口は約1000萬人。古代(紀元前8000年)には世界最古の農業が営まれ、西アジアにおける交易の中心となりました。紀元前1世紀にはペトラ遺跡を残したナバテ王国が栄えましたが、紀元1世紀から2世紀にはローマ帝国の支配下に入ります。7世紀にはイスラム帝国(アッバース朝など)の勢力下に入り、19世紀にはオスマン帝国の支配下になりました。第一次世界大戦後の1919年にはイギリスの委任統治領となり、1946年にイギリスから独立しました。

首都アンマンはヨルダンの政治・経済の中心都市で、人口は約210万人。オスマン帝国がシリアのダマスカスとアンマンを結ぶ鉄道を建設したことで物資の集散地として発展しました。映画「アラビアのローレンス」(1962年公開)にはオスマン帝国の重要インフラであったこの鉄道が登場します。

独立当時の人口は数万人と少なかったようですが、イスラエルが1948年に建国すると、その難民が大量に流入し、1967年代には1948年にヨルダン領に組み込まれたパレスチナとヨルダン川西岸へイスラエルが軍事侵攻して占領したため、この地域に勢力を持つとパレスチナ解放機構(PLO)との内戦が続き、さらに難民が流入して現在のような大都市へと膨れ上がったとのこと。

PLOはレバノンに本拠を移したことで、国内の宗教的なバランス(キリスト教・イスラム教)が崩れたレバノンが新たな火薬庫になって、1975年にレバノン内戦が勃発し、レバノン国軍/PLO/シリア/イスラエル/多国籍軍が入り乱れて戦うことになりました。1990年には内戦が終結しましたが、レバノンの不安定な国情が改善されることはないまま現在に至っています。

さて、本題です。アンマンへ出張した時の写真を使って主な観光地を紹介しましょう。

〇市街地に近いシタデル(Citadel)の丘からはアンマンの市街地を一望することができました。

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◯ローマの円形劇場
アンマンのダウンタウンから歩いてすぐところにあるローマ皇帝アントニヌス・ピウスの時代(138161年)に建てられた歴史ある劇場(6000席)。

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◯ ヘラクレス神殿跡
ローマ帝国時代に建てられたヘラクレス神殿の跡です。紀元160年ころ、高さ12mを超える彫像が立っていたとみられるそうです。

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◯死海
現在イスラエルによって占領されているヨルダン川西岸との間にある「死海」は海抜マイナス423メートルと地球で最も低い場所。アンマンから車で南西へ約1時間。岸辺から海よりも濃い塩水であることだけを確認しました。現地のグループ・ツアーも利用できます。ただし、個人でバスやタクシーを利用するのは現地対応に自信がある方だけにお勧めします。

〇立ち寄りが叶わなかった街「アカバ」
ヨルダン南端にあり、紅海の最深部、アカバ湾に面した小さな港町「アカバ」を訪れる機会は残念ながらありませんでした。私の好きな映画「アラビアのローレンス」ではサウジアラビアのネフド砂漠を横断した主人公が結集したアラブ軍を率いて陥落させたオスマン帝国の重要拠点「アカバ」を自らの目で見たかったのです。(注釈:リンクを張った予告編の最後にアカバのシーンが登場する) なお、この映画については以下に記述する「シリアへの出張」の記事でも再び言及します。

                            ☆

ヨルダンのアンマンに続いて、シリアのダマスカスにも出張しました。シリアの正式国名はシリア・アラブ共和国で、面積は約18万平方キロメートル(日本の半分弱)、人口は約1800万人。国土の南西端近くに位置する首都ダマスカスの人口は約160万人。

シリアはヨルダンと同様に西アジアにあることから紀元前8000年ころから農業(主に小麦の生産)が始まり、紀元前3000年ころには都市国家群が成立し、通商の要衝としても栄えました。しかし、バビロニア(イラク南部の王国)、アッシリア(イラク北部の王国)、ギリシャ(アレキサンダー大王のマケドニア王国)、ローマ帝国と東ローマ帝国の支配を受けて、7世紀にはイスラム勢力(ウマイア朝とアッバース朝など)の支配下となりました。

そして、トルコ人のセルジューク朝とクルド人のアユーブ王朝が続き、1260年にはモンゴル帝国が占領。エジプトのマムルーク朝の支配を受け、さらにオスマン帝国がシリアを支配しました。1917年にアラブ軍がダマスカスを奪還(前述)した後は、1920年にシリア・アラブ王国として独立しましたが、フランスとの戦いに敗れてフランスの委任統治領になります。1946年にフランスから独立して現在に至ります。厳密には1958年から1961年までエジプトとアラブ共和国を構成しましたが、1961年のクーデターで現在の体制へ移行しました。

