趣味

2017年11月19日 (日)

津和野町の「津和野大橋」「殿町通り」「山根町通り」を散策(中編)

「草刈代官門」を抜けると白亜の建物がありました。ピンボケ写真になったことをご容赦ください。
 
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「津和野町郷土館の案内」には、『当館は、強度の歴史、文化遺産を永く構成に継承するため、大正10年、当時としては県内唯一の郷土歴史博物館として設立されました。設立当時は藩校養老館の御書物蔵を利用していましたが、昭和15年、期限2600年記念事業としてこの場所に建てられました。(以下略)主な展示として、縄文期からの考古資料、藩政時代から幕末明治に至る歴史的資料、郷土が輩出した、西周(あまね)、福はね美静(よししず)、森鴎外をはじめとする先哲たちの作品、遺品、キリシタン殉教に関する資料等を紹介しています。』 と説明されています。

 

開館時間は午前8時30分から午後5時、毎週火曜日休館、入館料大人400円です。
 
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「従是北津和野領」の標柱は国境を示すために山陰道(石州街道)の野坂番所跡(山口県阿武郡阿東町)に立てられていたものを「津和野郷土館」内に移設したと考えられます。注、津和野藩(石見国)は北の浜田藩(石見国)および南の長州藩(長門国)と国境を接していた
 
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江戸と長崎で蘭医学を学び、津和野藩で最初(安政3年/1856年)に種痘を実施した藩医の「吉木蘭齊(よしきらんさい)先生旧居」の票柱は大正15年、蘭齊の生家跡(温泉宿「わた屋」の裏手)に建立されたものが、一時撤去された後、郷土館に設置したものと説明されています。
 
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内側から見た「草刈代官門」
 
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対岸の広場で見かけた鯉の彫像
 
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そして、「鷺舞(さぎまい)」(国指定重要無形民俗文化財)のモニュメントがあり、『古式豊かな鷺舞は神事舞として、京都(注、八坂信仰の神社)より山口を経過して天文11年(1542年)津和野城主吉見十一代大倉正頼が五穀豊穣、災厄防除のため移したことに起源する。』 と説明されていました。ちなみに、「津和野弥栄神社の鷺舞」として国の重要無形民俗文化財に指定されています。注、弥栄神社は津和野川沿いにある「太鼓谷稲成神社」の参道脇にある
 
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「殿町・本町エリア 津和野百景図ポイントマップ」
 
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「重要伝統的建造物群保存地区」の案内図には「殿町通り」と「本町通り」を中心に、「新丁通り」と「万町(よろず)通り」に挟まれた地域が指定されていることが示されています。
 
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「津和野大橋」以北の県道13号は津和野の古い町並みが残る「殿町通り」と「本町通り」です。「殿町通り」の南端付近にある「旧津和野藩家老多胡家表門」(県指定文化財)亀井氏十一代に渡り家老を勤めた多胡家の表門で、その両脇には物見と番所が残されています。
 
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「多胡家表門」の斜め向かいにある「藩校養老館」は、調査保存修理工事(2018年完了予定)のため、残念なことに工事用の塀で囲まれていました。
 
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『藩校養老館は、津和野藩主亀井氏8代矩賢のりかた)により、天明6年(1786年)に創設され、儒学を主として漢学、医学、礼学、数学、兵学などが設けられていました。その後、11代茲監(これみ)は嘉永2年(1848年)に新たに国学や蘭医学を設け、規模を拡大するとともに人財育成に力を入れました。創設時の建物は、嘉永6年(1853年)の大火で焼失してしまいましたが、安政2年(1855年)に現在位置に再建され、明治5年(1872年)に廃校となりました。ここは幾多俊才を輩出した犯行として名高く、西周(近代日本哲学の祖)、森鴎外(文豪・軍医総監)、(以下略)』
 
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「殿町(とのまち)」の案内板には、『慶長6年(1601年)津和野入りした坂崎出羽守(直盛)によって城下町が整備されて以来、今日まで城下町の中心部としてその名をとどめている。亀井時代には、西側に多胡・大岡・牧の三家老屋敷が、東側に藩校養老館があった。』 と手書きされています。注、坂崎直盛は宇喜多忠家の長男である宇喜多詮家(うきたあきいえ)の改名
 
