旅行・地域

2020年8月 4日 (火)

小さな旅「白髭(ひげ)とわんぱくの湖(うみ)~福井県 三方五湖~」

NHK総合テレビで726日に放送された番組「三方五湖(みかたごこ)への小さな旅」を見ました。

NHKの関連hpには以下のように紹介してあります。

『若狭の複雑なリアス式海岸に沿って点在する5つの湖、福井県三方五湖。水質も生息する生物も異なる湖で、人々は四季折々の恵みを受け暮らしてきました。今も昔ながらの漁法を守り、特産の天然うなぎをとり続ける白ひげのベテラン漁師。湖の美しい風景に励まされ、新型コロナによる休業から再起を誓う旅館の主。地元の大人に見守られ、たくましく育つ小学6年生の太公望。ふるさとの湖の恵みとともに暮らす人々の小さな物語です。』

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番組を観ながら書いた概要は次の通りです。

筆者と同居者が4年前(20168月)にドライブ旅をした風光明媚(めいび)な観光地「三方五湖」が、そこで暮らす人々の視点から、紹介されました。

太古の地殻変動によって生まれたリアス式海岸が創り出した互いにつながる大小5つの湖は海水湖・汽水湖・淡水湖と様々で、それぞれ異なる特徴を備えています。三方湖は淡水湖であり、水月湖・菅湖(すがこ)・久々子湖(くぐしこ)は汽水湖、海水湖の日向湖(ひるがこ)は天然の優れた漁港になっています。

豊富な魚貝類の良質な漁場である三方五湖では漁(りょう)が行われていました。しじみ貝・鮒(ふな)・若州(じゃくしゅう)の大鰻(おおうなぎ)など。三方湖では白ひげが特徴である年配の漁師が今日も漁に出ていました。古くから漁業で栄えましたが、高度経済成長時には多くの人々が都会へ働きに出たといいます。年配の漁師が手入れをしながら父親が手作りした漁師道具を紹介しました。消防士である若者が鰻漁の仕方を習いたいと漁船に同乗することになりました。興味を持った若い世代に鰻漁の仕方を自分が元気であるうちに一から伝え残したいとその漁師はいいます。

三方五湖で最も大きな水月湖では旅館「湖上館」を守る人がいました。学生時代(高校・大学)にボート部で活躍した御主人はバブル崩壊後の危機的な状況に陥った旅館をカヤックに乗るツアー観光で盛り上げようとしています。夜の湖に出ると、桜のトンネルが幻想的な風景です。しかし、今年は新型コロナウィルス感染禍のため客の姿はありません。

学校から帰った小学六年生の少年は自転車を飛ばして湖へ。好きなルアー釣りをするためです。高級魚のスズキが釣れました。共働きの両親を持つ少年は近所の中学生に釣りの楽しみを教えてもらってからはゲーム三昧(ざんまい)の生活が一変したそうです。さらに、2年前に偶然出会って友人になった37歳の年長男性と競うようにシーバスやフナなどを釣って楽しみます。釣りのプロになりたいと将来の夢を語りました。

番組を観終わって今回のタイトルの意味が分かる趣向(しゅこう)になっていました。◇

2020年8月 2日 (日)

神秘のヨーロッパ 絶景紀行「崖の上に街があった」を観る

NHK総合テレビで725 日に放送された掲題の旅行記番組を観ました。

ちなみに、NHKの関連hpには次のように説明してあります。

『ドローン映像を駆使し、地上にも降り立ちながら崖の上に築かれた街を巡るヨーロッパ一周の旅。たった一人が暮らす集落から要塞都市まで、まさに絶景の連続。語りは岡田将生』

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番組を観ながら書いたその概要は以下の通りです。

冒頭、急峻な崖の上に街が造られた例がヨーロッパ全土に存在することを紹介した上で、ヨーロッパ文明発祥の地であるギリシャから始まり、北欧のノルウェー、イギリス、ポルトガル、スペイン、フランス、そしてイタリアと、反時計回りにヨーロッパを一周することを説明。そして、崖の上に街が造られた理由と人々の生活をドローンを使った空撮を駆使して紹介する番組であることも明かしました。

最初の訪問地はギリシャのエーゲ海(注釈:その南部であるクレタ海)にあるサントリーニ島の中心地「フィラ」です。頂上が冠雪した岩山のように見えたのは、赤茶色をした岩崖の上に造られた白い建物の一群でした。崖に横穴を掘ってスペースを確保する工夫がある洒落た外観の家々です。崖の下にある小さな船着場からは何度も折れ曲がる石段の道が続いています。580段もあるそうです。ロバが人や荷物を運びます。

現在、観光地となっているサントリーニ島は三日月型をしており、その頂上部にはいくつもの街が点在しています。「フィラ」のすぐ北にある人気リゾート地の「イメロヴィグリ」もそのひとつです。街の中は階段だらけ、複雑な構造でホテルなどが造られています。

過去に何度も地震や火山の噴火が起きましたが、3万年前の噴火と地震によってカルデラが沈んだことで、サントリーニ島はカルデラの中心であり現在も噴火を続ける「ネア・カメニ島」と別の島になったといいます。つまり、サントリーニ島はカルデラ縁の一部であったため、三日月型をしているのです。天災のため島を去った人々もいましたが、残った人々は街を造り続けました。今も古代ギリシャ文明の「ティラ遺跡」(防衛拠点)が残っています。

サントリーニ島はその地理的な特徴からエーゲ海における交通の要衝(ようしょう)だったのです。現在のような観光地になる前は、限られた土地を利用する自給自足の生活だったと村長さんは言います。畑にはワイン用のブドウが栽培されています。火山灰の土地がそれに適しているのです。崖の中ほどにある「聖アンドニオス教会」は1000年も前に洞窟を利用して建てられものでした。

カメラはエーゲ海のもうひとつの島も訪れました。「悲劇に消えた街」です。隣国トルコまで8kmの「ヒオス島」の街「アナヴァトス」は中世に築かれましたが、19世紀にオスマン帝国が襲い、その後の地震で廃虚になりました。

2か国目はノルウェーにある「フィヨルドの一軒家」です。「カルガンベル・フィヨルド」を見下ろす高所にある集落「シェオースン」(子山羊の丘)は利用できる土地が狭く生活が苦しかったことから住民が去り、現在は高齢(89歳)の女性が一人で生活していました。1年の半分を自分の生家で暮しているのです。

3か国目はイギリス南部のコーンウォール地方です。小さなセント・マイケルズ・マウント島は信仰の対象であり、12世紀には修道院が建てられ、その後は貴族の館も建設され、その子孫たちが住んでいるそうです。干潮になると現れる道を歩いて島に渡ることができます。ちなみに、「セント・マイケルズ・マウント」はフランスの世界遺産「モン・サン・ミッシェル」の英語表記であるのは、かつては後者の管理下にあったからといいます。

4か国目はポルトガルです。首都リスボンの北東、スペインとの国境に近いモンサントにある「巨岩のはざま」です。巨岩が多数ある崖に多数の建物が建てられていました。崖に埋め込まれたようです。何万年も前からある花崗岩(かこうがん)の巨石です。レストランの客席は洞窟の中にありました。岩は壁代わりになっています。ポルトガルは元々要塞の街として築かれた街だったのです。