シリアへ出張した時の写真は残念ながら一枚も残っていません。ダマスカスと言えば、私の好きな映画作品のひとつ「アラビアのローレンス」のクライマックス・シーンに登場した都市です。主人公のイギリス人将校ローレンスは、多くの部族出身者を集めたアラブ軍を率いてオスマントルコ軍との戦いに勝利したものの、身内と思っていた多部族で編成されたアラブ軍を纏(まと)めきれず、大きな挫折(ざせつ)を味わった場所でもあります。

実際に訪れたダマスカスは、街のすぐ先には大きな岩山「カシオン山」(標高1151m)が聳(そび)えており、筆者は異様な雰囲気を強く感じました。海抜680mの高原に築かれた城壁に囲まれた古代都市ダマスカスの市内に見るべき場所があまりなさそうでしたから、休日にはダマスカスから車(運転手付きのレンタカー)で北東へ悪路を4時間ほど(約230㎞)走った「パルミラ遺跡」を訪れました。

阪急交通社の解説記事によると、『パルミラは広漠たる砂漠の中に建設されたオアシス都市。ナツメヤシの緑に包まれ、パルミラの名もギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」が起源といわれます。紀元前1世紀にローマ帝国の属州となり、中国とヨーロッパを結ぶ東西交易路の中継地として発展。2世紀にペトラ(ナバテア王国)が衰えると、通商権を受け継ぎ絶頂期を迎えます。267年になると、総督オダエナトゥスが暗殺されます。これを機に妻のゼノビアは息子を皇帝に擁立、自ら皇妃と称しパルミラ王国を打ち立てます。ゼノビアはクレオパトラの末裔を名乗る美女で、政治にも長けていましたが、272年にアウレリアヌス帝の遠征により捕えられ、パルミラの街は陥落。』 とあります。

数年前のニュース報道で知りましたが、勢力を拡大した「イスラム国」の軍隊がパルミラ遺跡を破壊したそうです。訪れた当時でもパルミラ王国をローマ軍の遠征の結果だと思われますが、遺跡はすでに半壊状態でした。AFP BB NEWS201641日付の記事)には「イスラム国」の軍隊による破壊前後の比較写真が掲載されています。(アメリカ出張の記事/その2へ続く)

2020年6月13日 (土)

海外出張の9か国目はアメリカ(その1) ワシントンD.C.

会社の所属部門で筆者が担当する地域が東南アジアとオセアニアなどからアメリカ(北米)へと変わった直後(4か月後)の19878月、アメリカにおける主要顧客へ新技術をプレゼンテーションするため、アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.へ出張(8日間)することになりました。
注釈:"D.C."は”District of Columbia"(コロンビア特別区)の略、50州とは別に連邦政府が管轄する区域(直轄地)

中学生のころからアメリカに憧(あこが)れ英語と英会話の勉強に励(はげ)んで約30年、海外ビジネスに携(たずさ)わるようになってからでも11年が経過していました。大きな手応えを感じていた前任地域を離れて憧れのアメリカ地区を担当することは、嬉(うれ)しさ半分、寂(さび)しさ半分の複雑な心境でした。ちなみに、今回の担当地区変更は私の我侭(わがまま)によるものではありません。組織の事情(都合)だったようです。

8月19日、国際線に本格参入して間もない全日空のワシントンDC直行便は成田空港を出発した約13時間後、ワシントンD.C.ダレス国際空港が近づいたようで、登場する飛行機が高度を下げました。海岸線とアメリカを象徴するような高速道路が眼下に広がりました。注釈:当時の日本航空にはワシントンD.C.への直行便がなかった

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滑走路が4本もある巨大なダレス国際空港(IAD)はワシントンD.C.の西方、バージニア州ダレスにあり、中心部へ向かうにはメイン・ターミナルからタクシー(所要時間:40分から60分)を利用することができます。2014年にワシントン・メトロ(地下鉄)のシルバー・ラインが一部開通しましたから、メイン・ターミナルから出るシャトルバスで移動したウィリー・レストン・イースト駅からこのシルバー・ライン(運賃:5ドル)を利用することもできるようです。都心のロズリン駅やメトロセンター駅までの所要時間は40-50分。

8日間のスケジュールには余裕があり、週末の822日(土)に「スミソニアン博物館」を見学することができました。スミソニアン博物館は国会議事堂から延びる幅の広い道路の両側に15の博物館が並んでいる様子は壮観です。

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ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(国立絵画館、入場無料) ルノワール作「アンリオ夫人の肖像」(1876年)が印象に残りました。