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「殿町通り」の右(東)側には、坂崎直盛が掘らせた掘割の水路があり、清水が緩(ゆる)やかに流れています。木製のプランターに植えられているのは花菖蒲(はなしょうぶ)のようです。
 
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(続く)

2017年11月18日 (土)

津和野町の「津和野大橋」「殿町通り」「山根町通り」を散策(前編) 

午前6時を少し回った時、温泉宿「わた屋」の玄関を開けてもらい、旅行先で習慣にしている散歩に同行者を誘って出かけました。
 
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玄関の左手にある茶室は掘割りに面しており、そこには多くの鯉が泳いでいます。
 
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「高岡通り」を南に歩いて「津和野大橋」方面へ向かいました。

 

「わた屋」の南隣は山陰物産館「ぎゃらりい 沙羅(さら)の木」です。看板にある「源氏巻」は元禄時代から伝わる小判を包んだ形のお菓子とのこと。
 
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その向かい側は郷土料理の「石州館(せきしゅうかん)新館
 
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町屋風の建物に入る「LAWSON + ポプラ」は広島市のポプラ社とLAWSONが共同出資したローソン山陰が昨年から運営するコンビニ店
 
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「郷土料理 うずめめし」は津和野(石見)の名物料理で、ご飯の下に小さく刻んだ具が「うずめ」てあることが名前の由来のようです。ちなみに、「沙羅の木 本店」など津和野町の数店舗で食べられるようです。
 
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津和野のやきもの「綾焼窯元(あややきかまもと) 青山釜」には『手作り体験できます』 とあります。前方に「津和野大橋」が見えてきました。
 
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昨日、車で往復した「津和野大橋」に差しかかりました。
 
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この鳥居は「太鼓谷稲成神社」の参道入口に立っています。参道は川沿いの道から「千本鳥居」が並ぶ階段参道へと続いているようです。
 
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津和野河の下流方向の右手には「郷土館」(手前)と「青野山」、左手には「藩校養老館」が位置しています。
 
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上流方向の間近に「山陰本線」の鉄橋、その後方には薄い朝靄(あさもや)に包まれた「太鼓谷稲成神社
 
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「津和野大橋」を渡りました。
 
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「津和野大橋」の袂(たもと)には船着き場と思われる石組の施設があります。
 
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郷土館」(国の登録有形文化財)の前景です。「津和野町郷土館門沿革」の案内板には、『この門(草刈代官門)は、亀井家の一族である草刈内紀の屋敷門で、嘉永6年、津和野町大火後の安政2年頃の建築といわれている。(以下略)』 とあります。
 
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「百景図を歩く 第二十二図 大橋」
 
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(続く)

2017年11月17日 (金)

津和野町の温泉宿「わた屋」に泊まる

にわか雨が小降りになったところで、この日に宿泊する温泉宿「わた屋」へ向かいました。津和野で唯一、天然温泉がある宿泊施設であり、しかも津和野の見どころである「殿町通り」に近いことが魅力です。県道13号で津和野大橋を渡った交差点を直進して、町道(高岡通り)を約250m進んだ右手にありました。エントランス付近は茶色い瓦を載せた和風建築で、その奥にある宿泊棟は鉄筋コンクリート製のようです。
 
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午後45分ころにチェックインすると、14年前にリニューアルされた宿泊棟へ案内されました。畳敷きの廊下は心地よい感触です。
 
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3階にある客室はさすがに古さを感じさせますが、和洋室形式で十分な広さがあります。
 
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午後5時、最上階(5階)にある浴室へ向かいました。泉質はナトリウム塩化物・炭酸水素塩泉、湧出口泉温16.2度。
 
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まず、「たたみ風呂(岩風呂) さらの湯」で身体を温めたあとは、
 
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脱衣所の先にある「展望露天風呂 さらの湯」は、期待した通り、開放感に溢(あふ)れています。
 
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午後6時になるのを待って2階にある食事処へ向かいました。
 
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夕食は「少なめプラン」を選びました。まず、食前酒の「リンゴ酒」、前菜の「旬菜盛合わせ」、刺身は「旬の活魚」
 