5か国目はスペインにある「街を切り裂く断崖」です。高さ100mの上にあるのはスペイン南部のアンダルシア地方の街「ロンダ」。街の中にある裂(さ)け目に架けられたのが18世期に石で造られた「ヌエボ橋」です。一方がイスラムが築いた旧市街で、もう一方はキリスト教徒が後に築いた新市街なのです。スペインで最も伝統がある闘牛場ともう一つの橋「ビエホ橋」がありました。

市の職員が橋の下を清掃しているところに出会いました。古代ローマ時代の遺跡が見つかったそうです。当時の「ロンダ」は交通の要衝(ようしょう)でした。イスラム王朝が築いた城壁も残っています。イスラムが去った後に街は造り変えられ、旧市街の崖の上に建てられ住宅がありました。岩が堅固であるため安全で見晴らしが良いため快適なのだそうです。

6か国目はフランス南部にあるキリスト教の聖地「 ロカマドゥール 」。そこに「岩窟(がんくつ)の黒いマリア」があるのです。崖と一体になったような建物とともに聖堂が建てられていました。

12世紀にカトリックによって聖地とされたことで多くの人々が巡礼として訪れる街です。その洞窟には「黒いマリア像」があったと伝えられますが、12世紀に作られたた「黒いマリア像」が街の中にある「ノートルダム礼拝堂」に安置されています。

コルシカ島の南端にあるボニファシオの旧市街は石灰岩でできた垂直な崖の上にありました。天然の良港があるため、周辺の国々がその領有を巡って争ったそうです。

7か国目はイタリア中部(ローマの北方)のオルヴィエートにある「世界一美しい丘の上の街」です。火山の噴火で露出した岩の上に、紀元前9世紀、先住民族のエトルリア人が街を築きました。中世には崖を利用した城壁が築かれ、堅固な城壁都市となりました。

オルヴィエートの南方約15kmには「削られる街」と呼ばれる崖の上にある「チヴィタ・デイ・パニョレージョ」があります。長さ300mの橋でしか行けない街なのです。元々は5つの門がある交通の要衝でしたが、地震や地滑りによって地面が崩れ、18世紀には「陸の孤島」になりました。地盤の凝灰岩(きょうかいがん)は脆(もろ)く、今も風化が進んでいると言います。住民は11人。この地を離れ難(がた)い人たちなのです。

最後はシチリア島にある「天空の神々」です。標高751mに「エリチェ」は褐色の建物がひしめいている。現在は100ほどが暮らしている。先住民が造った街に様々な民族が住みつき、キリスト教が普及すると、いつしか「ヴィヌス(ヴィーナス)神殿と呼ばれるようになった。また、12世紀にこの地を支配したノルマン人(北方系ゲルマン人)は砦(とりで)を築き、その周辺に街ができ、30もの教会が建てられた。だが、常駐すれ親父は一人しかいない。

エリチェ」からは素晴らしい絶景が楽しめました。また、ヴィヌス神殿 の石を使って14世紀に建てられた「マドリーチェ教会」は19世紀に内部が改装されて柔らかな印象を与えます。そして、最後に崖の上に暮らす住居と住民の暮らしを紹介して番組が終わりました。

2020年7月31日 (金)

聖なる巡礼路を行く!〜カミーノ・デ・サンチャゴ 1500km〜(3)魂の道

NHK総合テレビで724日に放送された「聖なる巡礼路を行く!〜カミーノ・デ・サンチャゴ 1500km〜(3)魂の道」を観ました。「(1)宗教の道」(ピレネー山脈まで)と「(2)肉体の道」(ピレネー山脈以降)に続く最終回です。

NHKの関連hpには次のように紹介されています。

『キリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを徒歩で目指す旅「サンティアゴ巡礼」。スペイン中央部から続く道で、自身の内面と向き合う巡礼者たちの感動の物語。』

『キリスト教の聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラを徒歩で目指す旅「サンティアゴ巡礼」。最先端の8Kカメラを用い、3回シリーズでその全貌に迫る第3話は、スペイン中央部に広がるメセタの大地から続く平坦な道のりを追う。高低差もなく、景色の変化がないため否応なく自身の内面と向き合うことになるこの道を経て、巡礼者はいよいよ聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラの大聖堂に到着する。』

【語り】武内陶子, 森川智之

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番組を観ながら書いた概要は以下の通りです。

3回シリーズの最終回は「サンティアゴ巡礼」の出発地であるフランス南東部の聖なる地、ル・プュイ=アン=ヴレにあるノートルダム大聖堂のシーンから始まりました。

スペインの聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」の大聖堂まで1500km(注釈:スペイン国内は約900㎞)も続くサンチャゴ巡礼路「ル・ピュイの道」は年々人気が高まって、巡礼者の数は年間35万人を超えているそうです。一日平均20km歩く巡礼者たちの多くは人生の節目を迎えている人たちです。中には悩みを抱えている人もいました。

筆者が10年以上前に体験した日本の「四国遍路」(四国八十八か所巡拝、ルート長:1,100‐1,400㎞)と似ています。ただし、出発地が多数ある「サンティアゴ巡礼」に様々なルートがあり、本番組で扱われたのは「フランス人の道」です。ちなみに、昨年の北欧旅行の帰路、コペンハーゲン空港で出会った日本人ご夫妻からお聞きした「ポルトガルの巡礼」(説明:リスボンから北上してサンティアゴ・デ・コンポステーラに至る「ポルトガルの道」)とは出発地とルートが異なります。

ノートルダム寺院を出発した様々な人たち(巡礼者たち)が聖地「サンティアゴ・デ・コンポステーラ」を目指して歩き始めました。イエス・キリストの影響を恐れた為政者によって殺された聖サンチャゴ(説明:聖ヤコブのスペイン語表記、キリストの使徒のひとり、使徒ヨハネの兄)の埋葬地です。出発地から100㎞余り歩いて到着した「エスタン」では、中世の祭りが行われており、テンプル騎士団(説明:ローマ教皇に認可された中世の騎士修道会)が登場しました。フランスで最も美しい村といわれるそうです。

次いで、やはり美しい「コンク村」まで進みました。そこには天国と地獄が表現されており、巡礼によって救われた巡礼者の自戒(じかい)がありました。四国遍路で見かけた人たちの表情と重なります。そして、いずれにおいても巡礼者たちの心の交流がありました。また、「カオール」ではヴァラントレ橋サンテティエンヌ大聖堂の美しさを紹介しました。

スペインが近づきました。ピレネー山脈を越えるのです。巡礼者たちは難所であるピレネー越えのレクチャーを受けます。フランス側に続くなだらかな上り坂の道をひたすら上って頂上付近を過ぎると、スペイン側の急な下り坂が待っていました。ロンセス・バリェス村に到着。フランスとスペインにまたがるバスク地方を歩きます。バスク人の文化が根付く地域です。巡礼者たちのために架けられた「王妃の橋」を渡ります。

美しいシラウキの町からロブローニョの町に入りました。この「美食の町」では収穫祭が行われていました。目的地まであと580kmです。平らな農地が広がるスペインのメセタの大地を歩きます。地形と景色に変化がないため、「心の難所」と呼ばれるそうです。ここで日本人巡礼者が登場してインタビューに答えました。レオンの町では「レオン大聖堂」が巡礼者たちを迎えました。