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女優アンリエット・アンリォが四角く胸の開いたイヴニングドレスを身にまとっている。白い服と白い肌を大胆なタッチで描いた。ルノワールのうまさが引立つ作品です。

もう一点はレンブラントだったと思いますが、タイトルを失念しました。

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圧巻だったのは、航空宇宙博物館の各種ロケットと月面着陸船です。

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ダレス空港で入国手続きをした時に大きなトラブルがありました。私のパスポートを確認したイミグレーションの職員が他の職員を呼びました。その職員は何事かと思う筆者を別室へ連れて行き、次々と質問を浴びせ掛けてきたのです。一つひとつの質問に答えているうちに事情聴取される理由が分かりました。前年の1月から2月にかけて中東のヨルダンとシリアの両国を訪問した履歴がパスポートにあったため、筆者が過激派あるいはそのシンパ(親派)ではないかとの疑いを掛けられたのです。

ちなみに、日本赤軍は1970年代にハイジャック事件や空港乱射事件などを頻繁(ひんぱん)に引き起こし、1980年代には先細りになったものの、日本赤軍がまだ活動を続けていた時代背景がありました。国内では1970年の「よど号ハイジャック事件」と1972年の「あさま山荘立て籠もり事件」が有名です。尋問は20分ほど続いたと記憶しています。

後日、アメリカを出国するときには、航空会社のチェックイン・カウンターで同じような質問を受けたことがあります。ちなみに、当時のアメリカでは出国時のパスポート・チェックは航空会社が行っていたのです。(続く)

2020年6月 9日 (火)

ブラタモリ「黒部ダム スペシャル」を観る

5月30日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組201710月に放送された「黒部ダム」と「黒部の奇跡」の総集編)を観ました。長野県にある関電トンネルの「トロリーバス扇沢駅」でのロケから番組はスタートしました。今回、タモリさんに与えられたお題(テーマ)は『黒部ダムはなぜ秘境につくられたのか?』 と真っ当なものでした。冒頭、岩をくり抜いて造られた崖沿いに手作りされた狭い道を通るしかない場所に造られたことを最初に紹介しました。

『最大の難関破砕帯とは?』『北アルプスの秘密はチョコレートにあり!?』などのキーワードがテロップで流れました。タモリさん一行はトロリーバスに乗って黒部ダムへ向かいました。バスが入った長いトンネル(長さ6.1㎞の関電トンネル)はダム工事用に造られたものです。バスは80mに及ぶ破砕帯(はさいたい、岩盤が砂のようになった地層)に差し掛かりました。冷たい地下水が大量に湧き出す場所です。

この対策として500mの水抜きトンネルが掘られたそうです。長いトンネルを抜けて「黒部ダム」の東端にある「黒部ダム駅」に到着。長い階段を上がって黒部ダムの上にある展望台に立ったタモリさんは、黒部ダム(高さ186m、横幅約500m)の大きさに驚きますが、アーチ式ダムでありながらダムの端(アーチ部)が山に接していないことが疑問だと言います。

突然ですが、ここで映画「黒部の太陽」が公開された今から56年前に戻り、大学1年生であった筆者が黒部ダムへ一人旅をした懐かしい思い出を手元に残る写真とともに紹介しましょう。JR大糸線信濃大町駅から路線バスでトロリーバス扇沢駅へ移動した筆者は、タモリさんと同様、トロリーバスに乗って黒部ダムへ向かいました。下の写真は黒部ダム駅に近いダムの堰堤(えんてい)上から立山連峰方面を写したものですが、残念なことに当日は雨天でしたから、手前の案内看板と対岸の崖(がけ)しか写っていません。

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次は日本一の堤高(186m)を誇る黒部ダムを見下ろして撮影した写真です。最上部の排水口が窓のように映っており、その遠方にはレストハウスが、そして排水口の下部には点検用の通路が幾段も確認できます。(注釈:最近の写真で確認すると通路の段数がかなり少なくなっている) その下方に通常の排水口のようなものが見えます。この写真は、アングルから見て、道路のようになっている長さ492mの堰堤上を対岸の黒部湖駅に近いウイングダム部まで歩いたところで撮影したようです。

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閑話休題。長い階段を降りてダムの中ほどに移動したタモリさんは黒部ダムにおける発電の仕組みを見学します。ダムのすぐ近くにある取水口を見たタモリさんは、約10km先、545m下にある発電所まで水が導かれる規模の大きさに驚きます。そして、黒部ダムはこの大きな落差と大量の水を貯めやすい地形(上流は川幅が広く、ダムがある場所は川幅が狭くなっている奇跡的な地形)に特徴があり、巨大な発電所が可能になったことを知ります。