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「朴葉(ほおば)味噌焼き」
 
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「鮎塩焼き」
 
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「茶碗蒸し」
 
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「野菜の炊き合せ
 
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「季節の天ぷら」
 
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「蕗(ふき)ご飯」、「香物(三種盛)」、「赤出汁」
 
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「季節のスイーツ」
 
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それぞれの料理は確かに量が少な目ですが、品数が12点と多いため、食べ応えがありました。

 

自室へ戻る途中、ロビーの近くで見かけた「足湯」
 
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早めに就寝したことで、翌朝は午前6時に起床。「殿町」の散策に出かけました。(注、次回の記事で紹介)

 

午前7時少し前、朝の散策から戻って1階のロビーへ入りました。玄関口にある和ダンスと着物、大きな掛け時計などが津和野らしさを演出しています。
 
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午前7時には1階のテーブル席で朝食です。
 
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朝食も品数が多く、写真を撮影したあと、「出汁巻き玉子」と「葉物野菜の炊き合せ」が配膳されました。
 
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前日の夕食とこの日の朝食は、いずれも細やかな心遣いがあり、美味しく食べることができました。(続く)

2017年11月16日 (木)

津和野町の「森鴎外旧宅」と「森鴎外記念館」(後編)

「作家誕生」「豊熟の時代」「晩年の輝き」などが続きます。
 
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「上京」 『津和野藩主亀井玆監(これみ)公つきの医者であった父に連れられ津和野を出た10歳の林太郎(鴎外)は、父と共に向島にあった旧藩主亀井家下屋敷内にひとまず落ち着きます。しばらくして、向島小梅村87番地(現在の東京都墨田区向島2丁目)の借家に、さらに明治8年4月30日、小梅村237番地(現在の向島3丁目)に家を購入して移り住みます。鴎外の上京の目的は家業の医者になることでしたが、同時にそれは森家の長男(家長)として、立身出の機体を世一身に背負っての上京でもありました。』

 

「ドイツ語学習」 『上京した鴎外は、親せきの西周(にしあまね)宅(神田西小川町1丁目1番地)に寄宿し、ドイツ語学習のために本郷元町2丁目の進文学社に通学します。(以下略)』

 

「鴎外本のあれこれ」
 
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「翻訳活動開始」「評論活動開始」「舞姫(草稿)」「衛生新誌(創刊)」など
 
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「森家系図」
 
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「勲章と記念品」
 
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「軍服」と「羽織袴」
 
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「鴎外の子どもたち」
 
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津和野の写真に写る「西周旧居」「津和野城跡」「常盤橋」「太鼓谷稲成神社」「藩邸跡(現津和野高等学校)」
 
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「誕生」「森家の家風と立志」
 
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「勉強事始め」「林太郎少年の気質」
 
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「鴎外が見た津和野」
 
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藩校「養老館」と津和野出身の先達・偉人
 
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「星雲の志を抱いて」「津和野とのかかわり」「津和野への回帰」
 
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「森鴎外の自筆書」
 
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「鴎外ゆかりの桧(ひのき)」
 
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入館して約20分後(午後4時半)、ロビー通路に戻ると激しい雨が降っているのが見えました。30分ほど前まで雨の気配はまったくありませんでしたが、山間の町は天候が急変しやすいようです。しばし、ロビーで雨宿りをすることになりました。
 
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(続く)

2017年11月15日 (水)

津和野町の「森鴎外旧宅」と「森鴎外記念館」(前編)

県道13号をY字路まで戻り、市道で津和野駅とは反対方向へ走って、「森鴎外記念館」へ向かいました。津和野出身の軍医で小説家の森鴎外(本名:森林太郎)に特化したユニークな施設で、「津和野城跡の「三十間台」からその場所が津和野川の対岸(ほぼ正面)であることを確認しています。注、鴎外がその半生を過ごした文京区千駄木の旧居跡にも区立「森鴎外記念館」が存在する、その墓は津和野の永明寺と三鷹の禅林寺にある

 

「森鴎外記念館」に到着する直前、交差点の角に「森鴎外旧宅」の案内標識を見かけましたので、「森鴎外記念館」の駐車場に車を停めて、徒歩で向かうことにしました。午後4時ころ、80mほど戻って脇道へ入ると立派な門がありました。観覧時間は午前9時から午後5時まで。
 