巡礼宿のアベ・フェニックスでは魔除けの儀式である「ケイマーダ」が始まりました。巡礼者たちを歓迎するケルト人(説明:中央アジアからヨーロッパに移り住んだ民族、非ゲルマン系)の儀式です。「レオンの町」を出てスペイン北西端(ポルトガルの北隣)にあるガリシア州に入りました。目的地まであと48kmを残すだけになりました

旅のゴールが近づいたところで巡礼者たちの思いが語られます。聖地サンティアゴ・デ・コンポステーラ大聖堂に到着した巡礼者たちは巡礼終了証を受け取りました。四国遍路では高野山にて御朱印をいただくことと同じです。巡礼を終えた巡礼者たちは90km離れた大西洋に面した景色が美しいフィニステーレ(説明:地の果ての意)へ向かうシーンで番組は終わりました。

2020年7月13日 (月)

ブラタモリ「葉山へ ヨットと別荘の町の謎」を観る

7月11日にNHK 総合テレビで放送されたブラタモリの「葉山編」を観ました。ちなみに、NHKの関連hpには次のように紹介されています。

『日本有数のヨットの町であり、さらに御用邸があることから皇室ゆかりの地としても有名な葉山の秘密を探る▽「江ノ島ごしの富士山」絶景の魅力!▽ヨット乗りが憧れる葉山の海・その秘密は複雑な風にあり!?▽入り組んだ山の地形をつくる「葉山層群」とは!?▽皇族のかつての別荘を訪ねる▽“憧れの葉山”をゆるがした鉄道の計画とは!?』

番組を観ながら書いた概要は以下の通りです。

番組は葉山マリーナか脇のロケから始まりました。今回のお題は「"憧れの葉山"はどうできたのか?」です。石原裕次郎さんが初主演した映画「狂った果実」でヨットと葉山が憧れの対象として注目されたことを紹介して"葉山"巡りが始まりました。クルーザーに乗ったタモリさんは防波堤へ向かいました。

空気が澄んでいれば富士山を望むことができることを知り、ヨットに乗る人たちからヨットに大切な風について聞きます。葉山では複雑に風が変わる理由を調べました。葉山の地形を地形図で確認し、2つの窪地があり入り組んだ山が複雑な風を作ることを専門家から教わり、その地形ができた理由を探りました。

先ず、森戸海岸に下りて割れ目がある大きな泥岩と砂岩が硬い「葉山層群」でできている地層をハンマーで叩いて確認します。葉山エリアの大部分はこの「葉山層群」でできているというのです。海岸の先に2つに割れた大きな岩を発見しました。タモリさんは断層だと指摘します。葉山の入り組んだ地形は断層によって造られたことを確認します。断層の跡は弱くなるため、風雨によって侵食され、やがて削られるのです。葉山には数えきれないほど複雑な断層があったことをタモリさんは知りました。

次いで明治27年(1894年)に御用邸が葉山に建てられた理由を調べます。風光明媚(めいび)・気候温暖・東京に近いという理由の他に約10km先の横須賀へ行きやすいことがあったのです。日清戦争が起きた年に御用邸が建てられたのは、大元帥であった天皇陛下が軍港がある横須賀へアクセスが容易であることでした。

次いで、タモリさんは皇族東伏見宮の別荘跡であるイエズス孝女会修道院(敷地内に幼稚園がある)へ向かいます。海軍大将であった依仁(よりひと)親王が建てた洋館(本館)は1階が迎賓室で、2階は私的な空間であったものが、当時のまま保存されていました。2階からは海岸と江ノ島、そして富士山が展望できたことを古い写真で確認します。また、古い地図で内陸まで別荘地が広がっていたことを知ります。緩やかな傾斜地の利点が葉山にはあるのです。

そんな魅力的な憧れの葉山を許しかねない計画があったことを教えられます。向かったのは隣の逗子市にある京急逗子線の「逗子・葉山駅」です。大正6年(1917年)に当時の逗子駅から鎌倉方面と葉山方面に鉄道を延長することを計画したのです。別荘への悪影響が考えられましたが、実現しなかった理由がありました。ちなみに、逗子線の終点は新逗子駅(旧逗子海岸駅)です。

葉山の地質図で確認すると、逗子市と葉山町の境界に「葉山層群」があり、硬い地層と断層は当時の技術ではトンネルを掘ることが困難であったことでした。この「葉山層群」の存在が憧れの葉山を守ったことをタモリさんが理解したところで番組は終わりました。◇

2020年6月25日 (木)

ブラタモリ「福井・一乗谷」を観る

6月20日にNHK総合テレビで放送されたブラタモリ「福井・一乗谷~アンコール~」を観ました。2019年22日)に放送された番組のアンコール放送です。

NHKの関連hpには、『旅のお題「福井のルーツは消えた都市にあり!?」を探る恐竜が出迎える福井駅から鉄道で一乗谷へ!大河ドラマ「麒麟がくる」でユースケ・サンタマリア演じる朝倉義景、その繁栄の痕跡を訪ねるトイレの跡から見つかった日本初の〇〇〇〇〇とは!?当時の一乗谷を復元したエリアをタモリさんが歩く一乗谷で生まれた知恵が残る福井市内へ』 とあります。

以下は2度目となるこの番組を観ながら書いた概要です。

福井駅の駅前広場にある動く恐竜像を観ながらタモリさんはアシスタントの林田理沙アナウンサーを相手に掛け合い漫才をしているところへ「今回のお題」が届きました。「福井のルーツは“消えた都市”にあり!?」でした。博識のタモリさんは「滅ぼされた朝倉氏と一乗谷」に言及。タモリさんと林田アナは考古学の専門家と福井駅から越美北線(通称:九頭竜線)の電車に乗って15 分、5番目の「一乗谷駅」へ向かいました。

タモリさん一行は越美北線に平行して流れる足羽川沿いにある県道31号を東へ約500m歩いた丁字路で南へ伸びる県道18号に外れて「一乗谷」に入り、その約200m先で大きな土塁(どるい、高さ4m/長さ38m)と鉦折(かねおれ)状の巨大な石積み「虎口(こぐち)石垣」を見つけました。「一乗谷朝倉氏遺跡」の城戸(門)、つまり防御用の施設「下城戸跡」です。かつては1万人が暮らした街の南北に2か所あった「天然の要害」のひとつです。先へ進むと住居(町屋)跡「平面復原地区」が広がり、それぞれの区画には井戸と廁(かわや)跡が復元されていました。一際大きな区画は医師の屋敷跡とのこと。

信長に攻め滅ぼされたあと「一乗谷」に住んでいた人々は広い平野部へ移動し、「一乗谷」は土で埋められて田畑になったそうです。そのため、極めて保存状態の良い屋敷跡が50年ほど前に発見されたことを専門家から聞かされました。大きな武家屋敷が並んでいたエリア「復原町並」の先にはなぜか商家が混在していました。商業活動(経済)が発展して商人が重視されるようになったからなのです。「一乗谷」の中心部に再現された唐門が見事な「一乗谷朝倉氏遺跡(朝倉義景館跡)」では、遺跡で発見されたさまざまな遺物を見学します。