つまり、大量の水と大きな落差です。これにより黒部川には黒部川第四発電所の他、数多くの発電所が造られ、約90kwの発電量が得られたのです。このため黒部ダムは以前、「黒四ダム」と呼ばれていました。

黒部ダムの上に戻ったタモリさんは奇跡的な地形が生まれた理由を探るため、地下式の黒部ケーブルカーに乗って大観峰へ向かいました。途中、黒部平でケーブルカーから立山ロープウェイに乗り換えます。支柱が無いロープウェイです。雪崩が多いエリアであることから支柱が無いとその理由を説明されました。そして、豊かな水量は豪雪の賜物であることを知ります。

大観峰の展望台に到着したタモリさんは立山連峰と後立山連峰の間に黒部川が流れていることを説明されました。複雑な隆起を有するこの地形は地下から噴出したマグマが地表のプレートの力に押されて大きなシワ(3000m級の山脈)ができたと考えられるそうです。タモリさんはその様子を溶けたチョコレートを使った実験で確かめました。つまり、黒部峡谷ができた理由が分かったのです。

その後は視点を変えて水圧を分散して受け止めるアーチ式ダムの仕組みを学びました。しかし、黒部ダムは両端が折れ曲ったユニークな形状をしています。これはアーチ式ダムに掛かる力(水圧)を強固な両岸の岩盤へ効率的に伝えるための工夫だったのです。黒部ダムにおいては、アーチ式ダムの部分をやや前傾させ、両端の部分は重力式コンクリートのウイングダムを持つことで、ダムが貯めた水の圧力を上手く分散する仕組みになっていることが分かりました。

最後に、タモリさんは通路を通ってダムの中に入りました。点検用の長い通路を抜けてダムの外に出ると、すぐ目の前にある放水口から大量の放水が行われていました。放水が、通常の滝のようにではなく、霧状になっています。これは、放水口(バルブ)の形状を工夫することで、大量の放水がダム下流の地盤を傷つけることを防いでいるのです。戦後間もない日本の経済成長を支えた黒部ダムについてタモリさんが抱えていた多くの疑問が解け、タモリさんが大満足したところで番組は終わりました。

〈筆者コメント〉 学生時代に黒部ダムを訪れてから50年以上が経過しました。これまでも黒部ダムを紹介するテレビ番組を何度となく観たことがありましたが、今回ほど掘り下げた黒部ダムの紹介番組は初めてです。タモリさんと同様、筆者も今回の総集編に大満足することができました。◇

2020年6月 5日 (金)

海外出張先の8か国目はトルコ

1985年10月のことです。クウェートとインドネシアへ出張することになりました。最初の訪問国クウェートでの業務がほぼ終わりかけた時、本社からトルコへ向かうようにとの指示が届きました。トルコのプロジェクトは筆者の担当ではなく、同国の顧客についての知識はほとんど持ち合わせていませんでした。しかし、その顧客と技術問題を至急協議する必要があるとのこと。トルコから約2000㎞(北海道北端-九州南端間に相当する距離)しか離れていないクェートにいて、しかも他の顧客において同様の問題に対応したことがある筆者が急遽(きゅうきょ)指名されたと思われます。ぶっつけ本番の仕事になりますが、もちろん本社の指示に従いました。

子供のころから地理が好きであった筆者はトルコの場所と地形などについての知識はありました。また、大学の教養課程で近代西洋史を学んだことがあり、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれて第一次世界大戦勃発の切っ掛けになったバルカン半島の情勢とその近くに存在する大国「トルコ」(当時はオスマン帝国)の影響力についても知っていました。英仏露の三国協商と独墺伊の三国同盟、これら二大勢力は地中海周辺で支配地域を拡大させようと対立したことが背景になりました。つまり、衰退し始めたオスマン帝国支配下のバルカン半島におけるナショナリズム(民族運動)に乗じてヨーロッパの二大勢力がバルカン半島に干渉(かんしょう)したのです。後追いで知った知識ですが、トルコについて以下に概観します。

トルコ(正式国名:トルコ共和国)は西アジアのアナトリア半島と東ヨーロッパの東トラキア(エディルネとイスタンブール)を領有する国家で、面積が約78万平方キロメートル(日本の約2倍)、人口が約8200万人。ちなみに、トルコ語の発音では「テュルク」。英語では「トルコ人の国」を意味するターキー(Turkey)ですが、日本で「トルコ」と呼ぶのはポルトガル語での呼び方が取り入れたからのようです。

