日記・コラム・つぶやき

2020年4月 3日 (金)

株価の動向を予測する

新型コロナウイルスの感染が拡大し、この1週間で大都市を中心に感染者数が急増し始めました。爆発的な流行の前触れとする専門家の意見が多くなっているようです。一部企業では自宅勤務(リモートワーク)へシフト(注釈:私の2人の息子はいずれも自宅勤務中)していますが、それができない企業や職種では企業の活動に影響が出始め、政府や地方自治体からの要請で飲食業や接客業などで営業の自粛が広がり、経済活動に大きな影響が出ています。

ちなみに、中小企業庁が行った中小企業景況調査(2020年1月-3月)では中小企業の景況感は5(四半)期連続で低下したことが3月27日に報告されています。また、内閣府が3月24日に発表した景気動向指数も2018年度から先行指数が低落し続けています。また、2013年から上昇傾向にあった日経平均株価は、2016年にやや下落しましたが、その後持ち直して2017年から2019年にかけて2万円台に乗せて高値水準を維持してきました。しかし、今年2月下旬に突然異変が発生したのです。

この株価上昇の背景にあったのが以下に説明する政府による株の買い支えでした。これに加えて、日本銀行も2016年からETF(上場投資信託)を年間6兆円も購入して株価を実質的に下支えしてきました。(注釈:その細部は省略)

2014年10月から政府は厚生労働省所管の独立行政法人である年金積立金管理運用独立行政法人(GPIF)を通じて年金資産を増やす目的と称して、利回りの安定している国債中心の運用から運用益を高めるために国内外の株式への投資比率を上昇させたのです。昨年末まではプラスの運用益を維持してきましたが、今年に入ると運用益はマイナスに転じました。つまり、買手として株価を支えていたGPIFが、株式市場で売手に転じる可能性が出てきたのです。

GPIFのポートフォリオのうち日本株は25%です。つまり、総資産約160兆円のうち25%の40兆円の投資残高があります。その40兆円の日本株ですが、日経平均の株価が1か月前は23,000円台であったものが、現在は18,000円前後まで暴落しました。コロナ騒動によりわずか1か月強の間に少なくとも10数兆円が吹っ飛んでしまったと見られます。

加えて、景気の先行きは悲観的であるため、株価はGPIFの買い支えだけでは株価を維持できなくなってしまったのです。つまり、他に株式を買う大手機関投資家は国内外に存在しません。日本株式に投資していた米国を中心とする海外の機関投資家は昨年後半から日本株式に投資していた資金を引き上げ続けてきました。高値で売り抜けたのです。そこへ新型コロナウイルスの拡散で日本経済の先行きに赤信号が点灯し、2月下旬から日本株式は20%以上も急落しました。

ここで大量に日本株を売却(現物約1兆6000億円、先物約1兆円)したのは外国人投資家でした。そして、原油価格は一昨年後半から60ドル前後と弱含みでしたが、今年に入っての原油価格が20ドルまで暴落にしたことによりオイルマネーが投資資金を引き揚げ始めたことが加わり、日本株の売却額を上積みする要因になったとみられます。買い方は国内の個人投資家・日本銀行・事業法人(主に自社株買い)でしょう。

そして、3月下旬の急反発も恐らく外国人投資家と思われます。主要各国が巨額の財政・金融政策を相次いで発動したことを受けた買戻しです。日本の公的年金と年度末に向けた自社株買いを有ったかも知れません。そして、外国人投資家は再度売り越しに出たと思われます。つまり、2番底を狙っているのでしょう。

GPIFはこの株式下落により10数兆円の損失を出したと見られます。株式による運用比率を上げて以来、都合(つごう)20数兆円の運用益を出していますから、まだ運用益(累積)はプラスを維持していると思われますが、このまま日本株式に投資続けることはできないでしょう。日本の株価が連動する傾向があるとされるアメリカの株価は先の記事で触れたように30%以上も急落しています。

つまり、日本政府がこれまでにないほど強力なテコ入れ(財政支援)をしないで日本経済がこのままズルズルと停滞(悪化)すると、日本の株価水準はリーマンショックによる暴落を超えて、1930年代の世界恐慌並みの状態(株価が最高値から90%下落)に陥(おちい)る恐れが出てきました。短期的に見ても、2013年末の水準(アメリカのダウ平均並に高値から30%以上下落した15,000円前後)になると考えます。

長期投資(つまり短期的な株価変動に留意しない)をモットーとする私ですが、この現状(年初より30%以上急落して2016年の水準まで下落、さらに年度明けには弱含みの傾向あり)では株式市場から撤退するしかありません。2月下旬の異変には官製株価に期待して迅速に反応出来なかった私でしたが、2度目の赤色点滅信号には即刻決断しました。