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敷地の中に「森鴎外旧宅」の標柱が立っています。瓦葺(かわらぶ)きの建物はそれほど古そうには見えません。
 
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敷地の左手前に「鴎外先生詩碑」があり、そこには「舞姫」の詩である「釦鈕(ぼたん)」が刻まれていました。
 
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『南山の たたかいの日に 袖口の こがねのぼたん ひとつおとしつ その扣鈕(ぼたん)惜し  べるりんの 都大路の ぱっさあじゅ 電灯あおき 店にて買いぬ はたとせまえに  えぽれっと かがやきし友 こがね髪 ゆらぎし少女(おとめ) はや老いにけん 死にもやしけん(以下略)』
 

[現代文訳] 20年前、ベルリンの店で買ったコートのボタンを日露戦争の戦場で亡くしたことは残念だ。肩章(けんしょう)を付けていた友や金髪をなびかしていた少女も今は年老いたか、あるいは亡くなったかもしれない。

注、「南山」は中国・遼寧(りょうねい)省の大連がある遼東(りょうとう)半島に存在する地名、「えぽれっと」(仏語・独語・英語)は軍服につける肩章(けんしょう、かたしょう)のこと

 

国指定文化財(史跡)「森鴎外旧宅」の案内板には、『森鴎外(本名森林太郎)は、文久2年(1862年1月19日にこの家で生まれ、明治5年(1872年)に10歳で上京するまでここで過ごしました。(中略)建物は嘉永6年(1854年)に発生した大火の後に建てられたものと伝えられ、森家が東京へ移住した後、別の場所へ移築されましたが、昭和29年(1954年)鴎外三十三回忌を機に町へ寄付され、この場所へ戻されました。その後、昭和60年に大規模な保存修復を行い現在に至っています。また、庭先の詩碑は、鴎外の「釦鈕(ぼたん)」の詞を佐藤春夫の筆により建立されたものです。平成7年(1995年)にはこの旧宅に隣接して森鴎外記念館が開館し、鴎外の生涯と功績を顕彰しています。』 とあります。
 
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「森鴎外旧宅」の全景です。立て看板には鑑賞券(100円)が必要とあります。中央が玄関、右手が勝手口のようです。
 
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「玄関」
 
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「勝手口」
 
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家の反対側に回ると座敷と縁側があり、
 
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小さな門を抜けた場所には券売機がありました。
 
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目の前にある大きな建物が「森鴎外記念館」(観覧時間は午前9時から午後5時)でした。実は、「森鴎外旧宅」は「森鴎外記念館」の一部でした。
 
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左手に立つ「森鴎外之像」
 
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入館料は大人600円
 
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SL「やまぐち」号の客車が一新されたことを紹介するポスターにはC571蒸気機関車が大きく写っています。
 
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受付けで「森鴎外旧宅」のチケットを見せると、差額の500円を支払えばよいと教えられました。天井までガラス窓となっている明るいロビー通路で展示室へ向かいます。
 
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「上京後から東大時代」と「ドイツ留学」について年表形式で詳しく説明されています。
 
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(続く)

2017年11月11日 (土)

津和野町の「太鼓谷稲成神社」

「津和野伝統文化館」の駐車場を出て、坂道をさらに上がると、朱色の鳥居が見えました。
 
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「太鼓谷稲成(たいこだにいなり)神社」の大きな駐車場(無料)に車を停めました。「太鼓谷稲成神社」は日本五大稲荷の一つに数えられ、社名に「稲荷」ではなく、「稲成」(注、津和野藩主亀井矩貞の命名)と表記する唯一の神社です。注、日本五大稲荷(諸説あり)は伏見稲荷大社・笠間稲荷神社(茨城県笠間市)・竹駒神社(宮城県岩沼市)・祐徳稲荷神社(佐賀県鹿島市)・太鼓谷稲成神社(島根県津和野町)を指し、また日本三大稲荷は最初の3社とすることが多い

 