歴史を振り返ると、古代のアナトリア半島には鉄器で知られるヒッタイト(紀元前16世紀-紀元前12世紀)やリュディア(紀元前7世紀-6世紀)などの王国が存在しましたが、ペルシャ人によるアケメネス朝や東ローマ帝国(4世紀-15世紀)がこの地を支配しました。

一方、北アジアでは6世紀ごろにトルコ系民族が国家「突厥(とっけつ)」を建国。その一部が西進して中央アジアに「セルジューク朝」(11世紀-13世紀)を起こしました。さらに領土を拡大させた「セルジューク朝」(別称:セルジューク・トルコ)はイラン西部からアナトリア半島まで進出しましたが、次第に勢力を失くし、1243年にはモンゴル帝国の支配下に入ることになります。

13世紀末にアナトリア半島の西端で建国した小国「オスマン朝」は、「東ローマ帝国」(別名:ビザンティン帝国)や西アジア・北アフリカの諸国を征服して、「ローマ帝国」に比肩(ひけん)する巨大な「オスマン帝国」(15世紀-20世紀)へと発展しました。第一次世界大戦ではドイツを中心とする同盟国に加わって参戦しましたが、敗戦したことで「オスマン帝国」は解体され、1923年に「トルコ共和国」が建国されました。ちなみに、2018年6月のブログ記事「ハンガリー旅行記」の中でオスマン帝国の東ヨーロッパ侵攻について簡単に触れています。

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10月17日、トルコのイスタンブールのアタテュルク空港に到着。ちなみに、2019年にイスタンブール空港が市街地の北西部に新空港として開港しています。その日のうちに顧客の事務所がある首都アンカラへ国内便で移動することにして、エセンボーア空港へ飛びました。アンカラの市街地から北東約28㎞の場所にあります。翌18日に顧客と打ち合わせを持ち、午前中に改善策で合意することができました。

同日の午後は空き時間を利用してアンカラ市内のアヌトテペ地域にある高台へ向かいました。1953年に完成したというムスタファ・ケマル・アタテュルクの廟(びょう)が聳(そび)えていました。ちなみに、アタテュルクはオスマン帝国の将軍であり、トルコ共和国の創設者としてトルコ共和国の初代大統領に就任した人物で、トルコの国父と呼ばれているそうです。

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高台から見たアンカラの市街地(遠景)

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現地協力会社のオフィス前で記念撮影

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翌10月19日にはイスタンブールのアタテュルク空港へ戻りました。海岸沿いの道路を東進したところにイスタンブールの旧市街地がありました。アジアとヨーロッパを隔てるボスポラス海峡を体感するため、イスタンブールの旧市街とアナトリア半島側のイスタンブールを結ぶ自動車用橋「ボアジチ大橋」(1973年建設の吊り橋、長さ1074m)を渡りました。注釈:現在は「715日殉教者の橋」と呼ばれている

写真はボアジチ大橋から見た「ボスポラス湾」の南方(マルマラ海/地中海方面)と、

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ボアジチ大橋の東袂(ひがしたもと)付近の住宅地

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当時、自動車用の橋としてはこの橋だけが架かっていましたが、1988年に「ファーティフ・スルタン・メフメト橋」(長さ1090mの吊り橋)、2016年には「ヤウズ・スルタン・セリム橋」(長さ1400mの吊り橋)が建設され、現在は計3つの橋が架かっています。

10月20日には伝統的に様々な民族が住んでいたことでヨーロッパの雰囲気が漂う新市街にある現地事務所でトルコにおける出張報告を纏(まと)めながら過ごすことに。ちなみに、トルコはチュルク人は約70%と一番多いのですが、残りは様々な民族で構成される多民族国家なのです。民族が入り乱れて変遷した長い歴史を反映しています。

そして、翌10月21日は次の訪問国であるインドネシア行きの便を待つ間、イスタンブール市内(旧市街)を観光することにしました。なお、2005年12月の当ブログ記事「イスタンブールの思い出」で主な観光地を紹介しています。

まず、高台から世界文化遺産の「イスタンブール歴史地区」(1985年登録)の遠景を撮影。中央やや右手にはボスポラス湾とつながる「金角湾」があり、左端に聳(そび)えるのは「スレイマニエ・モスク」、その右手前にあるのは「リュステム・パシャ・モスク」のようです。右端にはガラタ橋でつながる新市街が少し写っています。