昨年12月から2400円前後を維持していた日経平均株価は、釣瓶(つるべ)落としで最安値1650円前後まで下落。上述したように、その時点で世界の主要国が大胆な財政・金融政策を発動したことを好感して日経平均株価は1900円強まで戻しました。

それでも、私の保有株式は過去1年余りの売買により大きな含み損を抱えたままでしたが、この2-3年の含み益の大半を吐(は)き出す大きな損切りを覚悟して、すべての保有株式を売却しました。この決断は滑り込み(ギリギリ)セーフだったかもしれません。私の長い人生経験(ビジネスの修羅場経験)からそう思います。◇

2020年3月30日 (月)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(最終回) コリア庭園

門を潜(くぐ)って敷地内に入ると、目の前に見覚えのある建物が現れました。別堂(別棟)の「通友斎」です。

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右手(建物の正面)にある「主庭」には亀を模(かたど)った「亀形山」があり、

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その奥には「方池円島」(陰陽魚の形をした池)が続きます。その奥には塀越しに東屋(あずまや)が見えます。

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「通友斎」の入口へ向かいました。

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別堂「通友斎」の説明

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建物内の左手にある部屋

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右手にある板張りの部屋

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その右手には一段高くなった板張りの広い部屋があります。

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展示されている陶磁器や銅製火爐(かろ、火鉢)など

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木製長持(ながもち/キャビネット)

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建物の外へ出て反対側にある「後庭」の土塀(どべい)と花壇

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台所に近い後庭に造られた醤油・味噌・漬物置場の「醤壺壹(チャントッテ)」

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ちなみに、瓶(かめ)と壺(つぼ)の区別は日本と異なるのかも知れません。下の写真は「醤壺壹」の説明看板です。

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余談です。「醤壺壹」の最後の「壹」は数字の一を意味する漢字です。3世紀末に中国で書かれた魏志倭人伝(ぎしわじんでん)に「邪馬壹國」、つまり日本語でいう「邪馬台国(やまたいこく)に女王の「卑弥呼(ひみこ)」がいたことが記述されています。ちなみに、中国語では「壹」を「イツ」または「イチ」と発音するようです。しかし、5世紀になると字体が似ている「臺」(台の繁体字で高い建物を意味する、中国語の発音:ダイ、タイ、日本語の訓読み:うてな/しもべ)を使って「邪馬臺国」と表記されるようになったことを「邪馬台国」関連の本で読んだことがあります。

「後苑」に出る「後門」を潜(くぐ)ります。ちなみに、「後苑」は土塀で囲まれたエリアの周囲(3方向)に広がっていました。

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六角亭の「観自亭」

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敷地の奥から見た正門方面

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想像上の神獣である韓国の狛犬「ヘテ石」

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正門前の駐車場は1時間半ほどの間にほぼ満車に近づきました。早めに訪れたことで、ほとんど人影のない園内をのんびり散策しながら、落ち着いてお花見を楽しむことができました。ただし、散策路にはベンチが一切無く、休憩できる場所は最初に立ち寄った正門近くの「パークセンター」(テーブルとイス)以外、「中の池北側の売店内」、中間地点の「遊びの森」「花の広場」「遊びの森」「中の池西端の親水エリア」「中の家南側の東屋」にある少数のベンチだけでしたから、混雑時にイスやベンチで休憩することは困難でしょう。午前10時を少し過ぎたところで小雨が降り始めましたから、そのまま帰路に着きました。

〈同行者のコメント〉 何処へも連れて行ってもらえない日々が続きましたが、旦那様が突然お花見に行くと言うのです。少し寒そうでしたので、コートとマフラーを持参しました。というのに、旦那様は軽装なのです。三ツ池公園の桜は綺麗に咲いていましたが、冷たい風が吹いていたため花冷えとなり、園内を歩いているうちに体が冷えてしまいました。それでコリア庭園はパスして車に逃げ込みました。

2020年3月29日 (日)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その6)

直前の天気予報通りでしたが、今、季節外れの本格的な雪が降っています。朝方、確認した時には雨でしたが、それが急に雪に変わったのです。外気温は1度で溶ける気配はまったくなく、植栽や屋根はもちろんのこと、路面にも雪が積もり始めています。最近、再開したウオーキングは終日控えるつもりです。閑話休題。「お花見」の記事を続けます。