ちなみに、祭神は、稲荷神である宇迦之御魂神(うがのみたまのかみ)と熊野神である伊弉冉尊(いざなみのみこと)。その由緒は、安永2年(1773年)、津和野藩7代藩主亀井矩貞(のりさだ)が、藩の領民安寧のために京都の「伏見稲荷大社」から勧請を受け、三本松城(津和野城)の鬼門に当たる太皷谷の峰に社を創建したことに始まるとのこと。また、太鼓谷は津和野城の城山の一角に位置し江戸時代に時刻を知らせる太鼓が鳴り響いた谷間であったことが地名の由来とされるようです。

 

手水舎(てみずしゃ)の脇にある「境内案内図」には「本殿」「参集殿」「儀式殿」「本宮」が立ち並ぶ境内に入る場所が2つ示されていますが、駐車場側の階段を上がることにしました。ちなみに、もうひとつは津和野市街から「神門」(伏見稲荷大社の楼門に相当)まで続く表参道は263段の石段と約1000本の鳥居があるようです。伏見稲荷大社の千本稲荷に当たります。
 
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石段の途中に「参拝順路のご案内」がありました。 「太鼓谷稲成り神社」のhpによると、「元宮」、その奥にある「命婦社」、「新殿」、その裏側にある「新殿裏奉拝所」を順に巡る「四か所まいり」を推奨していますが、「元宮」と「新殿」にだけ参拝することにしました。
 
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「元宮(もとみや)」(旧熊野神社、伏見稲荷大社からの勧請)はかなり高い場所にあります。右手前に写る朱色の建物は「表参道」との間にある「神門」です。
 
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「儀式殿・社務所・参集殿」
 
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「本殿」(新殿)
 
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駐車場(海抜約210m)から見た津和野町です。赤茶色の石州瓦(せきしゅうがわら)に統一された甍(いらか)の波とともに、津和野川と山口線の線路も手に取るように見えました。山口線を走るSL「やまぐち」号を遠望するべストスポットのひとつでしょう。
 
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ここで、記事の投稿を小休止します。なお、次回から津和野の町並みを紹介する予定です。(続く)

2017年11月10日 (金)

山陰と山陽の城を巡るドライブ旅 津和野町の「津和野城跡」(最終回)

「人質櫓跡」(右手前)、「三の丸跡」(中)と「南門櫓跡」(三の丸の奥、石垣が切り取られた部分)
 
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「中国自然歩道」は「三の丸跡」と「南門櫓跡」を抜けて「鷲原(たかはら)八幡宮」へと伸びているようです。
 
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「三十間台」の反対側(左端)から「太鼓丸(たいこまる)跡」と津和野の山々を望みました。
 
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「三十間台」の端まで移動して見下ろした「太鼓台」
 
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その真下には「二の丸跡」へ下りる石段が確認できます。
 
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「太鼓丸跡」へ下りたところで振り返って見る「三十間台」の石段(虎口)
 
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本丸の一部であった「太鼓丸跡」からも津和野の景観が楽しめます。
 
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「太鼓丸」から石段と木の根道を歩いて「二の丸跡」へ下りました。
 
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「二の丸跡」を経由して「三段櫓跡」に出ました。
 
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仮設階段を下ります。
 
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下り道でも杖が役に立ちます。
 
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ついに、「観光リフト乗り場」に到着。「東門跡」からの所要時間は約14分でした。
 
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利用客の姿がない「観光リフト」に乗って下山します。
 
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同行者は津和野の景色が気に入ったようでハイテンションになっています。18年前に訪れたニュージーランド・南島にあるクイーンズタウンの絶景を思い出しているのでしょうか。
 
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「藩主亀井家入場400年」の幟(のぼり)が並ぶ道を歩いて下にある駐車場へ向かいます。
 
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駐車場にある「国指定史跡 津和野城跡」の案内パネルにもこれまでに紹介した「津和野城」の説明が書かれていました。
 
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(続く)

2017年11月 9日 (木)

山陰と山陽の城を巡るドライブ旅 津和野町の「津和野城跡」(その3)

「三の丸跡」の中ほど、「台所跡」には石列(土台石・排水路)がありました。
 
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同じく「三の丸跡」の奥、「海老櫓跡」の先は行き止まりになっています。
 