福井市の中心部(福井駅の北)にある福井城へ戻ったタモリさん一行は白い瓦で葺(ふ)いた城門を間近くから観察します。瓦と思われたものは、焼き物ではなく、「笏谷石(しゃくだにいし)」を削って作られていたのです。この笏谷石は火山岩や火山灰などが堆積して凝縮した凝灰岩(ぎょうかいがん)で、福井市で多く産出され、全国へ送られた名産品だったのです。福井市の西部「足羽山」の麓へ移動したタモリさん一行は料亭になっている石切場跡も見学しました。昔は足羽川がその石切場の近くを流れていたことで、船を利用して笏谷石を全国へ積み出すことが容易であったことも知りました。

次いでタモリさんが向かったのは商店街。江戸時代に大きな商家が立ち並んでいた場所です。「一乗町」の地名がある理由は「一乗谷」にいた商人たちがそこに移り住んだことによります。江戸時代の古地図にある組頭で御用商人の「国島家」を訪ねてご主人から昔話を聞き、朝倉家の家紋がある留袖(とめそで)を見せてもらいました。タモリさんは「一乗谷」から福井市の町へと歴史が続いていることをしっかりと確認したところで番組が終わりました。

〈筆者コメント〉 4年前(20168月)ですが、「続々・奥の細道紀行」の途中、永平寺に続いて福井市の城を訪れていますが、時間の制約で「一乗谷」には立ち寄っていません。機会があれは近いうちに「一乗谷」を訪れたいと思います。ちなみに、福井市文化遺産hpには「一乗谷」について詳しく解説してあります。

2020年6月21日 (日)

ブラタモリ「釧路湿原~アンコール~」を観る

2020年66日にNHK総合テレビで放送された掲題の番組を観ました。2019720日に放送された番組のアンコール放送です。なお、事前に読んだNHKの関連hpには次のように紹介されています。

『野生のタンチョウ・エゾシカに興奮!「世界に誇る釧路湿原のスゴさとは?」貴重な大自然が4000年保たれる秘密をタモリさんがズブズブ歩いて解き明かすアンコール放送』

『北海道の東部、普段は入ることが出来ない湿原の中心部へ! ラムサール条約にも登録され世界的にも認められた湿原のスゴさを探る▽釧路本線の車窓から絶景を楽しむ!▽手こぎカヌーで蛇行する川を体感!▽湿原が森林化せず原始の姿を保っている謎。そのカギは「泥炭」にあり!?▽名曲「霧の摩周湖」誕生も釧路湿原のおかげ!?』

タモリさんは、アシスタントの林田理沙アナウンサーと一緒に、北海道の森の中を歩いています。やがて景色が開けてタモリさんは釧路湿原の細岡展望台に立ちました。見渡す限りの絶景が広がっています。北海道の東部に広がる日本最大の湿原(広さ227平方キロメートル)は山手線がすっぽり入る大きさです。有名な尾瀬の約30倍の広さ、日本の湿地の約3割を占め、ラムサール条約に日本で最初に登録され、世界的にも評価の高い場所と紹介されました。ブラタモリの今回のテーマは『世界に誇る釧路湿原のすごさとは?』 です。

釧路湿原はもとは海でしたが、6千年前から海が後退して西側の海岸に砂丘ができ、次いで湿原ができました。通常、湿原はなくなってしまうことが多いのですが、『なぜ釧路湿原はその姿を維持できているのでしょうか?』 の問への答えをタモリさんは探して釧網(せんもう)本線の釧路湿原駅に向かったタモリさんは駅周辺に多数ある湧き水が線路の下をくぐって低い湿原に流れて行くのを見ました。

タモリさんは釧網本線の車窓から釧路湿原の絶景を楽しみながら湿原の北にある茅沼駅で降ります。手こぎカヌーに乗ったタモリさんと林田アナは川の流れを体感しようと試みますが川には高低差がほとんどないことが分かります。タモリさんは水の流れがない川は蛇行を繰り返して蛇行する性質があると説明します。

タモリさんはカヌーを降りて湿原に入りました。川の蛇行部分では、水かさが増すと一面水浸しになり、土砂が溜まって湿原ができることを確認しました。湿原は時間が経(た)てば陸地化し、さらには森林化するのが普通ですが、釧路湿原は森林化しないのです。

タンチョウ(丹頂鶴)を見学したタモリさんは許可を得て湿原の中心地に入りました。タモリさん一行が湿原の小川の岸辺でジャンプすると、小川に気泡が現れました。植物の根や葉が分解されずに残って泥炭(でいたん)になっていたのです。この柔らかい泥炭は、10年で1cm堆積し、4000年が経過した現在は4mもの厚さに達しているそうです。樹木が育たないこの泥炭の存在が森林化を防ぐカギだったのです。謎の深い水たまりに林田アナウンサーが入って内部を確認するとゼリーのような感触があることが分かりました。あちこちにある水溜まりは川の跡だったのです。

釧路湿原の西側では砂丘が陸に入り込んだことで内陸方向への流れが生じ、湿原の東方で内陸から海の方向へ流れた水があり、両者で釧路湿原内に水のループができていたのです。これに加えて水に削られやすい泥炭で川の流れが変わりやすいため、でき始めた森林はすぐに湿原に戻ってしまうのです。

釧路湿原には年間に100日以上、霧が発生するそうです。釧路沖で、暖流(黒潮)と寒流(親潮)がぶつかることが原因とのこと。霧で覆(おお)われるため釧路湿原は気温が低く(説明:夏でも20度を超えることは滅多にない)、天然の冷蔵庫だったのです。名曲「霧の摩周湖」の誕生も、釧路湿原の存在抜きには語れません。摩周湖の第一展望台からタモリさんが約80km離れた釧路湿原を遥かに望みながら感動したと話したところで番組は終わりました。

〈筆者コメント> 大学1年(1964年)の夏休みに友人と二人で北海道一周旅行をしました。家庭教師のアルバイトで何とか賄(まかな)った周遊きっぷ(説明:道内での乗り降りが自由な均一周遊乗車券)を持ち、横長のリュックサックとテントを背負う「蟹(かに)族のゲルピン旅」でした。(注釈:ゲルピンとはお金(ドイツ語でゲルト)がピンチ、つまり金欠状態のこと)

上野駅発の夜行列車(蒸気機関車が牽引)と青函連絡船を利用して入った北海道の函館から反時計回りのルートで北海道をほぼ一周する旅でした。函館本線と室蘭本線で洞爺湖(昭和新山)と登別に立ち寄り、根室本線で十勝平野を横断して、釧網本線で釧路湿原を通過した(説明:車窓から眺めた)あと、摩周駅で下車。路線バスを利用して摩周湖に立ち寄りました。ロシアのバイカル湖に次いで世界で2番目に透明度が高い湖です。タモリさんが番組内で言及した布施明さんの「霧の摩周湖」がヒットする2年前のことでした。

下の写真は左端に写る「カムイシュ島」と右端の「摩周岳(カムイヌプリ)」(説明:摩周湖外輪山の最高峰)の位置関係から考えて「摩周第一展望台」で撮影したもののようです。ちなみに、アイヌ語で「カムイ」は神様を、「シュ」は老婆を、「ヌプリ」は山を意味するそうです。

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56年前の北海道旅行では摩周湖が利尻山(別名:利尻富士)と並んで最も印象深い場所でした。ちなみに、摩周湖の隣にある屈斜路湖(くっしゃろこ、川湯温泉)に立ち寄ったあと、知床(しれとこ)半島のウトロ・旭川・稚内(わっかない)・利尻島・礼文島・札幌・小樽などを経由して函館に戻る約3週間の長旅になりました。また、2005年10月のブログ記事では2002年9月の北海道旅行に基づいて北海道の温泉を紹介しています。◇