<追記2020年3月29日午後2時45分> 雪が止んだ午後2時過ぎに通路と車庫の周辺を除雪すると、これを待っていたかのように同居者は車で出かけて行きました。

                         ☆

「上の池」の東側に続く遊歩道を「中の池」方面へさらに歩きます。

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「池周りランニングコース」 の1000m地点

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「コブシ」の花も咲いています。

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「上の池」と「中の池」とを仕切る堤防に設置された水門

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「池周りランニングコース」 の1200m地点

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こちらは「中の池」と「下の池」との水路を開閉するもう一つの水門

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「下の池」の南岸を進みます。周回コースの終点である「水辺の広場」はもうすぐです。

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水辺の広場」に到着

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「水辺の広場」の端にある「天馬の像」は中国古代(1700年前)の芸術的逸品だといわれる「馬超龍雀(ばちょうりゅうじゃく)」の複製品だと説明されています。

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入園時には前を通過したコリア庭園の「前苑」(注釈:階段の下)と「前庭」(注釈:階段の上)を抜けて「正門」へ向かいました。李朝朝鮮時代の両班の住宅を再現した施設です。注釈:両班とは上流士族の東班(文人)と西班(武人)を総称する言葉

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門の右手にある案内看板には『神奈川県と韓国・京畿道(きょんきどう)との友好提携(19904月)を記念して作られた朝鮮王朝時代の両班(ヤンバン)の家を模した家と地方貴族の山荘庭園をイメージしたコリア庭園である』 ことが詳しく説明してあります。

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右手前にある「方池円島」は朝鮮時代の民家正門前の前庭に一般的に設置されたものであることが説明されています。

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土塀に囲まれた「前庭」とその説明

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(続く)

2020年3月28日 (土)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その5)

「中の池」の西端を回り込んだ所にある「親水エリア」から見た「花の広場」方面

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「中の池」の南側に続く遊歩道は緩(ゆる)やかに上って行きます。

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「池周りランニングコース」が正式名称でした。前方に「東屋(あずまや)」が見えます。

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鮮やかな黄色の花は「黄梅(おうばい)」でしょう。

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「中の池」と「上の池」の間に出ました。

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「ジャンボすべり台」と「大砂場」の脇を通過

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外周散策路に繋(つな)がる階段

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「横浜緋桜」

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通常は10月ころから12月ころと翌春4月中旬ころに開花するという「冬桜」が咲き始めています。
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噴水から噴き出した水が小川となって「上の池」に流れ込む「水の広場」脇を通過しました。子供の水遊び場でしょう。

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南端から見た「上の池」の岸辺は黒いシートで覆(おお)われています。

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ここにも「案内地図」がありました。

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幹が遊歩道へ傾いた「関山」

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「上の池」の東岸を北へ歩きます。

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「水仙」が開花し始めています。

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東側にある傾斜地の上に散策路が見えます。

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(続き)

2020年3月27日 (金)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その4)

白色の里桜「白妙(しろたえ)」は大輪八重咲の花が咲くはずです。

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まだ固い蕾(つぼみ)の「松月(しょうげつ)」の花は淡紅色の八重咲きで、花の中心は白色で細かい切れ込みが入るのが特徴のようです。

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「紅笠(べにかさ)」の花は大輪・八重咲き淡紅色で、開花期は4月下旬のようです。

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「紅豊(べにゆたか)」の花は八重咲で濃厚紅色で、通常の開花時期は4月上中旬

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「中の池」の西端近くにある「遊びの森

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「中の池」の西端に設けられた水辺階段(親水エリア)の下にできた「花筏(はないかだ)

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カモ科で渡り鳥の「金黒羽白(きんくろはじろ)」

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「江戸彼岸桜(えどひがんざくら)」の開花時期は通常3月下旬ですから、暖かい今年でも例年並みと言えます。

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若葉を塩漬けにして桜餅(さくらもち)を包む野生の「大島桜」(注釈:通常の開花時期は4月上旬)はすでに満開です。

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対岸の親水エリア近くを泳ぐのは水鳥の「軽鴨(かるがも)」でしょう。

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花の広場」です。奥へ続く舗道(ほどう)は公園敷地の周辺に続く散策路に繋(つな)がっているようです。名前通りに桜の木が群生していますから、草地にシートを敷けば、簡単に「お花見会場」になりそうです。

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野生種の「大島桜」は、通常4月上旬に開花するそうですが、323日というのにほぼ満開状態です。

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「大島桜」と「中の池」越しに臨んだ県域放送局「テレビ神奈川(TVK)」(昭和47/1972年開局)の電波塔(高さ170mの三ツ池公園送信所、愛称:三ツ池タワー)です。鶴見区と川崎市南部のランドマークと言えます。

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ちなみに、開局時はUHF電波を使うアナログTV放送(42ch)でしたが、200412月から地デジ放送(18ch)が始まりました。そして、アナログ放送は20117月に終了。また、東京にある"inter-FM"の中継局を併設しているそうです。

ここにも「三ツ池の桜」の案内看板があります。

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通常は3月上旬に開花する「大寒桜」は既に葉桜となり始めています。

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西端から見た「中の池」

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「水鳥」の説明看板

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「軽鴨」と「金黒羽白」を一緒に捉(とら)えようとましたが、シャッターのタイミングが悪くて・・!