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テオドシウス一世のオベリスク」は「ブルーモスク(スルタン・アメフトジャミィ・モスク)」の近くにありました。古代ローマ帝国の皇帝「テオドシウス1世」(注釈:4世紀末に東西ローマ帝国を一時的に統合した皇帝)がエジプトから持ってきたものであるため、ヒエログリフ(神聖文字)が刻まれています。案内書によっては元々の所有者であった古代エジプトのファラオの名を採(と)って「トトメス3世のオベリスク」としているものがあるようです。

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イスタンブール観光の定番である「トプカプ宮殿」(注釈:トプカピ宮殿とも表記)は半島の先端にありました。「アヤソフィア・モスク」の北隣です。

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宮殿内に展示されていた「エメラルドの短剣」

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イスタンブールの旧市街ではその他にも「ブルーモスク」と「アヤソフィア」に加えて、旧市街地の中心にあるカパル・チャルシュ(屋根付き市場、英語ではグランドバザール/Grand Bazaarも訪れました。西洋と東洋が融合した不思議な魅力を持つオスマン帝国の遺産に圧倒されたことを今でもよく覚えています。注釈:5月30日にテレビ朝日で放送された「旅サラダ」で「ブルーモスク」が紹介されました

慌(あわ)ただしい予定外の出張(寄り道)でしたが、そのお陰で空き時間を利用して上記したようにイスタンブール観光を楽しむことができました。しかし、今回のトルコ行きは代役の出張であり、残念なことにトルコへ再度出張する機会はありませんでした。

話が飛びますが、定年退職して時間の余裕ができたことで、2006年にドイツ・スイス・フランスへ出かけました。現役時代の1999年にニュージーランド旅行へ出かけてから7年後のことです。しかし、その後の数年は国内のドライブ旅として旧東海道(静岡京都)、大山道(川崎伊勢原)、西国街道、奥の細道(前編後編)、四国八十八霊場への遍路旅(徳島・香川・愛媛徳島高知・愛媛・香川)、3年連続の富士登山(2008年2009年2010年)、東北ドライブ旅、さらには全国の温泉巡りなどに熱中。

そして、それらが一段落したところで海外旅行を急に思い立ち、2013年にクロアチアへ、2014年にはハワイ台湾への観光旅行した後、2015年にトルコへの旅行を計画しました。もちろん、行先の候補地は古都イスタンブール、ほぼ中央部にあるカッパドキアのカルスト台地、エーゲ海に面したベルガマのギリシャ都市国家跡と同じくトロイ遺跡など。

しかし、2015年ころには西欧での難民流入の影響(混乱)が中東からの流入ルートにあるトルコにも及び始めたため、その旅行計画を取りやめて、急遽(きゅうきょ)東南アジアへの旅行へ切り替えることに。手始めとして2015年は「インドネシア」、2016年「ベトナム」、2017年「ミャンマー」、そしてヨーロッパ情勢が落ち着いた2018年になって「中欧3か国」、2019年「北欧4か国」と海外旅行を続けてきました。

このように「トルコ」の政情が安定化するのを5年間も待っていましたが、今年初めには「新型コロナウイルスのパンデミック」が世界的に発生したため、海外旅行はしばらくお預けになってしまいました。残念なことですが・・。◇

2020年6月 3日 (水)

「ブラタモリ 富士山スペシャル」を観る

5月23日にNHK総合テレビで放送された「ブラタモリ 富士山スペシャル」を観ました。5年近く前に3回に亘って放送された「富士山の総集編」です。NHKの関連hpには以下のように紹介されていました。

『タモリさんが富士山頂を目指す!2015年10月に3週にわたって放送した富士山シリーズの名場面をギュっとまとめてアンコール放送▽「日本最大の高低差」にタモリが挑む』

『「ブラタモリ#19富士山」「#20富士山の美」「#21富士山頂」(初回放送2015年10月10・24・31日)・富士山シリーズの3回を1本に再構成してアンコール放送!「富士山はなぜ美しい?」「人はなぜ富士山頂を目指す?」のお題を探る▽タモリ70歳で人生初の富士登山に挑戦▽江戸時代の噴火で生まれた「宝永火口」で富士山の美しさに迫る!▽「ご来光」の秘密とは!?▽初登頂の山頂でとっておきのサプライズ!?』

                           ☆

タモリさんは、パートナーの桑子アナウンサーとともに、先ず浅間(せんげん)大社を訪れました。本殿に参拝したタモリさんは旅のお題として『富士山はなぜ美しい?」を受け取り、いつも以上にハードな富士山の旅が始まりました。先ず、富士山の五合目に向かい、宝永火山の火口を目指します。生憎(あいにく)の天気で雲が立ち込めと視界はほとんどありません。

平安時代の噴火で積もった溶岩地帯を抜けると、上空に晴れ間が広がりました。6合目付近では岩の谷間が下方へ続いている所に行き当たりました。「割れ目噴火」が起こった跡「割れ目火口」です。