2020年6月17日 (水)

NHK「日台共同制作ドラマ 路(ルウ)」を観る

NHK総合テレビで516日から毎週土曜日の午後9時から3回に亘(わた)って放送された土曜ドラマ「路~台湾エクスプレス~」を観ました。5年半前に台湾を旅行した時に乗車する機会があったことで興味を持ったのです。日本と台湾を舞台に台湾高速鉄路(台湾新幹線)開通までの8年間を巡る日台の人々の絆(きずな)と人生の物語を描いた吉田修一氏の同名小説(2012年刊行)をテレビドラマ化したものです。ただし、ストーリーの細部に変更された点がいくつもあるようです。

ここでプチ蘊蓄(うんちく)です。漢字の「路」(ろ)は中国語でルウと発音し、地上・水上・航空の道(道路・水路・空路)などを意味します。ちなみに、日本の古都である奈良(平城京)や京都(平安京)では中国風に命名された道路名「〜大路(おおじ)」と「〜小路(こうじ)」が今も残っています。なお、現代の日本において道路は「〜道」と呼ばれることが多いのですが、元々「道」は地域(広域行政区画)を指す言葉(例、東山道や山陽道に代表される五畿七道の七道)であり、現在は「北海道」にその呼び方が使われています。

                            ☆

さて、ドラマを観ながら書いたあらすじです。

1999年の仕事納めの日、東京の大手商社大井物産(注釈:三井物産がモデルと思われる)の社内が大歓声に湧(わ)きました。台湾新幹線(正式名称:台湾高速鉄路)の車両システムについての優先交渉権を日本の新幹線株式会社(注釈:メーカーと商社が設立した会社)が大逆転で獲得したのです。そして、入社4年目の商社社員・多田春香(配役:波瑠)はプロジェクトの一員として商社が台湾の台北に設立した子会社(台北)へ出向することが決まりました。

その春香には、大学2年生であったの夏に初めて台湾を訪れた折、淡(あわ)い思い出があったのです。エリック(配役:アーロン)という名の台湾人青年と偶然出会い、たった一日だけ台北市内を案内してもらったものの、その後は連絡が取れなくなってしまい、自分の思いを封印することにしたのです。

そして6年後の2000年、二度と台湾へ行かないと心に決めていた春香は台湾新幹線建設チームの一員として、再びその地(台北市)を踏むことになりました。赴任(ふにん)する直前、春香は交際中であった名古屋のホテルマン男性から結婚を申し込まれています。

勤務初日に春香は上司の山尾一(配役:寺脇康文)に連れられて台湾高速鉄路の本社を訪れて、技術担当副社長のジャック・バルト(欧米人)や運行担当副社長代理のレスター・王(わん)などの幹部と面談しますが、冒頭から台湾側の考え方(台湾オリジナルを追求)と日本側の認識(新幹線方式に固執)が大きく異なっていることを知ります。

歓迎会の二次会で訪れたバーで不躾(ぶしつけ)な態度をとる同僚男性の安西誠(配役:井浦新)の存在がありました。そして6年前に立ち寄った食堂を春香は久しぶりに訪れます。ここで場面が東京に急展開。建設会社主催の講演会「昭和のインフラ整備」で聞いた葉山勝一郎(配役:高橋長英)の話に感動した大日本設計(業界大手)に勤務する劉人豪(リョウレンハオ、配役:炎亞綸)は講演を終えた葉山に声を掛けました。劉(りゅう)が台湾出身であることを知った葉山は資料が見たいという劉を自宅へ招待します。

次いで舞台は台湾南部の高雄(かおしん)市に移りました。台北市まで90分で行ける台湾新幹線を話題にする八百屋夫婦のシーンに続いて、その息子と幼馴染(おさななじみ)の女性が登場して「高鉄機廠預定地」(和訳:新幹線整備工場の工事現場)を紹介します。

2001年に正式契約が締結されたものの、技術的な詳細についての議論が続いていました。台湾側と日本側がそれぞれ持つ車両のイメージが異なっているのです。春香は台湾人の女友達に、問わず語りに、思い出の台湾男性のことを話しました。出会いから台北市の各地を案内してくれたこと、帰国日にはホテルまで来て電話番号を教えてくれたことも。日本では劉が葉山に気に入られ、入院中であった葉山の妻から葉山夫婦が台湾生まれであることを聞かされます。病院を出た葉山は劉に台湾人の学友に言った酷(ひど)い言葉についての苦い思い出を話すのです。

台湾高鉄側はレールをヨーロッパ規格から日本のJIS規格へ変更することを決断しました。しかし、安西の頑(かたく)な態度に台湾側との間に不穏な雰囲気が漂います。これを心配した王は春香を食事に誘い、台湾独自(オリジナル)の高速鉄道を創りたいという自分の気持ちを春香に語りかけた。

年末に帰国した春香は神戸の実家に戻る途中、名古屋に立ち寄りました。プロポーズしてくれた男性に会うためです。その男性に問われて春香は台湾での古い思い出を正直に話しました。台北市に戻った春香は女友達(現地採用の同僚)からエリックの消息が分かったことを知らされます。そして、エリックからメールが届きました。一方、エリックは葉山から彼の妻が急死したことを知らされます。

春香はエリックと8年振りに台北市で会うことになりました。待ち合わせの場所で待つエリックを遠くから見た瞬間、8年前の自分の思いが恋であったことに春香が気づいたところで「第一回」が終わります。

                             ☆

「第二回」は春香とエリックの再会シーンで始まりました。8年前と同じ食堂で再会を喜ぶ二人。『これからも連絡をして良い?』 と尋(たず)ねるエリックに、春香は『もちろん。友達でしょ!』 と反射的に心の想いとは違う言葉を発してしまいました。仕事においても台湾高鉄とは運転士の訓練についても意見が対立していました。日本(JR)の協力を得て訓練を日本で行いたいと言う日本側の提案に台湾高鉄幹部のバルトが難色を示したのです。しかし、王が進言したことでバルトは日本での訓練を受け入れました。

誘われた食事の席で王から彼の真意を聞きながら春香は王が自分に好意を持っていることを感じます。運転士の訓練開始に合わせて帰国した春香はエリックとともに葉山宅を訪れました。エリックと春香は何か蟠(わだかま)りを持っている葉山を、彼の妻の願いにしたがって、台湾へ誘いました。神戸の実家へ行く途中、春香が名古屋に立ち寄ると、交際中の男性は婚約指輪を準備していました。心の準備ができていなかった春香はそれを受け取る時になぜかエリックのことを考えていました。

葉山がエリックと一緒に台北の空港に到着。春香以外にも出迎えた人がいました。葉山の同級生だった中野赳夫こと呂燿宗(配役:楊烈)です。二人は葉山が昔(戦前に)住んでいた思い出の場所を一緒に歩きました。そして、葉山は60年前に発した差別的な言葉について中野に深く詫(わ)びます。一方、美香とエリックは互いの生まれ故郷(神戸と台中)がそれぞれ大地震に襲われた時、二人はそれぞれ相手の街を訪ねて安否を確認しようとしたことを知ります。そして、エリックは付き合いたいと美香に言いますが、婚約者がいる春香はエリックの申し出を受け入れることができません。