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(続く)

2020年3月26日 (木)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その3)

山桜群の「山桜」も開花し始めています。通常の開花時期は4月上旬から下旬とのこと。

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野生の桜である「山桜」は芽出しとほぼ同じころに花が咲き、花や若葉の色の変化が楽しめるそうです。「山桜」から私は藤沢修平さんの短編小説「山桜」(1980年に小説宝石に掲載)を思い出します。海坂藩(山形県鶴岡市にあった庄内藩がモデル)の下級武士と同じく下級武士の娘の心情を見事に描いた小説です。2008年には東山紀之さんと田中麗奈さんの共演で映画化されました。二人は小説の風情をよく表現していたと思います。参考:中国語(繁体字)字幕付きのトレイラー映像

「下の池」と「中の池」を仕切る堤防に濃い桃色の桜が咲いているのが見えました。

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「下の池」の西端にある「染井吉野」の古木(開花標本木)

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「苔清水(こけしみず)」

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中の池」に群れる水鳥たち

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堤防の両脇に咲くのは「横浜緋桜(ひざくら)」でした。

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木立に覆(おお)われた「石の広場」にある歌碑(江戸末期の天保14年/1843年建立)には「三ツ池」を詠(よ)んだ和歌が刻(きざ)まれていました。

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同じく「百樹の森」碑は神奈川県知事津田文吾書とあります。昭和43年(1968年)に命名された「三ツ池公園」の雅称(がしょう)のようです。

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長い石段の上にある小さなお社(やしろ」

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桜の花越しに見る「中の池」

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遊歩道は「中の池」に沿ってさらに続きます。

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3つの池の周りに設定されたジョッギングコースの距離標識

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これも山桜群の「山桜」

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里の広場

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(続く)

2020年3月25日 (水)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その2)

里桜群の「普賢象(ふけんぞう)」は4月下旬に八重咲の大輪の花を咲かせるそうです。

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「染井吉野」の古木

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「下の池」を取り囲んで咲く桜

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モザイク状に舗装された遊歩道

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テニスコートの脇に出ました。「下の池」の周囲にはテニスコート、軟式野球場、いこいの広場などがあります。

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里桜群の「関山(かんざん)」もまだ蕾(つぼみ)が固い

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「大島桜」は幹や枝から芽吹き始めています。

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テニスコートを過ぎた所に立つ看板には園内の案内地図・桜の品種・開花時期が説明してあります。

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「下の池」に沿って続く散策路の両側には染井吉野(そめいよしの)・薄重(うすがさね)大島・普賢象(ふけんぞう)・関山(かんざん)・大島桜(おおしまざくら)が廻廊を造形しています。予想通りに染井吉野と大島桜は5分咲きですが、その他はまだ蕾(つぼみ)です。

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右手の坂道は高台を巡る散策路へ続いているようです。

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八重咲きの「横浜緋桜(ひざくら)」

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梅護寺数珠掛桜(ばいごじじゅずかけざくら)

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里桜群の「紅華(こうか)」

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「染井吉野」の古木は、幹が大きく刳(えぐ)れ、しかも反対側まで穴が貫通していますが、新芽には生命力が感じられます。

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(続く)

2020年3月24日 (火)

神奈川県立三ツ池公園でお花見を楽しむ!(その1)

新型コロナウイルス感染拡大防止のため「さくらまつり」(316日〜415日)の開催が中止された「神奈川県立三ツ池公園」(横浜市鶴見区)へ3月23日に出かけました。2日前の321日に3分咲であると聞いて5分咲きの桜を期待したのです。天気予報は曇り一時晴れ(実際は午後にかけて小雨)、最高気温は16度(暖かかった前日より5度低いが平年並、実際には午前中12度・午後9度)、つまり「寒の戻り」になると予報されています。ちなみに、東京は一足早い3月22日に桜の満開が報じられました。一方、横浜での満開日は326日と予想されているようです。 