100か所以上もある火口がある富士山には「雪代(ゆきしろ)」と呼ばれる溶岩流による谷間がいくつもあり、それが噴火により修復されて現在の美しいかたちになったことが専門家によって説明されました。いよいよ、富士山で一番大きな割れ目火山である「宝永(ほうえい)火山」の火口へ降ります。五合目から約1kmの地点です。

「宝永火山」の火口は直径約1.1km。そこからは富士山が成長した2000-3000年の地層を確認することができました。「割れ目噴火」で地表へ噴出したマグマは冷え固まってたくさんの「岩脈(がんみゃく)」を造りました。何故か、その「岩脈」は頂上の方向に向かっています。多くの割れ目火口を作り出したのは地下のプレートの動きによるものでした。

タモリさんは富士山の頂上を目指して9合目付近に到達しましたが、そこからは登山道が急峻(きゅうしゅん)になる最大の難所なのです。雲海を下に見ながらタモリさんは登り続けました。御来光を見た後に下山する登山者たちとすれ違います。そして、溶岩が積もる急な登山道を経て山頂に到達。頂上にある浅間大社奥宮に参拝し、70歳以上ができる記帳をして、お神酒(みき)を頂きました。

こから山頂の火口と御来光(ごらいこう)について専門家から説明を受けます。それは山頂から見る日の出ではなく、山頂にある8体の仏様(頂き)が取り囲む火口に現れる大日如来(だいにちにょらい)のことなのです。御来光とは「ブロッケン現象」による人の影なのです。

最後にタモリさんは山頂の一番高い場所(注釈:昔、気象レーダーがあった場所)を目指しました。急坂を登る難所です。標高3776mの最高地点は「剣が峰」と呼ばれます。初めての山頂踏破で満足するタモリさんの笑顔で番組は終わりました。

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〈筆者コメント〉 富士登山は室町時代から「お伊勢参り」とともに日本人が憧(あこが)れる一大イベントでした。ちなみに、タモリさんはこの富士登山の8か月後の20166月放送分(2回)で「伊勢神宮」を訪れています。

今回の番組を観ながら、定年退職をしてから念願の富士登山を2008年から2010年まで3年連続で体験できたことを思い出しました。とても幸運なことに3回(2008年2009年2010年)とも頂上で御来光(朝日)を拝むことができました。一方、「伊勢神宮」には小学校の修学旅行を手始めに、2016年7月まで何度か参拝しています。

また、ちょうど70歳を迎えたタモリさんが富士山の山頂まで無事に登り切ったことに敬服しましした。蛇足ですが、筆者の経験では山頂に至る登山道には様々な難所(滑りやすい場所や急な岩場なと)があります。そして、降雨は体力と気力を奪う難敵です。しかし、最大の難所は下山道の後半にあるのです。

それは、筆者が利用した「吉田ルート」では8合目から7合目までの「九十九折り」(上りと別ルート)は砂利交じりの砂地であり、「御殿場ルート」の大砂走(すなばし)りほどではありませんが、面白いほど快調に駆け下りることができます。しかし、下り傾斜が急に緩(ゆる)くなるその先(上りルートと合流する6合目を経て5合目まで)は疲労が溜(た)まって痛みを持つようになった自分の足(特にヒザ)との闘いになるのです。つまり、下山時の歩幅とペース配分が極めて重要であることを3回の富士登山を通して筆者は痛感しています。

なお、今年は新型コロナウィルスが蔓延した影響で、残念なことに夏季だけではなく年内の富士登山が禁止になりました。富士登山ファンの一人として来年には富士登山が解禁になることを切に願っています。◇

2020年5月24日 (日)

海外出張の7か国目はインドネシア

大型商談の入札で一番札を得たことで、その応札内容についての技術折衝(せっしょう、注釈:交渉のこと)を行うため、1985年2月にインドネシア(正式国名:インドネシア共和国)のジャカルタとバンドンへ出張しました。インドネシアは東南アジアな南端に位置する、人口が約26千万人(日本の2倍強、世界で第4位)、面積が約190万平方キロメートル(日本の5倍、世界で第15位)の大国です。

また、島の数が世界で最多となる13千以上もあり、東西に5000㎞以上伸びる領土を持つ海洋国家です。主な島は首都ジャカルタがあるジャワ島、マレー半島の南にあるスマトラ島、同じくその東にあってマレーシアと領土を分けるカリマンタン島(ボルネオ島)、その東隣りにあるスラウェシ島、ジャワ島の東隣にあり観光地としてよく知られるバリ島とロンボク島などがあります。そして、東端にはティモール島(西半分)があります。