そんな折、春香は台湾の東海岸にある花蓮(ファーリェン/かれん)を訪れました。エリックの所在を探し出してくれた女友達の故郷です。そこで少数民族(高山族)のお祭りを楽しんだ美香はエリックと分かれたことをその女友達に伝えます。私的にも慌(あわ)ただしい美香でしたが、新幹線の車両が高雄市に運び込まれる日がやってきました。高雄港に陸揚げされた車両はブラスバンドに先導されたトレーラーで市内へと運ばれる様子を大勢の市民たちが歓喜して見つめるシーンで第二回が終わりました。

                             ☆

「第三回」(最終回)の冒頭、王からの電話で王が台湾高鉄を辞職したことを聞かされた春香は台湾高鉄の本社へ向かいました。副社長との対立が原因であることを察した春香の感情的な発言を王は途中で遮(さえぎ)ります。春香まで副社長と対立させたくなかったのです。その後、春香は王から『台湾の誇りになる新幹線を作ってほしい』 と言われます。

開業を1年後に控えた2005年、高雄(カオシン)県燕巣(エンチャオ)から台中駅の北までの約60km区間で走行試験が始まりました。最初は時速30kmでの低速走行試験です。橋梁などにおける設計変更個所の安全性確認がその目的でした。予定より遥(はる)かに遅い進捗状況です。これに焦(あせ)る安西。そして開通の遅れが日本の新聞で報道されたことに激怒する台湾高鉄副社長のバルト。

春香は台北市を突然訪れた婚約者と思い出の食堂にいました。台湾新幹線の開業が遅れたことは二人の関係にも影を落としていました。気持ちが噛(か)み合わない二人は互いに相手を咎(とが)める言葉が出てしまうのです。さらには、台北を訪問中の葉山が末期癌(がん)であることが旧友で医師の中野赳夫の診断で判明しました。

台湾鉄路の運転士とフランス人指導員(フランスのTGV方式の訓練)とのコミュニケーションが上手く行かないこともあり、開業までの工程はさらに遅れてしまいます。その状況を深刻にとらえたバルト副社長は王を台湾鉄路に呼び戻しました。王のリーダーシップによって工程を前進させたことで、やっと最終工程である1か月間の試運転が始まりました。

関係者が固唾(かたず)を呑(の)んでその進捗を見守る中、ついに試運転は最終日を迎え、バルト副社長と山尾が最終試験列車に試乗しました。始発駅の台北駅から終点駅の左営(ズォイン)駅(注釈:高雄市左営区)までの約350㎞を順調に走行。左営駅のホームではいつも激論を交わした安西がバルト副社長を出迎えて握手を交わしました。

帰国して名古屋駅に降り立った春香は婚約者に指輪を返します。謝罪の言葉とともに。これまでの言動を振り返って謝る元婚約者。言い訳をしないことが春香の誠意でした。台北市に戻った春香は上司の山尾から東京本社勤務の辞令を示されますが、台湾に残りたいと辞令を固辞します。高雄市の左営駅を出発した台湾新幹線の車両には幼馴染みの男女が乗っていました。男性はそれまでの思いを告白した勢いで思わず女性にプロポーズ。一方、台北駅発の台湾新幹線車両に同乗することになった春香とエリックは二人の出会いが運命であったことを確認し合うシーンでこのテレビドラマは終わりました。


〈筆者コメント〉 自動車列車飛行機など乗り物が大好きな筆者は台湾新幹線の走行シーンを楽しく観ました。そして、ドラマに登場した多彩な人たちの人間模様も。しかし、原作にしたがって詳しく描かれた何組もの恋愛関係はもう少し控(ひか)え目に扱った方が良かったと思いました。中でも主人公春香に思いを寄せる三人の男性と春香の複雑な関係はNHKのドラマとしてはリスキーだった思います。しかし、女優・波留さんの好感が持てる演技とNHKらしい巧みな演出によってその懸念は無用だったようです。また、主人公以外では同僚男性の安西誠役を好演した井浦新さんと葉山勝一役を渋く演じた高橋長英さんの二人が印象に残りました。

2020年6月15日 (月)

海外出張の9か国目はアメリカ(その2) カリフォルニアのサンフランシスコ

ワシントンD.C.へ出張した翌月(19879月)にはカリフォルニア州のサンフランシスコ9日間の出張をしました。顧客から要請があり、新技術を用いる先進のサービスをプレゼンテーションする目的でした。新技術の開発においては日本企業も競争力がありましたが、サービス分野においてはアメリカが日本より10年ほど進んでいるため、顧客の動向をいち早く知ることが重要なミッションです。

その結果、筆者はトライヤル(試行)を経て数年後にはアメリカで本格的なサービスが導入されることになるとの印象を持ちましたが、実際にはそれから10年以上の導入期間を経てやっと商用化されました。そして、21世紀初頭の現在においては当たり前のサービスとして全世界で普及しています。筆者の仕事(業務内容)についてはここまでに留(とど)めて、初めて訪れたサンフランシスコの魅力的な街並みを紹介しましょう。

最初にプチ蘊蓄(うんちく)です。カリフォルニア(California)は、スペイン領を経て、ネバダ州・ユタ州・アリゾナ州などとともにメキシコからアメリカに割譲(かつじょう)された土地であるため、地名にはメキシコ風、すなわちスペイン語の言葉が多く存在します。まず、カリフォルニアはスペインの神話に登場する空想上の天国を治(おさ)めた女王「カリフィア(Califia)」に由来するとする説が有力のようです。また、カリフォルニア州(人口約4000万人)第2の都市であるサンフランシスコ(人口約85万人、ベイエリア都市圏では約460万人)はキリスト教のフランシスコ会創始者「聖フランシスコ」にちなんで名づけられました。

仕事が一段落した週末の912日(土)、フェリー乗り場がある東地区の埠頭(ふとう)へ向かいました。サンフランシスコ湾に架かる「サンフランシスコ・ベイ・ブリッジ」(説明:別称はサンフランシスコ・オークランド・ベイブリッジ、1936年鉄道橋として開通、1963年に自動車専用に変更)が良く見える場所です。下の写真はサンフランシスコ湾にある「ヤーバ・ブエナ島」までの区間を撮影したものです。

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この橋はIS80(Interstate 80/州間高速道路80号線)の一部としてサンフランシスコとサンフランシスコ湾の対岸(約13㎞東)にあるオークランドを結んでいます。瀬戸大橋が1988年に開通するまでは世界一長い吊り橋でした。ちなみに、サンフランシスコへ入る時には通行料金がかかるそうです。

なお、サンフランシスコ湾は南北に伸びるサンフランシスコ半島によって太平洋と隔てられた内海で、南北方向に約60km、東西には約15km、面積が1280平方キロメートルと巨大です。ちなみに、山手線内の面積63平方キロメートルの20倍強(東京23区の丁度2倍)。サンフランシスコ半島の北端にあるゴールデンゲート海峡で太平洋と繋(つな)がっており、その北東でサンパブロ湾と接しています。

反対方向(西方)に視線を転じると、丘(テレグラフヒル)の頂上にある塔と金門橋を見ることができました。この塔は「コイト・タワー」(高さ約64m1933年完成)で、東地区の埠頭の北西約500mの場所にあります。写真の左端には「金門橋」が少し写っています。