実は、今から50年近く前の独身時代にこの公園の近くに住んでいたことで、花見に訪れていた思い出の場所です。結婚後は同じ横浜市内の隣りの区に引越しましたが、二人で花見に出かけたことがありました。そして、30年ほどが経過した20063月にもお花見に訪れ、同年11月には紅葉狩りで立ち寄りました。その時には神奈川県と韓国・京畿道(きょんきどう)との友好提携を記念して作られた朝鮮王朝時代の両班(ヤンバン)の家を模した家と地方貴族の山荘庭園をイメージした「コリア庭園」を見学したことを覚えています。韓国のテレビドラマ「宮廷女官チャングムの誓い」(2004-2005年)がNHKBSテレビで50数回放送されて関心を持ったのです。

「三ツ池公園」は日本の「さくら名所100選」に選ばれている横浜市における「桜の名所」(神奈川県内で第4位)です。ちなみに、江戸時代に灌漑用水池として利用された3つの池(下の池、中の池、上の池)があることが名前の由来です。 

混み合う前に花見をしようと考えて自宅を早めに出発しました。今回は環状2号の終点である川崎町田線(県道140号)と交わる上末吉交差点近い北口駐車場ではなく、さらに奥へすすんだ正門前の駐車場に車を停めました。園内へのアクセスがより便利だからです。有料期間の駐車料金(普通車)は繁忙期(316日~415日、429日~55日 )は830/日(後払い)です。

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まだ午前9時前ですから駐車場には2-3台しか停まっていません。

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駐車場脇で咲く桜が目に入りましたので、先ず何枚か撮影しました。

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午前9時前、脇に「園内案内図」がある正門を入って「芝生広場」へ向かいました。

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その右手にある「パークセンター」に立ち寄って情報を入手することにしました。

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広い館内にはテーブルと椅子がまばらに配置されていて、先客の男性グループが談笑していました。肌寒いことから暖房が入っていないのだろうとおもいましたが、入り口と反対側にある引き戸が全開されています。新型コロナウイルスの感染拡大防止策のようです。その手前に展示物がありました。何だろうと近づいてみると春に咲く桜の品種とそれぞれの開花時期の展示す。興味深く思って撮影しました。

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2月上旬から中旬には早咲きの寒桜が開花し、3月上旬は椿寒桜(つばきかんざくら)、3月中旬が寒緋桜(かんざくら)と大寒緋桜(おおかんひざくら)、3月下旬の修善寺寒桜・オカメ・枝垂桜(しだれざくら)、江戸彼岸(えどひがん)、4月上旬の紅枝垂(べにしだれ)・染井吉野・大島桜・横浜緋桜(ひざくら)、4月中旬の山桜や八重紅大島などまで、様々な桜を次々に楽しむことができることが分かりました。

ついでに「園内の地図」をもらって「パークセンター」を出て「水辺の広場」に向かいました。

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「水の広場」の右手にあるのは「コリア庭園」です。写真右端に写る「チャンスン(長生標)」(天下代将軍と地下女将軍のペア)は韓国の魔除け(守護神)で、埼玉県日高市の「高麗神社」で同じものを見ています。また、写真中央の日本の神社にある狛犬のような「へテ石」が「コリア庭園」入り口の両側に置かれています。想像上の動物(火災や災禍を避ける神獣)で、物事の是非善悪が分かるそうです。

前回訪れた時に見ていますから、見学するのは最後にして、前方の「下の池」へ向かいました。

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30ヘクタールあるという広大な土地を「三ツ池公園」の中央にある「上(かみ)の池」「中の池」「下(しも)の池」の外周を巡る「水辺の散策コース」を歩きながら、染井吉野(そめいよしの)、大島桜(おおしまざくら)や普賢象(ふけんぞう)など78品種、約1600本あるという桜の花を愛(めで)ることにしたのです。 

2月上旬から中旬には早咲きの寒桜が開花し、3月上旬は椿寒桜(つばきかんざくら)、3月中旬が寒緋桜(かんざくら)と大寒緋桜(おおかんひざくら)、3月下旬の修善寺寒桜・オカメ・枝垂桜(しだれざくら)、江戸彼岸(えどひがん)、4月上旬の紅枝垂(べにしだれ)・染井吉野・大島桜・横浜緋桜(ひざくら)、4月中旬の山桜や八重紅大島などまで、様々な桜を次々に楽しむことができるそうです。

「下の池」の東側(右手)にある散策路を進みます・

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「染井吉野」

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「薄重大島」(うすがさねおおしま)

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「染井吉野」

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(続く)