地理的には日本列島、フィリピン、ニュージーランド、南北アメリカ諸国とともに環太平洋火山帯を構成しています。つまり、火山が多く(活火山が129)、地震が多発することでも知られます。

歴史についても概観します。この地に住んでいたマレー系の人々が5世紀ころからいくつもの王国を建国し、来航するインド商人からヒンドゥー教を受け入れました。また、12世紀以降にはムスリム商人がもたらしたイスラム教が全土に普及。ちなみに、国名のインドネシアはオランダ支配下の20世紀初頭にインドとネシア(諸島)を組み合わせて創られたもののようです。

大航海時代の16世紀になるとヨーロッパ諸国(ポルトガル、イギリス、オランダ)が進出し、17世紀にはオランダが設立した東インド会社が、18世紀から19世紀にかけてイギリスの影響を排してほぼ全土を植民支配しました。20世紀初頭には独立運動が起こりましたがオランダの植民地政府によって鎮圧されます。

1939年に第二次世界大戦がヨーロッパで勃発(ぼっぱつ)し、オランダが「対日ABCD包囲網」に参加。1941年に日米が開戦したことに伴い、日本軍はマレー半島に上陸し、1942年にはインドネシアにも侵攻してこれを占領しました。1943年以降、日本軍は戦況の劣勢を挽回(ばんかい)するためにインドネシア人に軍事訓練を施したことが、第二次世界大戦後のインドネシア独立戦争の下地になりました。

1949年にオランダから独立することが正式に決定し、インドネシア共和国が発足。スカルノ初代大統領は、国内勢力間(注釈:多民族国家である)の対立に加えて国軍との対立が激化し、1965年に辞任しました。後継者となったスハルト大統領は30年におよぶ独裁的な長期政権を維持して経済を発展させたものの、国内勢力間の対立は現在も続いているようです。

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私が出張した1985年は上記したスハルト大統領統治下(1968年-1998年)の中盤に当たります。1985年2月の技術折衝に続き、同年10月と198611月、19871月と立て続けに技術折衝のためにインドネシアを訪れました。顧客にとって一大プロジェクトであったこともあり、異例のペース(頻繁さ)で技術折衝が行われたのです。

また、首都のジャカルタ(正式名称:ジャカルタ首都特別州、人口:950万人、都市圏では3120万人、地名の意味:偉大なる勝利の街)に加えてバンドンも訪れた理由は政府機関や有名な大学(バンドン工科大学など)が存在する地だったからです。

ジャカルタの南東約200㎞にあるバンドン(人口約240万人)までは、列車を利用する場合には棚田が広がる傾斜地を抜けて約3時間半、飛行機では気流に揺られながら45分ぐらいかかったと思います。現在は高速道路が開通したため、約2時間で移動できるようです。

熱帯性気候の暑さと自動車の渦(うず)に包まれたジャカルタに対し、バンドンは高地(海抜700m強)にあるため快適な気候と落ち着いた街並みが気に入りました。ちなみに、1955年にバンドン会議(第1回アジア・アフリカ会議)が開催されたことでも知られます。

ジャカルタでの移動手段は現地スタッフの車あるいはタクシーを利用しました。人力三輪自転車「ペチャ」も多数走っていましたが、ジャカルタでは利用したことがありません。安全上の理由(交通事故・トラブル)から利用しないように助言を受けていたからです。なお、ジャカルタは港がある旧市街(コタ地区、注釈:コタは町を意味する)とその南に広がる新市街(中央ジャカルタ市など)に分けることができます。

オランダ時代からの官庁街であったビジネス街は後者にあります。ムルデカ・スクエア(広場)がその中心と言えます。定宿はビジネス街の中心を走るタムリン通りにある「ホテル・ニッコー・ジャカルタ」(現プルマン・ジャカルタ・インドネシア)でした。

コタ地区は、ジャカルタの観光地ですが、治安はそれほど良くありませんでした。特に夜間は立ち入りを避けた方が良いと助言されました。車中から何人ものオカマが客待ちをしながら立っているのを見かけました。

インドネシアについても、マレーシアと同様、写真がほとんど残っていません。数枚残っている写真(多くは業務関連)の中に会食中の写真を一枚を見つけました。

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ちなみに、インドネシアへは米国赴任期間を挟んで計6回出張することになりました。なお、インドネシアの観光旅行については20153月の関連ブログ記事「インドネシアの遺跡と舞踊劇を楽しむ旅」(バリ島・ジョグジャカルタ)を参照してください。◇

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