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次いで、少し西方(ダウンタウンの北方)、金門橋(ゴールデン・ゲート・ブリッジ)寄りのノース・ビーチにある波止場、「フィッシャーマンズワーフ」を訪れました。”Tarantino’s”(タランティーノズ)や”ALIOTO’S”(エリオットズ)などのシーフード料理店が並んでいます。

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「金門橋」を先ほどよりも少し大きく見ることができました。

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金門橋」は、太平洋とサンフランシスコ湾を結ぶゴールデンゲート海峡に架かる世界一の吊(つ)り橋(注釈:1960年代まで)で、サンフランシスコとその北にあるエリアを結ぶ唯一の主要道路(6車線、有料)の一部になっています。1937年に完成したこの「金門橋」は、全長2,737m、中央径間1,280m(注釈:現在世界一の明石海峡大橋は1,991m)の鋼鉄製吊り橋です。ちなみに、主塔の高さは水面から227m

ビルに囲まれた広場に出ました。

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サンフランシスコらしい傾斜地に広がる町並みです。

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そして、有名なケーブルカー(1873年開通)が停まっていました。「ユニオンスクエア」と「フィッシャーマンズワーフ」を結んでいます。サンフランシスコのケーブルカーはケーブル(ワイヤー)が地下にあるため、一見すると通常の路面電車のように見えます。地下をループしているケーブルを車両が掴(つか)むと前進し、離すと減速する仕組みになっているそうです。なお、車体を停止させるにはブレーキを使う必要があります。つまり、後退することはできません。

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この先にも急な坂がありました。

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写真はそのさらに南方から撮影しました。湾内に見える島は有名なギャングの「アル・カポネ」が収監されたことで知られる監獄の跡がある「アルカトラズ島」のようです。ちなみに、この島は10年後の1997年に訪れています。

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ビル街に設置された小さな街頭時計

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別の日(916日水曜日)の朝、宿泊したホテルから郊外にあるオフィスエリアを撮影

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アメリカへの出張(説明:いずれも新技術と新サービスを主要顧客にプレゼンテーションすることが目的)は、ワシントンD.C.とサンフランシスコに次いで、1988年3月にテキサス州ダラス、同8月にコロラド州デンバーとテキサス州ダラス、同9月にジョージア州アトランタとイリノイ州シカゴ、同10月にはニュージャージー州、同12月にもジョージア州アトランタとテキサス州ダラス、つまり1年半の間に計7回も続きました。これがアメリカでのビジネスを担う子会社への転勤(出向)に繋(つな)がるのです。(終)

2020年6月14日 (日)

海外出張の9か国目はアメリカ(番外編) ヨルダンとシリアへの出張

アメリカへの出張記事を始めたばかりですが、前回の記事で書きました入国時のトラブルに関連するヨルダンとシリアへの出張(12日間)について参考までに概説します。成田空港からタイ・バンコクのドンムアン空港へ向かい、そこでヨルダンのアンマン行きのロイヤル・ヨルダン航空機に乗り換えました。アンマンへ予定通りに到着しましたが、預けた荷物が出て来ません。ドンムアン空港では自分の荷物を確かに確認したのですが・・。航空会社の説明によれば、『ドンムアン空港で積み残されたと考えられる。スーツケースは恐らく2日後の次の便で届くだろう』 とのこと。

翌日は顧客と面談する予定が入っていました。必要な書類はアタッシュケースに入れていましたが、移動時に着ていたラフな衣服から着替えるビジネススーツ類が一着も無いのです。背広上下は現地の日本人スタッフから借り、シャツなどは現地の店で急遽購入することにしました。サイズが合わないことには目をつぶることにして、顧客との打ち合わせには何とか対応。私のスーツケースは2日後に無事手元へ届き、何とか一件落着です。

それでは、ヨルダンとその首都であるアンマンについて概説します。中東に位置する立憲君主制国家「ヨルダン」の正式国名は「ヨルダン・ハシミテ王国」。イスラムの預言者ムハンマドの子孫であるハーシム家出身の国王が世襲統治しています。人口は約1000萬人。古代(紀元前8000年)には世界最古の農業が営まれ、西アジアにおける交易の中心となりました。紀元前1世紀にはペトラ遺跡を残したナバテ王国が栄えましたが、紀元1世紀から2世紀にはローマ帝国の支配下に入ります。7世紀にはイスラム帝国(アッバース朝など)の勢力下に入り、19世紀にはオスマン帝国の支配下になりました。第一次世界大戦後の1919年にはイギリスの委任統治領となり、1946年にイギリスから独立しました。

首都アンマンはヨルダンの政治・経済の中心都市で、人口は約210万人。オスマン帝国がシリアのダマスカスとアンマンを結ぶ鉄道を建設したことで物資の集散地として発展しました。映画「アラビアのローレンス」(1962年公開)にはオスマン帝国の重要インフラであったこの鉄道が登場します。

独立当時の人口は数万人と少なかったようですが、イスラエルが1948年に建国すると、その難民が大量に流入し、1967年代には1948年にヨルダン領に組み込まれたパレスチナとヨルダン川西岸へイスラエルが軍事侵攻して占領したため、この地域に勢力を持つとパレスチナ解放機構(PLO)との内戦が続き、さらに難民が流入して現在のような大都市へと膨れ上がったとのこと。

PLOはレバノンに本拠を移したことで、国内の宗教的なバランス(キリスト教・イスラム教)が崩れたレバノンが新たな火薬庫になって、1975年にレバノン内戦が勃発し、レバノン国軍/PLO/シリア/イスラエル/多国籍軍が入り乱れて戦うことになりました。1990年には内戦が終結しましたが、レバノンの不安定な国情が改善されることはないまま現在に至っています。

さて、本題です。アンマンへ出張した時の写真を使って主な観光地を紹介しましょう。

〇市街地に近いシタデル(Citadel)の丘からはアンマンの市街地を一望することができました。

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◯ローマの円形劇場
アンマンのダウンタウンから歩いてすぐところにあるローマ皇帝アントニヌス・ピウスの時代(138161年)に建てられた歴史ある劇場(6000席)。

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◯ ヘラクレス神殿跡
ローマ帝国時代に建てられたヘラクレス神殿の跡です。紀元160年ころ、高さ12mを超える彫像が立っていたとみられるそうです。

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◯死海
現在イスラエルによって占領されているヨルダン川西岸との間にある「死海」は海抜マイナス423メートルと地球で最も低い場所。アンマンから車で南西へ約1時間。岸辺から海よりも濃い塩水であることだけを確認しました。現地のグループ・ツアーも利用できます。ただし、個人でバスやタクシーを利用するのは現地対応に自信がある方だけにお勧めします。

〇立ち寄りが叶わなかった街「アカバ」
ヨルダン南端にあり、紅海の最深部、アカバ湾に面した小さな港町「アカバ」を訪れる機会は残念ながらありませんでした。私の好きな映画「アラビアのローレンス」ではサウジアラビアのネフド砂漠を横断した主人公が結集したアラブ軍を率いて陥落させたオスマン帝国の重要拠点「アカバ」を自らの目で見たかったのです。(注釈:リンクを張った予告編の最後にアカバのシーンが登場する) なお、この映画については以下に記述する「シリアへの出張」の記事でも再び言及します。

                            ☆

ヨルダンのアンマンに続いて、シリアのダマスカスにも出張しました。シリアの正式国名はシリア・アラブ共和国で、面積は約18万平方キロメートル(日本の半分弱)、人口は約1800万人。国土の南西端近くに位置する首都ダマスカスの人口は約160万人。