2020年3月22日 (日)

初めての海外出張はビルマのラングーン(市内観光編)

「ビルマの歴史」に続いて、ラングーンの歴史を紹介します。「ビルマの歴史」に書きましたように、1754年にビルマ人の「タウングー王朝」(首都:ラングーンの北東220kmにあるタウングー)がモン族に滅ぼされると、同じビルマ族のアラウンパヤーが勢力を拡大してビルマ最期の王朝である「コンバウン朝」(首都:ラングーンの北、約720kmにあるマンダレー近くのアマナプラ)を成立させました。急速に勢力を西方へ拡大させたためインドを支配下に置くイギリスと衝突し、三度の戦争(1824-1886年)に敗れて、1886年にイギリスの植民地(イギリス領インド帝国の1/後にイギリス領ビルマ、首都:ラングーン/現ヤンゴン)になりました。

ラングーン(現ヤンゴン)は、6世紀に下ビルマ(エーヤワディー川の下流域)を支配していたモン族により「ダゴン」の名で造られた小さな町でしたが、第二次英緬戦争で勝利したイギリスは下ビルマを併合するとともに、「コンパウンド朝」のアラウンパヤーによって1755年に命名された「ヤンゴン」(意味:戦いの終結)の名前を「ラングーン(Rangoon)」に変えて、イギリス領ビルマの商業的かつ政治的な中心地へと変えて行きました。ちなみに、「ラングーン(Rangoon)」は「ヤンゴン(Yangon)」を英語風に訛(なま)った都市名なのです。1948年にビルマがイギリスから独立した後も「ラングーン」がその首都の地位を継続し、2006年に「ネピドー」が首都となるとともに「ラングーン」が元の「ヤンゴン」に戻りました。

                          ☆

ラングーン(現ヤンゴン)最大の観光スポットであるシュエダゴン・パヤー(注釈:パゴダはビルマ語でパヤー/Paya)のストゥーパ(仏塔・卒塔婆、高さ約100m)です。詳細はブログ記事「40年ぶりのミャンマー訪問(その36)」を参照してください。

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それを取り巻く60以上の仏塔と仏堂(廟)

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テラスから見る北方向はまるでジャングルのようでした。

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ラングーンの都市計画上の中心であるスーレー・パヤー通りとマハバンドゥーラ通りが交差するロータリーにある「スーレー・パヤー(パゴダ)」

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その隣(南東)のマハバンドゥーラ公園に建つ「独立記念塔」とラ「ングーン(現ヤンゴン)市庁舎」

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人力3輪自転車のトライショー(trishaw)とその運転手 注釈:人力車から転じた中国語のリクショー(rickshaw)に対する呼び名、マレーシアとシンガポールでもトライショー、インドネシアではペチャ、ベトナムではシクロ、フィリピンではトライシクルと呼ぶ

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ヤンゴン川縁(べり)の「パンソダン埠頭(ふとう)」は埠頭のイメージではなく素朴な渡し場のようでした。

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ボータタウン・パヤー」と思われる寺院

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民族衣装「ロンジー」の店で2着購入

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サトウキビを家族で売る露店は終戦直後の日本でも見られた懐かしい風景です。

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インヤ湖の湖畔に建つ「インヤレイク・ホテル」は「ストランド・ホテル」と並ぶ高級ホテルで、ソ連(現ロシア)の援助で建設されたものだと記憶しています。

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なお、同様の写真集が3年前の関連記事にも掲載してあります。(終)

2020年3月21日 (土)

初めての海外出張はビルマのラングーン(1976年)

ヨーロッパ旅行に出掛けたちょうど1年後(翌年秋)、東南アジアにあるビルマ連邦(現ミャンマー連邦共和国)の首都・ラングーン(現ヤンゴン)へ出張することになりました。某研究所への出向から復社して新しい仕事に慣れた6か月後のことです。私が作成したテクニカル・プロポーザル(技術提案書)が一番札を獲得して、契約のための技術審査に臨(のぞ)むための出張でした。技術提案書は私一人で作成したものですから、全ページの内容は熟知しており、心配することは何もありません。

しかし、私ひとりで、しかも英語で、交渉相手とやり取りするのは初めての経験です。上司と先輩からは激励の言葉があっただけで、アドバイスらしきものは何もありませんでした。ちなみに、英会話は大学生の頃から足掛け10年近く習っていましたが、よく知った外国人の先生が会話の相手でしたから、初対面の外国人に専門技術について上手く(ビジネス的に)説明できるかどうか分かりません。ぶっつけ本番なのです。