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引き返す途中、「台所跡」の標柱を見かけました。その先には「馬立跡」があり、
 
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さらに遠方には「天守台」と「三十間台」の石垣も確認できます。
 
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「馬立跡」から「二の丸跡」に戻って右手に折れた場所にある「西櫓門跡」の石垣 注、右手は「馬立跡」に続く石垣
 
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「中国自然道歩道」を少しだけ歩いたところで左に折れ、標識にしたがって「天守台」へ向かいます。
 
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直進すると約1時間で「鷲原八幡宮(わしはらはちまんぐう)」へ行けるそうです。八幡神社の総本社である「豊前宇佐神宮」を勧請(かんじょう)して平安時代に創建された古い神社のようです。
 
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天守台」に到着しました。古木の根が生命力を感じさせます。
 
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「天守台」から見る「馬立跡」と「台所跡」
 
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「三十間台」の石垣は、崩落を防ぐため、金網で覆われています。
 
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左手にある石段を上がります。
 
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三十間台」(本丸跡)に到着。その名の通り、横に細長い郭(くるわ)です。
 
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眼下に津和野町の街並み・高津川の支流である津和野川・山口線の線路を、遠くには「青野山」をはじめとする山々を一望することができました。注、写真は左手方向(津和野小学校・津和野高校・津和野警察署)と右手方向(津和野中学校・森鴎外記念館・道の駅津和野温泉なごみの里)
 
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この大きな窪地(くぼち)は何?
 
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(続く)

2017年11月 8日 (水)

山陰と山陽の城を巡るドライブ旅 津和野町の「津和野城跡」(その2)

先ほどの地図に表示されていた通り、ふたたび仮設歩道に移りました。
 
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「国指定 史跡 津和野城跡」の案内板には、『津和野城は標高362mの霊亀山(れいきさん)上にあり、山麓からの比高は約200mを測る典型的な山城である。築城は吉見順行(よしみよりゆき)・頼直(よりなお)が永仁3年(1295年)から正中元年(1324年)にかけて行ったと伝えられる。吉見氏が築城した中世山城は、関ヶ原の戦いの後の慶長6年(1601年)に3万石の大名として入城した坂崎直盛(なおもり)によって、高石垣を有する金製城郭へと大改修された。元和3年(1617年)に因幡国(いなばのくに)鹿野城(しかのじょう)より亀井政矩(まさのり)が4万3千石の大名として入城後は、亀井氏11代の居城として明治維新まで続いた。津和野城は、本城のほかに出丸(別名:織部丸)がある一城別郭の城であり、その間に大手道を設けるなど極めて実践的な山城であった。(以下略)』 と絵図入りで説明されています。ちなみに、吉見氏は石見銀山をめぐる尼子氏大内氏の戦いの中で重要な位置を占めた戦国大名です。
 
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「観光リフト」から約10分の地点にある「史跡 津和野城址」の石碑
 
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「中世山城 津和野三本松城跡」(注、三本松城は戦国時代までの旧称)の案内板には、『文永11年(1274年)、弘安4年(1281年)の元(蒙古)群の北九州・北浦への来週を受け、鎌倉幕府は西石見の海岸防備を吉見頼行に命じた。頼行は永仁3年(1295年)この城山山脈に築城を始めた。(以下略)』 とあります。注、三本松城は津和野城の別称
 
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「津和野城大手登城道 入口まで630m」の案内標識を見かけました。「中世山城 津和野三本松城跡」の案内板に描かれていた「太鼓谷稲成神社」の近くから続く登山道(中国自然歩道の一部、所要時間20-25分)のようです。
 
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「この先5分 本丸城跡」の標識の先に急な石段が待っていました。
 
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石段の先に石垣が現れました。
 
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「東門跡」(大手門跡)でした。ここを入って右手方向にあるのが「三段櫓跡」「西門跡」「馬立跡」「台所跡」「海老櫓(えびやぐら)跡」「腰曲輪(こしくるわ)」「隠門(かくしもん)」、左手の上が「天守台」「太鼓丸跡」「三十間台」があることが説明されています。
 
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「東門跡」から「三段櫓跡」(注、写真右端、崩落防止用金網が設置されている)の脇を抜ける登城ルートは通行できないようで、仮設の階段が「腰廓(曲輪)跡」との間に設けられています。
 