シリアはヨルダンと同様に西アジアにあることから紀元前8000年ころから農業(主に小麦の生産)が始まり、紀元前3000年ころには都市国家群が成立し、通商の要衝としても栄えました。しかし、バビロニア(イラク南部の王国)、アッシリア(イラク北部の王国)、ギリシャ(アレキサンダー大王のマケドニア王国)、ローマ帝国と東ローマ帝国の支配を受けて、7世紀にはイスラム勢力(ウマイア朝とアッバース朝など)の支配下となりました。

そして、トルコ人のセルジューク朝とクルド人のアユーブ王朝が続き、1260年にはモンゴル帝国が占領。エジプトのマムルーク朝の支配を受け、さらにオスマン帝国がシリアを支配しました。1917年にアラブ軍がダマスカスを奪還(前述)した後は、1920年にシリア・アラブ王国として独立しましたが、フランスとの戦いに敗れてフランスの委任統治領になります。1946年にフランスから独立して現在に至ります。厳密には1958年から1961年までエジプトとアラブ共和国を構成しましたが、1961年のクーデターで現在の体制へ移行しました。

シリアへ出張した時の写真は残念ながら一枚も残っていません。ダマスカスと言えば、私の好きな映画作品のひとつ「アラビアのローレンス」のクライマックス・シーンに登場した都市です。主人公のイギリス人将校ローレンスは、多くの部族出身者を集めたアラブ軍を率いてオスマントルコ軍との戦いに勝利したものの、身内と思っていた多部族で編成されたアラブ軍を纏(まと)めきれず、大きな挫折(ざせつ)を味わった場所でもあります。

実際に訪れたダマスカスは、街のすぐ先には大きな岩山「カシオン山」(標高1151m)が聳(そび)えており、筆者は異様な雰囲気を強く感じました。海抜680mの高原に築かれた城壁に囲まれた古代都市ダマスカスの市内に見るべき場所があまりなさそうでしたから、休日にはダマスカスから車(運転手付きのレンタカー)で北東へ悪路を4時間ほど(約230㎞)走った「パルミラ遺跡」を訪れました。

阪急交通社の解説記事によると、『パルミラは広漠たる砂漠の中に建設されたオアシス都市。ナツメヤシの緑に包まれ、パルミラの名もギリシャ語でナツメヤシを意味する「パルマ」が起源といわれます。紀元前1世紀にローマ帝国の属州となり、中国とヨーロッパを結ぶ東西交易路の中継地として発展。2世紀にペトラ(ナバテア王国)が衰えると、通商権を受け継ぎ絶頂期を迎えます。267年になると、総督オダエナトゥスが暗殺されます。これを機に妻のゼノビアは息子を皇帝に擁立、自ら皇妃と称しパルミラ王国を打ち立てます。ゼノビアはクレオパトラの末裔を名乗る美女で、政治にも長けていましたが、272年にアウレリアヌス帝の遠征により捕えられ、パルミラの街は陥落。』 とあります。

数年前のニュース報道で知りましたが、勢力を拡大した「イスラム国」の軍隊がパルミラ遺跡を破壊したそうです。訪れた当時でもパルミラ王国をローマ軍の遠征の結果だと思われますが、遺跡はすでに半壊状態でした。AFP BB NEWS201641日付の記事)には「イスラム国」の軍隊による破壊前後の比較写真が掲載されています。(アメリカ出張の記事/その2へ続く)

2020年6月13日 (土)

海外出張の9か国目はアメリカ(その1) ワシントンD.C.

会社の所属部門で筆者が担当する地域が東南アジアとオセアニアなどからアメリカ(北米)へと変わった直後(4か月後)の19878月、アメリカにおける主要顧客へ新技術をプレゼンテーションするため、アメリカ合衆国の首都であるワシントンD.C.へ出張(8日間)することになりました。
注釈:"D.C."は”District of Columbia"(コロンビア特別区)の略、50州とは別に連邦政府が管轄する区域(直轄地)

中学生のころからアメリカに憧(あこが)れ英語と英会話の勉強に励(はげ)んで約30年、海外ビジネスに携(たずさ)わるようになってからでも11年が経過していました。大きな手応えを感じていた前任地域を離れて憧れのアメリカ地区を担当することは、嬉(うれ)しさ半分、寂(さび)しさ半分の複雑な心境でした。ちなみに、今回の担当地区変更は私の我侭(わがまま)によるものではありません。組織の事情(都合)だったようです。

8月19日、国際線に本格参入して間もない全日空のワシントンDC直行便は成田空港を出発した約13時間後、ワシントンD.C.ダレス国際空港が近づいたようで、登場する飛行機が高度を下げました。海岸線とアメリカを象徴するような高速道路が眼下に広がりました。注釈:当時の日本航空にはワシントンD.C.への直行便がなかった

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滑走路が4本もある巨大なダレス国際空港(IAD)はワシントンD.C.の西方、バージニア州ダレスにあり、中心部へ向かうにはメイン・ターミナルからタクシー(所要時間:40分から60分)を利用することができます。2014年にワシントン・メトロ(地下鉄)のシルバー・ラインが一部開通しましたから、メイン・ターミナルから出るシャトルバスで移動したウィリー・レストン・イースト駅からこのシルバー・ライン(運賃:5ドル)を利用することもできるようです。都心のロズリン駅やメトロセンター駅までの所要時間は40-50分。

8日間のスケジュールには余裕があり、週末の822日(土)に「スミソニアン博物館」を見学することができました。スミソニアン博物館は国会議事堂から延びる幅の広い道路の両側に15の博物館が並んでいる様子は壮観です。

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ナショナル・ギャラリー・オブ・アート(国立絵画館、入場無料) ルノワール作「アンリオ夫人の肖像」(1876年)が印象に残りました。

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女優アンリエット・アンリォが四角く胸の開いたイヴニングドレスを身にまとっている。白い服と白い肌を大胆なタッチで描いた。ルノワールのうまさが引立つ作品です。

もう一点はレンブラントだったと思いますが、タイトルを失念しました。

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圧巻だったのは、航空宇宙博物館の各種ロケットと月面着陸船です。

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ダレス空港で入国手続きをした時に大きなトラブルがありました。私のパスポートを確認したイミグレーションの職員が他の職員を呼びました。その職員は何事かと思う筆者を別室へ連れて行き、次々と質問を浴びせ掛けてきたのです。一つひとつの質問に答えているうちに事情聴取される理由が分かりました。前年の1月から2月にかけて中東のヨルダンとシリアの両国を訪問した履歴がパスポートにあったため、筆者が過激派あるいはそのシンパ(親派)ではないかとの疑いを掛けられたのです。

ちなみに、日本赤軍は1970年代にハイジャック事件や空港乱射事件などを頻繁(ひんぱん)に引き起こし、1980年代には先細りになったものの、日本赤軍がまだ活動を続けていた時代背景がありました。国内では1970年の「よど号ハイジャック事件」と1972年の「あさま山荘立て籠もり事件」が有名です。尋問は20分ほど続いたと記憶しています。

後日、アメリカを出国するときには、航空会社のチェックイン・カウンターで同じような質問を受けたことがあります。ちなみに、当時のアメリカでは出国時のパスポート・チェックは航空会社が行っていたのです。(続く)

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