どうなることかと思いながら、羽田空港からJALの直行便でタイのバンコクへ向かいました。当時のビルマはまだ経済封鎖中であり、日本からの直行便はありませんでした。バンコクのドンムアン空港(注釈:2006年まで国際空港、LCCの急増により2番目の国際空港として復活)でビルマ航空機に乗り換える必要がありました。つまり、トランジット(注釈:正しくはトランスファー)で、預けた荷物を格納庫のような場所で確認する手続きを求められました。前年の、ヨーロッパ旅行の帰路、ドンムアン空港に立ち寄っていますが、機内で他の乗客の乗降と給油を待っていましたから乗り換え(トランスファー)は不安でした。

搭乗待合室の表示盤には様々な便が次々に表示され続けるだけで、いつまで待ってもビルマ航空の便名をアナウンスしてくれません。耳が慣れたせいか、 "Attention, please." (お知らせします)で始まる英語のアナウンスは聞き取れますが、ビルマ語と中国語のアナウンスはちんぷんかんぷん。ちなみに、「ビルマ」を英語では "Burma"(発音:バーマ)であることは事前に知っていました。また、 "Attention, please."  は中国語で「請注意」(チィンヂゥーイー)と言うようです。何十回も聞いたため覚えてしまいました。

出発時間が迫り焦(あせ)っている私の耳に待ちに待ったアナウンスが聞こえました。指示された待合室の端にあるゲートへ向かうと、階段を降りてエプロンに出てしまいました。徒歩で駐機する小型機へ向かい、タラップを上って機内に入るのです。離陸して1時間ほど(約600㎞のフライト)でラングーン空港(現ヤンゴン国際空港)に到着。薄暗い部屋で通関手続きを無事に終えてターミナルの外に出ると、外は真っ暗で、真夏のような蒸し暑いさ。

現在は近代的で立派なターミナル・ビル(2007年5月開業)になっていますが、当時のターミナル・ビル(注釈:現在は国内線用に転用)は2階建ての質素なものだったと思います。ちなみに、滑走路は現在も1本だけであり、2022年には新空港がラングーン(現ヤンゴン)の北東80㎞にあるバゴー付近に完成するそうです。下の写真はヤンゴン国際空港の新しいターミナル・ビル(2017年3月撮影)。

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出迎えの人を探しますが中々見つかりません。あちこちから手が伸びました。子供も混じっています。荷物を運ぶ礼金が欲しいのです。しばらくすると私の名前を呼ぶ声が聞こえ、日本人らしき人が現れました。彼はパートナー会社の現地駐在員。正に地獄で救いの神でした。車で宿泊する「ストランド・ホテル」まで送ってくれました。ラングーンの市街地にある最高級ホテルです。

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チェックインも無事に終わり、自室に入るてウインドウ・エアコンがけたたましい音を立てていました。シャワーを浴びようとすると茶色く緩(ぬる)い湯が出ました。しばらく待つと段々透明になりましたので、軽く浴びるだけにして、寝ることにしました。

翌朝はコンチネンタル・ブレックファースト(注釈:暖かい食べ物がない朝食)を食べた後、駐在員の車で顧客のオフィスへ向かいました。2ブロックほどと近く、徒歩圏内にある4階建てのビルでした。飾り気のないビルですが周辺の建物に比べれば立派です。

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対応してくれたのは技術部長と課長の2人。部長は私の父と同じ世代でした。眼光が鋭い威圧感のある人ですが、綺麗な英語を話す柔和な紳士です。緊張する私に気遣(きづか)ってくれたようです。この人物とは計3回(都合2か月間)に及ぶミーティングが始まりました。この顧客にとっては初めてのビッグ・プロジェクトだったのです。

遣(や)り取りの内容は明かせませんが、部長の真摯(しんし)な態度と流暢(りゅうちょう)とはいえない私の英語に忍耐を持って対応してくれました。部長はエリートでイギリスへ留学したことがあったようです。予定通り1週間の出張で帰国できました。3か月後(翌年)にはいよいよ契約交渉が始まりました。

技術部長は技術審査時とは打って変わり厳しい態度で改善要求が矢継ぎ早に出されたため、ホテルに戻ってシステムの内容を見直す日々が続き、当初案を全面的に見直すことに。予想を上回る1か月の長期戦になりましたが、無事に契約調印することができました。会社にとってはかなり厳しい内容でしたが、その後の展開に繋(つな)がり、双方にとって有意義な結果になりました。