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「東門跡」から仮設階段を上がると、左手方向に続く「腰曲輪」(中央)と「二の丸跡」(右端)の先に、「太鼓丸跡」へ上がる石段が見えます。
 
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「第一図 二本松の城」の案内パネルには、落雷で焼失した天守閣の高石垣・東門・二層の櫓門が描かれています。
 
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「観光リフト」から約18分で到着した「二の丸」(「天守台」の高石垣前)に立つ「史跡 津和野城跡」の案内板には、坂崎出羽守(でわのかみ)による築城以降の歴史が、天守台付近の城郭配置図とともに、簡潔に説明されています。
 
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右手方向へ進むと、「馬立跡・台所跡」に出ました。
 
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石段を上がった場所から先ほど通過した「東門跡」(左奥)、「三段櫓跡」(左端・手前はその最上部)、「第一図 二本松の城」の案内パネル(中央)を見下ろしました。
 
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津和野城 三の丸跡」(馬立・台所・海老櫓)」
 
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(続く)

2017年11月 7日 (火)

山陰と山陽の城を巡るドライブ旅 津和野町の「津和野城跡」(その1)

JR山口線の津和野駅前を通過して県道13号を南下し、山口線の高架下を抜け、案内標識にしたがって右に折れる県道13号を進みました。
 
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津和野川を渡る時、山の中腹に神社が見えました。石見地方で知られる「太皷谷稲成(たいこだにいなり)神社」のようです。写真では判別しにくいのですが、津和野川の対岸に「千本鳥居」の朱色を確認できました。
 
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海鼠(なまこ)壁の塀がある津和野高校を左手に見ながら太皷谷稲成神社へ上る山道へと右に折れました。
 
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津和野城跡観光リフト」の乗り場を目指しました。霊亀山(標高367m)にある「津和野城跡」には徒歩(約40分)でも上ることができますが、前日に足を痛めたことで「観光リフト」を利用することにしたのです。
 
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午後2時20分ころ、「観光リフト」の乗り場に到着。駐車スペースが狭いため留める場所に迷っていると、すぐ下にある「津和野町伝統文化館」の駐車場(約30台)を利用するようにアドバイスされました。
 
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券売所がある建物(りふと茶屋)へ向かうと、在りし日の様子を描いた「津和野城跡観光案内」(左)と「観光リフト」から「天守台」に至る遊歩道を示す「津和野城案内」が並んでいます。
 
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「観光リフト」の営業時間は午前9時から午後4時30分までで、利用料金(往復)が450円。
 
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リフトはかなり急こう配をゆっくり上がって行きます。
 
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地上高が高くなったのか、上の区間には保護用ネットが設置されていました。
 
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約5分で「観光リフト」の終点に到着。
 
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後方には津和野の町並みと山頂部が丸い青野山(標高標高907m)を望むことができます。ちなみに、「青野山」は津和野八景に数えられるそうです。
 
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「SLやまぐち号」も見ることができるようです。しかし、この日は水曜日(平日)のためSL「やまぐち」号は運行されません。注、週末と祭日に運航
 
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さっそく、「津和野城跡」を目指して階段状の登山道を上がりました。『リフトは午後4時30分に終了します』 と書かれた警告板が登山道脇に立っています。
 
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同行者は補助用ステッキの代わりとなる木の枝を両手に持ちました。
 
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右に折れる登山道は『出丸の石垣を修理しています』『⇐歩行者通路』 と表示されて通行止めになっており、左手に迂回路(うかいろ)の「仮設歩道」が設けてありました
 
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地図を見ると、「仮設歩道」(緑色の線)は出丸(織部丸)の左下にある急斜面に設けられているようで、『出丸 工事中ですので見学出来ません』 の表示もありました。注、紫色の線は観光客・歩行者動線
 
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「仮設歩道」は地形に合わせて右手へ緩やかにカーブしています。
 
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振り返ると「仮設工事用道路」(赤色の線)がありました。左端に見えるのが本来の登山道のようです。
 
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登山道脇に立つ標識には「津和野城跡」(国指定史跡)まで250mの表示があります。
 
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(続く)

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