この部長とは3年間に5つのプロジェクトで丁々発止で遣(や)り合うことになりましたが、私の人生で最も感謝する人の一人になりました。そして、ビルマには最初の出張から10年が経過した時に4度目の出張をする機会がありましました。その部長は退職した後であり、物足りない結果になりましたが、私にはビルマが公私ともに思い出深い国になりました。私を成長させてくれた部長に今も感謝しています。

ホテルと顧客事務所の周辺を紹介しましょう。

先ずは「ストランド・ホテル」前の「ストランド通り」を走る満員(鈴なり)の路線バス

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ストランド・ホテル」のボールルーム(舞踏室/宴会場)で開催される結婚式に参加する正装の若い女性たち

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托鉢(たくはつ)中の子供たちは僧侶見倣(みなら)いです。

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顧客事務所近くの繁華街で見かけた店舗と露店

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日本のダイハツ製三輪自動車の「ミゼット」(1957-1972年製造)

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休日の散歩中に見かけたボーイスカウトとガールスカウトの集会。発祥の地であるイギリスの影響でしょう。

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偶然入った画廊で見たビルマ風の人物画

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2回目のビルマ出張をした時、職人宅を訪れて2週間の納期を条件に「ビルマの竪琴」を注文しました。乾燥させた木製の胴と大きく折れ曲がったフレームを在庫品の中から選び、琴の胴部にビルマ語とアルファベットで私と同居者の名前を入れてもらうことにしました。胴の上部には共鳴させるための滑らかな皮を張るそうです。

下の写真は完成期日に受け取りに行った時、職人さんが最終確認をしている風景と家族に入ってもらった記念撮影です。当時の私の月給よりも高価(注釈:現地の人たちの年収に相当する)でしたから、家族総出で歓迎してくれたのでしょう。

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この竪琴をめぐる帰国時のトラブルは古いブログ記事「ビルマの竪琴」で披露しています。また、映画「ビルマの竪琴」(1956年公開)については別の記事「40年ぶりのミャンマー訪問:準備編」で紹介しています。

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ビルマについての参考情報です。ビルマ(現ミャンマー)の歴史を3年前のブログ記事「40年ぶりのミャンマー訪問:事前準備編」で紹介していますが、ここではビルマの歴史を再度紹介しながら新旧の国名について解説したいと思います。

現在、国民の多数(約70%)を占めるビルマ族は、11世紀に中国南部・雲南地方からビルマ北部(上ビルマ、エーヤワディー川の上流域)へ移住して、その中ごろに「パガン王朝」を起こしました。(注釈:地名はバガンと表記) 先住民であるモン族・ピュー族・シャン族・カレン族・チン族などを徐々に圧迫し、それらの小王国(都市国家)を支配下に置き、マレー半島の付け根まで支配地域を拡大します。しかし、モンゴルの侵攻によりその朝貢国となりましたがモン族やシャン族などの反乱が続きました。、

14世紀にティンカバーがビルマ族の王朝「タウングー王朝」をタウングーで再興しました。そして、最盛期の16世紀には、ビルマからタイ・ラオス(注釈:いずれも現在の国土)へと支配地域を拡大し、東南アジア最大の王国になります。16世紀末、アユタヤ王朝(注釈:タイの王国)による侵攻などで「タウングー王朝」は危機を迎えますが、ニャンウンが「タウングー王朝」を復興して100年以上続きました。

しかし、ペグーのモン族の勢力が拡大して圧迫したため、1752年に「タウングー王朝」は滅びます。その後建国したビルマ族の「コンパウンド朝」も他民族との争いが続きました。さらに、3度にわたるイギリスとの戦争に敗れて、1886年にその植民地となります。そして、第2次世界大戦後の1948年にイギリスから独立して「ビルマ連邦」が建国されました。

ビルマ族の王朝である「パガン王朝」の頃から「ビルマ」はビルマ族とその言語を指す言葉(口語)でしたが、同時に「ミャンマー」も書き言葉(文語)として使われたようです。つまり、古くから「ビルマ」と「ミャンマー」が共存していました、しかし、1989年に軍事政権が英文の国名表記を"Burma"から"Myanmar"へと変更してて現在に至っています。ちなみに、日本語の「ビルマ」はオランダ語の名称"Birma"(びるま)に由来するそうです。

また、ビルマ文字はインドから仏教とともに伝来した「パーリ語」の文字をモン族が使い、それをベースにした文字が11世紀後半ごろにビルマ語に使われるようになったそうです。このプロセスは中国から導入した日本語の文字(漢字)と似ています。文化についても、隣国のインド・中国と先住民族のものが混在あるいは融合した独自な文化圏を創(つく)り出しています。

「市内観光編」へ(続く)

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